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2011年2月

2011年2月26日 (土)

善巧方便がまだ判らない人のための補足説明

『教行信証』を読んだことのある人なら判りますが、『涅槃経』で説かれている阿闍世のことが信巻に長々と引かれています。それは、『教行信証』全体の1割も使っています。
親鸞聖人がそこまでして伝えられたかったことは、五逆罪を造ったものでも救われることを経典上で証明されるためでした。

『涅槃経』を引かれた後、親鸞聖人は信巻

それ諸大乗によるに、難化の機を説けり。いま『大経』には「唯除五逆誹謗正法」といひ、あるいは「唯除造無間悪業誹謗正法及諸聖人」(如来会・上)とのたまへり。『観経』には五逆の往生を明かして謗法を説かず。『涅槃経』には難治の機と病とを説けり。これらの真教、いかんが思量せんや。

(現代語訳)

さて、さまざまな大乗の教典によると、救われがたい人々について説かれている。いま『無量寿経』には、「ただし、五逆の罪を犯したり、正しい法を謗るものだけは除かれる」と説かれ、『如来会』には、「ただし、無間地獄に堕ちるような悪い行いの罪をつくったり、正しい法および聖者たちを謗るものだけは除かれる」と説かれている。また『観無量寿経』には、五逆のものの往生は説かれているが、謗法のものについては説かれていない。『涅槃経』には、治しがたい病の人々とその病とが説かれている。これらの仏の教えについて、どのように考えたらよいであろうか。

と自問しておられます。前回書きましたように、18願だけでは五逆、謗法のものは救われないという解釈になってしまいます。しかし、『観無量寿経』には五逆のものの救いが説かれていますので、五逆のものでも救われることが判ります。更には『涅槃経』によって実際に父殺しの五逆罪を犯した阿闍世が、実際に救われることが説かれています。
逆に言えば、『観無量寿経』と『涅槃経』によらなければ、五逆のものの救われることを経典上では証明できないのです。
それで、王舎城の物語は、還相の菩薩方が演じられたドラマであると親鸞聖人は考えられたのです。これを、真実の判らない我らに真実を知らせるための善巧方便、と親鸞聖人は仰っているのです。

親鸞聖人はこの結論として『尊号真像銘文』

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

と仰っていることは何度も述べてきました。

以上より、高森会長が何かの1つ覚えで繰り返し言い続けている

方便よりしか真実に入れず
方便を通らずして真実に入れない

が、如何に惚けた話であるか、お判り頂けると思います。
真実と善巧方便との関係は、善巧方便が真実への道程ということではなく、真実とその救いを理解する智慧のない我らに、真実とその救いとはどういうことかを認識できる形にして下されたものを善巧方便というのです。

たとえば、方便法身とは、色も形もない法性法身を我らでも認識できる形となって現われてくだされたものであって、真実への道程ではありません。

以前に紹介した龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』にある

問ひていはく、
(中略)
このゆゑに、もし諸仏の所説に、易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得る方便あらば、願はくはためにこれを説きたまへと。

答へていはく、
(中略)
もし易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得るありやといふは、これすなはち怯弱下劣の言なり。これ大人志幹の説にあらず。なんぢ、もしかならずこの方便を聞かんと欲せば、いままさにこれを説くべし。

仏法に無量の門あり。世間の道に難あり易あり。陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便易行をもつて疾く阿惟越致に至るものあり。

の「方便」「信方便易行」は、後の御文を読めば判りますが、18願他力念仏のことをさしています。当たり前のことですが、19願自力修善のことではありません。

蓮如上人のお言葉でいえば、『御文章』5帖目第8通

それ、五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただわれら一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願をたてましまして、「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」と誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします。

あるのもそうです。ここにある「方便」を真実への道程と考えると、意味が全く通じなくなります。阿弥陀仏の御苦労が「方便」なのですから、我ら凡夫のする行為とは無関係です。
まあ、「五劫思惟の本願」を19願と解釈するお馬鹿な人もいますが、この後の

「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」

を読めば、「五劫思惟の本願」とは18願のことであるのは、中学生でも判る国語の問題です。

ところが、ここまで判りやすく教えられても、反発する人がある訳です。聖道門の人たちのように、善にこだわる人は、善巧方便もすぐに受け入れられないので、善巧方便とは別の方便が必要になります。それが権仮方便です。

『教行信証』化土巻

これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。

『浄土和讃』大経讃

念仏成仏これ真宗
 万行諸善これ仮門
 権実真仮をわかずして
 自然の浄土をえぞしらぬ

聖道権仮の方便に
 衆生ひさしくとどまりて
 諸有に流転の身とぞなる
 悲願の一乗帰命せよ

です。聖道門と19願を権仮方便、と親鸞聖人は仰っています。

善巧方便によりて真実信心を獲ると教えられているのに、それを権仮方便によりて真実信心を獲るという教えが、どれほど馬鹿な話か、賢明な読者の皆さんならお判りでしょう。

こんな基本的な知識さえ欠落しているのが、無二の善知識の実態です。

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2011年2月25日 (金)

王舎城の悲劇が善巧方便

真実も方便も、何も判っていない高森会長、講師部員、幹部会員のために、親鸞聖人が善巧方便と仰っているのは、どんなことかについて述べておきます。

『浄土和讃』観経讃

弥陀・釈迦方便して
 阿難・目連・富楼那・韋提
 達多・闍王・頻婆娑羅
 耆婆・月光・行雨等

(現代語訳)

『観経』は、 阿弥陀如来と釈迦如来が私たちを救う手だてとして説かれた教典である。 如来のすくいの手だて、 方便として浄土から現れてくださった方々は、 阿難尊者、 目連尊者、 富楼那尊者、 韋提希夫人、 提婆達多、 阿闍世王、 頻婆娑羅王、 耆婆大臣、 月光大臣、 行雨大臣等である。

大聖おのおのもろともに
 凡愚底下のつみひとを
 逆悪もらさぬ誓願に
 方便引入せしめけり

(現代語訳)

韋提希夫人や阿闍世王のほか、 阿難や月光、 行雨等、 王舎城の悲劇に関係した人びとは、本来、 皆浄土の大聖者であった。 その聖者方がおのおの善人となり悪人となり、 王となり妃となり、 一緒になって愚かな凡夫、 生死の大海の底に沈んでいる罪人を、 十悪、 五逆の罪人ももらさず第十八願に導き入れてくださった。

とあるのが、善巧方便の具体例です。
このことは『教行信証』総序にも

しかればすなはち浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまへり。これすなはち権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、まさしく逆謗闡提を恵まんと欲す。

(現代語訳)

ここに、浄土の教えを説き明かす機縁が熟し、提婆達多が阿闍世をそそのかして頻婆娑羅王を害させたのである。そして、浄土往生の行を修める正機が明らかになり、釈尊が韋提希をお導きになって阿弥陀仏の浄土を願わせたのである。これは菩薩がたが仮のすがたをとって、苦しみ悩むすべての人々を救おうとされたのであり、また如来が慈悲の心から、五逆の罪を犯すものや仏の教えを謗るものや一闡提のものを救おうとお思いになったのである。

とあります。王舎城の登場人物は、還相の菩薩方であり、これらの方々が演じられたドラマが善巧方便、と親鸞聖人は仰っているのです。

同じことを蓮如上人は『御文章』4帖目第3通

これによりて、むかし釈尊、霊鷲山にましまして、一乗法華の妙典を説かれしとき、提婆・阿闍世の逆害をおこし、釈迦、韋提をして安養をねがはしめたまひしによりて、かたじけなくも霊山法華の会座を没して王宮に降臨して、韋提希夫人のために浄土の教をひろめましまししによりて、弥陀の本願このときにあたりてさかんなり。
このゆゑに法華と念仏と同時の教といへることは、このいはれなり。これすなはち末代の五逆・女人に安養の往生をねがはしめんがための方便に、釈迦、韋提・調達・闍世の五逆をつくりて、かかる機なれども、不思議の本願に帰すれば、かならず安養の往生をとぐるものなりとしらせたまへりとしるべし。

(現代語訳 浅井成海監修『蓮如の手紙』より)

 さて、昔、お釈迦さまが霊鷲山にいらっしゃって、一乗の教えと讃えられる『法華経』をお説きになっていたときに、提婆が阿闍世をそそのかして、親殺しの罪を犯させるという事件が起こりました。
 そこでお釈迦さまは、もったいなくも、霊鷲山での『法華経』の説法の座を立たれて、王宮へおいでになり、韋提希夫人が極楽を願うようにされました。こうして、お釈迦さまが韋提希夫人のために浄土の教えをひろめられたので、阿弥陀さまの本願が今の時代に盛んとなったわけです。そして、このために、『法華経』と『観無量寿経』のお念仏とは同じときに説かれた教えであるといわれています。
 これはとりもなおさず、末世の五逆の悪人と女性に、極楽への往生を願わせるための手だてとして、釈迦、韋提・提婆・阿闍世が力を合わせて、五逆の罪を犯すというドラマを作りあげたものと考えられます。そして、このような罪の深い者であっても、人知では思いはかることのできぬ阿弥陀如来の本願に帰依すれば、かならず極楽への往生をとげることができるのだ、とお知らせくださったのである――とお受け入れください。

と教えておられます。末世の極悪人に、報土往生を願わせるための善巧方便が、王舎城でのドラマであったということです。韋提希も、更には五逆罪を造った阿闍世も、、阿弥陀仏の18願によって、実際に救われることを身を以て示して下されているのです。

もし、韋提希、阿闍世がいなければ、どうして底下の凡夫が救われることを示すことができたでしょうか。18願には「唯除五逆誹謗正法」とありますので、五逆、謗法の者は18願によっても除かれているとしか解釈のしようがありません。
五逆、謗法の者でも救われることは、韋提希、阿闍世を通してしか知ることができません。『教行信証』信巻を読んだことのある人なら、よく判ることです。

このような阿弥陀仏、釈尊、還相の菩薩方の善巧方便によって、真実信心を明らかにして下されていると、親鸞聖人、蓮如上人は仰っているのです。

ところが『教行信証』も『観無量寿経』も読んだことのない、間の抜けた高森会長・講師部員はこう言うでしょう。

『観無量寿経』には定散二善が勧められていて、それは19願意であるから、これこそが方便19願を通らなければ真実18願に入れないということを教えられた御文だ。

と。そんな愚かな考えを起こす人がいるから、蓮如上人は「釈尊、霊鷲山にましまして、一乗法華の妙典を説かれしとき」と釘を刺しておられるのです。
つまり、聖道門の人にも浄土を願わせる教えが『観無量寿経』であるということです。実際、『観無量寿経』は韋提希のいる牢と霊鷲山(耆闍崛山)とで2回説かれています。

『観無量寿経』

そのときに世尊、足虚空を歩みて耆闍崛山に還りたまふ。そのときに阿難、広く大衆のために、上のごときの事を説く

(現代語訳)

こうして釈尊は大空を歩んで耆闍崛山にお帰りになり、阿難は山上で、そこに集うすべてのもののために、この釈尊の教えを説き聞かせた。

定散二善、19願が、聖道門の人のために説かれていることは、ここでも判ります。それを蓮如上人は、「法華と念仏と同時の教」と表現なされています。くどいほど述べてきましたように、定散二善は聖道門の人、定散諸機のために説かれ、念仏は悪人のために説かれているのです。

しかし、真仮を知らないし、理解する能力もない高森会長以下講師部員も、19願は逆謗の機のために阿弥陀仏が建てられ、定散二善は下々品のために説かれたと死ぬまで言い続けるでしょう。

そうしなければ、お金が集まらないのですから。

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2011年2月22日 (火)

「方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし」の曲解

先日の2000畳座談会についての情報を頂きました。内容は方便についてでしたが、これまでと同じことの繰り返しで、全く進歩の無い内容だったそうです。ファーストクラスに替るおもしろい話を考え出してくれるかと期待していましたが、肩透かしをくらいました。

