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2011年1月15日 (土)

自称獲信者との論争2

mixiに登録されている方は、実際のやりとりを読まれればいいと思いますが、登録していない方のために、解説を入れながら紹介しています。

自称獲信者なおたん氏は、地獄と書かれた『御文章』と後生の一大事を盾に取って、死後は地獄である事を証明しようと必死になりました。

蓮如上人、御文章 一帖目~

かくの如く、坊主と門徒の間において、更に当流の信心の心得の分はなし。まことにあさましや。
⇒師・弟子ともに極楽には往生せずして、空しく地獄んい堕ちんことは疑いなし。
歎きてもなほあまりあり。悲しみてもなほ深く悲しむべし。
 

これが脅しで書かれたものでしょうか??

二帖目二通にも、

この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなりと仰っています。

EMSさんが仰っておられた、
後生は永生の楽果なりという意味で書かれている所は、

一帖目十一通の最後の方にあります。

然れば、今日よりのちは、他力の大信心の次第をよく存知したらん人に相尋ねて
、信心決定して、その信心の趣を弟子にも教えて、
 

⇒諸共に今度の一大事の往生を、よくよく遂ぐべきものなり。
あなかしこ。あなかしこ。

他にも、『信心をとりて弥陀をたのまんと思いたまわば』とあります。

信心をとる者とは、生きている今、信心決定して、阿弥陀仏に救われた人にとっては、後生の一大事は、死んで弥陀の浄土に往生するという一大事です。

EMSさんが仰っている一大事とは、この事だと理解できます。

後生の一大事という言葉の意味として、
蓮如上人の御文章に書かれている前後の文章によって、
二通りの意味に使われてることになります。

一つは、生きている現在、阿弥陀仏から、まことの信心を賜って、死んで弥陀の
浄土に往生するという一大事。

もう一つは、先に述べましたように、無間地獄に堕ちるという一大事です。

また、二帖目十通には、次のように述べられています。

それ、当流親鸞聖人の勧めまします所の一義の意というふは、先ず他力の信心をもって肝要とせられたり。この他力の信心というふことを詳しくしらずば、
今度の往生極楽は、真に以てかなうべからずと、経、釈ともに明らかに見えたり

蓮如上人も、往生極楽は、真にもってかなうべからずと仰っているのも脅しではありません。事実だからです。

答えていわく、「そもそも、当流の他力信心の趣(おもむき)と申すは、あながちにわが身の罪の深きにも心をかけず、ただ阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、かかる十悪、五逆の罪人も、五障、三従の女人までも、皆たすけたたまへる不思議の誓願力ぞ」と深く信じて、更に一念も本願を疑う心なければ、かたじけなくも、如来のよく知ろしめして、既に行者の悪き心を、如来のよき心と同じものになしたまうなり。この謂をもって『仏心と凡心と一体になる』といえるはこの意なり。

とあります。

以上の根拠によって、このように、親鸞聖人のみ教えについてを私は、理解しておりますが、それでも、これをEMSさんが、文底秘沈だと仰るのであれば、致し方ありません。

以上は断章取義による解釈です。当ブログでも取り上げてきましたので、読者の皆さんならば、トリックに気が付かれると思います。
なおたん氏が、本気で自分の言っている事が正しい、と思っているのか、もしそうなら知能を疑います。
EMS氏は、簡単に反論しています。

先ほどの私のコメントを読まれましたか。

>私は多くの根拠を出しました。私の出した根拠に対して、解釈がどう違うのか指摘してください。そうでなければ、浄土真宗を信じている人とは言えません。

法然上人、聖覚法印、親鸞聖人のお言葉は無視ですか?

自分に都合のよい根拠のみを示して、他の根拠との整合性をもたせないから、いい加減な解釈になるのです。断章取義されていますが、他の御文章では、地獄に堕ちると仰っているのは、異安心、邪義の者に対してです。

これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もってのほか相違す。そのゆえは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といい、これを信心のひとといえり。これおおきなるあやまりなり。また弟子は、坊主にものをだにもおおくまいらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきようにおもえり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあいだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに、極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことはうたがいなし。(1帖目第11通)

それ越前の国にひろまるところの秘事法門といえることは、さらに仏法にてはなし。あさましき外道の法なりこれを信ずるものは、ながく無間地獄にしずむべき業にて、いたずらごとなり。(2帖目第14通)

誰に対して地獄に堕ちると書かれていますか?
邪義、異安心の者に対してですね。それは理解できますか?

