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2011年1月25日 (火)

真仮の水際を説けない高森会長(補足)

先日の2000畳座談会で、疑情とは19願に対する疑いである、などと高森会長が話をしたと聞きました。
驚嘆すべき邪説です。

真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。

とは、まさに高森会長のことをいいます。真実と方便の区別がまるで付いていません。

このことは、

「安心問答」
「本願を疑う心」の本願は「19願」「20願」「18願」のいずれか

で早速取り上げられていました。

18願に対する疑いを疑情というのです。19願ではありません。こんなことを一々説明しなければならないことでしょうか?

『正像末和讃』には、誡疑讃と呼ばれる御和讃が23首あります。これまで、何度も何度も、誡疑讃については述べてきました。
19願と20願を信じて、自力修善、自力念仏に励んでいる人について、

方便の行信⇒方便の利益(化土)

ということを繰り返し繰り返し、言葉を変えられて同じことを仰っているのです。誡疑讃23首のなかで、明らかに19願について仰ったのは以下の1首のみです。

自力諸善のひとはみな 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて 七宝の獄にぞいりにける


(現代語訳)

自分の力で善行を積み浄土往生を願う人はみんな、 言葉に尽くせない仏智の本願を疑うので、
善悪因果の道理に従って自分が作った原因を身に受けて、 七宝で飾られた疑城胎宮に止められるのです。

他は20願についてです。
つまり、親鸞聖人は誡疑讃では19願をあまり問題にされてもいません。
なぜなら、御和讃は同行向けに書かれたものであるからです。
一方で、『教行信証』は『摧邪輪』等の聖道門の学僧達に対する反論の意味が強いため、19願についても詳しく書かれています。
『教行信証』以外で、19願についてほとんど触れられていないのは、そのためです。
蓮如上人は19願について触れられていません。

真宗内でほとんど問題にもされない19願に対する疑いを疑情とするなど、真宗のイロハのイも知らない者の言うことです。

真仮の水際以前の問題です。

判らない会員が多いようですので、くどいようですがまとめておきます。
因果の道理を知っているなら

真実の行信⇒真実の利益(報土)

方便の行信⇒方便の利益(化土)

となるのは当たり前の理屈です。

高森会長のたとえを使うなら、

スイカの種を蒔かなければスイカはとれません。カボチャの種からはカボチャしかできません。カボチャの種を蒔いて、それがスイカの種になってスイカができることはありません。スイカが欲しければ、スイカの種を蒔きなさい、カボチャの種を蒔いてもスイカはできませんよ、ということです。

だから、方便の行信を捨てて、真実の行信をとりなさい、と教えられているのです。

ではなぜ方便の行信が説かれているのか、という疑問が起きるでしょうから、親鸞聖人は善導大師の解釈を承けられて、

『教行信証』化土巻

仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。

(現代語訳)

第十九願を方便の願とするのは、まことに意味深いことである。釈尊が『観無量寿経』に定善・散善を説かれ、善導大師がこれは浄土を慕い願わせるための方便の教えであると解釈されたおこころが、いよいよ明らかに知られるのである。

と教えられているのです。浄土を願っていない聖道門の人に浄土を慕い願わせるためなのです。

このことも、何度も何度も述べてきましたが、

また決定して、釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して人をして欣慕せしむと深信すと。

で簡単にまとめておきましたので、御参照下さい。

真仮が何も判らないのに、判ったように教えを説く人を悪知識というのです。

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コメント

とうとうここまで来たか。
一時は絶対の知識と思っていたのに残念でならない。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2011年1月25日 (火) 21時06分

予測されうる事態……

会長への手紙で
「本願を疑うとは18願ではなく19願だったのですね」
と手紙が殺到。

ネットで叩かれる

会長「わしゃそんなこと言っとらん」

また19願の解説

のループと思われます。

投稿: カウフマン | 2011年1月25日 (火) 21時26分

>先日の2000畳座談会で、疑情とは19願に対する疑いである、などと高森会長が話をしたと聞きました。
>驚嘆すべき邪説です。

ちょっとニュアンスが違うかと思います。
19願と言っても18願を離れての19願はないから19願に対する疑いも18願に対する疑いと同じことである。
という感じだったように思います。「疑情=19願に対する疑い」とは言ってなかったと思いますよ。

いつものように“三願転入のみ教え”の話ですから、19願を18願に上手く?重ねつつ話してました。

まぁ、おかしなことには変わりはないんですが。

外部の情報を見始めた人は特にですが、この微妙な違いで「インターネットはいい加減な便所の落書きだ」と
判断してしまう人もいると思うので。一応ですが…。


アシスタントがその話題を出した途端に休憩を促して、終了間際に思い出したように上記のことを言ってました。
都合が悪かったから休憩のあいだに切り替えし方を考えていたように思えてならないです。

当然だ的な態度で堂々と18願に絡めて話をしてくるので、外部情報に目をつぶっている人や見ていても
親鸞会以外は全て間違っているというレッテルを貼っている人は18願のみ心を聞いていると思い込んでしまうんですよね~。

僕が驚いたのは、「阿弥陀仏が無量光明土に生まれる足しにならない善を19願で勧めておられるのか?」という
自問に対して「それは弥陀のお計らいだ」と答えたことです。
「わからないから納得出来るように説明せよという人は弥陀より偉い人で、弥陀に救われる必要のない人だ」とも
言ってました。かなり強い口調で饒舌に話していたのが印象的でした。
こう言われると会員は疑問を持っていてもそれ以上は何も言えないですよね。支部長などに疑問を言った途端、
それは自惚れだと言われるのがみえてますからね。お聖教を拝読する気もないのですから、
もう思考停止しかないですよ。

「善を勧めておられる」という所を無理やり肯定するために「それは弥陀のお計らいだ」なんて…。
根拠も何もあったもんじゃないですよ。「代打、俺ならぬ根拠、俺」ですね。
根拠がないものは仏教ではないと常々言っておきながら、困ったら弥陀のお計らいではねぇ…。
自己矛盾も甚だしいです。

会長の理屈から言えば、

>『教行信証』化土巻に
>仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。

と19願についておっしゃった親鸞聖人が悪くなってしまいますよね。
この根拠は会内では絶対に出さないから何を言っても良いんでしょうね。
ワシの出さない根拠は教行信証に何が書かれてあっても根拠ではないのでしょう。


投稿: 仕方なく参詣した者 | 2011年1月25日 (火) 21時57分

とくよしみね 様
カウフマン 様
仕方なく参詣した者 様

コメント有難うございました。疑情とは19願だけのことを疑うこと、と言ったとまでは私も思っていませんでしたが、疑情に19願への疑いを入れる事は真宗ではあり得ないことです。18願と19願は内容がもともと違うので、一緒に考える事などできる筈がないです。

三願転入の教えの間違いを、当ブログも含めて、四方八方から攻撃されていますので、どう誤魔化そうかと無い智恵を絞って考えたのだと思います。
これまでの高森会長の話の変遷を見てみると、攻撃されるとそれに対応して、教えを変化させている事がわかります。つまり、高森会長は、親鸞聖人の教えを聖教によることなく、攻撃をかわすために創作しているのです。
長年、高森会長の話を聞いてきた人ならば、少なからず気が付いていることです。その矛盾に気が付かない不真面目な人、矛盾に気が付いてもそれを自分の問題として理解しようとしない思考停止の人だけが、親鸞会の”真面目な会員”として残っているのでしょう。

また貴重な情報を教えて下さい。

投稿: 飛雲 | 2011年1月25日 (火) 22時17分

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