『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り5
親鸞聖人は、「宿善」という言葉を御著書の中で使われていませので、真宗における「宿善」の定義は、覚如上人によってなされたといえます。
前回紹介しました『慕帰絵詞』に記された、覚如上人と唯善との論争についてもう少しみてみます。
この論争の結論については、
その後は互ひに言説を止めけり。
となっています。いわゆる玉虫色の決着です。といいますのは、覚如上人と唯善とは、「宿善」の定義が違っていたままの論争であったと思います。
覚如上人は、
宿善の故に、知識に会ふ故に、聞く其の名号・信心・歓喜乃至一念する時分に往生決得し、定聚に住し、不退転に至るとは相伝し侍れ。
と仰っているのに対して、唯善は
十方衆生と誓ひ給へば、更に宿善の有無を沙汰せず、仏願に遇へば、必ず往生を得るなり。さてこそ不思議の大願にて侍れ
との主張です。「宿善」の定義によって、両方とも正しいと言えるでしょう。
覚如上人が仰っている「宿善」とは
善知識に遇う因縁、18願の教えに遇う因縁
ということは前回述べました。
一方の唯善の定義は、
過去世の善根
という通仏教的意味です。
唯善は、過去世の善根と18願との救いは無関係であることを言われているのです。
覚如上人も『口伝鈔』で、
機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。
宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。
善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるところなり。しかればまつたく、往生においては善もたすけとならず、悪もさはりとならずといふこと、これをもつて准知すべし
たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。
と仰っています。過去世にどれだけ善をしてきたかどうかということは、往生・獲信とは関係がないことを強調されています。
つまり、覚如上人、唯善共に、親鸞会で教えているところの宿善論を完全に否定されているのです。
では覚如上人と唯善との根本的な違いは何かということになりますが、それは前々回紹介しました『口伝鈔』の
しかれば往生の信心の定まることはわれらが智分にあらず、光明の縁にもよほし育てられて名号信知の報土の因をうと、しるべしとなり。これを他力といふなり。
です。覚如上人は「宿善」を阿弥陀仏の光明によるお育て、と定義されているのです。
それを蓮如上人も引き継がれて、『御文章』2帖目第13通に
しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて他力の信心といふことをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御方よりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。
と仰っています。
阿弥陀仏の慈悲は平等でも、機がそれぞれ違うために、「宿善の機」「無宿善の機」と差ができてしまうのです。
覚如上人、蓮如上人が仰っている「宿善の機」とは、18願での救いを願い求めている人のことであり、「無宿善の機」とは、18願での救いを願わない人のことです。
「宿善の機」と「無宿善の機」の違いは、18願での救いを願うかどうかです。
善知識に遇わず、18願の教えに遇わなければ、救われることはありません。
「宿善の機」とは善知識に遇う因縁、18願の教えに遇う因縁のあった人です。
「無宿善の機」は善知識に遇う因縁、18願の教えに遇う因縁のない人、もしくは遇っていても信じる気持ちがなければこの因縁のない人です。
したがって、「宿善の機」に対してと「無宿善の機」に対しての話が違ってくるのは当然なことです。それで『御文章』3帖目第12通に
されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
と仰っているのです。
以上を踏まえれば、釈尊が八万四千の法門といわれる多くの方便を駆使された理由も、阿弥陀仏が19願、20願を建てられた理由も判る筈です。
18願を信じられない、18願を願う気のない「無宿善の機」に、18願を説いても誹謗するだけです。そのために、18願を信じて願い求める気持ちにさせるまでの手立てとして、権仮方便の聖道門、19願、20願が必要であったのです。
しかし、すでに18願を信じて願い求めている「宿善の機」には、わざわざ遠回りをさせる必要がありませんので、「宿善の機」に対しては18願1つを説き聞かせるのが善知識の役割になります。
親鸞会では、信前の人は同じ方便の道を通らなければならないと教えていますが、機が違うのですから、すべての人が同じ方便の道を通ることにはなりません。人それぞれ機が違いますので、釈尊は機に応じて「八万四千の法門」を説かねばならなかったのです。親鸞会でも対機説法という言葉は知っていますが、その意味を知らないのでしょう。
「無宿善の機」に対して説かれた「八万四千の法門」を「浄土の方便の善」「要門」「仮門」とまとめて仰ったのが、親鸞会の好きな『一念多念証文』のお言葉です。
おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。
権仮方便である「八万四千の法門」は「無宿善の機」に対して説かれ、真実18願は「宿善の機」に対して説かれていることも理解できないのですから、親鸞会はお粗末極まりないと言わざるを得ません。
これでも判らない人は、蓮如上人のお言葉をしっかり読んで理解しておきましょう。
この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
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