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2011年2月22日 (火)

「方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし」の曲解

先日の2000畳座談会についての情報を頂きました。内容は方便についてでしたが、これまでと同じことの繰り返しで、全く進歩の無い内容だったそうです。ファーストクラスに替るおもしろい話を考え出してくれるかと期待していましたが、肩透かしをくらいました。

「安心問答」
「弥陀の善巧方便とは何か、釈迦の善巧方便とは何か、何が真実か、何が方便か全く知らない」のは誰か?(2月20日2000畳座談会の内容より)

でも、すでに取り上げられています。
根拠もいつも通りで、新しいものはありませんでした。従って、これまでに当ブログで取り上げてきたことを読まれれば、高森会長の詭弁など、容易に見破ることができます。

真仮の水際を説けない高森会長

真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり

会員との問答(方便について)

高森会長も、当ブログを読んでいますので、自分の間違いに気が付いている筈ですが、新たな詭弁を考え出す能力もありませんので、これまで同様、方便の意味を敢て誤魔化すしかできませんでした。

その顕著な例が、『御一代記聞書』

方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふ

です。この「方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし」をアシスタントが説明しているところを遮って

方便からしか真実に入れない

と、高森会長は解説していたのです。正しく訳されては困るから、とんでもない歪曲を会員に押しつけている汚さです。

この部分はもちろん権仮方便のことであり、権仮方便は廃すべきもの、ということを仰った蓮如上人の御心を隠して、

19願を通らなければ18願には入れない

としていました。
これは法然上人が、『選択本願念仏集』の中で

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
(中略)
ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

と仰ったことと同じことを蓮如上人が教えられただけです。方便19願修善は真実18願他力念仏を明らかにするためのものであり、真実18願を願っている人には方便19願は廃すべきものでしかないのです。
ところが、これと「弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし」を組み合わせて、方便からしか真実に入れないとしているのです。
廃することのない善巧方便と廃すべき権仮方便との区別が高森会長自身もできていないでしょうし、そんな理解で話をするから訳が判らないのです。

高森会長は、

真実が判らないから方便も判らないのだ。救われていないから判らないことだ。

と強調していましたが、それは高森会長自身のことです。自己の未信を告白してどうするのでしょうか?

また、高森会長は、

19願は聖道門の人のために建てられた願という真宗の学者が多い。18願だけ聞いておれば助かるのだと言うものが今でも一杯いる。親鸞聖人のおられた当時もそうであったから、阿弥陀仏の本願には真実と方便の願があるのだと、親鸞聖人が明らかにされた。

と会員を欺くことに必死になっていました。
これまで何度も何度も述べて来たことですが、親鸞聖人が『教行信証』真仏土巻の最後

真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す

と仰ったのは、聖道門から法然上人に対して、19願を軽視するとは何事だ、との激しい非難があったからです。聖道門では18願も尊重しながら、19願が最も勝れた願と考えていましたので、親鸞聖人が、18願は真実の願、19願は方便の願と仰ったのです。
その歴史的事実も教えて差し上げて、高森会長は知っているのに、このような大嘘を平気でつける人物なのです。

今後も高森会長は、同じことを言い続ける以外に能がないでしょうから、こちらも同じことを言うだけです。
ただ、過去に何度も述べて来たことをここで繰り返すのも、皆さんに失礼かと思いますので、

「親鸞会の邪義を正す」

の方に、当ブログで過去に書いたものを今後も掲載してもらいます。その点を御了承下さい。

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コメント

「真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり」という根拠も出されたようですよ。

真実(真)も方便(仮)も全て真実に救うために建てられたもので、三願がそれぞれ独立したものではない
というような説明だったそうです。(スミマセン。どのような流れだったかはわかりません。)

酬報せりとはどういう意味でしょうか?


真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す

親鸞会的には、
18願と19・20願の関係性が分かっていないから救われないとか、
仮からしか真に入れないのに、善の勧めが説かれてある19願の通り実行しないから救われないとか、
そんな意味で使っていると思うのですが、

実際は真仏土巻の真仮対弁の箇所では、
真実(真)と方便(仮)、それぞれの行と信に応じた世界にしか行けないから、
早く方便(仮)を捨てて真実(真)に入りなさいと仰られているという事で良いのでしょうか?

投稿: 眠たいよぉ | 2011年2月23日 (水) 00時31分

眠たいよぉ 様

「真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり」については、以下を読まれれば御理解頂けると思います。


仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。これによりて、いま真仏・真土を顕す。これすなはち真宗の正意なり。

(現代語訳)

方便の仏と浄土のことは、次の「化身土文類」に示すので、そこで知るがよい。すでに述べてきたように、真実も方便も、どちらも如来の大いなる慈悲の願の果報として成就されたものであるから、報仏であり報土であると知ることができる。方便の浄土に往生する因は、人によってそれぞれにみな異なるから、往生する浄土もそれぞれに異なるのである。これを方便の化身・方便の化土という。如来の願に真実と方便とがあることを知らないから、如来の広大な恩徳を正しく受け取ることができないのである。このようなわけで、ここに真実の仏・真実の浄土について明らかにした。これが浄土のまことの教えである。


聖道門の人たちは、19願を最も重要視していましたので、それは方便の願だから、方便化土にしか往けないぞ、だから方便19願を捨てて、真実18願を信じよ、18願だけでいいのだ、と仰った親鸞聖人の御言葉です。
これが、19願を通らなければならないと仰った御言葉となる訳がないです。

投稿: 飛雲 | 2011年2月23日 (水) 06時49分

親鸞聖人のお言葉を強引に捻じ曲げて自分の都合に合うようにミスリードする。
親鸞聖人の権威を傘に着て親鸞聖人の意図とは違うことを主張するって卑怯ですね。
会長は主張が明らかに異なるんですから、もしそんなに自信があるなら親鸞聖人の教えは間違っていると言うべきですね。

投稿: | 2011年2月23日 (水) 23時37分

名無し 様

>親鸞聖人の教えは間違っていると言うべきですね

本当はこれが言いたいのでしょうけど、これを言ってしまえば、自己の主張の根拠を失いますので、親鸞聖人の正しい御心が判るのは自分だけだ、で留めておくしかないのです。ですから捏造も改竄も歪曲も何でもありです。

投稿: 飛雲 | 2011年2月25日 (金) 06時54分

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