善巧方便がまだ判らない人のための補足説明
『教行信証』を読んだことのある人なら判りますが、『涅槃経』で説かれている阿闍世のことが信巻に長々と引かれています。それは、『教行信証』全体の1割も使っています。
親鸞聖人がそこまでして伝えられたかったことは、五逆罪を造ったものでも救われることを経典上で証明されるためでした。
『涅槃経』を引かれた後、親鸞聖人は信巻で
それ諸大乗によるに、難化の機を説けり。いま『大経』には「唯除五逆誹謗正法」といひ、あるいは「唯除造無間悪業誹謗正法及諸聖人」(如来会・上)とのたまへり。『観経』には五逆の往生を明かして謗法を説かず。『涅槃経』には難治の機と病とを説けり。これらの真教、いかんが思量せんや。
(現代語訳)
さて、さまざまな大乗の教典によると、救われがたい人々について説かれている。いま『無量寿経』には、「ただし、五逆の罪を犯したり、正しい法を謗るものだけは除かれる」と説かれ、『如来会』には、「ただし、無間地獄に堕ちるような悪い行いの罪をつくったり、正しい法および聖者たちを謗るものだけは除かれる」と説かれている。また『観無量寿経』には、五逆のものの往生は説かれているが、謗法のものについては説かれていない。『涅槃経』には、治しがたい病の人々とその病とが説かれている。これらの仏の教えについて、どのように考えたらよいであろうか。
と自問しておられます。前回書きましたように、18願だけでは五逆、謗法のものは救われないという解釈になってしまいます。しかし、『観無量寿経』には五逆のものの救いが説かれていますので、五逆のものでも救われることが判ります。更には『涅槃経』によって実際に父殺しの五逆罪を犯した阿闍世が、実際に救われることが説かれています。
逆に言えば、『観無量寿経』と『涅槃経』によらなければ、五逆のものの救われることを経典上では証明できないのです。
それで、王舎城の物語は、還相の菩薩方が演じられたドラマであると親鸞聖人は考えられたのです。これを、真実の判らない我らに真実を知らせるための善巧方便、と親鸞聖人は仰っているのです。
親鸞聖人はこの結論として『尊号真像銘文』に
「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。
と仰っていることは何度も述べてきました。
以上より、高森会長が何かの1つ覚えで繰り返し言い続けている
方便よりしか真実に入れず
方便を通らずして真実に入れない
が、如何に惚けた話であるか、お判り頂けると思います。
真実と善巧方便との関係は、善巧方便が真実への道程ということではなく、真実とその救いを理解する智慧のない我らに、真実とその救いとはどういうことかを認識できる形にして下されたものを善巧方便というのです。
たとえば、方便法身とは、色も形もない法性法身を我らでも認識できる形となって現われてくだされたものであって、真実への道程ではありません。
以前に紹介した龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』にある
問ひていはく、
(中略)
このゆゑに、もし諸仏の所説に、易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得る方便あらば、願はくはためにこれを説きたまへと。答へていはく、
(中略)
もし易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得るありやといふは、これすなはち怯弱下劣の言なり。これ大人志幹の説にあらず。なんぢ、もしかならずこの方便を聞かんと欲せば、いままさにこれを説くべし。仏法に無量の門あり。世間の道に難あり易あり。陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便易行をもつて疾く阿惟越致に至るものあり。
の「方便」「信方便易行」は、後の御文を読めば判りますが、18願他力念仏のことをさしています。当たり前のことですが、19願自力修善のことではありません。
蓮如上人のお言葉でいえば、『御文章』5帖目第8通に
それ、五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただわれら一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願をたてましまして、「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」と誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします。
あるのもそうです。ここにある「方便」を真実への道程と考えると、意味が全く通じなくなります。阿弥陀仏の御苦労が「方便」なのですから、我ら凡夫のする行為とは無関係です。
まあ、「五劫思惟の本願」を19願と解釈するお馬鹿な人もいますが、この後の
「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」
を読めば、「五劫思惟の本願」とは18願のことであるのは、中学生でも判る国語の問題です。
ところが、ここまで判りやすく教えられても、反発する人がある訳です。聖道門の人たちのように、善にこだわる人は、善巧方便もすぐに受け入れられないので、善巧方便とは別の方便が必要になります。それが権仮方便です。
これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ聖道権仮の方便に
衆生ひさしくとどまりて
諸有に流転の身とぞなる
悲願の一乗帰命せよ
です。聖道門と19願を権仮方便、と親鸞聖人は仰っています。
善巧方便によりて真実信心を獲ると教えられているのに、それを権仮方便によりて真実信心を獲るという教えが、どれほど馬鹿な話か、賢明な読者の皆さんならお判りでしょう。
こんな基本的な知識さえ欠落しているのが、無二の善知識の実態です。
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コメント
「善巧」と「権仮」を知らざるによりて迷宮に入る、と言いたくなりました。 お聖教を「私」無く読めてないから、「善巧」と「権仮」がゴッチャになってしまうのでは?
投稿: 広島の名無し | 2011年2月27日 (日) 12時12分
広島の名無し 様
同感です。その程度ということですよ。
投稿: 飛雲 | 2011年2月27日 (日) 22時32分