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2011年1月13日 (木)

自称獲信者との論争1

読者の方から、mixiの中でちょっとおもしろいことが起きていたと教えてもらいました。

歎異鈔コミュニティにある悪人正機トピック

で、親鸞会会員の自称獲信者なおたん氏と、元会員さん含む数人との論争です。
事の発端は、真宗を学んでいない人に対して、自称獲信者のなおたん氏がいつもの親鸞会邪義を並べたてた上で、最後に

過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまいし所(みもと)にして、自力の大菩提心をおこして、恒沙の善根を修せしめしによりて、今、大願業力にもうあうことをえたり』(唯信鈔文意)

果てしない過去に、ガンジス河の砂の数ほどの諸仏のもとで、一大事を解決しようと大奮発心をおこし、計り知れない善を行ってきた因縁により、
今、弥陀の大願業力に救い摂られることができたのである。という意味ですから、どうぞ引き続き地獄で、罪の償いでもなんでもなさってくださいませ。

有漏(うろ)の穢身は、変わらねど、心は浄土に遊ぶなりと親鸞聖人も仰せです
が、阿弥陀仏の本願に救われた者は、この世から、浄土で遊んでいるような楽し
い心で、日暮しさせていただき、縁が尽きれば弥陀の浄土に往相回向して、
仏果を得て後に、すぐさま、お浄土から還相回向して、今度は、衆生済度の活躍
これをご縁に、しょうちゃんさんを救いに、馳せ参じてさしあげますからね~♪
悪因悪果、自因自果で、無限に苦しみ続けるしょうちゃんさんが、地獄で罪を償
いますって、本気で仰っているのですから、仕方がありませんものね~。
一度地獄に入りて長苦を受くる時、初めて人中の善知識を憶う』というお言葉
が、大無量寿経にありますが、後悔だけは、なさいませんように。。。
9歳で、親鸞聖人が、後生の一大事の解決をしようと20年間、求めて、やっと
法然上人から、真実の仏教を聞き、阿弥陀仏の本願に救われて、地獄に行くとい
う一大事が、極楽に往くという一大事に大変わりした境地。聖人が、命がけで、
伝えられたのは、ひとえに、万人の後生の一大事があるからではありません
か??そして、身命を賭して伝えて下されたのは、その後生の一大事解決は、
必ず出来るからですよ。仏語に虚妄なしです。お釈迦様も三世諸仏のお一人です
が、三世十方の諸仏も、こんな悪のかたまりの私たちを一度は救おうと試みたの
ですが、当然、力及ばずでした。悪ばかり造りどうしの私たちが、極楽に行く
なんて、虫がよすぎる話しですものね~!
だから、とうとう、三世の諸仏は、自分たちの手に負えず、背相を見せて逃げて
行かれたのです。
蓮如上人の御文章二帖八通には、その事が、述べられています。
それ十悪五逆の罪人も、五障三従の女人も虚しくみな十方三世の諸仏の悲願に洩
れて、捨て果てられたるわれらごときの凡夫なり。
然れば、ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なれば、久遠実成
の古仏として、今のごときの諸仏に捨て果てられたる末代不善の凡夫、五障三従
の女人をば弥陀にかぎりて、「われひとり助けん」という超世の大願を発して
(おこして)、われら一切衆生を「平等に救はんと誓ひたまひて、無上の誓願を
発して(おこして)、已に阿弥陀仏と成りましましけり。この如来を一筋に
たのみたてまつらずば、末代の凡夫、極楽に往生する道、二も、三も有るべから
ざるものなり。これによりて、親鸞聖人の勧めましますところの、他力の信心と
云う事を、よく存知せしめん人は、必ず十人は十人ながら、皆彼の浄土に往生
すべし。

苦しみ続けている私たちを哀れに思われて、本願を建立してくだされたのが、
阿弥陀仏です。。
欲生我国(極楽に生まれたい)と思う心まで、阿弥陀仏の方から起こしてくださ
れているのです。それでも、罪をせせら笑われてしまうのなら仕方ありませんね
~。そんなに地獄がお好きなら、閻魔大王の前に突き出されて、赤鬼と、青鬼さ
んが、火の車にしょうちゃんさんを乗せて、地獄に連れて行ってくだされる
そうですから、どうぞお達者でね~!!

という、とんでもない暴言を吐いたことです。
仮にも仏法者を名乗る者が、こんな暴言を吐くことは許される筈もなく、元会員のEMS氏が昨年の年末に抗議と教義上の問題点を書きました。年が明けてから、なおたん氏が反論してしばらく議論が続きました。

当ブログの読者の皆さんならば、簡単に論破できる内容でしょう。
エントリーで取り上げるほどのこともないのですが、今回は自称獲信者ということでしたので、教義では勝ち目がないと体験談の連続という、これまでとは違ったパターンです。mixiが見れない方もありますので、参考までにポイントを紹介していきます。

もちろんすでに逃亡しています。

上記の暴言の前に

すべての人を十方衆生と言われ、信楽の身に救うと誓われた法蔵菩薩(すでに阿
弥陀仏となられています)が、建立して下されたお約束が、阿弥陀仏の本願で
す。悪のかたまりのわれわれの煩悩を断ち切って救って下されるのではなくて、
悪しか造れない、極重の悪人とハッキりと知らせて、
『いづれの行も及びがたき親鸞、とても地獄は一定住みかぞかし』と唯除された
一念の救いが、阿弥陀仏の本願の救いでした。ですから、
十悪、五逆罪、法謗罪の中に、私たちの悪という悪はすべておさまってしまうの
だと解釈しています。解釈だけでなく、信知させられました。