「安心問答」
「弥陀の善巧方便とは何か、釈迦の善巧方便とは何か、何が真実か、何が方便か全く知らない」のは誰か?(2月20日2000畳座談会の内容より)

でも、すでに取り上げられています。
根拠もいつも通りで、新しいものはありませんでした。従って、これまでに当ブログで取り上げてきたことを読まれれば、高森会長の詭弁など、容易に見破ることができます。

真仮の水際を説けない高森会長

真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり

会員との問答(方便について)

高森会長も、当ブログを読んでいますので、自分の間違いに気が付いている筈ですが、新たな詭弁を考え出す能力もありませんので、これまで同様、方便の意味を敢て誤魔化すしかできませんでした。

その顕著な例が、『御一代記聞書』

方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふ

です。この「方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし」をアシスタントが説明しているところを遮って

方便からしか真実に入れない

と、高森会長は解説していたのです。正しく訳されては困るから、とんでもない歪曲を会員に押しつけている汚さです。

この部分はもちろん権仮方便のことであり、権仮方便は廃すべきもの、ということを仰った蓮如上人の御心を隠して、

19願を通らなければ18願には入れない

としていました。
これは法然上人が、『選択本願念仏集』の中で

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
(中略)
ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

と仰ったことと同じことを蓮如上人が教えられただけです。方便19願修善は真実18願他力念仏を明らかにするためのものであり、真実18願を願っている人には方便19願は廃すべきものでしかないのです。
ところが、これと「弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし」を組み合わせて、方便からしか真実に入れないとしているのです。
廃することのない善巧方便と廃すべき権仮方便との区別が高森会長自身もできていないでしょうし、そんな理解で話をするから訳が判らないのです。

高森会長は、

真実が判らないから方便も判らないのだ。救われていないから判らないことだ。

と強調していましたが、それは高森会長自身のことです。自己の未信を告白してどうするのでしょうか?

また、高森会長は、

19願は聖道門の人のために建てられた願という真宗の学者が多い。18願だけ聞いておれば助かるのだと言うものが今でも一杯いる。親鸞聖人のおられた当時もそうであったから、阿弥陀仏の本願には真実と方便の願があるのだと、親鸞聖人が明らかにされた。

と会員を欺くことに必死になっていました。
これまで何度も何度も述べて来たことですが、親鸞聖人が『教行信証』真仏土巻の最後

真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す

と仰ったのは、聖道門から法然上人に対して、19願を軽視するとは何事だ、との激しい非難があったからです。聖道門では18願も尊重しながら、19願が最も勝れた願と考えていましたので、親鸞聖人が、18願は真実の願、19願は方便の願と仰ったのです。
その歴史的事実も教えて差し上げて、高森会長は知っているのに、このような大嘘を平気でつける人物なのです。

今後も高森会長は、同じことを言い続ける以外に能がないでしょうから、こちらも同じことを言うだけです。
ただ、過去に何度も述べて来たことをここで繰り返すのも、皆さんに失礼かと思いますので、

「親鸞会の邪義を正す」

の方に、当ブログで過去に書いたものを今後も掲載してもらいます。その点を御了承下さい。

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2011年2月21日 (月)

親鸞聖人、蓮如上人当時と比較してみました

鬼頭宏著『人口から読む日本の歴史』によれば、平安時代末期の日本の人口は684万人となっています。その内、北関東・南関東を併せた人口は、160万人です。
親鸞聖人が関東で布教されていた時には、この160万人の中で、数万人もの人が親鸞聖人の教えを信じていたと言われています。交通手段も情報手段も限られていた当時においては、実に驚異的な数値です。単純に人口の比率だけで言っても、親鸞会の会員数など吹き飛んでしまいます。正本堂をたとえ参詣者で一杯にしたところで、親鸞聖人とは全く比較になりません。

さて、親鸞聖人は関東の数万もの人に対して往生・獲信のために善を勧められてはいません。残されている御手紙を見れば明らかです。19願ももちろん勧められていません。

高森会長のヘンテコ理論を適応するならば、関東の数万もの人は皆、雑行が問題になっていたので、善や19願を勧める必要が無かったということになります。また、親鸞聖人が後の人のために書き残して下された御著書にも、善や19願を勧められた所はありません。親鸞聖人の御著書を読む後の人も、雑行が問題になっている前提で書かれていることになります。

蓮如上人も、たくさんの御手紙を書かれていますが、当時その御手紙を読むであろう数万、数十万もの人は、雑行が問題になっていると見做されたから、善や19願を勧められる必要がなかったことになります。なお、蓮如上人のおられた当時の日本の人口は、800万人程と推測されます。

一方で、数千人の親鸞会会員は、雑行が問題になっている人がいないので、善や19願を勧める必要があるのだそうです。会員だけではなく、親鸞聖人の教えを信じている何百万、何千万の人の誰も、雑行が問題になっていないから、善や19願を勧めなければならないと親鸞会はいっています。

これで筋が通っていると思うのは、頭が尋常ではないでしょう。

これは雑行に限ったことではありません。他のことでも、親鸞聖人、蓮如上人が御著書や御手紙で仰っていないことを、記録に残されていないだけで当時教えられていた、とする秘密の法門、文底秘沈思考の愚かさが、なぜ判らないのでしょうか?

『唯信鈔文意』と『一念多念証文』の最後には以下のことを仰っています。

ゐなかのひとびとの文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりなきゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをとりかへしとりかへし書きつけたり。こころあらんひとは、をかしくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれども、ひとのそしりをかへりみず、ひとすぢに愚かなるひとびとを、こころえやすからんとてしるせるなり。

(現代語訳)

都から遠く離れたところに住む人々は、仏教の言葉の意味もわからず、教えについてもまったく無知なのである。だから、そのような人々にもやさしく理解してもらおうと思い、同じことを何度も繰り返し繰り返し書きつけたのである。ものの道理をわきまえている人は、おかしく思うだろうし、あざけり笑うこともあるだろう。しかし、そのように世間の人からそしられることも気にかけず、ただひたすら教えについて無知な人々に理解しやすいようにと思って、書き記したのである。

文字の読めないような人にも判るように、誤解のないようにと心を配られて、多くの御著書、御手紙を書かれているのです。
現代の日本人はどうでしょうか。当時とは桁違いの教育をうけています。

このことからも親鸞聖人、蓮如上人の御心を正しく理解できるのは自分だけだ、というのは、カルト指導者に共通の言い方です。高森会長以外にも、もしそのように主張する人があれば同類です。

親鸞聖人、蓮如上人は、大多数の人が誤解するような表現で敢て書き残されて、何百年に一人の偉大な指導者しか御文の底にある謎を解き明かすことができないようにされていた、と本気で考えているとすれば、それこそ親鸞聖人、蓮如上人に対して

善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。

でしょう。

人口のついでに言えば、古来より「獲信者は国に一人、郡に一人」といわれていますが、『人口から読む日本の歴史』では関ヶ原の合戦時で1,227万の人口となっていますので、現代なら「獲信者は市に一人、町に一人」と言ってもよいかもしれません。

獲信者がそんなにいるのはおかしい、と親鸞会は他の団体を非難していますが、親鸞会のその頭がおかしいのです。

大体、”無二の善知識”から直接御教導を頂きながら、今生の30年で19願の入り口にも立っていないのならば、無間地獄を経て遠い先に次に人間に生れて30年求めても、ようやく19願の入り口の手前くらいで終わるでしょう。また無間地獄を経て遠い先に再び人間に生れてきて30年求めても、19願の入り口くらいでしょう。こんなことを何回繰り返せば、18願まで辿りつけるのでしょうか。今生で18願に入れないのならば、次の生、次の次の生、次の次の次の生でも同じになることに、なぜ気が付かないのでしょうか?

高森会長のいう平生業成とは、全くの有名無実です。

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2011年2月18日 (金)

布施を勧めて、誰がファーストクラスに乗りたいのか?

釈尊は『阿弥陀経』に諸善について、

少善根福徳の因縁をもつてかの国に生ずることを得べからず。

(現代語訳)

わずかな功徳を積むだけでは、とてもその国に生れることはできない。

と説かれ、念仏については

阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、一心にして乱れざれば、その人、命終のときに臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と現じてその前にましまさん。この人終らんとき、心顛倒せずして、すなはち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得。

(現代語訳)

阿弥陀仏の名号を聞き、その名号を心にとどめ、あるいは一日、あるいは二日、あるいは三日、あるいは四日、あるいは五日、あるいは六日、あるいは七日の間、一心に思いを乱さないなら、その人が命を終えようとするときに、阿弥陀仏が多くの聖者たちとともにその前に現れてくださるのである。
そこでその人がいよいよ命を終えるとき、心が乱れ惑うことなく、ただちに阿弥陀仏の極楽世界に生れることができる。

と教えられています。

これを親鸞聖人は『教行信証』化土巻に『阿弥陀経』の顕説を

経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き

(現代語訳)

釈尊は、念仏以外のどのような善を修めてもわずかな功徳しか積めないとしてこれを退け、善本・徳本の真門を説き示し、自力の一心をおこすようにと励まされ、難思往生を勧めておられる。このようなわけで、『阿弥陀経』には、「念仏は多くの功徳をそなえた行である」と説かれ

とされました。
また真門釈に元照律師の『弥陀経の義疏』を引かれています。

如来、持名の功勝れたることを明かさんと欲す。まづ余善を貶して少善根とす。いはゆる布施・持戒・立寺・造像・礼誦・座禅・懺念・苦行、一切福業、もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経によりて名号を執持せば、決定して往生せん。すなはち知んぬ、称名はこれ多善根・多福徳なりと。
むかしこの解をなしし、人なほ遅疑しき。近く襄陽の石碑の経の本文を得て、理冥符せり。はじめて深信を懐く。かれにいはく、〈善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。称名をもつてのゆゑに、諸罪消滅す。すなはちこれ多功徳・多善根・多福徳因縁なり〉

(現代語訳)

釈尊は、念仏の功徳がすぐれていることを明らかにしようとされ、まず念仏以外の善を劣ったものとしてわずかな功徳しかないといわれる。布施をし、戒律をたもち、あるいは寺を建て、仏像をつくり、仏を礼拝し、経を読み、または座禅をし、懺悔し、苦行するなどのすべての善は、もし正しい信がなかったなら、そのような善によって浄土に往生しようと願っても、みなわずかな功徳しかなく、往生の因ではないのである。もし、『阿弥陀経』の教えにしたがって念仏するなら、間違いなく往生するであろう。だから念仏は多くの功徳があると知ることができる。

かつて、わたしはこのような解釈をしたが、世間の人はなお疑って信じなかった。しかし最近、襄陽の石碑に刻まれた『阿弥陀経』の文を見たところ、わたしの解釈と見事に一致しており、そこではじめて深く信じるようになったのである。その文には次のように説かれている。<善良なものよ、阿弥陀仏について説かれるのを聞いて、心を乱すことなくただひとすじに名号を称えるがよい。名号を称えることにより、あらゆる罪が除かれる。すなわち念仏は多くの功徳をそなえて行である>

布施等の諸善は、「少善根」であり、「往生の因にあらず」と嫌い貶められていますが、念仏は「多功徳・多善根・多福徳因縁」とされています。
親鸞聖人はこれを真門釈に引かれていますので、真門自力念仏について「多功徳・多善根・多福徳因縁」と見做されているのです。

さて高森会長は、雑毒の善の功徳を”ファーストクラス”に喩えたりして、丸一日かけて話をしています。それどころか最近の法話、座談会の9割以上はこの雑毒の善の勧めです。念仏どころか阿弥陀仏の御名前さえ口にしない日も度々あるそうです。

高森会長は、「少善根」の雑毒の善を命懸けでせよと勧めますが、「多功徳・多善根・多福徳因縁」の念仏を軽視こそすれ勧めたことはありません。「少善根」である雑毒の善の功徳で”ファーストクラス”に乗れるのなら、「多功徳・多善根・多福徳因縁」の自力念仏なら”プライベートジェット”でも楽々乗れる筈です。

こんなことをわざわざ説明しなければならないのも情けない話です。
浄土門において布教師が念仏よりも布施を勧めるは、布施をする人のためではなく、布施を勧めている本人のためといっても過言ではないでしょう。

要するに、会員さんを”ファーストクラス”に乗せたいのではなく、自分が”ファーストクラス”に乗りたいのです。

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2011年2月16日 (水)

布施の功徳

宿善だの、19願で誓われているだの、釈尊が布施の功徳を説かれているだの、と言いくるめられて、親鸞会にお金を出していることにどんな意味があるのか、会員さんは真面目に考えてみたことがあるでしょうか?

