« 五劫思惟の願 | トップページ | 八万四千の法門は何のために説かれたのか »

2011年2月 4日 (金)

キレて真宗と断絶した謗言

高森会長が最近、どのような教えを説いているかを、某親友部員がブログに記しています。コメント欄でそれを教えていただきました。

「浄土真宗親鸞会 射水市周辺地区の紹介」切れ味鋭い断言
http://blog.goo.ne.jp/fujita_srk/e/fd3dac3d5e7f2dd505d3faee3f60a937
では以下のように書かれています。

『八万四千の法門』とは、お釈迦様一代の教えのことです。お釈迦様が生涯教えられたことは、一切経として書き残されており、その数七千冊以上にのぼる膨大な数です。

釈迦一代の教えとは、一切経に書き残されていることは、仏教とは、何を教えられたものなのか。

親鸞聖人はズバリ一言で断言されています。

それは「浄土方便の善なり」

「浄土」とは、「阿弥陀仏」のことです。親鸞聖人は阿弥陀仏を、よく「浄土」とは「安養」と仰います。

仏教とは、弥陀の方便の善一つを教えられたものだ。

こんな短いお言葉で、七千余巻の一切経に教えられていることを喝破されています。

一切経を何度も読み破り、正確に理解した方でなければ、こんなに切れ味鋭く、断言できることではありませんね☆

(引用ここまで)

以前は、
「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」について、
『七千余巻の一切経に教えられていること一言で教えられている。
仏教とは、弥陀の本願一つを教えられたもの。
一切経を何度も読み破り、正確に理解した方でなければ、断言できることではない。
弥陀の本願一つ聞けば、仏教を全て聞いたことになる』
と説いていたのに、「弥陀の本願」が「弥陀の方便の善」にかわってしまっています。

こんなことを聞いて、疑問に思わないどころか、ブログにまで書けるのが私には理解できません。
「高森先生信心」のなせる業でしょう。

酷いものです。ある程度は予想されたこととはいえ、真宗からの乖離が、月日と共に激しくなってきています。

参考までに『正信偈』の「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」について、親鸞聖人は『尊号真像銘文』で解説をしておられます。

「如来所以興出世」といふは、諸仏の世に出でたまふゆゑはと申すみのりなり。「唯説弥陀本願海」と申すは、諸仏の世に出でたまふ本懐は、ひとへに弥陀の願海一乗のみのりを説かんとなり。

諸仏方および釈尊の本懐は、「ひとへに弥陀の願海一乗のみのりを説かんとなり」なのです。18願1つを説かれるためなのです。それを、善の勧めや19願を説かれるために世に出られたと教える発想は、浄土門でないことをはっきり示しています。

親鸞聖人が「本願」と仰るときは、18願のことを指します。このことは『教行信証』を見ますとよく判ります。

行巻は17願について書かれています。

諸仏称名の願『大経』にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、正覚を取らじ」と。

信巻は18願です。

至心信楽の本願の文、『大経』にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念せん。もし生れざれば正覚を取らじと。ただ五逆と誹謗正法を除く」と。

証巻は11願です。

必至滅度の願文、『大経』(上)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、国のうちの人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ」と。

真仏土巻は12願と13願です。

すなはち光明・寿命の願これなり。
『大経』にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、光明よく限量ありて、下百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取らじ」と。
また願にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、寿命よく限量ありて、下百千億那由他の劫に至らば、正覚を取らじ」と。

化土巻は19願と20願です。

ここをもつて『大経』の願にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修し、心を至し発願して、わが国に生ぜんと欲はん。寿終のときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ」と。

ここをもつて『大経』の願にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係けて、もろもろの徳本を植ゑて、心を至し回向して、わが国に生ぜんと欲はん、果遂せずは正覚を取らじ」と。

18願のみを「本願」と仰っています。法然上人は、18願1つを「選択本願」と仰り、他の願との差別化をはかられましたので、親鸞聖人もそのまま承け継がれています。

「安心問答」
親鸞会が五劫思惟の願が19願だというたった一つの理由

にもありましたが

19願を疑う心が本願を疑う心。疑情

という高森会長の説明が、如何に頓珍漢な話か、これだけでもお判りいただけるのではないでしょうか。

何回も紹介していますが、行巻の中で念仏と諸善とを比較されて論じられて、そこに

勧無勧対
(訳)

