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2011年1月19日 (水)

自称獲信者との論争6

ここで、なおたん氏は親鸞会教学を思い出し、自信満々の反撃に出ます。一発逆転ができたと確信していたに違いありません。これが親鸞会教学を引き出させるための罠とも知らずにです。

某会長のお言葉を使われて、私が体験至上主義だとのご指摘がありましたが、某会長のご指導に従って、某会の方々でないあなた方が、某会長の御言葉をものさしになされておられる事が、判明いたしました!!それについて、まず、私は、大変喜んでおります。

では、大変博学な皆さまでいらっしゃるようですので、ここで質問です。

私は、仏教とは、口と体で造る罪よりも、心で造る罪が、一番重いのだと理解しております。親鸞聖人は、体で造る罪だけの事を教えらのでしょうか??

五逆罪について、EMSさんが、根拠をあげて教えられていますが、私は、実際に親を殺してはおりませんが、心で、どれだけ邪魔にしていたのかという事を知らされました。このことを

親鸞聖人が、末灯鈔において、

親を謗る者をば、五逆の者と申すなり。』と教えていただいています。

親孝行という行学を通して、実際に、この聖人の御言葉を根拠と照らし合わせて学ぶという行為は行学だと理解しております。

これを行学を通して知らされたわが身の五逆罪だと理解しておりますが、これも体験談だと解釈されますか??

蓮如上人は

御文章二帖目通に、
この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。

と教えてくださいますが、これを読んで、

信心獲得しなければ、必ず地獄に堕ちるのだという根拠だという事にはなりませんか??

殺生罪とは、自分で、生き物を実際に殺すことだけではなく、他人に屠殺してもらって、肉や魚を食べる行為だと理解しております。

此の事から、考えてみますと、私たちは、日々、殺生罪を犯しつつ生活しております。

仏教では、殺生罪を犯している者は、等活地獄に堕ちるという事が、一般の仏教の常識だと言われておりますが、これも、根拠にはなりませんか??

以上、皆さま、御相談の上、ご回答よろしくおねがいいたします。

親鸞会にいた人で、なおたん氏が出すであろう根拠を予想できない人はいないでしょう。これはM講師にもいえます。そんなことも判らずに議論に挑んでいると思っているところが実にお目出たいです。

待ってましたとばかりに、EMS氏のトドメの一撃です。

体験談について延々と述べられるのは困りますので、釘を刺しておきました。今後も教義で話をして下さい。
さて、論点が惚けるのを防ぐため、五逆罪に絞ってついて述べます。

『末灯鈔』には確かに

善知識をおろかにおもい、師をそしるものをば、謗法のものともうすなり。親をそしるものをば、五逆のものともうすなり。同座をせざれとそうろうなり。されば、きたのこうりにそうらいし善証坊は、親をのり、善信をようようにそしりそうらいしかば、ちかづきむつまじくおもいそうらわで、ちかづけずそうらいき。明法の御坊の往生のことをききながら、そのあとをおろかにもせんひとびとは、その同朋にあらずそうろうべし。

とあります。しかし後の部分もしっかり読んで下さい。
訳してみますと、

善知識をおろそかに思い、師を謗る人を、謗法の者というのです。親を謗る人を五逆の者というのです。このような人とは同席をしてはいけないといわれています。ですから、北の郡にいた善証房は、親を罵り、親鸞を様々に謗っていましたので、親しく接しようとは思わずに、近づけないようにしていました。明法房の往生のことを聞きながら、その遺志をおろそかにする人々は、同朋ではありません。

このようになります。
謗法罪の人、五逆罪の人とは親しくしてはいけないと教えられていますから、謗法罪、五逆罪を犯していた善証房を遠ざけていました、と親鸞聖人は仰っているのです。ここで謗法罪、五逆罪の者とは、善証房のことを指しています。
このお言葉に近い内容として、同じく『末灯鈔』に

この御なかのひとびとも、少々はあしきさまなることもきこえそうろうめり。師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなずりなんどしあわせたまうよしきこえそうろう。あさましくそうろう。すでに、謗法のひとなり、五逆のひとなり。なれむつぶべからず。『浄土論』(論註)ともうすふみには、「かようのひとは、仏法信ずるこころのなきより、このこころはおこるなり」とそうろうめり。また、至誠心のなかには、「かように悪をこのまんひとには、つつしみてとおざかれ、ちかづくことなかれ」とこそ、おしえおかれてそうらえ。善知識・同行にはしたしみちかづけとこそ、ときおかれそうらえ

とあります。このお言葉も、関東の同行に宛てたお手紙の一部です。訳してみますと、

皆さんの中にも、少々悪い噂が聞こえてきます。師を謗り、善知識を軽んじ、同行を貶めあっていると聞いています。浅ましいことです。こんな人は、すでに謗法の人であり、五逆の人です。親しく接してはいけません。『浄土論註』という書には、「このような人は、仏法を信ずる心がないから、この心が起こるのだ」と書かれています。また、『観無量寿経疏』の「至誠心釈」の中に、「このように悪を好む人には、慎んで遠ざかれ、近付いてはならない」と教えられています。善知識・同行には親しみ近づきなさいと説かれているのです。