布施を正しい相手に、正しく行えばそれなりの功徳はあるでしょう。しかし、それが報土往生とは関係がないと法然上人がはっきり仰ったがために、聖道門から猛反発があったのです。そして、法然上人の仰ったことの正しさを証明されたのが親鸞聖人です。
この歴史的な事実を知るだけでも、布施と報土往生とを関連付けて教えることが、法然上人、親鸞聖人の教えに真っ向から歯向かっていると御判り頂けると思います。

このことを最も端的に教えられたのが、こんにちは氏が引用されていた『選択本願念仏集』の以下の部分です。

また『往生要集』に、「問ひていはく、一切の善業おのおの利益あり、おのおの往生を得。なんがゆゑぞただ念仏一門を勧むるや。
答へていはく、いま念仏を勧むることは、これ余の種々の妙行を遮せんとにはあらず。ただこれ男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず、これを修するに難からず、乃至、臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏にしかざればなり」と。
ゆゑに知りぬ、念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。

しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。
もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。
まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。
ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。ゆゑに法照禅師の『五会法事讃』にいはく、
「かの仏の因中に弘誓を立てたまへり。名を聞きてわれを念ぜばすべて迎へに来らん。
貧窮と富貴とを簡ばず、下智と高才とを簡ばず、
多聞にして浄戒を持つを簡ばず、破戒にして罪根の深きをも簡ばず。
ただ心を回して多く念仏せば、よく瓦礫をして変じて金となさしめん」と。

(現代語訳)

また《往生要集》に、

問うていう。すべての善業にはそれぞれ利益があり、いずれも往生することができるのに、どういうわけで、ただ念仏の一門だけを勧めるのか。
答えていう。いま念仏を勧めることは、その他の種々のすぐれた行をさえぎるのではない。ただ男でも女でも、身分の高いものでも低いものでも、行住座臥の区別なく、時・処やいろいろの場合を論ぜず、これを修めるのにむずかしくなく、そして臨終までも往生を願い求めるのに、その便宜を得ることは、念仏に及ぶものはないからである。

といわれている。故に知られる。念仏は易いからすべての根機に通じ、諸行は難しいからいろいろの根機に通じないのである。そういうわけであるから、すべての衆生を平等に往生させるために、難しいのを捨て、易いのを取って本願とせられたのであろう。

もし、仏像を造り塔を建てることをもって本願とせられたならば、貧しく乏しい人たちはきっと往生の望みを絶つであろう。ところが富貴の者は少なく、貧賎の者は甚だ多い。もし、智慧才能のあることをもって本願とせられたならば、愚かで智慧のない者はきっと往生の望みを絶つであろう。ところが智慧ある者は少なく、愚かな者は甚だ多い。もし、多聞をもって本願とせられたならば、少聞少見の人たちはきっと往生の望みを絶つであろう。ところが多聞多見の者は少なく、少聞の者は甚だ多い。もし、戒律を持たもつことをもって本願とせられたならば、戒を破り戒を受けない人はきっと往生の望みを絶つであろう。ところが戒を持つ者は少なく、戒を破る者は甚だ多い。そのほかの諸行はこれに準じて知るべきである。故に、上に述べた諸行などをもって本願とせられたならば、往生できる者は少なく、往生できない者は多いであろうということが知られる。そういうわけであるから、弥陀如来は法蔵比丘の昔に平等の慈悲に催されて、あまねくすべての衆生を摂めるために、仏像を造り塔を建てるなどの諸行をもって往生の本願とせられず、ただ称名念仏の一行をもってその本願とせられたのである。故に法照禅師の《五会法事讃》にいわれてある。

かの仏は因位のとき弘い誓いを立てられた 「名を聞いて我を念ずる者をすべて迎えとろう」と
貧富や汽船をえらぶことなく 知識や才能の高下をえらばず
博学多聞の者も浄らかに戒をたもつ者も 戒を破った者も罪深い者もえらばず
ただ信を得てよく念仏すれば 瓦や小石のようなものも黄金とするのである

この法然上人の御言葉を聖覚法印は『唯信鈔』で簡潔にまとめて教えられています。

これによりて往生極楽の別因を定めんとするに、一切の行みなたやすからず。孝養父母をとらんとすれば、不孝のものは生るべからず。読誦大乗をもちゐんとすれば、文句をしらざるものはのぞみがたし。
布施・持戒を因と定めんとすれば、慳貪・破戒のともがらはもれなんとす。忍辱・精進を業とせんとすれば、瞋恚・懈怠のたぐひはすてられぬべし。余の一切の行、みなまたかくのごとし。
これによりて一切の善悪の凡夫ひとしく生れ、ともにねがはしめんがために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなへんを往生極楽の別因とせんと、五劫のあひだふかくこのことを思惟しをはりて、
(中略)
さてつぎに、第十八に念仏往生の願をおこして、十念のものをもみちびかんとのたまへり。まことにつらつらこれをおもふに、この願はなはだ弘深なり。名号はわづかに三字なれば、盤特がともがらなりともたもちやすく、これをとなふるに、行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらはず、在家出家、若男若女、老少、善悪の人をもわかず、なに人かこれにもれん。

「彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来
 不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才
 不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深
 但使回心多念仏 能令瓦礫変成金」(五会法事讃)
このこころか。これを念仏往生とす。

もちろん親鸞聖人も『唯信鈔文意』で、『五会法事讃』を通して同じことを教えられています。
布施のできる人しか救われないのであれば、布施のできない人は救いから洩れます。従って、全ての人を洩れなく救うためには、誰でもできる易行でなけれならないのです。それが念仏です。

報土往生と布施とは関係がないことを踏まえた上で、ダムを造ったり巨大な弁当屋を造ることが、万が一多くの人の幸せに貢献するのであれば、その建設資金を喜捨するのもよいでしょう。仮に、高森会長が正しい教えを説いているとして会長個人の施設建設の資金を喜捨したいというのであれば、したい人はすればいいでしょう。

しかし、ダムも弁当屋も多くの人を幸せにするとは考えにくく、ましてや会員に秘密で高森会長専用の施設を造り続けながら集められる行為が正しい布施にはなる筈もありません。しかも往生・獲信と関連付けて強要されていますので、もっての外のことです。

会員さんが出された浄財は、往生・獲信の妨げにしかならず、”相対の幸福”を獲るための功徳にさえなりませんので、会員さんは今生、来生ともに苦しみの中でもがき続けなければならないのです。

悲劇としか言い様がありません。

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2011年2月14日 (月)

平等な慈悲と不平等な救い?

高森会長は、宿善の薄い者は宿善を厚くしないと救われないと繰り返し教えます。これに似た内容のことをいう人があると、コメント欄で質問を頂きました。
仏は御恩のある人を優先して救うから不平等だというのは、それこそ親鸞会の宿善論そのものであり、明らかな間違いです。以前にも述べましたが、聖道門と19願は善人正機ですが、18願は悪人正機です。御恩のある人を先に救うというのは、もちろん善人正機です。
コメント欄を読まれればお判りになると思いますが、論争はすでに決着しています。
私の方で、少し補足しておきます。

一子地」という言葉があります。

『往生要集』には

慈眼をもつて衆生を視そなはすこと、平等にして一子のごとし。
ゆゑにわれ、極大慈悲母を帰命し礼したてまつる。

(現代語訳)

仏は慈悲の眼で衆生を平等に、またただ一人の子供のようにご覧になる。
だからわたしは、広く大いなる慈悲の心を持つ母である阿弥陀仏を信じ礼拝したてまつる。

これは『教行信証』行巻にも引かれています。

また『教行信証』信巻に『涅槃経』を引かれて

仏性は一子地と名づく。なにをもつてのゆゑに、一子地の因縁をもつてのゆゑに、菩薩はすなはち一切衆生において平等心を得たり。一切衆生は、つひにさだめてまさに一子地を得べきがゆゑに、このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。一子地はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ如来なり

(現代語訳)

また、仏性を一子地というのである。なぜかというと、菩薩は、その一子地の位にいたるから、すべての衆生をわけへだてなく平等にながめることができるのである。すべての衆生は、ついには必ずその位を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。この一子地は仏性であり、仏性はそのまま如来である

と親鸞聖人も教えられています。
これと同じことを『浄土和讃』では

平等心をうるときを
 一子地となづけたり
 一子地は仏性なり
 安養にいたりてさとるべし

(現代語訳)

煩悩の火が消えて、 一切のとらわれがなくなり、 自他、 善悪、 その他すべてを平等に見る 「平等心」 を得るとき、 直ちに如来の大悲心が起こる。
その大悲心は、 迷いの世界の一切の衆生を一人子のように愛する心なので、 『涅槃経』では 「一子地」 と名づけられた。
一子地は、 仏としての性質であるから 「仏性」 ともいわれる。
一子地といわれる仏の慈悲心は、 安養の浄土に往生して身に得ることができるのである。

と仰っています。
一子地」の左訓には

三界の衆生をわがひとり子とおもふことを得るを一子地といふなり

とあり、教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』の註には

すべての衆生を平等にわがひとり子のように憐れむ心をおこす位で、一般には初地(歓喜地)の菩薩の境地。
親鸞聖人は、怨親を平等にみそなわす仏心のこととされている。

とあります。
凡夫の我らは、不平等の慈悲ですが、仏の慈悲は平等なのです。仏を供養した人、財施をした人を優先するとかいう考えは、凡夫の浅智からくるものです。

仏の平等の慈悲を親の愛情に譬えて判り易く教えられているのが、『教行信証』信巻に引かれた『涅槃経』にあります。

たとへば一人にして七子あらん。この七子のなかに一子病に遇へば、父母の心平等ならざるにあらざれども、しかるに病子において心すなはちひとへに重きがごとし。大王、如来もまたしかなり。もろもろの衆生において平等ならざるにあらざれども、しかるに罪者において心すなはちひとへに重し。放逸のものにおいて仏すなはち慈念したまふ。不放逸のものは心すなはち放捨す。なんらをか名づけて不放逸のものとすると。いはく、六住の菩薩なりと。大王、諸仏世尊、もろもろの衆生において、種姓・老少・中年・貧富・時節・日月星宿・工巧・下賤・僮僕・婢使を観そなはさず、ただ衆生の善心あるものを観そなはす。もし善心あればすなはち慈念したまふ。

(現代語訳)

たとえばあるものに七人の子がいたとしましょう。その七人の子の中で一人が病気になれば、親の心は平等でないわけはありませんが、その病気の子にはとくに心をかけるようなものであります。王さま、如来もまたその通りです。あらゆる衆生を平等に見ておられますが、罪あるものにはとくに心をかけてくださるのです。放逸のものに如来は慈しみの心をかけてくださるのであり、不放逸のものにとくに心をかけられることはないのです。不放逸のものとはどういうものかというと、初地から六地までの位にある菩薩のことです。王さま、仏がたはあらゆる衆生に対して、その生れや老若や貧富の違い、また、生れた日の善し悪しなどを見られるのでもなく、手仕事をしているとか低い身分であるとか召使いのものであるとかを見られるのでもありません。たとえば王さまのおこされた慚愧の心のように、善の心のある衆生を、ただご覧になるのです。そして、もし善の心があるなら、慈しみの心をかけてくださるのであります。

