親鸞聖人はファーストクラスに乗れると思われたでしょうか?
前回紹介しました高森会長のトンデモ邪義について、様々なところで話題となっています。
「安心問答」でも取り上げられていました。
「安心問答」
「月へ行く切符が欲しいのですが」→「飛行機のファーストクラスに乗りたいでしょ」→「?」
この中で、高森会長とアシスタントとのやり取りが紹介されています。
(2)の切符何万枚持っていても月へは行けないということです。しかし、月へは行けないが、そんな切符要らないか?要らない人ある?たくさん欲しいでしょ。
普通の寝台車に乗れる切符よりもっといい切符が欲しいでしょ。
アシスタント「飛行機でもエコノミーよりファーストクラスがいいです。」
そうでしょ。当然なんです。だから、この善をやらないと良い結果はきませんよ。(2011年1月23日2000畳座談会参加者より頂いた情報)
皆さんはこれを読まれてどう思われたでしょうか。
会員は必堕無間と脅されているのです。無間地獄から逃れるために、食べたいものも食べず、飲みたいものも飲まず、遊びたいところを我慢して、お金も時間も体力も、人生の大半を親鸞会に捧げているのです。
無間地獄にさえ堕ちなければ、再び人間として生れられたとしても、御の字と思っている人も多いことでしょう。
ましてや浄土に往けるのであれば、贅沢など言う人はいない筈です。
高森会長のたとえを使うと、月に行けるのであれば、エコノミークラスどころか立ち席でも、荷物の中に紛れてでも構わないと思う人ばかりではないでしょうか。ファーストクラスで月に行きたいと思っている人は、余程余裕のある人です。そんな人は自分が必堕無間などとは夢にも思っていない人でしょう。
『歎異抄』にある親鸞聖人のお言葉、
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ
を、高森会長はどのように解釈しているのでしょうか?
阿弥陀仏が五劫もの間思惟せられた本願は、浄土へは自分の力では決して往くことができない親鸞一人のためのものであった。こんなに重い罪を造っている者であるのに、助けようと思われて建ててくだされた本願のなんともったいないことよ。
と慶ばれている親鸞聖人が、ファーストクラスで月に行きたいと思われていた、と考えるならば、その人は親鸞聖人とは安心が異なっているのです。
ファーストクラスで月に行こうと思っている人は、定善のできる人です。ビジネスクラスで行こうと思っている人は、行福、戒福のできる善人です。エコノミークラスでもと思っている人は、世福のできる善人といえるでしょう。世福もできない悪人にとっては、立ち席、荷物席でも月に行けるのであれば文句など言える訳がないです。
高森会長もアシスタントも、自分の実機を知らずに、ファーストクラスだなどと、お気楽なものです。
ファーストクラス、ビジネスクラスに乗れる善人は、必堕無間ではありません。必堕無間の悪人は、エコノミークラスでも身分不相応です。
ファーストクラスで月に行こうとする必堕無間の極悪人とは、どういうことでしょうか?
無善造悪の者に善を勧めて矛盾している、と非難されていることから、最近の高森会長の教えは、無善を真実の善はできないが雑毒の善はできるとして、善のできる人を対象にした教えに変化してきました。
参考までに言っておきますと、定善の機、上品上生であっても雑毒の善しかできません。
下品上生、下品中生、下品下生については、善導大師は『玄義分』で
この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。
と仰っている通り、雑毒の善の中で最もレベルの低い世福もできない者のことです。必堕無間の者とは下品下生のことです。
全人類が必堕無間の下品下生であるなら、雑毒の善ができますか?
逆から言えば、雑毒の善のできる人は、必堕無間の下品下生でしょうか?
参考までに法然上人は「念仏往生義」で
善根無ければ、此の念仏を修して、無上の功徳を、得んとす。余の善根、多くば、例え念仏せずとも、頼む方も、有るべし。然れば善導は、我が身をば、善根薄少なりと信じて、本願を頼み、念仏をせよと、勧め給ヘリ。経に、一度名号を、称えるに、大利を得とす。又即ち、無上の功徳を得と、とけり。いかに況や、念々相続せんをや。然れば善根無ければとて、念仏往生を、疑うべからず。
と教えて下されています。解説するまでもありませんが、この「善根」は真実の善ではありません、雑毒の善です。
当ブログを読んで研究している高森会長は、今後、善の勧めと必堕無間と二兎を追うことを断念するかも知れません。そうなると財政難の中ですから、背に腹は代えられず、必堕無間を封印して善の勧め一本でいくことが予想されます。
もちろん、それでも真宗ではありませんけど。
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コメント
管理人様
先日の2000畳の法話で龍樹菩薩の話があったのですが、
諸久堕の三難とは弥陀を疑う心なのでしょうか?
