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2011年2月14日 (月)

平等な慈悲と不平等な救い?

高森会長は、宿善の薄い者は宿善を厚くしないと救われないと繰り返し教えます。これに似た内容のことをいう人があると、コメント欄で質問を頂きました。
仏は御恩のある人を優先して救うから不平等だというのは、それこそ親鸞会の宿善論そのものであり、明らかな間違いです。以前にも述べましたが、聖道門と19願は善人正機ですが、18願は悪人正機です。御恩のある人を先に救うというのは、もちろん善人正機です。
コメント欄を読まれればお判りになると思いますが、論争はすでに決着しています。
私の方で、少し補足しておきます。

一子地」という言葉があります。

『往生要集』には

慈眼をもつて衆生を視そなはすこと、平等にして一子のごとし。
ゆゑにわれ、極大慈悲母を帰命し礼したてまつる。

(現代語訳)

仏は慈悲の眼で衆生を平等に、またただ一人の子供のようにご覧になる。
だからわたしは、広く大いなる慈悲の心を持つ母である阿弥陀仏を信じ礼拝したてまつる。

これは『教行信証』行巻にも引かれています。

また『教行信証』信巻に『涅槃経』を引かれて

仏性は一子地と名づく。なにをもつてのゆゑに、一子地の因縁をもつてのゆゑに、菩薩はすなはち一切衆生において平等心を得たり。一切衆生は、つひにさだめてまさに一子地を得べきがゆゑに、このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。一子地はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ如来なり

(現代語訳)

また、仏性を一子地というのである。なぜかというと、菩薩は、その一子地の位にいたるから、すべての衆生をわけへだてなく平等にながめることができるのである。すべての衆生は、ついには必ずその位を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。この一子地は仏性であり、仏性はそのまま如来である

と親鸞聖人も教えられています。
これと同じことを『浄土和讃』では

平等心をうるときを
 一子地となづけたり
 一子地は仏性なり
 安養にいたりてさとるべし

(現代語訳)

煩悩の火が消えて、 一切のとらわれがなくなり、 自他、 善悪、 その他すべてを平等に見る 「平等心」 を得るとき、 直ちに如来の大悲心が起こる。
その大悲心は、 迷いの世界の一切の衆生を一人子のように愛する心なので、 『涅槃経』では 「一子地」 と名づけられた。
一子地は、 仏としての性質であるから 「仏性」 ともいわれる。
一子地といわれる仏の慈悲心は、 安養の浄土に往生して身に得ることができるのである。

と仰っています。
一子地」の左訓には

三界の衆生をわがひとり子とおもふことを得るを一子地といふなり

とあり、教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』の註には

すべての衆生を平等にわがひとり子のように憐れむ心をおこす位で、一般には初地(歓喜地)の菩薩の境地。
親鸞聖人は、怨親を平等にみそなわす仏心のこととされている。

とあります。
凡夫の我らは、不平等の慈悲ですが、仏の慈悲は平等なのです。仏を供養した人、財施をした人を優先するとかいう考えは、凡夫の浅智からくるものです。

仏の平等の慈悲を親の愛情に譬えて判り易く教えられているのが、『教行信証』信巻に引かれた『涅槃経』にあります。

たとへば一人にして七子あらん。この七子のなかに一子病に遇へば、父母の心平等ならざるにあらざれども、しかるに病子において心すなはちひとへに重きがごとし。大王、如来もまたしかなり。もろもろの衆生において平等ならざるにあらざれども、しかるに罪者において心すなはちひとへに重し。放逸のものにおいて仏すなはち慈念したまふ。不放逸のものは心すなはち放捨す。なんらをか名づけて不放逸のものとすると。いはく、六住の菩薩なりと。大王、諸仏世尊、もろもろの衆生において、種姓・老少・中年・貧富・時節・日月星宿・工巧・下賤・僮僕・婢使を観そなはさず、ただ衆生の善心あるものを観そなはす。もし善心あればすなはち慈念したまふ。

(現代語訳)

たとえばあるものに七人の子がいたとしましょう。その七人の子の中で一人が病気になれば、親の心は平等でないわけはありませんが、その病気の子にはとくに心をかけるようなものであります。王さま、如来もまたその通りです。あらゆる衆生を平等に見ておられますが、罪あるものにはとくに心をかけてくださるのです。放逸のものに如来は慈しみの心をかけてくださるのであり、不放逸のものにとくに心をかけられることはないのです。不放逸のものとはどういうものかというと、初地から六地までの位にある菩薩のことです。王さま、仏がたはあらゆる衆生に対して、その生れや老若や貧富の違い、また、生れた日の善し悪しなどを見られるのでもなく、手仕事をしているとか低い身分であるとか召使いのものであるとかを見られるのでもありません。たとえば王さまのおこされた慚愧の心のように、善の心のある衆生を、ただご覧になるのです。そして、もし善の心があるなら、慈しみの心をかけてくださるのであります。