となります。
これらのお言葉から、かつて親鸞聖人から直接話を聞いていた関東の同行の中に、謗法罪、五逆罪の者がいるから、彼らに近付くな、と仰っていることがわかりますし、このような恐ろしい悪を慎むように誡めておられます。もちろん謗法罪、五逆罪を犯していない同行がいる前提で仰っていることは明らかです。
ですから当然のごとく全ての人が謗法罪、五逆罪を犯しているという意味合いで、親鸞聖人は仰っていません。
前後を読めば、謗法罪、五逆罪の人とは、一部の人という意味にしか解釈できませんが、違いますか。

心で造る罪ももちろん問題ですが、心で思っただけでは無間業にはならないということです。御本典でも、思っただけで無間業などとは、全く仰っていません。

これを思い込みといいます。

『御文章』についても、これまでいくつも根拠を挙げました。
死後に六道、三悪道という言い方もいくつもあります。他の御文で、地獄に堕ちると仰ったのは、邪義を唱えている者、異安心の者に対してです。

理性のある人が総合的に読めば、なおたんさんが示した御文は、邪義を唱えている者、異安心の者に対して書かれたお手紙と判断するでしょう。

なおたんさんの子供さんに、国語の問題として尋ねてみたらいいでしょう。

さて、五逆罪を造っていない十悪の者について善導大師は『観無量寿経疏』で次のように仰っています。

下が上の文に説くがごとし。「ただ五逆と謗法とを作らず、自余の諸悪はことごとくみなつぶさに造りて、慚愧すなはち一念に至るまでもあることなし。命終らんと欲する時、善知識の、ために大乗を説き、教へて仏を称せしむるに遇ひて一声す。その時阿弥陀仏、すなはち化仏・菩薩を遣はしてこの人を来迎し、すなはち往生を得しめたまふ」(観経・意)と。ただかくのごとき悪人目に触るるにみなこれなり。もし善縁に遇へば、すなはち往生を得。もし善に遇はざれば、さだめて三塗に入りていまだ出づべからず。

現代語訳は以下の通り

下品上生の文に説かれている通りである。
ただ五逆と謗法を作らないだけで、そのほかの悪は皆ことごとく造り、わずか一念も慚愧する心がない。そういう者が命終わろうとする時、善知識がその人のために大乗を説き、教えて念仏させるのに遇う。一声すると、そのとき阿弥陀仏は化仏・菩薩をつかわして、この人を来迎し、そこで往生を得る。
このような悪人は、すべて人の常に見るところである。もし善知識の縁に遇えば往生を得るが、善知識の縁に遇わなければ必ず三途に沈んで出ることができない。

五逆罪、謗法罪を造っていなければ、三悪道とありますね。もちろん五逆罪、謗法罪を造っていない人がいるという大前提でしか仰っていません。『観無量寿経』も同様です。

五逆罪について、阿弥陀仏はどう見なされて、本願を建てられたのかを説明しましょう。

18願の
唯除五逆誹謗正法
は、19願・20願にはありません。このことを親鸞聖人は

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。(尊号真像銘文)

と解説しておられます。
要するに、18願には五逆・謗法の者も含まれているが、19願・20願には含まれていないということで、阿弥陀仏は五逆・謗法の者とそうでない者がいると見なされているのです。これは三願転入の議論で、詳しく説明しました。参考までに、こうへいさんは、この件で全く反論できませんでしたよ。代わりになおたんさんが根拠を挙げて反論されても結構です。(体験談はお断りします)

次に蓮如上人でいえば、

つぎに「本願名号信受して寤寐にわするることなかれ」といふは、かたちはいかやうなりといふとも、また罪は十悪・五逆、謗法・闡提の輩なれども、回心懺悔して、ふかく、かかるあさましき機をすくひまします弥陀如来の本願なりと信知して(1帖目第2通)

ただ阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、かかる十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人までも、みなたすけたまへる不思議の誓願力ぞとふかく信じて(2帖目第10通)

それ、弥陀如来の念仏往生の本願(第十八願)と申すはいかやうなることぞといふに、在家無智のものも、また十悪・五逆のやからにいたるまでも、なにのやうもなく他力の信心といふことをひとつ決定すれば、みなことごとく極楽に往生するなり。 (3帖目第3通)

さて弥陀如来の超世の大願はいかなる機の衆生をすくひましますぞと申せば、十悪・五逆の罪人も五障・三従の女人にいたるまでも、みなことごとくもらさずたすけたまへる大願なり。(3帖目第5通)

しかれば、それ阿弥陀如来は、すでに十悪・五逆の愚人、五障・三従の女人にいたるまで、ことごとくすくひましますといへることをば、いかなる人もよくしりはんべりぬ。(3帖目第3通)

これによりて、いかなる十悪・五逆、五障・三従の女人なりとも、もろもろの雑行をすてて、ひたすら後生たすけたまへとたのまん人をば、たとへば十人もあれ百人もあれ、みなことごとくもらさずたすけたまふべし。(5帖目第8通)

