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2011年2月18日 (金)

布施を勧めて、誰がファーストクラスに乗りたいのか?

釈尊は『阿弥陀経』に諸善について、

少善根福徳の因縁をもつてかの国に生ずることを得べからず。

(現代語訳)

わずかな功徳を積むだけでは、とてもその国に生れることはできない。

と説かれ、念仏については

阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、一心にして乱れざれば、その人、命終のときに臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と現じてその前にましまさん。この人終らんとき、心顛倒せずして、すなはち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得。

(現代語訳)

阿弥陀仏の名号を聞き、その名号を心にとどめ、あるいは一日、あるいは二日、あるいは三日、あるいは四日、あるいは五日、あるいは六日、あるいは七日の間、一心に思いを乱さないなら、その人が命を終えようとするときに、阿弥陀仏が多くの聖者たちとともにその前に現れてくださるのである。
そこでその人がいよいよ命を終えるとき、心が乱れ惑うことなく、ただちに阿弥陀仏の極楽世界に生れることができる。

と教えられています。

これを親鸞聖人は『教行信証』化土巻に『阿弥陀経』の顕説を

経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き

(現代語訳)

釈尊は、念仏以外のどのような善を修めてもわずかな功徳しか積めないとしてこれを退け、善本・徳本の真門を説き示し、自力の一心をおこすようにと励まされ、難思往生を勧めておられる。このようなわけで、『阿弥陀経』には、「念仏は多くの功徳をそなえた行である」と説かれ

とされました。
また真門釈に元照律師の『弥陀経の義疏』を引かれています。

如来、持名の功勝れたることを明かさんと欲す。まづ余善を貶して少善根とす。いはゆる布施・持戒・立寺・造像・礼誦・座禅・懺念・苦行、一切福業、もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経によりて名号を執持せば、決定して往生せん。すなはち知んぬ、称名はこれ多善根・多福徳なりと。
むかしこの解をなしし、人なほ遅疑しき。近く襄陽の石碑の経の本文を得て、理冥符せり。はじめて深信を懐く。かれにいはく、〈善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。称名をもつてのゆゑに、諸罪消滅す。すなはちこれ多功徳・多善根・多福徳因縁なり〉

(現代語訳)

釈尊は、念仏の功徳がすぐれていることを明らかにしようとされ、まず念仏以外の善を劣ったものとしてわずかな功徳しかないといわれる。布施をし、戒律をたもち、あるいは寺を建て、仏像をつくり、仏を礼拝し、経を読み、または座禅をし、懺悔し、苦行するなどのすべての善は、もし正しい信がなかったなら、そのような善によって浄土に往生しようと願っても、みなわずかな功徳しかなく、往生の因ではないのである。もし、『阿弥陀経』の教えにしたがって念仏するなら、間違いなく往生するであろう。だから念仏は多くの功徳があると知ることができる。

かつて、わたしはこのような解釈をしたが、世間の人はなお疑って信じなかった。しかし最近、襄陽の石碑に刻まれた『阿弥陀経』の文を見たところ、わたしの解釈と見事に一致しており、そこではじめて深く信じるようになったのである。その文には次のように説かれている。<善良なものよ、阿弥陀仏について説かれるのを聞いて、心を乱すことなくただひとすじに名号を称えるがよい。名号を称えることにより、あらゆる罪が除かれる。すなわち念仏は多くの功徳をそなえて行である>

布施等の諸善は、「少善根」であり、「往生の因にあらず」と嫌い貶められていますが、念仏は「多功徳・多善根・多福徳因縁」とされています。
親鸞聖人はこれを真門釈に引かれていますので、真門自力念仏について「多功徳・多善根・多福徳因縁」と見做されているのです。

さて高森会長は、雑毒の善の功徳を”ファーストクラス”に喩えたりして、丸一日かけて話をしています。それどころか最近の法話、座談会の9割以上はこの雑毒の善の勧めです。念仏どころか阿弥陀仏の御名前さえ口にしない日も度々あるそうです。

高森会長は、「少善根」の雑毒の善を命懸けでせよと勧めますが、「多功徳・多善根・多福徳因縁」の念仏を軽視こそすれ勧めたことはありません。「少善根」である雑毒の善の功徳で”ファーストクラス”に乗れるのなら、「多功徳・多善根・多福徳因縁」の自力念仏なら”プライベートジェット”でも楽々乗れる筈です。

こんなことをわざわざ説明しなければならないのも情けない話です。
浄土門において布教師が念仏よりも布施を勧めるは、布施をする人のためではなく、布施を勧めている本人のためといっても過言ではないでしょう。

要するに、会員さんを”ファーストクラス”に乗せたいのではなく、自分が”ファーストクラス”に乗りたいのです。

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コメント

>会員さんを”ファーストクラス”に乗せたいのではなく、自分が”ファーストクラス”に乗りたいのです。

そのとおりですね。深くうなづきました。

投稿: ぶるうの | 2011年2月18日 (金) 22時26分

ぶるうの 様

「さよなら親鸞会」を読めば、この結論にしか達しませんね。

投稿: 飛雲 | 2011年2月19日 (土) 06時39分

>浄土門において布教師が念仏よりも布施を勧めるは、布施をする人のためではなく、布施を勧めている本人のためといっても過言ではないでしょう。

これは「チャリンコ秘事」こと、K森さんU田さんにも当てはまりますね。
K森さんのブログには、往生とは何の関係もない供養、供養の話ばかり。
「イダイケ夫人は釈尊に供養していたから、釈尊は真っ先に救いに来られた」…とか、あまつさえ信益同時を否定したりとか、K森さんは教行信証を読んだことが無いようです┐(´д`)┌

投稿: ハルトマン | 2011年2月20日 (日) 18時41分

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