親の愛情は平等でも、病気ではない子供よりも病気の子供の方に心が一層かかるものです。阿弥陀仏も、供養のできる善人よりも供養のできない悪人を憐れんで、何とか救おうとなされているのです。
それをこんにちは氏は、曇鸞大師・善導大師・法然上人のお言葉を挙げて説明されています。

岸の上の人よりも溺れている人を、病気の軽い人よりも重い人に心をかけるのは人間でも同じでしょう。病気の子供に、親孝行をしたら薬を飲ませるという親はいません。溺れている人に、お金を出したら助けるという人もいないでしょう。
苦しんでいる人を先に助けたいというのが、慈悲というものです。

聖者よりも凡夫、善凡夫よりも悪凡夫を助けることに重きをおかれているのが阿弥陀仏の大慈悲であり、18願です。ですから、18願は悪人正機なのです。

しかし、悪凡夫で苦しんでいる人でも救われている人もあれば、救われていない人もあり、現実には不平等の救いということではないか、と思われる人もあるでしょうが、それがこんにちは氏の言われる機の失です。
病気の子供でいえば、

  • 重い病に罹りながら、自分は病気でないと言い張って、外に遊びに行く子供
  • 病気は自分で治せると思って親から逃げ回る子供
  • 薬を飲まなければ病気は治らないと知って、親の言う通りに薬を飲もうとする子供

がいます。親は平等に薬を飲ませたくても、この3人の子供に対する親の言い方は違いますし、薬を飲む時期にも差が出てきます。自分が病気と思っていない、放っておいても病気が治ると思っている子供には、病気の深刻さを知らせ、病気を治すには薬を飲む以外には方法がないことを知らせる必要があります。それが権仮方便にあたるのです。しかし、病気の自覚があり薬を飲まなければ病気が治らないことを理解している子供には、あとは薬を飲ませるだけです。親鸞聖人の教えを聞いて信じている人は、3番目の子供です。
すぐに薬を飲むか、飲むのに時間が掛かるかの差は、子供によるのであって、親の贔屓や不平等によるのではありません。たとえ親の言うことを無視する子供でも、まずは薬を飲む必要性を感じるところまで巧みに導いていくのが、賢い親です。言うことをきかない子供に薬を無理やり飲ませようとするのは、愚かな親です。

これまでに何度も何度も述べていますが、供養・財施と18願の救いとは無関係です。供養・財施をした人、過去に善をたくさん行ってきた人を優先的に救うのであれば、それは善人正機の救いです。悪人正機の18願の救いではありません。

もし供養・財施をして18願で救われたと思うのであれば、『歎異抄』

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ

というお言葉は理解できないでしょう。

一子地」とは、初地の菩薩の境地ですから、初地以上の菩薩にはこれらは当たり前のことですが、底下の凡夫には聖教を通してしか理解できないことです。

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コメント

http://heiseibukkyou.blog99.fc2.com/?mode=m&no=947&m2=res&cr=90a2e2100b6f68a7857d64765b064dbc
↑これですね。コメント欄の続き見てみました。
U田氏はこんな邪義を唱えて、コテンパンにされてんですね…高森会長と変わりませんね。
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そうでしょうか?

あなたの言われる根拠を読ませて頂きましたが、だから、救いは平等だと言えるものはありませんでした。

実際に仏の3不能の中に同時に複数の方を救うことができないと説かれていますし、
何らかの優先順位をもたれて救われていると考えるのが正しいのではないでしょうか?
12/19 07:34 By:幸せのこころ


>あなたの言われる根拠を読ませて頂きましたが、だから、救いは平等だと言えるものはありませんでした。

これだけ読んでも理解できないというのも不可解ですが・・・。まさか「無縁の慈悲」という基本的な仏教用語の意味もご存知ないのでしょうか?
平等の慈悲である以上、「仏の側(法の側)に差別があるゆえに救いに遅速がある」などという説は出てきようがないはずです。

>今生助けられなかったら、次の生、それでもダメならば、その次の生と追いかけて助けてくれる。
>そういう人もあれば、全く後回しの人もある。
>御恩のある方を重く扱う。
>仏の救いには差別があります。だから、救われている人もいれば救われていない人もいます。苦しんでいるから助けてくれるのは仏様にとって御恩のある人だけです。

↑上記のあなたの所説を裏付ける根拠が、お聖教上のどこにありますか?