となおたん氏は書いています。それに対してEMS氏は以下のことを述べられました。

>十悪、五逆罪、法謗罪の中に、私たちの悪という悪はすべておさまってしまうの
>だと解釈しています。解釈だけでなく、信知させられました。

あなたはそのような奇妙な体験をされたのかも知れませんが、釈尊も親鸞聖人も、そのようなことはどこにも仰っていません。

親鸞聖人は御本典に涅槃経を引文された後、五逆罪についての解釈を
されています。

一つには三乗の五逆なり。いはく、
一つにはことさらに思うて父を殺す、
二つにはことさらに思うて母を殺す、
三つにはことさらに思うて羅漢を殺す、
四つには倒見して和合僧を破す、
五つには悪心をもつて仏身より血を出す。
恩田に背き福田に違するをもつてのゆゑに、これを名づけて逆とす。
この逆を執ずるものは、身壊れ命終へて、必定して無間地獄に堕して、一大劫のうちに無間の苦を受けん、無間業と名づくと。
 

阿闍世を通して、三乗の五逆罪を説明され、故意に親を殺すことを指して、「必定して無間地獄」「無間業と名づく」と仰っています。
つまり、故意に親を殺すような人ではない我々は五逆の者ではありません。
もちろん謗法の者でもありません。

法然上人は『往生大要鈔』で

われら罪業重しと云へども、いまだ五逆をばつくらず。 

と仰り、また『浄土宗大意』には、

五逆をもつくらさるわれらを、弥陀の名号を称念せむに往生うたかうへからず。 

ともあります。
聖覚法印の『唯信鈔』には、

五逆の罪人すら、なほ十念のゆゑにふかく刹那のあひだに往生をとぐ。いはんや罪五逆にいたらず、功十念にすぎたらんをや。 

とか、

われら、罪業おもしというとも、五逆をばつくらず。 

とあります。われわれは五逆罪を造っていないと善知識、獲信なされた方々は仰っています。

また観経に九品が説かれているのは、最下の五逆の者もいるという意味であって、全人類が最下の者であるとは、善知識方も全く仰っていません。観経くらいは読まれてから仰っては如何でしょうか。

とにかく、あなたの文底秘沈の解釈を堂々と持ち出しすのはやめて頂きたいです。
嘘の解釈を他人に押しつけるあなたのことを親鸞聖人は御消息で次のように仰っています。

弥陀の御ちかひにまうあひがたくしてあひまゐらせて、仏恩を報じまゐらせんとこそおぼしめすべきに、念仏をとどめらるることに沙汰しなされて候ふらんこそ、かへすがへすこころえず候ふ。
あさましきことに候ふ。
ひとびとのひがざまに御こころえどもの候ふゆゑ、あるべくもなきことどもきこえ候ふ。申すばかりなく候ふ。
ただし念仏のひと、ひがことを申し候はば、その身ひとりこそ地獄にもおち、天魔ともなり候はめ。
よろづの念仏者のとがになるべしとはおぼえず候ふ。
 

最後の2文
その身ひとりこそ地獄にもおち、天魔ともなり候はめ。よろづの念仏者のとがになるべしとはおぼえず候ふ。
で、「
念仏をとどめらるること」をしているのが誰のことか、懺悔されるべきでしょう。

理性があるならば、これで自己の間違いに気が付いて終わりになるのでしょうが、親鸞会思考に凝り固まった会員には理解できないようでした。

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コメント

釈尊が外道の者を破邪された時、その破邪のお言葉はおそらく厳しいものだったでしょうが、外道の者を真実に導こうとする慈悲があったことはまず間違いがありません。しかし、このなおたん氏の言い様は、「もちろん論敵に対しても慈悲はある」とはとても言い抜けられないものになっています。獲信しても小慈小悲さえ具わることはないとは言え。
"造悪無碍"の片鱗ありです。

投稿: 広島の名無し | 2011年1月14日 (金) 11時40分

読みました。
教えに合わない自分勝手な解釈や体験談を振り回して、人様に暴言吐いて、「それはおかしい」と批判されると、
非を認めるどころか、ますます出鱈目を並べて開き直り、しまいには被害者づらをして逃げるとは…
仏教以前に人間性が疑われますね。

主張してる体験談も、S会の教義安心のおかしさを如実に物語ってますね。

投稿: ハルトマン | 2011年1月14日 (金) 21時21分

広島の名無し 様
ハルトマン 様

自称獲信者は、五逆謗法の者と信知させられたといいながら、罪の意識が実に軽いのです。謗法罪をなんとも思っていない造悪無碍です。

後日エントリーで紹介しようと思っていましたが、『末灯鈔』に

はじめて仏のちかひをききはじむるひとびとの、わが身のわろくこころのわろきをおもひしりて、この身のやうにてはなんぞ往生せんずるといふひとにこそ、煩悩具足したる身なれば、わがこころの善悪をば沙汰せず、迎へたまふぞとは申し候へ。かくききてのち、仏を信ぜんとおもふこころふかくなりぬるには、まことにこの身をもいとひ、流転せんことをもかなしみて、ふかくちかひをも信じ、阿弥陀仏をも好みまうしなんどするひとは、もとこそ、こころのままにてあしきことをもおもひ、あしきことをもふるまひなんどせしかども、いまはさやうのこころをすてんとおぼしめしあはせたまはばこそ、世をいとふしるしにても候はめ。また往生の信心は、釈迦・弥陀の御すすめによりておこるとこそみえて候へば、さりともまことのこころおこらせたまひなんには、いかがむかしの御こころのままにては候ふべき。

と仰っています。悪人と知らされたのなら、悪いこころをすてようという気持ちになって当然ですが、「むかしの御こころのまま」で何も変わらないのは、果たして「往生の信心」といえるのでしょうか?

投稿: 飛雲 | 2011年1月14日 (金) 21時36分

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