親の愛情は平等でも、病気ではない子供よりも病気の子供の方に心が一層かかるものです。阿弥陀仏も、供養のできる善人よりも供養のできない悪人を憐れんで、何とか救おうとなされているのです。
それをこんにちは氏は、曇鸞大師・善導大師・法然上人のお言葉を挙げて説明されています。

岸の上の人よりも溺れている人を、病気の軽い人よりも重い人に心をかけるのは人間でも同じでしょう。病気の子供に、親孝行をしたら薬を飲ませるという親はいません。溺れている人に、お金を出したら助けるという人もいないでしょう。
苦しんでいる人を先に助けたいというのが、慈悲というものです。

聖者よりも凡夫、善凡夫よりも悪凡夫を助けることに重きをおかれているのが阿弥陀仏の大慈悲であり、18願です。ですから、18願は悪人正機なのです。

しかし、悪凡夫で苦しんでいる人でも救われている人もあれば、救われていない人もあり、現実には不平等の救いということではないか、と思われる人もあるでしょうが、それがこんにちは氏の言われる機の失です。
病気の子供でいえば、

  • 重い病に罹りながら、自分は病気でないと言い張って、外に遊びに行く子供
  • 病気は自分で治せると思って親から逃げ回る子供
  • 薬を飲まなければ病気は治らないと知って、親の言う通りに薬を飲もうとする子供

がいます。親は平等に薬を飲ませたくても、この3人の子供に対する親の言い方は違いますし、薬を飲む時期にも差が出てきます。自分が病気と思っていない、放っておいても病気が治ると思っている子供には、病気の深刻さを知らせ、病気を治すには薬を飲む以外には方法がないことを知らせる必要があります。それが権仮方便にあたるのです。しかし、病気の自覚があり薬を飲まなければ病気が治らないことを理解している子供には、あとは薬を飲ませるだけです。親鸞聖人の教えを聞いて信じている人は、3番目の子供です。
すぐに薬を飲むか、飲むのに時間が掛かるかの差は、子供によるのであって、親の贔屓や不平等によるのではありません。たとえ親の言うことを無視する子供でも、まずは薬を飲む必要性を感じるところまで巧みに導いていくのが、賢い親です。言うことをきかない子供に薬を無理やり飲ませようとするのは、愚かな親です。

これまでに何度も何度も述べていますが、供養・財施と18願の救いとは無関係です。供養・財施をした人、過去に善をたくさん行ってきた人を優先的に救うのであれば、それは善人正機の救いです。悪人正機の18願の救いではありません。

もし供養・財施をして18願で救われたと思うのであれば、『歎異抄』

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ

というお言葉は理解できないでしょう。

一子地」とは、初地の菩薩の境地ですから、初地以上の菩薩にはこれらは当たり前のことですが、底下の凡夫には聖教を通してしか理解できないことです。

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2011年2月13日 (日)

高森会長は本心では化土往生を認めている?

論争の情報を頂きました。「ジャンヌ雑談用掲示板」で、M野講師ではないと否定する人物が、他人のハンドルネームを使って、親鸞会邪義を書き続けましたが、退会者にすべて否定されて、珍説と妄想と負け惜しみの言葉を残して、逃亡しています。
下品(げひん)な書き込みが多いので、敢えて読まれる必要はないと思いますが、もし読まれるのであれば、最後から4分の1位、1月10日以降の分だけでいいです。

いつものように話がずらされたりしていますが、議論の中心は化土往生についてです。
これまでに、当ブログでも何度も何度も取り上げてきた内容ですし、昨年化土往生について3人の講師部員と法論がありましたが、3人共逃亡しています。
ただ今回、興味深い部分がありますので、少しだけ説明しておきます。

M野講師ではないと否定する人物は、真宗は0点か100点しかないとか、御和讃に「雑修の人をきらうには万不一生とのべたもう」とあるから、化土往生は誰もできないと主張していました。
共に間違いですが、これを読んで元講師部員のS氏が書かれた「私の白道」の以下の記述を思い出しました。

・教学問題真宗学4号問49

今は教学聖典ですが、以前は教学問題と言われました。

(問)真宗は0点か100点かの二通りしかないことを教えられた和讃を一首かけ

(答)専修の人をほむるには千無一失とおしえたり
   雑修の人をきらうには万不一生とのべたもう

  (高僧和讃)

 この問題は教学聖典から無くなっています。
 削ってもいい内容でしょうか。
 0点か100点それ以外の人は無いという話でしたがこの問題は何か都合が悪くなったのでしょうか。
 化土へ行く人は0点とは言えないからでないでしょうか。

・まだ「信前の会員でも、私の法話を聞き、参詣、財施、顕正の諸善、活動に頑張っている人は皆、化土往生です」と正式に言われません。
 しかし25年前、高速道路を逆走行してトラックと正面衝突し即死した、細川、松田両講師の死に対して高森先生は「私は二人の後生は心配していない。臨終に観音菩薩の説法にあったと思う」と言われた。
 細川講師は過労のあまり、福井県のパーキングで仮眠し、寝ぼけて、来た道を戻って逆走行したのだ。
 松田講師は助手席で寝ていて即死した。こんな状態で観音菩薩の説法にあえるのか、当時おかしいと思ったが、親しい友だから、そうであって欲しいという感情が入り、何となく納得してしまった。本当ですか、と高森先生に聞く講師はいなかった。
 先生がそう言われるのだから、と思ったもです。
 善知識高森先生に絶対間違いはないのですから。
 私らに分かるはずがないのですから、と思ってしまった。

・昨年の香港御法話でも、真剣に求めている人は観音菩薩の説法にあえると言われたとか。感動した会員さんが、手紙に書いて来た。
 根拠がどこだろうか、そんなことどうでもいい、高森先生が、そう言われるのだから、それでいい。

これらは、古くから会員を続けてこられた方なら誰でも知っている事実です。
最初にある教学問題のことを根拠として、M野講師ではないと否定する人物は、主張しているのでしょう。

さて、『高僧和讃』源信讃

専修のひとをほむるには
 千無一失とをしへたり
 雑修のひとをきらふには
 万不一生とのべたまふ

(現代語訳)

専修念仏の人をほめるときは、
「千人の中に一人も失敗がない」 と教えられた。
雑修の人を嫌うときには、
「万人に一人も(報土に)生まれることがない」 と述べられた。

は、0点か100点かを教えられたものではありません。
万不一生」の左訓(註書き)には、

万に一人も報土に生れずとなり

と親鸞聖人は書いておられます。雑修の人は報土往生ができないということは、化土往生になるということを仰っているのです。
そんな意味にどうしてなるのだ、という人もあるでしょうから、一応その根拠を示せば、この御和讃の直前と直後に

霊山聴衆とおはしける
 源信僧都のをしへには
 報化二土ををしへてぞ
 専雑の得失さだめたる

(現代語訳)
霊鷲山で聴衆であった、
源信僧都の教えでは、
報土と化土とが説かれ、
(利益を) 専修で得るか雑修で失うかが定められた。

報の浄土の往生は
 おほからずとぞあらはせる
 化土にうまるる衆生をば
 すくなからずとをしへたり

(現代語訳)
真実報土への往生は、
多くはないと著した。
方便化土へ生まれる人々は、
少なくはないと教えられた。

とあります。雑修の人は化土往生になる、と源信僧都が教えられ、親鸞聖人はそのまま仰っています。他にも根拠はたくさんありますが、これ以上出すまでもないでしょう。

つまり教学問題を正しい問題文に改めれば

(問)真宗は0点か100点かの二通りではないことを教えられた和讃を一首かけ

になるのです。全く逆の意味なのです。

この御和讃の正しい意味を知ってか知らずか、改訂された『教学聖典』ではこの問答がなくなっています。

それともう一つ、臨終に観音菩薩の説法にあうという話が都合の良い時に高森会長の口から稀に出てきます。
このようなことを仰った歴代の善知識方はありませんが、ある方から情報を頂きました。

『華光誌』第5巻、第5号
「死後の説法」伊藤康善

宿善・無宿善の問題を抜きにして、人は最後まで聞法すべきである。臨終まで、解らなくとも歎くことはない。この身が臨終の時に、観世音菩薩の説法があるようである。

やはり盗作でした。文面から、化土往生を示唆していることが判ります。

それにしても、高森会長は化土往生を口では否定しながらも、本心では認めているようです。それで身内には甘いのかもしれませんが、造悪無碍で念仏誹謗している一族は、化土往生もできないでしょうから、その考えも甘いです。

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2011年2月11日 (金)

諸久堕の三難とは弥陀を疑う心?????

先日の2000畳法話の内容について、コメントを頂きました。これも傑作です。

先日の2000畳の法話で龍樹菩薩の話があったのですが、

諸久堕の三難とは弥陀を疑う心なのでしょうか?

軟心の菩薩が諸久堕の三難に苦しんだという話が出てきて、これは横の線(弥陀の救い)を進んで行くと
必ず出てくるのだと説明がありました。

ちなみに
正確ではないですが「諸久堕の三難」についてはこのような説明がありました。
本当にこんな内容なのでしょうか?

諸―煩悩が邪魔になって進めない。こんな心が出てきては救われないのではなかろうかという心
  しかし煩悩具足と見抜いて救うを約束されているのが阿弥陀仏だから、それは阿弥陀仏を疑う心。
久―どれだけ聞けばハッキリするのか?安心・満足するのか?という心
堕―堕ちるのではなかろうかという心

最初は聖道門を求めている軟心の菩薩に龍樹菩薩が「仏道を求むるのは大宇宙を持ち上げるよりも重い」と
叱ったという話をしていたと思っていたのですが、その軟心の菩薩が苦しんでいたのは「諸久堕の三難」だ
と言い出し、それは阿弥陀仏を疑う心だと説明があったと思います。

聖道門を求めているなら、弥陀を疑う心は出てこないと思うのですが
いつの間にか軟心の菩薩が本願を疑う心で前に進めず苦しんでいることになっていて…。

“諸久堕の三難という弥陀を疑う心”で悩んでいた軟心の菩薩が龍樹菩薩に「仏道を求むるのは大宇宙を
持ち上げるよりも重い」と叱られたという話になると浄土門を求めている人にそのように叱るということ
になり、おかしい話になるとおもうのですが、みんな疑問も持たず聞いているようでした。

解釈が正しいかどうかという以前に、話している論理に一貫性がないと思うのですが、だ~れも疑問に
思わないのですねぇ。自分もそうでしたけど、ほんとに情けないですねぇ。

「諸久堕の三難」もそうですが、これまで使わなかった言葉を使うことが多いような気がします。
会長から発せられる言葉に間違いがないと思っていますから、説明が正しいかなんて疑問も持たずに、
初めて聞いて知識欲が満たされて喜んでいる人ばかりなんでしょうけど。

無知とは恐ろしいもので、こんな明らかな間違いを堂々と説いているのですからね。
諸久堕の三難」とは、龍樹菩薩の書かれた『十住毘婆沙論』「易行品」にあります。

問ひていはく、この阿惟越致の菩薩の初事は先に説くがごとし。阿惟越致地に至るには、もろもろの難行を行じ、久しくしてすなはち得べし。 あるいは声聞・辟支仏地に堕す。もししからばこれ大衰患なり。
(中略)
このゆゑに、もし諸仏の所説に、易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得る方便あらば、願はくはためにこれを説きたまへと。