あなたも「浄土真宗の教えを説いている」と仰るのであれば、当方の「救いに前後があるのは仏の側(法の側)に差別があるからではない。平等に回向されている救いの法を受け入れない、衆生の側の機の失である」という主張に異議があれば、独断によらず、お聖教の上にみられる文証をはっきり示して反論されるようにすべきです。
お聖教の上で「仏の救いには差別がある。だから、救われている人もいれば救われていない人もいる。苦しんでいるから助けてくれるのは仏様にとって御恩のある人だけである」とある文証を挙げなければ、どれほどもっともらしいことをいったとしても、結局、それは私見に過ぎないのであって、正しい反論にはなりません。 また、実際、そのような文証があるはずはありません。
12/23 01:13 By:こんにちは


なお、当方の
「救いに前後があるのは仏の側(法の側)に差別があるからではない。平等に回向されている救いの法を受け入れない、衆生の側の機の失である」という主張の根拠は、
曇鸞大師の「論註」に
「問うて曰く、若し無碍光如来の光明無量にして、十方国土を照らし給うに障碍するところなしといわば、この間の衆生何をもってか光照を蒙らざらんや。光り照らさざるところあらば豈に碍あるに非ずや。
答えて曰く、碍は衆生に属す、光りの碍には非ざるなり」と書かれてあるものを読めば、よくお分かりになるかと思います。
12/27 01:47 By:こんにちは

投稿: /(^o^)\ | 2011年2月14日 (月) 18時55分

諸仏は有限ですから、どうしても優先順位というものが出てくるんです。
ただこれは、見捨てるという事ではありません。

だいたい、多くの人が仏教の本来の目的を忘れすぎですよ。

投稿: | 2011年2月14日 (月) 23時55分

名無しさんへ

阿弥陀仏のお力は無量ですよ。
屁理屈ではなく、根拠を示されませんと、高森会長と同じ妄想の世界です。

仏教の目的は上求菩提下化衆生ですが、それと御恩のある人の救いを優先させるということとどんな関係があるのですか。

投稿: 岡崎 | 2011年2月15日 (火) 02時28分

K森問答にも以下のように書かれてますね。
U田さんほど露骨ではありませんが、同じ考え方だと思われます。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-377.html

>例えば、韋提希夫人が王舎城で苦しんでいるときに、釈尊が説法に行かれていますが、苦しんでいる人は世界中にいくらでもいるのに、なぜ韋提希夫人一人のために王舎城に行かれたのでしょうか?
>これは、韋提希夫人が仏弟子に供養していたため、釈尊や仏弟子との関係が強かったためだと考えられます。

真宗のお聖教のどこにこのような解釈があるのか、示していただきたいものですね…(´Д`)=3

投稿: /(^o^)\ | 2011年2月15日 (火) 06時31分

/(^o^)\ 様

『教行信証』総序の最初の書き出しを読まれれば、親鸞聖人がどのように解釈されていたかが判ります。

ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。しかればすなはち浄邦縁熟して、調達闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまへり。これすなはち権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、まさしく逆謗闡提を恵まんと欲す。

(現代語訳)

わたしなりに考えてみますと、思いはかることのできない阿弥陀仏の本願は、渡ることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であり、何ものにもさまたげられないその光明は、煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝きである。
ここに、浄土の教えを説き明かす機縁が熟し、提婆達多が阿闍世をそそのかして頻婆娑羅王を害させたのである。そして、浄土往生の行を修める正機が明らかになり、釈尊が韋提希をお導きになって阿弥陀仏の浄土を願わせたのである。これは菩薩がたが仮のすがたをとって、苦しみ悩むすべての人々を救おうとされたのであり、また如来が慈悲の心から、五逆の罪を犯すものや仏の教えを謗るものや一闡提のものを救おうとお思いになったのである。

投稿: 飛雲 | 2011年2月15日 (火) 07時08分

岡崎さんへ

少し分かりにくくてすみませんでした。
私が言いたかったのは、親鸞会同様に「信心決定」なる神がかり的なものを求めて、
阿弥陀仏のお力が無量だとか平等だとかいう議論はそもそも不毛なのではということです。

投稿: | 2011年2月15日 (火) 09時31分

名無しさんへ

仰っている意図が理解できませんが、上田氏の書いていることがおかしいということでいいですか。
そうであれば、結構です。

投稿: 岡崎 | 2011年2月15日 (火) 18時17分

岡崎さんへ

たくさん財施した人が早く浄土往生できるいう意味なら確かにおかしいと思いますが、そういう意味ではないような…。

投稿: | 2011年2月15日 (火) 23時57分

名無しさんへ

御恩のある人(供養した人)は、御恩のない人(供養していない人)より早く救われる

      ↓

御恩の深い人(たくさんの供養をした人)は、御恩の浅い人(あまり供養をしていない人)より早く救われる

投稿: 岡崎 | 2011年2月16日 (水) 02時09分

岡崎さんへ

御恩のある人=とにかく沢山財施しまくった人、ではないように思うのですが…。
まあ親鸞会では出せば出すほど良いとされてますがね。

投稿: | 2011年2月16日 (水) 12時45分

名無しさんへ

親鸞会は論外ですが、考え方は同じですよ。
上田氏に直接尋ねてみたらいかがですか。

投稿: 岡崎 | 2011年2月16日 (水) 12時54分

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