王舎城の悲劇が善巧方便
真実も方便も、何も判っていない高森会長、講師部員、幹部会員のために、親鸞聖人が善巧方便と仰っているのは、どんなことかについて述べておきます。
『浄土和讃』観経讃に
弥陀・釈迦方便して
阿難・目連・富楼那・韋提
達多・闍王・頻婆娑羅
耆婆・月光・行雨等(現代語訳)
『観経』は、 阿弥陀如来と釈迦如来が私たちを救う手だてとして説かれた教典である。 如来のすくいの手だて、 方便として浄土から現れてくださった方々は、 阿難尊者、 目連尊者、 富楼那尊者、 韋提希夫人、 提婆達多、 阿闍世王、 頻婆娑羅王、 耆婆大臣、 月光大臣、 行雨大臣等である。
大聖おのおのもろともに
凡愚底下のつみひとを
逆悪もらさぬ誓願に
方便引入せしめけり(現代語訳)
韋提希夫人や阿闍世王のほか、 阿難や月光、 行雨等、 王舎城の悲劇に関係した人びとは、本来、 皆浄土の大聖者であった。 その聖者方がおのおの善人となり悪人となり、 王となり妃となり、 一緒になって愚かな凡夫、 生死の大海の底に沈んでいる罪人を、 十悪、 五逆の罪人ももらさず第十八願に導き入れてくださった。
とあるのが、善巧方便の具体例です。
このことは『教行信証』総序にも
しかればすなはち浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまへり。これすなはち権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、まさしく逆謗闡提を恵まんと欲す。
(現代語訳)
ここに、浄土の教えを説き明かす機縁が熟し、提婆達多が阿闍世をそそのかして頻婆娑羅王を害させたのである。そして、浄土往生の行を修める正機が明らかになり、釈尊が韋提希をお導きになって阿弥陀仏の浄土を願わせたのである。これは菩薩がたが仮のすがたをとって、苦しみ悩むすべての人々を救おうとされたのであり、また如来が慈悲の心から、五逆の罪を犯すものや仏の教えを謗るものや一闡提のものを救おうとお思いになったのである。
とあります。王舎城の登場人物は、還相の菩薩方であり、これらの方々が演じられたドラマが善巧方便、と親鸞聖人は仰っているのです。
同じことを蓮如上人は『御文章』4帖目第3通に
これによりて、むかし釈尊、霊鷲山にましまして、一乗法華の妙典を説かれしとき、提婆・阿闍世の逆害をおこし、釈迦、韋提をして安養をねがはしめたまひしによりて、かたじけなくも霊山法華の会座を没して王宮に降臨して、韋提希夫人のために浄土の教をひろめましまししによりて、弥陀の本願このときにあたりてさかんなり。
このゆゑに法華と念仏と同時の教といへることは、このいはれなり。これすなはち末代の五逆・女人に安養の往生をねがはしめんがための方便に、釈迦、韋提・調達・闍世の五逆をつくりて、かかる機なれども、不思議の本願に帰すれば、かならず安養の往生をとぐるものなりとしらせたまへりとしるべし。(現代語訳 浅井成海監修『蓮如の手紙』より)
さて、昔、お釈迦さまが霊鷲山にいらっしゃって、一乗の教えと讃えられる『法華経』をお説きになっていたときに、提婆が阿闍世をそそのかして、親殺しの罪を犯させるという事件が起こりました。
そこでお釈迦さまは、もったいなくも、霊鷲山での『法華経』の説法の座を立たれて、王宮へおいでになり、韋提希夫人が極楽を願うようにされました。こうして、お釈迦さまが韋提希夫人のために浄土の教えをひろめられたので、阿弥陀さまの本願が今の時代に盛んとなったわけです。そして、このために、『法華経』と『観無量寿経』のお念仏とは同じときに説かれた教えであるといわれています。
これはとりもなおさず、末世の五逆の悪人と女性に、極楽への往生を願わせるための手だてとして、釈迦、韋提・提婆・阿闍世が力を合わせて、五逆の罪を犯すというドラマを作りあげたものと考えられます。そして、このような罪の深い者であっても、人知では思いはかることのできぬ阿弥陀如来の本願に帰依すれば、かならず極楽への往生をとげることができるのだ、とお知らせくださったのである――とお受け入れください。
と教えておられます。末世の極悪人に、報土往生を願わせるための善巧方便が、王舎城でのドラマであったということです。韋提希も、更には五逆罪を造った阿闍世も、、阿弥陀仏の18願によって、実際に救われることを身を以て示して下されているのです。
もし、韋提希、阿闍世がいなければ、どうして底下の凡夫が救われることを示すことができたでしょうか。18願には「唯除五逆誹謗正法」とありますので、五逆、謗法の者は18願によっても除かれているとしか解釈のしようがありません。
五逆、謗法の者でも救われることは、韋提希、阿闍世を通してしか知ることができません。『教行信証』信巻を読んだことのある人なら、よく判ることです。
このような阿弥陀仏、釈尊、還相の菩薩方の善巧方便によって、真実信心を明らかにして下されていると、親鸞聖人、蓮如上人は仰っているのです。
ところが『教行信証』も『観無量寿経』も読んだことのない、間の抜けた高森会長・講師部員はこう言うでしょう。
『観無量寿経』には定散二善が勧められていて、それは19願意であるから、これこそが方便19願を通らなければ真実18願に入れないということを教えられた御文だ。
と。そんな愚かな考えを起こす人がいるから、蓮如上人は「釈尊、霊鷲山にましまして、一乗法華の妙典を説かれしとき」と釘を刺しておられるのです。
つまり、聖道門の人にも浄土を願わせる教えが『観無量寿経』であるということです。実際、『観無量寿経』は韋提希のいる牢と霊鷲山(耆闍崛山)とで2回説かれています。
そのときに世尊、足虚空を歩みて耆闍崛山に還りたまふ。そのときに阿難、広く大衆のために、上のごときの事を説く
(現代語訳)
こうして釈尊は大空を歩んで耆闍崛山にお帰りになり、阿難は山上で、そこに集うすべてのもののために、この釈尊の教えを説き聞かせた。
定散二善、19願が、聖道門の人のために説かれていることは、ここでも判ります。それを蓮如上人は、「法華と念仏と同時の教」と表現なされています。くどいほど述べてきましたように、定散二善は聖道門の人、定散諸機のために説かれ、念仏は悪人のために説かれているのです。
しかし、真仮を知らないし、理解する能力もない高森会長以下講師部員も、19願は逆謗の機のために阿弥陀仏が建てられ、定散二善は下々品のために説かれたと死ぬまで言い続けるでしょう。
そうしなければ、お金が集まらないのですから。
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