19願で阿弥陀仏が勧められている善は雑毒の善だ?????
最近の高森会長のトンデモ珍説について、またまたコメント欄で教えて頂きました。
先日の2000畳でも
「19願で阿弥陀仏が勧められている善は雑毒の善だ」との発言がありました。
一応、“仏様の目から見たら”とか、“結果的にそうなる”とも言ってましたが。
出来ないと分かっているから雑毒の善を勧めるっていうのはどうも理解に苦しみます。
会長流のロジック?としては、
・十方衆生は煩悩具足。阿弥陀仏はそれを知っている
※勿論、十方衆生=全人類との解釈。
↓
・煩悩具足の者は雑毒の善しかできない。
だから十方衆生が真実の善を出来るわけがない。
↓
・十方衆生が真実の善を出来ないと知っている阿弥陀仏が
真実の善を勧められるわけがない。
↓
・阿弥陀仏が十方衆生に19願で勧めている
↓
・阿弥陀仏が19願で勧めている善は雑毒の善。その後が…。(^^ゞ
喩え話を作ったみたいで。
(1)月への切符 ― 月へ行ける ― でも1枚しかない
(2)地球上どこでも行ける切符。鉄道・飛行機等々。でも月には行けない ― 何枚あっても良い。あればあるだけ便利(1)は真実の善、(2)は雑毒の善を喩えたものらしいです。
月とは無量光明土を喩えたもの。(1)についてはほとんど触れず、(2)については“あればあるだけ良いもの、便利なもの”と強調していました。
雑毒と言っても、無量光明土に行けないだけ。
毒の混じった善でも、善は善。やればやっただけ自分に返ってくる。“損はない”
雑毒と言って嫌っていたら幸せになれない。因果の道理だから全部自分に返ってくる。今日の道俗は聴き誤って善をしない方が良い!と言っているから、この世からジゴクだとも言ってましたよ。
(2)の切符、あったらあっただけ良い
↓
月(無量光明土)に行くのにどれだけあっても邪魔にならない
↓
邪魔になるなら弥陀が勧められるはずないし、
釈迦が一代かけて(善の勧めを)説かれるはずがない。ということで善の勧めを正当化しているみたいです。
“あればあるだけ良い”とか“損はない”とか
そんな幸せを求めて聞いている人いないのに、これを善の勧めを正当化する理由にするのはおかしいですよねそれを無理やり
「邪魔になるなら弥陀が勧められるはずない」と言って往生・獲信と関係づけて納得させようとして、
言っていることが破綻しているとしか思えません。“あればあるだけ良い”とか“損はない”という心はまさに罪福を信じる心で、戒めておられると思うのですが、
親鸞会では罪福を信じる心とは因果の道理を信じる心で深ければ深いほど良いって教えてますよね。
信仰のバロメーターとか言って。やっぱり、親鸞会教義が「善の勧め」が大前提の教えだからですかね?
こんな話を聞いておかしいと思わない人は、昔から高森会長の話を理解しようという気のなかった人か、思考能力が元々乏しいもしくは衰えてしまった人ではないでしょうか。
切符のたとえで言えば、月に行ける切符を手に入れるために地球上どこでも行ける切符を何枚持っていようがいまいが関係ないと高森会長も教えています。
しかし阿弥陀仏が地球上どこでも行ける切符を集めるように勧めておられるのだから、集めた方がいいけれど、結局のところ月に行くことと地球上どこでも行ける切符の有無多少は関係ないのですから、集めたい人は集めればいいだけのことです。
高森会長は、自分でも言っていることが判らなくなっていると思いますが、結論として親鸞会で勧める善(雑毒の善)は往生・獲信のためにはしなくてもよい、ということになります。
従って、命懸けで善をする必要はなく、財施・法施を強く勧められる筋合いは全くないことになります。なぜなら単にこの世の幸せのためだけですから、何をさておいてもしなければならないものではありません。
もう少し丁寧ににいえば、雑毒の善は、趣味や生き甲斐、相対の幸福を獲るための手段に過ぎませんので、雑毒の善は往生・獲信のためにはしなくても全く問題にはなりません。
もし、趣味、生き甲斐、相対の幸福を獲るためであれば、回りくどい”無駄な投資”をしなくても、直接、趣味、生き甲斐、相対の幸福を獲るためにお金を使えば相当に効率よく趣味、生き甲斐に楽しめ、相対の幸福を獲ることができるでしょう。
幹部会員なら年間200万円程の金額を親鸞会関係で費やしていますし、週丸1日以上の時間を拘束され、普段の仕事以上の体力を消耗して、さて今までどんな幸せが獲られたでしょうか?
