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2011年2月 1日 (火)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り10

次から次へと訳の判らない財施が要求され、行事の誘いの目標を課せられ、熱心な会員でも不満を持っていると聞きます。
それが当然の思いでしょう。

雑行が出てこなければ、雑行は捨てられない

と、高森会長は、詭弁の珍説を未だに述べています。
高森会長の理論はこうです。

  • タバコを吸わせて体に悪いことを知らせてからでなければ、タバコをやめさせることはできない。
  • 麻薬や覚醒剤をやらせて、心身ともにボロボロになってからでなければ、麻薬や覚醒剤をやめさせることはできない。
  • 自殺をさせてみてからでなければ、自殺を止めることはできない。

通常の思考なら、タバコを吸っている人も吸わない人も、麻薬や覚醒剤をやっている人もやっていない人も、自殺を試みた人も考えていない人も、共通にやめましょう、と呼びかけて、それがおかしいと思う人はいません。タバコ、麻薬、覚醒剤で体を壊してからでは手遅れですし、自殺してしまった人に自殺をするなと教える人はいません。当たり前のことです。

親鸞聖人、蓮如上人は、雑行をしている人もしていない人にも、雑行では往生できないから捨てよとしか教えられていないのです。一度雑行をさせてみて、などと愚かなことを仰る筈がありません。高森会長は、伊藤康善師、大沼法竜師、香樹院師以外の真宗関係の本を読んだことがありませんので、親鸞聖人、蓮如上人がどのように教えられているかを知らないだけのことです。もし知っていたら、恥ずかしくてこんな珍説を唱えることを躊躇するでしょう。

30年前の本願寺との法論の際、本願寺から、「親鸞聖人が獲信のために善を勧められた文証を出せ」といわれて、高森会長が七仏通戒偈や『観無量寿経』を示すという邪道振りに、本願寺は呆れました。それは、聖道門が法然上人を非難した内容そのままであるからです。

これまで何度かそれについては述べてきました。

「汝何ぞ天下の諸人を以て皆下劣の根機と為す乎」との明恵高弁の言葉を知っていますか?
会員との問答(聖道門と浄土門の違い)

しかし、このように説明する以外に、会員に善という建前で、金集め、人集めをさせる理由が無くなってしまいますので、外部からの批判を聞かないようにしているのでしょう。

前回の子供と瀬戸物の喩え話は、聖道門の人のことですが、それを親鸞会の会員に適用するとどうなるか。

力の弱い子供は言うでしょう。
「お母さんは、僕にはこのお皿1枚も持てないと言ってたじゃないの。こんなたくさんの皿なんか持てないよ。」
しかし、母親は言います。
「嘘を言ってはいけないよ。坊やは、これだけの皿くらい持てると本当は思っているのでしょう。一回持ってみなさい、そうすれば持てないことが判るから。」
子供は嫌がります。
「嫌だよ、持てないことくらい判ってるよ。僕、疲れてるから歩きたくもないんだよ。」
母親は子供に厳しく叱りつけます。
「そんなに甘えているなら、御飯もおやつも、これからは無しよ。持ちなさい。」
子供は泣きながら
「そんなの嫌だよ。じゃあ、お皿1枚だけ持つよ。」
子供に皿1枚を持たせて、
「まだ持てるでしょ。はいこれも。」
皿をもう1枚子供に持たせます。
「もう無理。許してよ、お母さん。」
お母さんは益々厳しく
「じゃあ、御飯もおやつも要らないのね。まだこんなにお皿が残ってるじゃないの。このお皿を落としたら、飲み物もおもちゃも無しよ。」

これが高森会長と会員とのやりとりです。

最近高森会長は、真実の善と雑毒の善について詳しく説明しているといいます。

真実の善はできないが、雑毒の善はできる。雑毒の善でもしなければ、良い結果は返ってこない

と。

会員は、真実の善ができないと判っています。判っていなければ、親鸞会の話など聞く訳がないです。雑毒の善ができるのだから雑毒の善をせよ、と言ったところで、往生・獲信となんの関係があると言うのでしょうか。関係を言えないから、

善をしなければ良い結果が返ってこない、真宗が衰退しているのは善を勧めないからだ

と的外れの説明しかできないのでしょう。
高森会長は根拠を出せません。ないからです。

なお、雑毒の善が宿善になるのであれば、善は間違いなくできるのです。雑毒の善ができるのなら、無善ではありません。善導大師が仰るように、「善根薄少」です。真実の善ができないことと必堕無間は、意味が違います。龍樹菩薩は、真実の善はできませんでしたが初地まで到達せられて六道を自力で出離されています。

高森会長が前回の2000畳座談会で

阿弥陀仏が無量光明土に生まれる足しにならない善を19願で勧めておられるのか?

という自問に対して

それは弥陀のお計らいだ
わからないから納得出来るように説明せよという人は弥陀より偉い人で、弥陀に救われる必要のない人だ

と思考停止を会員に要求しています。
このような聖道門的質問に対して、親鸞聖人は詳しく答えておられますが、聖教を読んだことのない高森会長は、愚問愚答をして会員を騙せたと得意気なのでしょう。退会者から見れば喜劇ですが、会員にとっては悲劇です。

さて、この子供はこの後、どういった選択肢があるでしょうか。

A.皿を放り投げて反抗し、母親に捨てられる。
B.適当なことを言って皿を母親に返し、その隙に自ら走り去る。
C.皿を持てば、いつか空から飴が降ってくることを期待して、泣きながら母親に従う。

虐待する母親に対して、子供はどれを選択するのがよいと思われますか。子供を虐待する母親しか知らなければ、しかないのでしょうが、普通の母親を知り、自分を保護してくれる優しい人がいることを知っているのなら、を選択して欲しいと思います。すでに多くの子供が、の方法で、この母親から逃れて、保護されています。