一方

されば、死出の山路のすえ、三途の大河をば、ただひとりこそゆきなんずれ。(一帖目第十一通)

はやめにみえてあだなる人間界の老少不定のさかいとしりながら、ただいま三途八難にしずまん事をば、つゆちりほども心にかけずして、(二帖目第一通)

されば、五道六道といえる悪趣に、すでにおもむくべきみちを、弥陀如来の願力の不思議として、これをふさぎたまうなり。(二帖目第四通)

と、一般論として死後は六道輪廻、あるいは三途(三悪道)に行くと仰っています。つまり、すべての人が死んで地獄に堕ちるという意味では仰っていないのですから、無間地獄に堕ちるという一大事という解釈は最初から成り立ちません。

単なる思い込みにしか過ぎません。

後生の一大事については、

まづ人間はただ夢幻のあひだのことなり、後生こそまことに永生の楽果なりとおもひとりて、人間は五十年百年のうちのたのしみなり、後生こそ一大事なりとおもひて、もろもろの雑行をこのむこころをすて、あるいはまた、もののいまはしくおもふこころをもすて、一心一向に弥陀をたのみたてまつりて、そのほか余の仏・菩薩・諸神等にもこころをかけずして、ただひとすぢに弥陀に帰して、このたびの往生は治定なるべし (1帖目第11通)

もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。(1帖目第11通)

ただし人界の生はわづかに一旦の浮生なり、後生は永生の楽果なり。たとひまた栄華にほこり栄耀にあまるといふとも、盛者必衰会者定離のならひなれば、ひさしくたもつべきにあらず。ただ五十年・百年のあひだのことなり。それも老少不定ときくときは、まことにもつてたのみすくなし。これによりて、今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。(2帖目第7通)

この他力の信心ということをくはしくしらずば、今度の一大事の往生極楽はまことにもてかなふべからず。(2帖目第10通)

いそぎてもいそぎてもねがうべきものは後生善所の一大事にすぎたるはなし。(帖外御文)

とあります通り、往生の一大事です。おわかりですか?

なおたんさんの挙げた根拠の解釈もおかしいです。

それ、当流親鸞聖人の勧めまします所の一義の意というふは、先ず他力の信心をもって肝要とせられたり。この他力の信心というふことを詳しくしらずば、
今度の往生極楽は、真に以てかなうべからずと、経、釈ともに明らかに見えたり

他力の信心というふことを詳しくしらずば、今度の往生極楽は、真に以てかなうべからず

【】の部分を抜かしていますが、信心決定しなければ、往生極楽は、真にもってかなうべからずと仰っているのですから、何も私の説明と矛盾しません。

答えていわく、「そもそも、当流の他力信心の趣(おもむき)と申すは、あながちにわが身の罪の深きにも心をかけず、ただ阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、かかる十悪、五逆の罪人も、五障、三従の女人までも、皆たすけたたまへる不思議の誓願力ぞ」と深く信じて、更に一念も本願を疑う心なければ、かたじけなくも、如来のよく知ろしめして、既に行者の悪き心を、如来のよき心と同じものになしたまうなり。この謂をもって『仏心と凡心と一体になる』といえるはこの意なり。

このお言葉と私の説明とどこに矛盾が生じると言いたいのかわかりませんが、【かかる十悪、五逆の罪人も、五障、三従の女人までも
というところでしょうか。【までも】の意味はおわかりですか?

すでに負けているのに、いつまでも言い訳のような屁理屈を言い続けるのが、親鸞会の特徴です。
すべての人が必ず地獄に堕ちないのであれば、後生の一大事が無間地獄に堕ちる一大事になる筈がありません。一部の人にしか当てはまらない後生の一大事を強調される意味がないのです。

このやり取りを、簡潔に言えば、

EMS氏:法然上人、聖覚法印、親鸞聖人は必堕無間を否定されていますよ。後生の一大事とは、往生の一大事のことです。

なおたん氏:蓮如上人が後生の一大事と仰っているのは必堕無間のことですから、すべての人は必堕無間になるのです。

EMS氏:蓮如上人は邪義・異安心の人に対して地獄に堕ちると仰っているのですから、必堕無間の意味で後生の一大事を言われることはありません。後生の一大事とは往生の一大事のことです。

親鸞会の人は、理論が破綻していても完璧な理論と思い込む癖があるようです。

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コメント

すいません、親鸞会で活動していると法謗罪とのことですが、
そうすると無間地獄に親鸞会の人は堕ちるんですか?
この場合の無間地獄はどのようなものなのでしょう?
訳わからない質問かもしれません・・・

投稿: まさ | 2011年1月15日 (土) 22時28分

すいません、飛雲さんが仰っている無間地獄って
どのようなものなのでしょう?
そもそも地獄ってなんなのでしょう?
馬鹿みたいな質問ですみません。

投稿: まさ | 2011年1月15日 (土) 22時32分

まさ 様

『正像末和讃』

念仏誹謗の有情は
 阿鼻地獄に堕在して
 八万劫中大苦悩
 ひまなくうくとぞときたまふ


これと同様のことは、経典や七祖聖教にもたくさん説かれています。親鸞会は、明らかに念仏誹謗をしています。では、一般の会員も念仏誹謗で無間地獄に堕ちるのかといえば、親鸞聖人、蓮如上人のニュアンスは違います。

