« 批判をかわすためのその場凌ぎ教義 | トップページ | 『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り9 »

2011年1月27日 (木)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り8

教えを捻じ曲げても平気なのは、自己の名利のことしか考えていないからです。金集め、人集めが、往生と何の関係もないことは、少しでも聖教を読んでみれば判る話です。

高森会長が35周年記念大会で三願転入を言い始めるまでは、宿善のことを強調していましたが、共に目的は同じです。

さて、中断していました『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤りについて、もう少し述べてみたいと思います。

親鸞会の本意である”善のすすめ”を隠すために、『顕真』昨年の12月号と今年1月号は”聴聞のすすめ”に徹しています。”善のすすめ”を言わなければ、おかしいことを言っていても、それほど非難される事はないと思っているのでしょう。
それでも問題はいくつもありますが、大きな問題だけを取り上げておきます。

善導大師は、「ユルサレテキク」(聴)から、
弥陀の勅命を「シンジテキク」(聞)までの心
(信仰)の道程を、「二河白道の譬喩」でこう
開顕されている。

(中略)

「白道」は、聞法心(弥陀の救いを求める心)
を喩えたものだが、求める心があっても微弱だ
から四五寸の細い道と、説く。
「群賊」や「悪獣」とは、聞法心を妨げるすべ
てのものを表す。

(中略)

これは十方衆生が弥陀に救われるまでの信仰
(心)の道程を、巧みに教えられた善導大師の
有名な警えである。

如何でしょうか。高森会長の話しか聞いた事がない人は、どこが問題なのかと思われるかも知れませんが、二河白道の譬喩が根本的に間違っています。

二河白道の譬喩については、

「親鸞会教義の誤り」
宿善とは7
宿善とは8

に解説がありますので、詳しくはそちらを御覧下さい。
二河白道の譬喩は、信心守護の譬喩ですから信後のことを表すために作られた話です。
三定死は、こちらの岸にいる時のことで、白道に一歩足を踏み出した時が、獲信です。白道は聞法心ではなく、信後の他力信心です。

このように「高森会長の説明とは大きなずれがあります。

このように言いますと、喩えにはある程度の自由度があってもいい、と思考停止の会員は反論してきますが、意味がまるで違ってきてしまうから、大問題なのです。

高森会長は、白道を聞法心、信仰の道程としていますので、水の河と火の河の煩悩と戦うのが求道であり、聴聞だと教えますが、その考えが全くおかしいのです。煩悩と戦うのは、聖道門の考え方です。親鸞聖人の教えに、煩悩と戦って求道する、聴聞する、ということはありません。

そのことを最も端的に表現されたのが存覚上人の『持名鈔』です。

されば仏法を行ずるには、家をもすて欲をもすてて修行すべきに、世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて、ながく輪廻の故郷をはなれんことは、ひとへにはからざるさいはひなり。

聖道門では、「家をもすて欲をもすてて修行すべき」と教えられるのですが、真宗では「世をもそむかず名利にもまつはれながら」、世の中の倣いにしたがって名利に執着しながら、「無上の仏法をきをききて、ながく輪廻の故郷をはなれんこと」ができるのです。煩悩と戦ってというのではなく、煩悩にまみれたまま聴聞するのです。だからといって、悪をしていいということではないです。

『持名鈔』といえば、『教学聖典』の問答

(問)
 「後生の一大事は、どんな犠牲を払っても解決せね
 ばならぬものである」と教えられた、存覚上人の
 お言葉と、その根拠を示せ。

(答)
 ○仏法の為には身命をも捨て、財宝をも惜しむ
  べからず。
                        (持名鈔)

が典型的な断章取義であることを、過去に述べています。

典型的な断章取義教学
恩徳讃の気持ちのない悪知識

命をかけて求道せよ、財産を親鸞会にすべて捧げよ、という教えにすり替えていますが、全くのデタラメであり、捏造ともいえる程の断章取義です。

これも、二河白道の譬喩と同じ目的で、教えが歪められています。

真剣な聴聞を勧めることで留めておけばいいものを、命がけの法施と財施を、一切衆生必堕無間とセットで強要します。更には、善知識への無条件服従を加えて、カルト教義となります。

このように高森会長が教えを歪めるのは、会員に信心獲得させたい慈悲ではありません。会長がお金を獲得する欲望のみです。

もし嘘だと思うのならば、超豪華で不相応な会長施設の数々を見てみれば判ります。実物は秘密にしてありますが、図面と概要は「さよなら親鸞会」に載っていますし、当ブログでも紹介しました。

三つの髻をそりすてずは、法師といひがたし
財施は獲信のためではなかったと、高森会長は身をもって教えてくれています
高森会長が雑行を勧める理由

|

« 批判をかわすためのその場凌ぎ教義 | トップページ | 『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り9 »

コメント

次は『愚禿鈔』の

>「白道四五寸」といふは、「白道」とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、
>白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。
>黒とは、すなはちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道なり。

を引用して、
白道とは「六度万行、定散」だ!とか言い出すんでしょうかね。直後の「これすなはち自力小善の路なり。」は勿論断章して。

ここでは白道という単語を、白に対して黒、道に対して路という対立概念の語を出すことで、他力=白道であり、
六度万行、定散・自力小善=白路であり、六趣・四生・二十五有・十二類生=黒道である、
つまり真・仮・偽をハッキリさせてるだけで、むしろ「六度万行、定散・自力小善=白路=白道ではない」根拠にしか
ならないんですけどね。

投稿: | 2011年1月28日 (金) 19時41分

名無し 様

コメントありがとうございます。

>白道とは「六度万行、定散」だ!とか言い出すんでしょうかね。

実際に一部の講師部員は、そのように説明しているそうです。
親鸞会が次に言ってくることが読めてますので、理論的に負かすのは簡単です。
ただ、訳の判らないことをグダグダいつまでも言い続けるのが、嫌ですけどね。

投稿: 飛雲 | 2011年1月28日 (金) 20時18分

親鸞会の法話では、今後は二河白道の譬は聞かれなくなるでしょうね。今や話せばそのウソがバレる可能性大ですから。(顕真にはウソにならない程度の大まかな表現の文章が載っていましたが)
今まで高森会長が法話で何十回、何百回と二河白道の話をしてきたはずですが、会員から全く疑問が出なかったのは、いかに会員が「教学聖典」のみに親しみ、「お聖教」に親しんで来なかったかを表していますね。もちろん親鸞会からそのように指導ならぬ誘導がなされていた訳ですが。

投稿: 広島の名無し | 2011年1月29日 (土) 07時41分

広島の名無し 様

厚顔無恥ですから、二河白道の話をするのかしないのか、するとすれば今後どのような話になるか楽しみです。
白道を信前とする根拠は、どこにもありません。あるのは、伊藤康善師の『仏敵』

「だれでもその関所を通るのです。今が、二河白道の真ん中へ出た味です。前へ進むには進まれず、後へ帰るには帰られず、じっと止まるにも止まられずという三定死の苦しいところです・・・が、今しばらくの辛抱です。この聞信の一念は、弥勒菩薩などが行われる百大劫の修行の代わりですからね・・・」

です。『教行信証』を読んだ事がないのが、バレバレです。
情けないものです。

投稿: 飛雲 | 2011年1月29日 (土) 21時40分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 批判をかわすためのその場凌ぎ教義 | トップページ | 『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り9 »