もしそれを趣味や生き甲斐、相対の幸福に直接振り向けていたら、相当の結果が獲られる筈です。
貯金をしていたら、会員歴の長い人は何千万円が貯まっているでしょう。立派な住宅を手に入れることもできますし、事業を起こすことも、アパート・マンション経営だって可能です。会社勤めなら、今よりもずいぶん出世しているのではないでしょうか。それこそ、地球上のどこでも、どの秘境へも頻繁に旅行できます。
社会のためと思うのであれば、しかるべき所へ寄付をすればいいでしょう。
高森会長が法話、座談会で延々と話をしている”善の勧め”は、趣味や生き甲斐、相対の幸福を獲るためのものであるならば、お金と時間と体力を使ってまで聞く価値はないことにもなります。
趣味、生き甲斐、相対の幸福を獲るために釈尊が聖道門や定散二善を説かれ、阿弥陀仏が19願を建てられたと高森会長が主張するのであれば、それは仏教を根底から否定する邪義です。
しかも、その主張はこれまでの高森会長の”教え”とは完全に矛盾しています。
善を勧めるのは
- 真実の善ができないことを知らせるため
- 宿善を厚くするため
- 三願転入するため
と言ってきましたが、これを撤回しなければなりません。そんな簡単に主張を変えてもいいのでしょうか、高森会長?
思いつきで話をするのは昔からですが、ここまであからさまなに矛盾した話を聞いて、多くの会員が会長への礼状に、
地球上どこでも行ける切符(雑毒の善)は、あればあるだけよいと釈尊は45年間教えて下され、阿弥陀仏は命を懸けて地球上どこでも行ける切符(雑毒の善)を勧められた19願を建てて下されたことが知らされました
とでも、喜んで書くのかと思うと、笑うに笑えないギャグです。
蓮如上人は『御文章』2帖目第7通で、
人界の生はわづかに一旦の浮生なり、後生は永生の楽果なり。たとひまた栄華にほこり栄耀にあまるといふとも、盛者必衰会者定離のならひなれば、ひさしくたもつべきにあらず。ただ五十年・百年のあひだのことなり。それも老少不定ときくときは、まことにもつてたのみすくなし。これによりて、今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。
と教えられています。
地球上どこでも行ける切符ではなく、
月に行ける切符を求めなさい
これが釈尊、善知識方の教えです。
地球上どこでも行ける切符をたくさん集めなさい
これは新興宗教の教えです。親鸞会は新興宗教となりました。
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コメント
残念ながら親鸞会会員の集めている切符では、富山のカルト本拠地にしか行けません。
投稿: ぱぱ | 2011年2月 6日 (日) 22時11分
切符の譬えは、講師部の会合で披露され、それを支部の会合で支部長が得得と紹介してました。我が支部長はいざ知らず、IQの高い専任講師もいるのに、こんな譬えを可笑しいと思わないのでしょうか?昔の嘘はもう少し辻褄が合うよう手が込んでいた様に思いますが、近年の会長の智力・判断力には、明らかな衰退が認められます。こんな人に長年付き合って来た自分が情けないです。もうすぐ退会します。このホームページのお陰です。
投稿: そろそろ | 2011年2月 6日 (日) 22時56分
飛雲さんと親鸞会との公開法論に期待します。
投稿: 名無し | 2011年2月 7日 (月) 00時37分
ぱぱ 様
なるほど、御尤もです。
そろそろ 様
講師部員には何も期待していません。「阿弥陀仏の本意は19願だ」、と会長が言ったら、「そうとは知りませんでした」、と真受けにするような人たちです。
私は思考能力のある一般会員に期待しています。退会の力になれれば幸いです。
名無し 様
今まで、何度も講師部員(陰で会長が操作)、自称獲信者とも法論をしてきて、当ブログでも公開してきました。親鸞会は完全に逃げています。法論に応じるな、と厳しい会長の”御指導”があるようです。会長の”御指導”を無視できる蛮勇の講師部員か、一般会員が出て来れば、いつでも応じます。
投稿: 飛雲 | 2011年2月 7日 (月) 07時14分