答へていはく、なんぢが所説のごときは、これ儜弱怯劣にして大心あることなし。これ丈夫志幹の言にあらず。なにをもつてのゆゑに。もし人願を発して阿耨多羅三藐三菩提を求めんと欲して、いまだ阿惟越致を得ずは、その中間において身命を惜しまず、昼夜精進して頭燃を救ふがごとくすべし。
(中略)
大乗を行ずるものには、仏かくのごとく説きたまへり。「願を発して仏道を求むるは三千大千世界を挙ぐるよりも重し」と。なんぢ、阿惟越致地はこの法はなはだ難し。久しくしてすなはち得べし。もし易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得るありやといふは、これすなはち怯弱下劣の言なり。これ大人志幹の説にあらず。なんぢ、もしかならずこの方便を聞かんと欲せば、いままさにこれを説くべし。

(現代語訳)

問うていう。この不退の菩薩が初地に入るまでの修行のありさまは、さきに説いた通りである。不退の位に至るについては、多くの難行を行じ、久しい間かかってようやくこれを得ることができるので、あるいは声聞・縁覚の地位に退堕することがある。もしそうなれば、これは大きな損失であり、災患である。
(中略)
こういうわけであるから、もし諸仏の説きたもう中に、易行道ですみやかに不退の地位に至ることのできる方法があるならば、どうか、わたしのためにこれを説かれよ。

答えていう。そなたのいうようなことは、根機の劣った弱い者のいうことで大きな志ではなく、これは雄々しく堅固な志を持つ者のことばではない。なぜかというと、もし人が願いを起こし無上仏果を求めようと欲して、まだ不退の位を得ないならば、その間は身命を惜しまず昼夜精進して、頭に付いた火を払い消すようにせねばならぬ。
(中略)
大乗を行ずる者には、仏は次のように説かれてある。「発願して仏果を求めることは三千大千世界をもち挙げるよりも重い」と。そなたが不退の位を得る法は甚だむずかしく、久しい間かかってようやく得ることができる。もしすみやかに不退の位に至ることのできる易行の道があろうかというならば、これはすなわち根機の劣った弱い者の言葉で、すぐれた人、堅固な志を持つ者のいうことではない。
しかしながら、そなたが、もし必ずこの方法を聞きたいと思うならば、今まさにこれを説くであろう。

過去にも紹介してきた御文です。

諸=「もろもろの難行を行じ
久=「久しくしてすなはち得べし
堕=「あるいは声聞・辟支仏地に堕す

これが「諸久堕の三難」で、難行道、つまり聖道門についての話であって、易行道、浄土門のことを仰っているのでないことは、『十住毘婆沙論』を読めば明らかなことです。もちろん「諸久堕の三難」とは弥陀を疑う心である筈がないです。

聖道門と浄土門との区別がついていないというよりも、すべて訳の判らない内容の話です。

難行道には「諸久堕の三難」があって、これを乗り越えなければなりませんが、我ら凡夫にはとても歩める道ではありません。そんな我ら凡夫に「諸久堕の三難」を離れた阿弥陀仏の18願を龍樹菩薩は勧められているのです。

従って高森会長の話が如何に頓珍漢なものであるかお判り頂けると思います。

難行道と易行道の違いについて龍樹菩薩は続けて

仏法に無量の門あり。世間の道に難あり易あり。陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便易行をもつて疾く阿惟越致に至るものあり。

(現代語訳)

仏法には量り知れない多くの門戸がある。たとえば世間の道路に難しい道と易しい道とがあって、陸路を歩いて行くのは苦しいが、水路を船に乗って渡るのは楽しいようなものである。菩薩の道もまたそのようである。あるいはいろいろな行を積んで行くものもあり、あるいは信方便の易行をもって速やかに不退転の位に至るものもある。

無量の門」とは『一念多念証文』のお言葉でいえば、「八万四千の法門」のことです。様々な教えを釈尊は説かれましたが、難行に堪えられない者には、「陸道の歩行」ではなく「水道の乗船」「信方便易行」という18願が説かれて勧められているのです。
18願について説明された後、

阿弥陀仏の本願はかくのごとし、「もし人われを念じ名を称してみづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得」と。このゆゑにつねに憶念すべし。

(現代語訳)

阿弥陀仏の本願はこの通りである。「もし人あってわたしを念じて名を称え帰依すれば、そのとき必定に入って、ついに無上仏果を得る」と。こういうわけであるから常に憶念すべきである。

と18願1つを教え勧められています。難行道である聖道門は出てきますが、19願は出てきません。
そして難行道を歩まれた龍樹菩薩自身も「水道の乗船」「信方便易行」に帰依なされています。
結論として、龍樹菩薩は「水道の乗船」「信方便易行」を勧められているのであって、「水道の乗船」「信方便易行」に入るために、19願という道を通ることを教えられてはいません。

聖教を読めば読むほど、高森会長がどれほどヘンテコな教えを説いているかが明らかになるだけです。

ヘンテコ「諸久堕の三難」については、高森会長が自分で考えたとはとても思えませんので、大沼法竜師が味わいとしてどこかに書いたものを拝借しただけと思います。もし出典を御存知の方があれば、教えて頂きたいと思います。

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2011年2月 9日 (水)

自称獲信者との論争 続編

『一念多念証文』「八万四千の法門」のお言葉は、私が親鸞会に在籍していた時には高森会長から全く聞いたことがありませんでした。最近になって突如頻繁に引用され始めたものです。

これは高森会長もしくは教学課が自分達で調べたのではなく、親鸞会を批判するブログを読んで、親鸞会に都合よく解釈できると思って、断章取義し、解釈を歪曲したと考えられます。

「元会員から見た浄土真宗親鸞会」
突然使われるようになる根拠の背景を推測する

しかし『教行信証』を正しく理解していれば、誤解する筈のない御文です。前々回にも説明した通りです。

さて以前に、自称獲信者との論争について書きましたが、その自称獲信者なおたん氏が、高森会長から聞いた『一念多念証文』の解釈を、最近になってmixi上に自信満々に書いていました。

mixi ★親鸞聖人★コミュニティ
善知識について

私は、先日、親鸞聖人の一念多念証文から、お釈迦様45年間、諸善をすすめておられたのだという事を学ばせていただきました。

その理由を如是我聞。書かせていただきます。

凡そ八万四千の法門(凡そ釈迦45年間の仏教)は、
みな是れ浄土(=阿弥陀仏)の方便の善なり、
これを「要門」といふ、これを「仮門」と名づけたり。
この要門・仮門といふは、即ち『無量寿仏観経(観無量寿経)』一部に説きたまへる定善・散善是れなり。
定善は、十三観なり、散善は、三福九品の諸善なり。
これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。
この要門・仮門よりもろもろの衆生をすすめこしらえて・本願一乗・円融無碍・真実功徳(名号のこと)大宝海に教え勧め入れたまうが故に、
よろずの自力の善業をば「方便の門」と申すなり。

          (親鸞聖人~一念多念証文より)(真宗聖典P・609)

これを読ませていただくと、自力の善業は、「方便の門」とあります。

方便=真実に導くために、必要の要、必ず通らなければならない道程の事です。

この要門、仮門より、本願一乗・円融・無碍・真実功徳(名号)大宝海に教え勧め入れたまうと、釈尊は、極めて分かりやすく、善をすすめておらます。

自力の心で、善をさせていただくから、それを雑行といい、自力の心で、朝晩の勤行をやるから、それを雑修といって嫌われます。

蓮如上人が、雑行を捨てよと言われたのは、善をやるな!と言われたのではなく、自力の心でやる善だから、心掛けが悪い、その自力の心を捨てよと言われたのです。

捨自帰他です。自力を捨てて、他力に帰せよと言われただけで、善をやるなと言われたのではありません。

一念多念証文から、以下のご和讃を読解してわかったことは。。。

諸善万行ことごとく 至心発願せるゆえに
往生浄土の方便の 善とならぬはなかりけり
(浄土和讃~親鸞聖人)

これも、親鸞聖人が、阿弥陀仏の19願について教えられたご和讃です。

諸善万行(もろもろの善)は、至心発願せるゆえに(阿弥陀仏の19願でやりなさいと勧められているように)
往生浄土の方便の善とならぬはなかりけり(阿弥陀仏に救われるために、必要な善とならないものは、ひとつもない)

阿弥陀仏に向かってやる諸善万行は、すべて、往生浄土の方便の善となるのだと、
ここでも親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願19願から、仏教の善の勧めの教えが
出てきているのだとおしえておられます。

悪を止めよというのならわかります。阿弥陀仏の19願は、廃悪修善の教えですから。。以上です。

もちろん、すぐに論破されています。全部紹介すると相当に長くなりますので、EMS氏のまとめの部分だけ紹介しておきます。

難しい御文を理解できない人のために簡単にまとめると、

親鸞聖人は、万行諸善を聖道門の人を浄土門に導き入れるための方便の善だとされ、それは善導大師の深心釈を根拠にされています。

深心釈とは、二種深信に代表される七深信を明らかにされたもの、真実信心そのものです。この七深信の第三深信が、先程の御文ですが、善導大師、法然上人、親鸞聖人も同じく、万行諸善は聖道門から浄土門へ誘引するためのものであった、と深信させられたと仰っています。

しかし、浄土門に入ったならば、18願で救われるにはもう不要のものですから、浄土門に入った人は、諸善や19願に心をかけずに、念仏1つに向いなさい、というのが、「一向専念無量寿仏」です。諸善と念仏両方は「一向」ではありません。もちろん諸善だけ、は問題外です。念仏1つにならなければ、報土往生はできません。平生に獲信することもありません。もちろんこの念仏は他力念仏のことです。

念仏を勧めずに、諸善を勧める人を善知識とはいいません。蓮如上人も仰っている通りです。

なおたん氏が高森邪義を延々と説明しても、それは根拠のないことであるどころか、それを完全に否定された根拠しかないことも知らないのです。

これに対して、なおたん氏は

いろんな仏教観があるものだなというのが、正直な感想です。

はじめから、聖道門⇒浄土門へ導くのが、浄土方便の善であるというのが、
EMSさんの解釈だと理解いたしました。

私が、先に、書きました一念多念証文の解釈の仕方は、聖道門の人だけを対象として、浄土門に導くための、方便の善だという解釈ではありません。

なぜなら、19願は、設我得仏 十方衆生とありますように、十方衆生相手の本願だからです。これによって、

浄土の方便の善=阿弥陀仏の方便願の19願で勧められている諸善万行という解釈となり

すべての人(十方衆生)を導く阿弥陀仏の19願の方便の善として、釈迦は、
八万四千の法門を説かれたのだと、親鸞聖人が、説明して下されているのです。

これでも、読解力の問題だと言われるのなら、仕方ありませんね。

ここで、始めから、お互いに、解釈の仕方が、異なっているのを承知の上で、書いていますから。。。

そして、どれを選択するのかは、その人の自由です。

それに、私は、はじめから『念仏を全く称えないで、諸善万行だけを勧めている』と、大きな誤解をされていたようです。

そうではありません。

南無阿弥陀仏(ご名号)に向かって、合掌礼拝して、念仏も称えますし、勤行もしています。そして、日常生活は、諸善万行をさせていただくように心がけています。

今日は、五重の義を拝読いたしました。

阿弥陀仏に救われるには、、

1には、宿善、2には、善知識 3つには、光明 4つには、信心 5つには、名号、この五重の義成就せずば、往生は叶うべからす。

とあります。

浄土の方便の善=宿善とこうへいさんが言われたのは、
これを根拠として言われているのではないでしょうか??