願わくば、虐待の母親の元を離れて、阿弥陀仏という間違いのない保護者の元に行って下さい。

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コメント

管理人さんの言われた通り「19願を疑う心が本願を疑う心。疑情。」とハッキリ高森会長が発言したって言ってる人もいますね。

どちらにしても19願を五劫思惟の願と言ったりして、18願と無理やり重ねて話をして会員を騙していることには変わらないようですが。

> 2011年1月23日の2000畳座談会で「19願を疑う心が疑情」と高森会長が話をした件で、詳しい情報を頂きました。
>
> 正確には、
>
> 「五劫思惟の願は19願」
> 「五劫思惟の願を疑うのが本願を疑う心」
> 「19願を疑う心が本願を疑う心。疑情」
> という話でした。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110201/1296510985#c

投稿: | 2011年2月 2日 (水) 06時38分

よく分かる話です。この譬えの間違いはその前提にあったのですね。母親の「これだけの皿くらい持てると本当は思っているのでしょう、と持たせる」というところが浄土真宗ではないからおかしくなっているのでしょうね。そのことは仰る通り会長自身が「真実の善はできない」と言っていることからその矛盾を自ら曝け出しています。真実の善はできないのですから、お皿を持つまでもないのです。持とうとする心があるのは否定しませんが、その疑いの心を嫌われて往生に向かっては「できないのに持とうとするな」「持とうとせず阿弥陀仏にまかせよ」というのが聖人の仰せなのですね。まことの親様の阿弥陀仏への帰命をお勧めです。親鸞会の定義で言っても「持ったら助かると思って持とうとする心」こそ雑行のはずです。会長はそこでまた「雑毒の善はできる。雑毒の善でもしなければ、良い結果は返ってこない」という往生には関係のない文言を付けることで誤魔化すのがいつものやり方です。日本語と理論を考えればそれだけで会長の教えの多くの間違いは分かるように思います。(無論救いは日本語と理論がわかったことではありませんけれども。)譬えにしても教学と言っている問題の問いにしてもおかしな話が多過ぎますね。

投稿: | 2011年2月 2日 (水) 18時50分

一番目の名無し 様

コメント有難うございました。エントリーで書かせて頂きました。


二番目の名無し 様

まったく仰る通りです。高森会長の話は、前提の部分でおかしいことがたくさんあります。途中では筋が通っていたりすると騙されやすいものです。
無二の善知識と崇めていると、トリックにひかかってしまいますので、注意が必要です。

投稿: 飛雲 | 2011年2月 2日 (水) 20時03分

先日の2000畳でも

「19願で阿弥陀仏が勧められている善は雑毒の善だ」との発言がありました。

一応、“仏様の目から見たら”とか、“結果的にそうなる”とも言ってましたが。

出来ないと分かっているから雑毒の善を勧めるっていうのはどうも理解に苦しみます。


会長流のロジック?としては、

・十方衆生は煩悩具足。阿弥陀仏はそれを知っている
 ※勿論、十方衆生=全人類との解釈。
  ↓
・煩悩具足の者は雑毒の善しかできない。
 だから十方衆生が真実の善を出来るわけがない。
  ↓
・十方衆生が真実の善を出来ないと知っている阿弥陀仏が
 真実の善を勧められるわけがない。
  ↓
・阿弥陀仏が十方衆生に19願で勧めている
  ↓
・阿弥陀仏が19願で勧めている善は雑毒の善。

その後が…。(^^ゞ

喩え話を作ったみたいで。

(1)月への切符 ― 月へ行ける ― でも1枚しかない
(2)地球上どこでも行ける切符。鉄道・飛行機等々。でも月には行けない ― 何枚あっても良い。あればあるだけ便利


(1)は真実の善、(2)は雑毒の善を喩えたものらしいです。
 月とは無量光明土を喩えたもの。


(1)についてはほとんど触れず、(2)については“あればあるだけ良いもの、便利なもの”と強調していました。


雑毒と言っても、無量光明土に行けないだけ。
毒の混じった善でも、善は善。やればやっただけ自分に返ってくる。“損はない”
雑毒と言って嫌っていたら幸せになれない。因果の道理だから全部自分に返ってくる。

今日の道俗はは聴き誤って善をしない方が良い!と言っているから、この世からジゴクだとも言ってましたよ。


(2)の切符、あったらあっただけ良い
 ↓
月(無量光明土)に行くのにどれだけあっても邪魔にならない
 ↓
邪魔になるなら弥陀が勧められるはずないし、
釈迦が一代かけて(善の勧めを)説かれるはずがない。

ということで善の勧めを正当化しているみたいです。


“あればあるだけ良い”とか“損はない”とか
そんな幸せを求めて聞いている人いないのに、これを善の勧めを正当化する理由にするのはおかしいですよね


それを無理やり
「邪魔になるなら弥陀が勧められるはずない」と言って往生・獲信と関係づけて納得させようとして、
言っていることが破綻しているとしか思えません。

“あればあるだけ良い”とか“損はない”という心はまさに罪福を信じる心で、戒めておられると思うのですが、
親鸞会では罪福を信じる心とは因果の道理を信じる心で深ければ深いほど良いって教えてますよね。
信仰のバロメーターとか言って。

やっぱり、親鸞会教義が「善の勧め」が大前提の教えだからですかね?

投稿: 月のうさぎ | 2011年2月 5日 (土) 09時53分

月のうさぎ 様

貴重な情報、有難うございました。
次回のエントリーで取り上げさせて頂きます。

投稿: 飛雲 | 2011年2月 5日 (土) 22時57分

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