軟心の菩薩が諸久堕の三難に苦しんだという話が出てきて、これは横の線(弥陀の救い)を進んで行くと
必ず出てくるのだと説明がありました。
ちなみに
正確ではないですが「諸久堕の三難」についてはこのような説明がありました。
本当にこんな内容なのでしょうか?
諸―煩悩が邪魔になって進めない。こんな心が出てきては救われないのではなかろうかという心
しかし煩悩具足と見抜いて救うを約束されているのが阿弥陀仏だから、それは阿弥陀仏を疑う心。
久―どれだけ聞けばハッキリするのか?安心・満足するのか?という心
堕―堕ちるのではなかろうかという心
最初は聖道門を求めている軟心の菩薩に龍樹菩薩が「仏道を求むるのは大宇宙を持ち上げるよりも重い」と
叱ったという話をしていたと思っていたのですが、その軟心の菩薩が苦しんでいたのは「諸久堕の三難」だ
と言い出し、それは阿弥陀仏を疑う心だと説明があったと思います。
聖道門を求めているなら、弥陀を疑う心は出てこないと思うのですが
いつの間にか軟心の菩薩が本願を疑う心で前に進めず苦しんでいることになっていて…。
“諸久堕の三難という弥陀を疑う心”で悩んでいた軟心の菩薩が龍樹菩薩に「仏道を求むるのは大宇宙を
持ち上げるよりも重い」と叱られたという話になると浄土門を求めている人にそのように叱るということ
になり、おかしい話になるとおもうのですが、みんな疑問も持たず聞いているようでした。
解釈が正しいかどうかという以前に、話している論理に一貫性がないと思うのですが、だ~れも疑問に
思わないのですねぇ。自分もそうでしたけど、ほんとに情けないですねぇ。
「諸久堕の三難」もそうですが、これまで使わなかった言葉を使うことが多いような気がします。
会長から発せられる言葉に間違いがないと思っていますから、説明が正しいかなんて疑問も持たずに、
初めて聞いて知識欲が満たされて喜んでいる人ばかりなんでしょうけど。
投稿: ショックだな三男 | 2011年2月 9日 (水) 01時13分
ショックだな三男 様
貴重な情報、有難うございます。
「諸久堕の三難」は御指摘の通り難行道のことです。
『十住毘婆沙論』「易行品」に
問ひていはく、この阿惟越致の菩薩の初事は先に説くがごとし。阿惟越致地に至るには、もろもろの難行を行じ、久しくしてすなはち得べし。あるいは声聞・辟支仏地に堕す。
(中略)
このゆゑに、もし諸仏の所説に、易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得る方便あらば、願はくはためにこれを説きたまへと。
答へていはく、なんぢが所説のごときは、これ儜弱怯劣にして大心あることなし。これ丈夫志幹の言にあらず。なにをもつてのゆゑに。もし人願を発して阿耨多羅三藐三菩提を求めんと欲して、いまだ阿惟越致を得ずは、その中間において身命を惜しまず、昼夜精進して頭燃を救ふがごとくすべし。
(中略)
大乗を行ずるものには、仏かくのごとく説きたまへり。「願を発して仏道を求むるは三千大千世界を挙ぐるよりも重し」と。なんぢ、阿惟越致地はこの法はなはだ難し。久しくしてすなはち得べし。
もし易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得るありやといふは、これすなはち怯弱下劣の言なり。これ大人志幹の説にあらず。なんぢ、もしかならずこの方便を聞かんと欲せば、いままさにこれを説くべし。
とあります。
「もろもろの難行を行じ、久しくしてすなはち得べし。あるいは声聞・辟支仏地に堕す。」が「諸久堕の三難」です。
誰かの入れ知恵なのでしょうが、酷い邪説です。後日取り上げたいと思います。
投稿: 飛雲 | 2011年2月 9日 (水) 07時38分