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2011年2月 5日 (土)

八万四千の法門は何のために説かれたのか

高森会長は、親鸞会を作った当初は18願1つを説けばいいと言っていましたが、それでは金集め・人集めができないことに気が付き、早い段階で宿善を求めよという主張をするようになり、途中から19願の強調となっています。

高森会長の著書及び顕正新聞を年代毎に見てみれば、そのことは明らかです。

さて前回のエントリーで書きました『尊号真像銘文』の御文は、後に次のように続きます。

しかれば『大経』には、「如来所以興出於世 欲拯群萌恵以真実之利」と説きたまへり。「如来所以興出於世」は、「如来」と申すは諸仏と申すなり、「所以」といふはゆゑといふみことなり、「興出於世」といふは世に仏出でたまふと申すみことなり。「欲拯群萌」は、「欲」といふはおぼしめすとなり、「拯」はすくはんとなり、「群萌」はよろづの衆生をすくはんとおぼしめすとなり。仏の世に出でたまふゆゑは、弥陀の御ちかひを説きてよろづの衆生をたすけすくはんとおぼしめすとしるべし。

諸仏、釈尊が世に出られた本懐は、18願1つを説かれるためであったことを、『大無量寿経』の御文を引用されて、説明しておられます。

これと全く同じことを『一念多念証文』

しかれば『大経』には、「如来所以 興出於世 欲拯群萌 恵以真実之利」とのたまへり。
この文のこころは、「如来」と申すは諸仏を申すなり。「所以」はゆゑといふことばなり。「興出於世」といふは、仏の世に出でたまふと申すなり。「欲」はおぼしめすと申すなり。「拯」はすくふといふ。
「群萌」はよろづの衆生といふ。「恵」はめぐむと申す。「真実之利」と申すは、弥陀の誓願を申すなり。
しかれば諸仏の世々に出でたまふゆゑは、弥陀の願力を説きて、よろづの衆生を恵み拯はんと欲しめすを、本懐とせんとしたまふがゆゑに、真実之利とは申すなり。
しかればこれを諸仏出世の直説と申すなり。

と仰っています。
このように、諸仏、釈尊が18願1つを説かれることを本懐と説明すると、

18願以外の教え、善を勧められた教えは必要ないというのか

と、聖道門の学僧達は猛反発してきました。

『選択本願念仏集』には簡潔に

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
(中略)
ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

と仰っていますので、成仏のために善の実践を説く聖道門の学僧達が激昂するのも当然なことです。
従って、親鸞会も聖道門と全く同じ発想です。この法然上人のお言葉は、法然上人の教えを聞いていた人に対して仰ったものであり、そのことは『選択本願念仏集』の最後

庶幾はくは一たび高覧を経て後に、壁の底に埋みて、窓の前に遺すことなかれ。
おそらくは破法の人をして、悪道に堕せしめざらんがためなり。

のお言葉でも判ります。聖道門から非難される内容であるから、法然上人の教えを信じている人だけが読むように、他の人には読ませてはならない、という御配慮です。

しかし、『選択本願念仏集』は世に出されてしまい、聖道門からは激しい攻撃がありました。
これに対して、親鸞聖人は聖道門の学僧向けに、18願以外の教え、善の勧めの教えについて仰ったのが、先程の『一念多念証文』のお言葉に続く以下の

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

です。親鸞会では、これを親鸞聖人が善を勧められた根拠として声高に叫んでいますが、前の御文、他の根拠と併せれば、18願で救われるために善を勧められた根拠でないことは、読解力があれば簡単に判る筈です。

八万四千の法門」は、浄土門に誘引するための方便だということです。聖道門の人は18願を信じる気持ちはありませんから、聖道門の人にも18願を信じて願わせるために説かれたのが「八万四千の法門」であり、「浄土の方便の善」「要門・仮門」と仰っているのです。

これまでに何度も説明してきました。

「浄土の方便の善」=「欣慕浄土の善根」
「浄土の方便の善」≠「善の実行」
門八万四千に余れり
[mixi]三願転入議論の解説3

相手に応じて、説く内容を変えることを対機説法といいます。蓮如上人は衆生を大きく2つに分けられて

ひとを勧化せんに宿善・無宿善のふたつを分別して勧化をいたすべし。

と度々仰っています。18願を願う人を宿善の機、18願を信じる気持ちのない人を無宿善の機として、宿善の機と無宿善の機とでは、話をする内容を変えなければなりません。

以上のことを簡単にまとめると、

諸仏、釈尊は18願1つを説かれることが世に出られた目的であった。

では八万四千の法門と呼ばれる善の勧めは無駄なことであったのか、という反論があるので、

それを法然上人は18願を信じて願っている人(宿善の機)に対して、念仏が諸善に対して超過していることを示し、諸善を廃して念仏を立てさせんがために、諸善を説かれたと仰った。

しかし、18願の教えを信じようという気のない聖道門の人達(無宿善の機)からは、猛反発があり、念仏弾圧にまで発展したので、親鸞聖人がそれらの人(無宿善の機)に対して、八万四千にも及ぶ善の勧めは、浄土門に誘引するためのものである、と『教行信証』『一念多念証文』で仰った。

ということです。
18願での往生を願っている人ならば、法然上人の仰る通りに、往生のための善、獲信のための善を捨てなければなりません。
18願での往生など信じられない、善をせずして往生などできる筈がない、という無宿善の機を自覚する人は、自分の信じている教えは浄土真宗や親鸞聖人と関係ないと宣言しましょう。

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