されば、善知識というは、「阿弥陀仏に帰命せよ」と言へる使いなり。宿善開発して善知識にあわずば、往生は叶うべからざるなり。

宿善開発して、この自力の心が、すたった時が、たのむ一念。
そのときに、阿弥陀仏から、まことの信心を賜りますから、仏恩報謝の念仏を称える身になるのだという事を蓮如上人は、御自分の体験から

領解文には、

もろもろの雑行・雑修・自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、
我等が今度の一大事の後生、御助け候らへとたのみ申して候。

たのむ一念のとき、往生一定御助け治定とぞんじ、このうえの称名は、御恩報謝と存じよろこびもうし候。』と述べておられます。

領解文とは、阿弥陀仏に救われた、体験文です。

阿弥陀仏に救われるとこのようになるのだと学ばせてただきました。以上です。

と反論してきましたが、すでに三願転入のトピックでこうへい氏が完敗して逃走した内容ですので、それをEMS氏が繰り返し説明します。

これも長いので省略しますが、当時の内容をまとめたものは、

[mixi]三願転入議論の解説1
[mixi]三願転入議論の解説2
[mixi]三願転入議論の解説3

[mixi]三願転入議論の解説4
[mixi]三願転入議論の解説5
[mixi]三願転入議論の解説6
[mixi]三願転入議論の解説7
「定散諸機」とは

です。
なおたん氏も一度は読んでいる筈なのですが、親鸞会脳になっていますので、理解できないのでしょう。

問答形式でもまとめておきました。

会員との問答(19願、諸善について)
会員との問答(方便について)
会員との問答(宿善について)
会員との問答(十方衆生について)

このあたりのことが理解できれば、高森会長が如何にお粗末な解釈をしているかが判ると思います。

最後になおたん氏は

長々と、御説明くださり、有難うございました。

残念な事に、どう読ませていただいても、EMSさんの独特な解釈の意味を綴られているとしか、私には、受け取れませんでした。

高森先生のお話しの方が、私の機に合っているように感じました。

今後も、浄土真宗親鸞会の高森先生のお話しを聞かせていただこうと思います。
失礼いたします。

と書いて、やはり逃亡しています。解釈の反論ができなかったこうへい氏が、頻繁に言っていた

解釈が異なる

と同様の言い訳です。解釈が異なっているなら、どこが間違っているのか説明すればいいのですが、その説明は全くできません。なぜなら、自分が間違った解釈をしていると気が付いているからです。

こうへう氏は、なおたん氏に加勢することなく、議論はあっけなく終了となっています。
EMS氏は現会員のために述べています。

無宿善の機には、話をしても阿弥陀仏の18願は理解できませんので、仕方がないです。

息子さんから古語の読み方を習われてから、再度読み返してください。

この意味もおわかりにならないと思いますが、他の方のために法然上人の御言葉を紹介しておきます。

『勅伝』

上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすゝめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすゝめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」

自分のことを悪人と思うのであれば、悪人に勧められた念仏1つと定めていけば、信心決定し、往生できるのです。善人に勧められた善を自分の往生と関係付けては信心決定できず、往生も叶いません。

善知識方が正しい解釈を示されて、それを受け継いでこられたのに、不勉強の上自分勝手な解釈をしていると往生できない、と法然上人も親鸞会を非難されています。

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2011年2月 8日 (火)

親鸞聖人はファーストクラスに乗れると思われたでしょうか?

前回紹介しました高森会長のトンデモ邪義について、様々なところで話題となっています。
「安心問答」でも取り上げられていました。

「安心問答」
「月へ行く切符が欲しいのですが」→「飛行機のファーストクラスに乗りたいでしょ」→「?」

この中で、高森会長とアシスタントとのやり取りが紹介されています。

(2)の切符何万枚持っていても月へは行けないということです。しかし、月へは行けないが、そんな切符要らないか?要らない人ある?たくさん欲しいでしょ。
普通の寝台車に乗れる切符よりもっといい切符が欲しいでしょ。
アシスタント「飛行機でもエコノミーよりファーストクラスがいいです。」
そうでしょ。当然なんです。だから、この善をやらないと良い結果はきませんよ。(2011年1月23日2000畳座談会参加者より頂いた情報)

皆さんはこれを読まれてどう思われたでしょうか。

会員は必堕無間と脅されているのです。無間地獄から逃れるために、食べたいものも食べず、飲みたいものも飲まず、遊びたいところを我慢して、お金も時間も体力も、人生の大半を親鸞会に捧げているのです。
無間地獄にさえ堕ちなければ、再び人間として生れられたとしても、御の字と思っている人も多いことでしょう。
ましてや浄土に往けるのであれば、贅沢など言う人はいない筈です。

高森会長のたとえを使うと、月に行けるのであれば、エコノミークラスどころか立ち席でも、荷物の中に紛れてでも構わないと思う人ばかりではないでしょうか。ファーストクラスで月に行きたいと思っている人は、余程余裕のある人です。そんな人は自分が必堕無間などとは夢にも思っていない人でしょう。

『歎異抄』にある親鸞聖人のお言葉、

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ

を、高森会長はどのように解釈しているのでしょうか?

阿弥陀仏が五劫もの間思惟せられた本願は、浄土へは自分の力では決して往くことができない親鸞一人のためのものであった。こんなに重い罪を造っている者であるのに、助けようと思われて建ててくだされた本願のなんともったいないことよ。

と慶ばれている親鸞聖人が、ファーストクラスで月に行きたいと思われていた、と考えるならば、その人は親鸞聖人とは安心が異なっているのです。

ファーストクラスで月に行こうと思っている人は、定善のできる人です。ビジネスクラスで行こうと思っている人は、行福、戒福のできる善人です。エコノミークラスでもと思っている人は、世福のできる善人といえるでしょう。世福もできない悪人にとっては、立ち席、荷物席でも月に行けるのであれば文句など言える訳がないです。
高森会長もアシスタントも、自分の実機を知らずに、ファーストクラスだなどと、お気楽なものです。

ファーストクラス、ビジネスクラスに乗れる善人は、必堕無間ではありません。必堕無間の悪人は、エコノミークラスでも身分不相応です。
ファーストクラスで月に行こうとする必堕無間の極悪人とは、どういうことでしょうか?

無善造悪の者に善を勧めて矛盾している、と非難されていることから、最近の高森会長の教えは、無善を真実の善はできないが雑毒の善はできるとして、善のできる人を対象にした教えに変化してきました。
参考までに言っておきますと、定善の機、上品上生であっても雑毒の善しかできません。
下品上生、下品中生、下品下生については、善導大師は『玄義分』

この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。

と仰っている通り、雑毒の善の中で最もレベルの低い世福もできない者のことです。必堕無間の者とは下品下生のことです。

全人類が必堕無間の下品下生であるなら、雑毒の善ができますか?
逆から言えば、雑毒の善のできる人は、必堕無間の下品下生でしょうか?

参考までに法然上人は「念仏往生義」で

善根無ければ、此の念仏を修して、無上の功徳を、得んとす。余の善根、多くば、例え念仏せずとも、頼む方も、有るべし。然れば善導は、我が身をば、善根薄少なりと信じて、本願を頼み、念仏をせよと、勧め給ヘリ。経に、一度名号を、称えるに、大利を得とす。又即ち、無上の功徳を得と、とけり。いかに況や、念々相続せんをや。然れば善根無ければとて、念仏往生を、疑うべからず。

と教えて下されています。解説するまでもありませんが、この「善根」は真実の善ではありません、雑毒の善です。

当ブログを読んで研究している高森会長は、今後、善の勧めと必堕無間と二兎を追うことを断念するかも知れません。そうなると財政難の中ですから、背に腹は代えられず、必堕無間を封印して善の勧め一本でいくことが予想されます。

もちろん、それでも真宗ではありませんけど。

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2011年2月 6日 (日)

19願で阿弥陀仏が勧められている善は雑毒の善だ?????

最近の高森会長のトンデモ珍説について、またまたコメント欄で教えて頂きました。

先日の2000畳でも

「19願で阿弥陀仏が勧められている善は雑毒の善だ」との発言がありました。

一応、“仏様の目から見たら”とか、“結果的にそうなる”とも言ってましたが。

出来ないと分かっているから雑毒の善を勧めるっていうのはどうも理解に苦しみます。

会長流のロジック?としては、

・十方衆生は煩悩具足。阿弥陀仏はそれを知っている
 ※勿論、十方衆生=全人類との解釈。
  ↓
・煩悩具足の者は雑毒の善しかできない。
 だから十方衆生が真実の善を出来るわけがない。
  ↓
・十方衆生が真実の善を出来ないと知っている阿弥陀仏が
 真実の善を勧められるわけがない。
  ↓
・阿弥陀仏が十方衆生に19願で勧めている
  ↓
・阿弥陀仏が19願で勧めている善は雑毒の善。

その後が…。(^^ゞ

喩え話を作ったみたいで。

(1)月への切符 ― 月へ行ける ― でも1枚しかない
(2)地球上どこでも行ける切符。鉄道・飛行機等々。でも月には行けない ― 何枚あっても良い。あればあるだけ便利

(1)は真実の善、(2)は雑毒の善を喩えたものらしいです。
 月とは無量光明土を喩えたもの。

(1)についてはほとんど触れず、(2)については“あればあるだけ良いもの、便利なもの”と強調していました。

雑毒と言っても、無量光明土に行けないだけ。
毒の混じった善でも、善は善。やればやっただけ自分に返ってくる。“損はない”
雑毒と言って嫌っていたら幸せになれない。因果の道理だから全部自分に返ってくる。

今日の道俗は聴き誤って善をしない方が良い!と言っているから、この世からジゴクだとも言ってましたよ。

(2)の切符、あったらあっただけ良い
 ↓
月(無量光明土)に行くのにどれだけあっても邪魔にならない
 ↓
邪魔になるなら弥陀が勧められるはずないし、
釈迦が一代かけて(善の勧めを)説かれるはずがない。

ということで善の勧めを正当化しているみたいです。

“あればあるだけ良い”とか“損はない”とか
そんな幸せを求めて聞いている人いないのに、これを善の勧めを正当化する理由にするのはおかしいですよね

それを無理やり
「邪魔になるなら弥陀が勧められるはずない」と言って往生・獲信と関係づけて納得させようとして、
言っていることが破綻しているとしか思えません。

“あればあるだけ良い”とか“損はない”という心はまさに罪福を信じる心で、戒めておられると思うのですが、
親鸞会では罪福を信じる心とは因果の道理を信じる心で深ければ深いほど良いって教えてますよね。
信仰のバロメーターとか言って。

やっぱり、親鸞会教義が「善の勧め」が大前提の教えだからですかね?

こんな話を聞いておかしいと思わない人は、昔から高森会長の話を理解しようという気のなかった人か、思考能力が元々乏しいもしくは衰えてしまった人ではないでしょうか。

切符のたとえで言えば、月に行ける切符を手に入れるために地球上どこでも行ける切符を何枚持っていようがいまいが関係ないと高森会長も教えています。

しかし阿弥陀仏が地球上どこでも行ける切符を集めるように勧めておられるのだから、集めた方がいいけれど、結局のところ月に行くことと地球上どこでも行ける切符の有無多少は関係ないのですから、集めたい人は集めればいいだけのことです。

高森会長は、自分でも言っていることが判らなくなっていると思いますが、結論として親鸞会で勧める善(雑毒の善)は往生・獲信のためにはしなくてもよい、ということになります。

従って、命懸けで善をする必要はなく、財施・法施を強く勧められる筋合いは全くないことになります。なぜなら単にこの世の幸せのためだけですから、何をさておいてもしなければならないものではありません。

もう少し丁寧ににいえば、雑毒の善は、趣味や生き甲斐、相対の幸福を獲るための手段に過ぎませんので、雑毒の善は往生・獲信のためにはしなくても全く問題にはなりません。
もし、趣味、生き甲斐、相対の幸福を獲るためであれば、回りくどい”無駄な投資”をしなくても、直接、趣味、生き甲斐、相対の幸福を獲るためにお金を使えば相当に効率よく趣味、生き甲斐に楽しめ、相対の幸福を獲ることができるでしょう。

幹部会員なら年間200万円程の金額を親鸞会関係で費やしていますし、週丸1日以上の時間を拘束され、普段の仕事以上の体力を消耗して、さて今までどんな幸せが獲られたでしょうか?
もしそれを趣味や生き甲斐、相対の幸福に直接振り向けていたら、相当の結果が獲られる筈です。
貯金をしていたら、会員歴の長い人は何千万円が貯まっているでしょう。立派な住宅を手に入れることもできますし、事業を起こすことも、アパート・マンション経営だって可能です。会社勤めなら、今よりもずいぶん出世しているのではないでしょうか。それこそ、地球上のどこでも、どの秘境へも頻繁に旅行できます。

社会のためと思うのであれば、しかるべき所へ寄付をすればいいでしょう。

高森会長が法話、座談会で延々と話をしている”善の勧め”は、趣味や生き甲斐、相対の幸福を獲るためのものであるならば、お金と時間と体力を使ってまで聞く価値はないことにもなります。

趣味、生き甲斐、相対の幸福を獲るために釈尊が聖道門や定散二善を説かれ、阿弥陀仏が19願を建てられたと高森会長が主張するのであれば、それは仏教を根底から否定する邪義です。
しかも、その主張はこれまでの高森会長の”教え”とは完全に矛盾しています。

善を勧めるのは

  • 真実の善ができないことを知らせるため
  • 宿善を厚くするため
  • 三願転入するため

と言ってきましたが、これを撤回しなければなりません。そんな簡単に主張を変えてもいいのでしょうか、高森会長?