『末灯鈔』

念仏をとどめらるることに沙汰しなされて候ふらんこそ、かへすがへすこころえず候ふ。あさましきことに候ふ。ひとびとのひがざまに御こころえどもの候ふゆゑ、あるべくもなきことどもきこえ候ふ。申すばかりなく候ふ。ただし念仏のひと、ひがことを申し候はば、その身ひとりこそ地獄にもおち、天魔ともなり候はめ。よろづの念仏者のとがになるべしとはおぼえず候ふ。よくよく御はからひども候ふべし。なほなほ念仏せさせたまふひとびと、よくよくこの文を御覧じ説かせたまふべし。


『御文章』1帖目第11通

これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もつてのほか相違す。そのゆゑは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といひ、これを信心のひとといへり。これおほきなるあやまりなり。また弟子は坊主にものをだにもおほくまゐらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあひだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことは疑なし。


教えを説く立場の人に対して、地獄といわれていますが、教えを聞いている人は地獄に堕ちる対象から外されています。
ここからは私の考えですが、騙す側と騙される側の違いではないかと思います。会員でも騙す側にいれば、地獄となるでしょう。


次に、地獄とは何かという御質問ですが、無間地獄を含めて、地獄は様々なところで説かれています。有名なのは『往生要集』ですが、あくまで地獄の苦しみをたとえたものであって、そのような場所があるということではありません。苦しみは自分の業で造り出す世界ですから、それぞれの地獄です。人間界でも、畜生に近い境界の人も、餓鬼界に近い人、地獄界に近い人がいます。ですから、地獄とは、非常に激しい苦しみを受け続ける環境に生れると理解すればよいと思います。経典や聖教で説かれていること以上の具体的なことは私の浅はかな智恵で知ることはできません。
なおたん氏のような、奇特な人なら知っているかも知れません。(もちろん嫌みです)

投稿: 飛雲 | 2011年1月16日 (日) 06時18分

飛雲さん、回答ありがとうございます。
実はわたし、自分が五逆罪と法謗罪を作って無間地獄に落ちるのかと
悩み、苦しんでいます。
親鸞会系の団体に所属していたんですが、善知識といわれる人の本や
テープを売ったりしていました。話を聞くだけでなく、いろいろと活動
していましたが、紅楳英顕氏の論文を読み、自分が信じていた教えは間違いだったのか
と考え、自分は法謗罪をつくってしまったのではと思い心を痛めています。
私は騙すつもりは全くなかったので、法謗罪ではないということでよろしいでしょうか?
また私は親とけんかして親に暴力をふるったことがあります。
飛雲さんは故意に親を殺せば五逆罪と仰っていますが、私は五逆罪をおかしたのでしょうか?
長々とすみません。かなり精神的に不安定になっていまして、わたしのような
悩みを抱えている人はどのようなところで相談すればいいのか知っていれば
教えていただきたいのですが。

投稿: まさ | 2011年1月16日 (日) 09時56分

また一回無間地獄におちたら、永久に無間地獄なのでしょうか。
己の悪を反省し、善をおこなえば、苦しい環境から抜け出せるということではないのでしょうか?仏教のことを何にもわからず、ひたすら信じていただけの私ですので、
意味不明の質問になっているかもしれませんが、飛雲さんが意味が分かる範囲で教えていただきです。

投稿: まさ | 2011年1月16日 (日) 10時05分

まさ 様

コメント読ませて頂きました。
謗法罪ですが、まささんのような方は、騙された側ですから、親鸞聖人、蓮如上人の仰る通りに理解されればよろしいと思います。
五逆罪についても、それが無間業とは教えられていません。

たとえ謗法罪を造ってきた者であっても、仏教に背を向けてきた者であっても、

謗法闡提回心皆往

と教えられますように、過去に行ってきた罪悪を懺悔して、阿弥陀仏の本願に向かうことで、往生できます。必堕無間を怖れるのではなく、浄土往生1つを願ってください。

釈尊は五逆罪を造ったアジャセに対して、地獄に堕ちるような罪ではない、とまで仰っています。キリスト教でいうような原罪思想は仏教にはありません。懺悔をせずに、五逆罪、謗法罪を造り続ければ必堕無間でしょうが、まささんは違います。

地獄に堕ちるのではなかろうか、ということは忘れて、浄土往生を願って、正しい教えを正しく聞いてください。必ず往生できます。
本願では「欲生我国」、本願成就文では「願生彼国」とある通りです。

これが浄土真宗です。

投稿: 飛雲 | 2011年1月16日 (日) 17時19分

ありがとうございました。

投稿: まさ | 2011年1月19日 (水) 19時24分

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