念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない。

証不証対
(訳)
念仏は諸仏が証明されているが、諸善には諸仏の証明がない。

讃不讃対
(訳)
念仏は諸仏に讃嘆される法であるが、諸善は讃嘆されない。

と仰っていることも全く知る由もないのが、高森会長です。諸仏、釈尊が説こうとされていることは何か、それを親鸞聖人がどう仰ったのか、知らないのでしょう。

では何のために善を説かれてあるのか、ということにつきまして法然上人は『選択本願念仏集』

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。

と明確に仰っています。

高森会長が、聖教を読んでいないことは疑いようのない事実ですが、伊藤康善師、大沼法竜師の著書を理解していれば、こんなことは判るはずです。以前は、まだましな話もありましたが、今は親鸞聖人の教えと合っているところが見当たらなくなりました。

金集め、人集めのためには、形振り構わない曲解です。某親友部員は「切れ味鋭い断言」などと能天気なことをいっていますが、最近の異常な”善の勧め”はキレて真宗と断絶した謗言としか言い様がありません。
これでも会員はまだ気がつかないのでしょうか?

|

« 五劫思惟の願 | トップページ | 八万四千の法門は何のために説かれたのか »

コメント

あはれ、あはれ、存命のうちに親鸞会から離れてみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。

投稿: 雑草 | 2011年2月 4日 (金) 21時19分

「釈迦一代の教えとは『浄土方便の善』なり」との主張は、親鸞聖人のご著書のどのお言葉を根拠としているのでしょうか。
そのようにも読める箇所があるのでしょうか。

投稿: 広島の名無し | 2011年2月 4日 (金) 23時37分

雑草 様

カルトに付くべき縁があれば付き、離るべき縁があれば離れるものです。縁を与えてそれでも離れないのは、無宿善なのでしょうかね。


広島の名無し 様

高森会長が根拠としているのは『一念多念証文』の

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。


と思われます。mixi上で、こうへい氏がこの根拠を出してsutybi氏がその解釈の間違いを指摘したところ、こうへい氏が全く反論できなかった御文です。最近の親鸞会では、何かの1つ覚えで、この根拠ばかり説明していますが、解釈が出鱈目のために、突っ込まれるとすぐに返答に窮してしまいます。

投稿: 飛雲 | 2011年2月 5日 (土) 07時37分

公式HPにもアップされてますね。一念多念証文を根拠にして。2010年10月から。
『一切経は「浄土の方便の善なり」』
http://www.shinrankai.or.jp/b/shinsyu/joudo-houben-zen01.htm
http://www.shinrankai.or.jp/b/shinsyu/joudo-houben-zen02.htm

既出でしたら済みません。
私も余り聞いたことのない話でしたが最近しきりと挙げられるようになったらしく、すでに飛雲さんのほうでも間違いは指摘されてましたよね。親鸞会は方便の意味を知らないのでなんともという感じですが。

投稿: | 2011年2月 5日 (土) 15時10分

ご回答、ありがとうございました。
権仮方便は暫用還廃すべきものと聞いていますが、親鸞会は廃すべきタイミングが間違っていると思いました。
親鸞会は、方便を廃するのは信一念(あるいは後生に驚きが立った時?)でのことで、それまでは必要なもの、持つべきもの、と捉えていると思われます。
それに対し、飛雲さんたちは、我々が18願の通りに救われたいと思い立った時点で廃されるべきもの、と捉えられているように思います。私もそう思います。親鸞聖人は19願を浄土欣慕のための願と見ておられる訳ですから(←飛雲さんのブログで拝見しました)。

投稿: 広島の名無し | 2011年2月 5日 (土) 22時14分

広島の名無し 様

仰る通りです。
親鸞聖人は、権仮方便だから捨てよ、としか仰っていません。
聖道門は方便だから捨てよ。
化土は方便だから願うな。

同様に、

19願、20願は方便だから捨てよ。

19願だけ拾って、聖道門や化土は捨てよでは理屈に合いませんよ。

投稿: 飛雲 | 2011年2月 5日 (土) 22時56分

名無し 様

情報有難うございました。
今回のエントリーの参考にさせて頂きました。

投稿: 飛雲 | 2011年2月 5日 (土) 23時01分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 五劫思惟の願 | トップページ | 八万四千の法門は何のために説かれたのか »