思いつきで話をするのは昔からですが、ここまであからさまなに矛盾した話を聞いて、多くの会員が会長への礼状に、

地球上どこでも行ける切符(雑毒の善)は、あればあるだけよいと釈尊は45年間教えて下され、阿弥陀仏は命を懸けて地球上どこでも行ける切符(雑毒の善)を勧められた19願を建てて下されたことが知らされました

とでも、喜んで書くのかと思うと、笑うに笑えないギャグです。

蓮如上人は『御文章』2帖目第7通で、

人界の生はわづかに一旦の浮生なり、後生は永生の楽果なり。たとひまた栄華にほこり栄耀にあまるといふとも、盛者必衰会者定離のならひなれば、ひさしくたもつべきにあらず。ただ五十年・百年のあひだのことなり。それも老少不定ときくときは、まことにもつてたのみすくなし。これによりて、今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。

と教えられています。

地球上どこでも行ける切符ではなく、
月に行ける切符を求めなさい

これが釈尊、善知識方の教えです。

地球上どこでも行ける切符をたくさん集めなさい

これは新興宗教の教えです。親鸞会は新興宗教となりました。

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2011年2月 5日 (土)

八万四千の法門は何のために説かれたのか

高森会長は、親鸞会を作った当初は18願1つを説けばいいと言っていましたが、それでは金集め・人集めができないことに気が付き、早い段階で宿善を求めよという主張をするようになり、途中から19願の強調となっています。

高森会長の著書及び顕正新聞を年代毎に見てみれば、そのことは明らかです。

さて前回のエントリーで書きました『尊号真像銘文』の御文は、後に次のように続きます。

しかれば『大経』には、「如来所以興出於世 欲拯群萌恵以真実之利」と説きたまへり。「如来所以興出於世」は、「如来」と申すは諸仏と申すなり、「所以」といふはゆゑといふみことなり、「興出於世」といふは世に仏出でたまふと申すみことなり。「欲拯群萌」は、「欲」といふはおぼしめすとなり、「拯」はすくはんとなり、「群萌」はよろづの衆生をすくはんとおぼしめすとなり。仏の世に出でたまふゆゑは、弥陀の御ちかひを説きてよろづの衆生をたすけすくはんとおぼしめすとしるべし。

諸仏、釈尊が世に出られた本懐は、18願1つを説かれるためであったことを、『大無量寿経』の御文を引用されて、説明しておられます。

これと全く同じことを『一念多念証文』

しかれば『大経』には、「如来所以 興出於世 欲拯群萌 恵以真実之利」とのたまへり。
この文のこころは、「如来」と申すは諸仏を申すなり。「所以」はゆゑといふことばなり。「興出於世」といふは、仏の世に出でたまふと申すなり。「欲」はおぼしめすと申すなり。「拯」はすくふといふ。
「群萌」はよろづの衆生といふ。「恵」はめぐむと申す。「真実之利」と申すは、弥陀の誓願を申すなり。
しかれば諸仏の世々に出でたまふゆゑは、弥陀の願力を説きて、よろづの衆生を恵み拯はんと欲しめすを、本懐とせんとしたまふがゆゑに、真実之利とは申すなり。
しかればこれを諸仏出世の直説と申すなり。

と仰っています。
このように、諸仏、釈尊が18願1つを説かれることを本懐と説明すると、

18願以外の教え、善を勧められた教えは必要ないというのか

と、聖道門の学僧達は猛反発してきました。

『選択本願念仏集』には簡潔に

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
(中略)
ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

と仰っていますので、成仏のために善の実践を説く聖道門の学僧達が激昂するのも当然なことです。
従って、親鸞会も聖道門と全く同じ発想です。この法然上人のお言葉は、法然上人の教えを聞いていた人に対して仰ったものであり、そのことは『選択本願念仏集』の最後

庶幾はくは一たび高覧を経て後に、壁の底に埋みて、窓の前に遺すことなかれ。
おそらくは破法の人をして、悪道に堕せしめざらんがためなり。

のお言葉でも判ります。聖道門から非難される内容であるから、法然上人の教えを信じている人だけが読むように、他の人には読ませてはならない、という御配慮です。

しかし、『選択本願念仏集』は世に出されてしまい、聖道門からは激しい攻撃がありました。
これに対して、親鸞聖人は聖道門の学僧向けに、18願以外の教え、善の勧めの教えについて仰ったのが、先程の『一念多念証文』のお言葉に続く以下の

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

です。親鸞会では、これを親鸞聖人が善を勧められた根拠として声高に叫んでいますが、前の御文、他の根拠と併せれば、18願で救われるために善を勧められた根拠でないことは、読解力があれば簡単に判る筈です。

八万四千の法門」は、浄土門に誘引するための方便だということです。聖道門の人は18願を信じる気持ちはありませんから、聖道門の人にも18願を信じて願わせるために説かれたのが「八万四千の法門」であり、「浄土の方便の善」「要門・仮門」と仰っているのです。

これまでに何度も説明してきました。

「浄土の方便の善」=「欣慕浄土の善根」
「浄土の方便の善」≠「善の実行」
門八万四千に余れり
[mixi]三願転入議論の解説3

相手に応じて、説く内容を変えることを対機説法といいます。蓮如上人は衆生を大きく2つに分けられて

ひとを勧化せんに宿善・無宿善のふたつを分別して勧化をいたすべし。

と度々仰っています。18願を願う人を宿善の機、18願を信じる気持ちのない人を無宿善の機として、宿善の機と無宿善の機とでは、話をする内容を変えなければなりません。

以上のことを簡単にまとめると、

諸仏、釈尊は18願1つを説かれることが世に出られた目的であった。

では八万四千の法門と呼ばれる善の勧めは無駄なことであったのか、という反論があるので、

それを法然上人は18願を信じて願っている人(宿善の機)に対して、念仏が諸善に対して超過していることを示し、諸善を廃して念仏を立てさせんがために、諸善を説かれたと仰った。

しかし、18願の教えを信じようという気のない聖道門の人達(無宿善の機)からは、猛反発があり、念仏弾圧にまで発展したので、親鸞聖人がそれらの人(無宿善の機)に対して、八万四千にも及ぶ善の勧めは、浄土門に誘引するためのものである、と『教行信証』『一念多念証文』で仰った。

ということです。
18願での往生を願っている人ならば、法然上人の仰る通りに、往生のための善、獲信のための善を捨てなければなりません。
18願での往生など信じられない、善をせずして往生などできる筈がない、という無宿善の機を自覚する人は、自分の信じている教えは浄土真宗や親鸞聖人と関係ないと宣言しましょう。

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2011年2月 4日 (金)

キレて真宗と断絶した謗言

高森会長が最近、どのような教えを説いているかを、某親友部員がブログに記しています。コメント欄でそれを教えていただきました。

「浄土真宗親鸞会 射水市周辺地区の紹介」切れ味鋭い断言
http://blog.goo.ne.jp/fujita_srk/e/fd3dac3d5e7f2dd505d3faee3f60a937
では以下のように書かれています。

『八万四千の法門』とは、お釈迦様一代の教えのことです。お釈迦様が生涯教えられたことは、一切経として書き残されており、その数七千冊以上にのぼる膨大な数です。

釈迦一代の教えとは、一切経に書き残されていることは、仏教とは、何を教えられたものなのか。

親鸞聖人はズバリ一言で断言されています。

それは「浄土方便の善なり」

「浄土」とは、「阿弥陀仏」のことです。親鸞聖人は阿弥陀仏を、よく「浄土」とは「安養」と仰います。

仏教とは、弥陀の方便の善一つを教えられたものだ。

こんな短いお言葉で、七千余巻の一切経に教えられていることを喝破されています。

一切経を何度も読み破り、正確に理解した方でなければ、こんなに切れ味鋭く、断言できることではありませんね☆

(引用ここまで)

以前は、
「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」について、
『七千余巻の一切経に教えられていること一言で教えられている。
仏教とは、弥陀の本願一つを教えられたもの。
一切経を何度も読み破り、正確に理解した方でなければ、断言できることではない。
弥陀の本願一つ聞けば、仏教を全て聞いたことになる』
と説いていたのに、「弥陀の本願」が「弥陀の方便の善」にかわってしまっています。

こんなことを聞いて、疑問に思わないどころか、ブログにまで書けるのが私には理解できません。
「高森先生信心」のなせる業でしょう。

酷いものです。ある程度は予想されたこととはいえ、真宗からの乖離が、月日と共に激しくなってきています。

参考までに『正信偈』の「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」について、親鸞聖人は『尊号真像銘文』で解説をしておられます。

「如来所以興出世」といふは、諸仏の世に出でたまふゆゑはと申すみのりなり。「唯説弥陀本願海」と申すは、諸仏の世に出でたまふ本懐は、ひとへに弥陀の願海一乗のみのりを説かんとなり。

諸仏方および釈尊の本懐は、「ひとへに弥陀の願海一乗のみのりを説かんとなり」なのです。18願1つを説かれるためなのです。それを、善の勧めや19願を説かれるために世に出られたと教える発想は、浄土門でないことをはっきり示しています。

親鸞聖人が「本願」と仰るときは、18願のことを指します。このことは『教行信証』を見ますとよく判ります。

行巻は17願について書かれています。

諸仏称名の願『大経』にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、正覚を取らじ」と。

信巻は18願です。

至心信楽の本願の文、『大経』にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念せん。もし生れざれば正覚を取らじと。ただ五逆と誹謗正法を除く」と。

証巻は11願です。

必至滅度の願文、『大経』(上)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、国のうちの人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ」と。

真仏土巻は12願と13願です。

すなはち光明・寿命の願これなり。
『大経』にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、光明よく限量ありて、下百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取らじ」と。
また願にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、寿命よく限量ありて、下百千億那由他の劫に至らば、正覚を取らじ」と。

化土巻は19願と20願です。

ここをもつて『大経』の願にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修し、心を至し発願して、わが国に生ぜんと欲はん。寿終のときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ」と。

ここをもつて『大経』の願にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係けて、もろもろの徳本を植ゑて、心を至し回向して、わが国に生ぜんと欲はん、果遂せずは正覚を取らじ」と。

18願のみを「本願」と仰っています。法然上人は、18願1つを「選択本願」と仰り、他の願との差別化をはかられましたので、親鸞聖人もそのまま承け継がれています。

「安心問答」
親鸞会が五劫思惟の願が19願だというたった一つの理由

にもありましたが

19願を疑う心が本願を疑う心。疑情

という高森会長の説明が、如何に頓珍漢な話か、これだけでもお判りいただけるのではないでしょうか。

何回も紹介していますが、行巻の中で念仏と諸善とを比較されて論じられて、そこに

勧無勧対
(訳)

念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない。

証不証対
(訳)
念仏は諸仏が証明されているが、諸善には諸仏の証明がない。

讃不讃対
(訳)
念仏は諸仏に讃嘆される法であるが、諸善は讃嘆されない。

と仰っていることも全く知る由もないのが、高森会長です。諸仏、釈尊が説こうとされていることは何か、それを親鸞聖人がどう仰ったのか、知らないのでしょう。

では何のために善を説かれてあるのか、ということにつきまして法然上人は『選択本願念仏集』

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。

と明確に仰っています。

高森会長が、聖教を読んでいないことは疑いようのない事実ですが、伊藤康善師、大沼法竜師の著書を理解していれば、こんなことは判るはずです。以前は、まだましな話もありましたが、今は親鸞聖人の教えと合っているところが見当たらなくなりました。

金集め、人集めのためには、形振り構わない曲解です。某親友部員は「切れ味鋭い断言」などと能天気なことをいっていますが、最近の異常な”善の勧め”はキレて真宗と断絶した謗言としか言い様がありません。
これでも会員はまだ気がつかないのでしょうか?