まづ機をいへば、十悪・五逆の罪人なりとも、五障・三従の女人なりとも、さらにその罪業の深重にこころをばかくべからず。(5帖目第15通)

以上のことから、「までも」「いたるまでも」「なりとも」とあることから、最低の者までの範囲を示されているのであって、最低の者とは違うその上の者が当然いる前提で仰っています。
それは次のお言葉で明らかです。

されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり。(正信偈大意)

以上より、今回の結論です。

************************************
五逆罪についてすべての人が造っているのかどうか、簡単にまとめてみました。

阿弥陀仏:大多数の人は造っていない。ほんの一部の人だけが造っている。
釈尊:大多数の人は造っていない。ほんの一部の人だけが造っている。
七高僧:大多数の人は造っていない。ほんの一部の人だけが造っている。
聖覚法印:大多数の人は造っていない。ほんの一部の人だけが造っている。
親鸞聖人:大多数の人は造っていない。ほんの一部の人だけが造っている。
蓮如上人:大多数の人は造っていない。ほんの一部の人だけが造っている。

************************************

さて、まだなおたんさんは、教義上で

なおたんさん:すべての人が造っている。造っていない人はいない。

と主張されますか?あるいは、某会長の嫌う体験談で主張されますか?

ここまで完璧に否定されては、教義では全く言い返す事ができません。実質的に、これでなおたん氏の教義での反撃は終わりました。
ただ、負けを認める訳にいかない、の一心でこの後は体験談を延々と書き続けます。事実上、これで議論は終了でした。

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コメント

断章主義 改竄 ばかり か 高森会 の 説 は、捏造もあったとは、驚きです。
珍説 novel opion
邪説 heretical doctrine
を通り越して

愚説 Foolish

投稿: 岡山の名無し | 2011年1月19日 (水) 21時23分

岡山の名無し 様

御意見に同意します。

投稿: 飛雲 | 2011年1月19日 (水) 21時27分

飛雲さまへ謗法罪を造らないようにしています。
はっきりいって怯えています。
しかし心のなかでお釈迦様をわざと謗ったりします。
本当はそんなことをしたくないし、ものすごい罪悪感です。
しかし意識すると、なぜかお釈迦様を謗ってしまうのです。
本心ではお釈迦様の仰ることを信じています。
これは法謗罪なのでしょうか?
仏教を根本から否定する気持など全くありません。

投稿: こう | 2011年1月22日 (土) 20時36分

何度も同じような質問申し訳ないです。

投稿: こう | 2011年1月22日 (土) 21時43分

こう 様

あまり気にされない方がよいと思います。
仏教を信じていても、いろいろの思いが沸き上がってくるものです。
罪悪を見つめるのではなく、阿弥陀仏に向って下さい。
その心が謗法罪であるかどうかではなく、信心を獲たかどうかを問題にして下さい。

『御一代記聞書』

順誓申しあげられ候ふ。一念発起のところにて、罪みな消滅して正定聚不退の位に定まると、御文にあそばされたり。しかるに罪はいのちのあるあ ひだ、罪もあるべしと仰せ候ふ。御文と別にきこえまうし候ふやと、申しあげ候ふとき、仰せに、一念のところにて罪みな消えてとあるは、一念の信力にて往生定まるときは、罪はさはりともならず、されば無き分なり。命の娑婆にあらんかぎりは、罪は尽きざるなり。順誓は、はや悟りて罪はなきかや。聖教には「一念のところにて罪消えて」とあるなりと仰せられ候ふ。罪のあるなしの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし。罪消えて御たすけあらんとも、罪消えずして御たすけあるべしとも、弥陀の御はからひなり、われとしてはからふべからず。ただ信心肝要なりと、くれぐれ仰せられ候ふなり。

(現代語訳)
順誓が蓮如上人に、「信心がおこったそのとき、罪がすべて消えて往生成仏すべき身に定まると、上人は御文章にお示しになっておられます。
けれども、ただいま上人は、命のある限り罪はなくならないと仰せになりました。
御文章のお示しとは違うように聞こえますが、どのように受けとめたらよいのでしょうか」と申しあげました。


すると上人は、「信心がおこったそのとき、罪がすべてみな消えるというのは、信心の力によって、往生が定まったときには罪があっても往生のさまたげとならないのであり、だから、罪はないのと同じだという意味である。
しかし、この世に命のある限り、罪は尽きない。
順誓は、すでにさとりを開いて罪というものはないのか。
そんなことはないだろう。
こういうわけだから、お聖教には、<信心がおこったそのとき、罪が消える>とあるのである」とお答えになりました。


そして、「罪があるかないかを論じるよりは、信心を得ているか得ていないかを何度でも問題にするがよい。
罪が消えてお救いくださるのであろうとも、罪が消えないままでお救いくださのであろうとも、それは弥陀のおはからいであって、わたしたちが思いはからうべきことではない。
ただ信心をいただくことこそが大切なのである」と、繰り返し繰り返し仰せになりました。

投稿: 飛雲 | 2011年1月22日 (土) 22時05分

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