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2011年2月 2日 (水)

五劫思惟の願

前回の2000畳座談会の内容について、またコメントを頂きました。
19願を疑う心を疑情とか、五劫思惟の願を19願というなど、どれだけ教えを捻じ曲げれば気が済むのでしょうか。19願だけのことを言っているのではないと言い訳もしていたようですが、おかしいことに違いありません。この件は、

「安心問答」
親鸞会が五劫思惟の願が19願だというたった一つの理由

でも取り上げられていました。

私が会にいた時には、そんなことは聞いたことがありませんでした。とにかく19願を全面に出して、善という名目の金集めに必死な様子が伺えます。財政的に逼迫していることがよく判ります。

法然上人は『選択本願念仏集』の本願章の中で、18願についてのみ仰った上で、『大無量寿経』から阿弥陀仏の五劫思惟の御文を引用されています。

親鸞聖人も『正像末和讃』で、

超世無上に摂取し
 選択五劫思惟して
 光明・寿命の誓願を
 大悲の本としたまへり

と、「選択五劫思惟」と仰っていますので、18願のことです。

『口伝鈔』には親鸞聖人のお言葉として

かかるあさましき三毒具足の悪機として、われと出離にみちたえたる機を摂取したまはんための五劫思惟の本願なるがゆゑに、ただ仰ぎて仏智を信受するにしかず。

とありまして、親鸞聖人は悪人正機の願である18願のこととしてしか仰っていません。19願は善人正機の願です。このことは

「指を看て月を視ざるや」のM講師

のところでも書きました。
また『安心決定鈔』にも

下品下生の失念の称念に願行具足することは、さらに機の願行にあらずとしるべし。法蔵菩薩の五劫兆載の願行の、凡夫の願行を成ずるゆゑなり。(中略)かるがゆゑに浄土の法門は、第十八の願をよくよくこころうるほかにはなきなり。

と「五劫兆載の願行」は18願のことを指して言われています。

蓮如上人は『御文章』3帖目第2通

しかるに末代このごろの衆生は、機根最劣にして如説に修行せん人まれなる時節なり。ここに弥陀如来の他力本願といふは、今の世において、かかる時の衆生をむねとたすけすくはんがために、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、「造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚ならじ」と、ちかごとをたてましまして、その願すでに成就して阿弥陀と成らせたまへるほとけなり。

と仰っています。もちろん18願のことです。

当たり前過ぎて、解説するのも馬鹿らしいことです。
阿弥陀仏の御苦労は、善のできない極重の悪人でも善悪関係なく救うためのものです。十方衆生洩れなく救うための御苦労を、善のできる善人を救うための御苦労にすり替えてしまっては、『歎異抄』後序

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ

も軽くなってしまいます。

これでは、

19願も阿弥陀仏が建てられた本願のうちの1つではないのか

という反論が当然あるでしょう。その反論は、聖道門の学僧が法然上人を激しく非難した内容なのです。

承元の法難の直接的な切っ掛けとなった『興福寺奏状』には、

ここに専修、此のごときの難を蒙らんの時、万事を顧みず、ただ一言に答へん、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」と。何ぞ爾許の大願を隠して、ただ一種を以て本願と号せんや。

とあり、18願だけと仰った法然上人は間違っていると攻撃しました。高森会長は、浄土門の怨敵なのです。

親鸞聖人は、19願は聖道門の人を浄土門に誘引する願と教えられました。もちろん、これは親鸞聖人が考え出されたことではなくて、善導大師、法然上人の解釈を承けられてのことです。

しかし19願に留まったままでは、阿弥陀仏の本意に反しますので、18願1つを願い求めよと歴代の善知識方は異口同音に仰っているのです。
18願を随自意の願と言い、19願・20願を随他意の願と言います。
19願・20願は阿弥陀仏の本意ではありませんが、自力に拘る人がいますので、それらの人に応じて建てられた願ということです。
ここまで教えられても19願・20願に拘っている人がありますので、その人は化土往生させるというのが、19願・20願です。
真実の行信により真実の報土往生を遂げさせて頂けますが、方便の行信によっては方便化土往生という利益になるのです。

いわば、18願での往生を願うことを拒否して19願・20願の方便願を願う人でも、それなりの利益を与えて下されるのが、阿弥陀仏のお慈悲なのです。そのことを『御消息』

仏恩のふかきことは、懈慢・辺地に往生し、疑城・胎宮に往生するだにも、弥陀の御ちかひのなかに、第十九・第二十の願の御あはれみにてこそ、不可思議のたのしみにあふことにて候へ。仏恩のふかきこと、そのきはもなし。

と仰っておられるのです。

聖道門的な本末転倒思考では、浄土真宗など理解できる筈もなく、いつまでも金集め人集めのための外道教義を説き続けることでしょう。

会長も会員も哀れなものです。

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2011年2月 1日 (火)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り10

次から次へと訳の判らない財施が要求され、行事の誘いの目標を課せられ、熱心な会員でも不満を持っていると聞きます。
それが当然の思いでしょう。

雑行が出てこなければ、雑行は捨てられない

と、高森会長は、詭弁の珍説を未だに述べています。
高森会長の理論はこうです。

  • タバコを吸わせて体に悪いことを知らせてからでなければ、タバコをやめさせることはできない。
  • 麻薬や覚醒剤をやらせて、心身ともにボロボロになってからでなければ、麻薬や覚醒剤をやめさせることはできない。
  • 自殺をさせてみてからでなければ、自殺を止めることはできない。

通常の思考なら、タバコを吸っている人も吸わない人も、麻薬や覚醒剤をやっている人もやっていない人も、自殺を試みた人も考えていない人も、共通にやめましょう、と呼びかけて、それがおかしいと思う人はいません。タバコ、麻薬、覚醒剤で体を壊してからでは手遅れですし、自殺してしまった人に自殺をするなと教える人はいません。当たり前のことです。

親鸞聖人、蓮如上人は、雑行をしている人もしていない人にも、雑行では往生できないから捨てよとしか教えられていないのです。一度雑行をさせてみて、などと愚かなことを仰る筈がありません。高森会長は、伊藤康善師、大沼法竜師、香樹院師以外の真宗関係の本を読んだことがありませんので、親鸞聖人、蓮如上人がどのように教えられているかを知らないだけのことです。もし知っていたら、恥ずかしくてこんな珍説を唱えることを躊躇するでしょう。

30年前の本願寺との法論の際、本願寺から、「親鸞聖人が獲信のために善を勧められた文証を出せ」といわれて、高森会長が七仏通戒偈や『観無量寿経』を示すという邪道振りに、本願寺は呆れました。それは、聖道門が法然上人を非難した内容そのままであるからです。

これまで何度かそれについては述べてきました。

「汝何ぞ天下の諸人を以て皆下劣の根機と為す乎」との明恵高弁の言葉を知っていますか?
会員との問答(聖道門と浄土門の違い)

しかし、このように説明する以外に、会員に善という建前で、金集め、人集めをさせる理由が無くなってしまいますので、外部からの批判を聞かないようにしているのでしょう。

前回の子供と瀬戸物の喩え話は、聖道門の人のことですが、それを親鸞会の会員に適用するとどうなるか。

力の弱い子供は言うでしょう。
「お母さんは、僕にはこのお皿1枚も持てないと言ってたじゃないの。こんなたくさんの皿なんか持てないよ。」
しかし、母親は言います。
「嘘を言ってはいけないよ。坊やは、これだけの皿くらい持てると本当は思っているのでしょう。一回持ってみなさい、そうすれば持てないことが判るから。」
子供は嫌がります。
「嫌だよ、持てないことくらい判ってるよ。僕、疲れてるから歩きたくもないんだよ。」
母親は子供に厳しく叱りつけます。
「そんなに甘えているなら、御飯もおやつも、これからは無しよ。持ちなさい。」
子供は泣きながら
「そんなの嫌だよ。じゃあ、お皿1枚だけ持つよ。」
子供に皿1枚を持たせて、
「まだ持てるでしょ。はいこれも。」
皿をもう1枚子供に持たせます。
「もう無理。許してよ、お母さん。」
お母さんは益々厳しく
「じゃあ、御飯もおやつも要らないのね。まだこんなにお皿が残ってるじゃないの。このお皿を落としたら、飲み物もおもちゃも無しよ。」

これが高森会長と会員とのやりとりです。

最近高森会長は、真実の善と雑毒の善について詳しく説明しているといいます。

真実の善はできないが、雑毒の善はできる。雑毒の善でもしなければ、良い結果は返ってこない

と。

会員は、真実の善ができないと判っています。判っていなければ、親鸞会の話など聞く訳がないです。雑毒の善ができるのだから雑毒の善をせよ、と言ったところで、往生・獲信となんの関係があると言うのでしょうか。関係を言えないから、

善をしなければ良い結果が返ってこない、真宗が衰退しているのは善を勧めないからだ

と的外れの説明しかできないのでしょう。
高森会長は根拠を出せません。ないからです。

なお、雑毒の善が宿善になるのであれば、善は間違いなくできるのです。雑毒の善ができるのなら、無善ではありません。善導大師が仰るように、「善根薄少」です。真実の善ができないことと必堕無間は、意味が違います。龍樹菩薩は、真実の善はできませんでしたが初地まで到達せられて六道を自力で出離されています。

高森会長が前回の2000畳座談会で

阿弥陀仏が無量光明土に生まれる足しにならない善を19願で勧めておられるのか?

という自問に対して

それは弥陀のお計らいだ
わからないから納得出来るように説明せよという人は弥陀より偉い人で、弥陀に救われる必要のない人だ

と思考停止を会員に要求しています。
このような聖道門的質問に対して、親鸞聖人は詳しく答えておられますが、聖教を読んだことのない高森会長は、愚問愚答をして会員を騙せたと得意気なのでしょう。退会者から見れば喜劇ですが、会員にとっては悲劇です。

さて、この子供はこの後、どういった選択肢があるでしょうか。

A.皿を放り投げて反抗し、母親に捨てられる。
B.適当なことを言って皿を母親に返し、その隙に自ら走り去る。
C.皿を持てば、いつか空から飴が降ってくることを期待して、泣きながら母親に従う。

虐待する母親に対して、子供はどれを選択するのがよいと思われますか。子供を虐待する母親しか知らなければ、しかないのでしょうが、普通の母親を知り、自分を保護してくれる優しい人がいることを知っているのなら、を選択して欲しいと思います。すでに多くの子供が、の方法で、この母親から逃れて、保護されています。

願わくば、虐待の母親の元を離れて、阿弥陀仏という間違いのない保護者の元に行って下さい。

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