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2011年1月17日 (月)

自称獲信者との論争4

最近、高森会長・講師部員、そして幹部会員の、負け犬の遠吠えだけが聞こえます。反論する能力がないから仕方がないのでしょうが、それなら黙っていなさい、実にみっともないです。

自称獲信者なおたん氏の暴走は続きます。

EMSさん、今度の一大事の後生をまた、往生の一大事って、解釈されておられましたね~..

もっと簡単に書くとなおたんの後生の一大事を助けるぞ~!!としか読めませんね~。

いずれの行も及びがたければ、とても地獄は一定すみかぞかしって、親鸞聖人の御言葉を蓮如上人の体験文に重ねてみただけですよ。

二種深信ですが、一には、決定して自身は現に罪悪生死の凡夫、昿劫よりこの方
常に没し、常に流転して出離の縁あることなしという御言葉も、
親鸞聖人が仰った地獄一定と意味は、同じです。

二には、彼の阿弥陀仏、四十八願を以て、疑いなく慮りなく彼の願力に乗ずれば、定んで往生すと深信す。。ということで、

この言葉通りに私が書けなければ、言えなければ、私の信心と、善導大師や、親鸞聖人と同じ信心だとは言えないって、EMSさんは、仰っておられるのでしょうか~??
私は、智恵、才覚、学問、経験、などが同じとは言っておりませんよ。

弥陀からたまわった信心が同じです。それでも、教学で説明できなければ認めないっておっしゃるのなら、私の不徳の致すところですので、あしからず。

御心配なく。二種深信通りに、本当の自己を知らされていますので、EMSさんとは、同じ信心ではございませんので。。

自己の体験から頓珍漢な解釈をしている一方で、『歎異抄』の「地獄は一定すみかぞかし」を出してきました。しかしこれはEMS氏の作戦でした。

>もっと簡単に書くとなおたんの後生の一大事を助けるぞ~!!としか読めませんね~。

なおたんさんの個人的な味わいですね。
結局のところ、法然上人、、聖覚法印、親鸞聖人は、一般の人は五逆罪を造っていないとはっきり仰っていますことを否定できないということで、なおたんさんの邪義は証明されました。

あえて、『歎異抄』の「地獄一定」について私は言及しなかったのは、なおたんさんがそれを出してくると予想していたからです。

『歎異抄』のお言葉の意味は、『執持鈔』と比較することで、なおたんさんの間違いがよく判ります。以下は親鸞聖人のお言葉として覚如上人が書かれたものです。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。
(中略)
善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

自力を捨てて他力に帰すとは、死後どこへいくかをすべて阿弥陀仏にまかせるということです。自分で、地獄に行くとか浄土に往生できると計らうのではないと親鸞聖人は仰っています。

すべてを阿弥陀仏におまかせしたことが、正しい安心です。

ですから、なおたんさんの信心は、明らかに親鸞聖人の信心とは異なります。
もちろん覚如上人、蓮如上人とも違いますし、善導大師、法然上人、聖覚法印とも違います。

親鸞聖人が『歎異抄』で「地獄一定」と仰ったのは、懺悔からのことです。懺悔とは罪悪感からくるものですが、罪悪感、懺悔と機の深信との区別さえつかないような異安心です。

教学も間違っていますし、こちらの質問には一切答えられない。
善知識方の仰ったことを否定して、それで真宗を名乗るのはおこがましいと思われませんか?

なおたんさん、あなたのここでの発言は謗法罪です。

罪悪感と機の深信との違いについて、私から説明しても構いませんが、五逆罪を造っていないとの善知識方のお言葉を無視し続ける、なおたんさんの誤魔化しに加担しても仕方がないので、以下を読んでおいてください。

なおたんさん間違いが、普通の人にはよくわかると思います。

http://www009.upp.so-net.ne.jp/kobako/mondou.html

なおたん氏の体験が、真実信心とは相違することを次々と指摘されてしまいました。
親鸞会の議論はいつも同じです。直接の根拠が出せないと、関係ありそうな根拠を適当に出してきて、適当な理屈で説明する行き当たりばったり。そのため、すぐにボロがでます。

罪悪生死の凡夫って二種深信にありましたが、親鸞聖人は、一生造悪とまで仰っていませんか??

地獄=苦しみの絶えまない世界のことですよね??

その苦しみは、誰が造るのでもなく、一生造悪の親鸞が生み出す世界だから、地獄は一定の親鸞と仰ったではないですか?
二種深信とは、真実の姿が知らされる事ですよね??

真実の善ができれば、善因善果で、苦しまなくてもすむはずですが、
善根薄少ないっていうことは、それ以外の行為は、全部悪だから、悪因悪果で、苦しみの世界を生み出すじゃないですか??

そしたら、親鸞聖人が、地獄一定といっても、別におかしくないではありませんか??

信心決定の世界は、この地獄一定の親鸞が、阿弥陀仏の本願に救われて、
往生一定、極楽に行けると定まった世界に出た事ですよ。

だから、あんなに親鸞聖人喜ばれたわけで、だから、恩徳讃もうたわれてるわけですし。。

親鸞会で聞いてきたことを判ったような気になって書き連ね、何か理屈を言えば誤魔化せると思うところが、親鸞会思考です。もう一度、EMS氏が念を押します。

一生造悪と五逆謗法とは違いますが、それくらいのこともわからないのでしょうか?

罪悪感と機の深信との違いも理解できないようでは、話になりません。

以下のお言葉についての解釈をしてください。

法然上人は『往生大要鈔』で

われら罪業重しと云へども、いまだ五逆をばつくらず。

と仰り、また『浄土宗大意』には、

五逆をもつくらさるわれらを、弥陀の名号を称念せむに往生うたかうへからず。

ともあります。
聖覚法印の『唯信鈔』には、

五逆の罪人すら、なほ十念のゆゑにふかく刹那のあひだに往生をとぐ。いはんや罪五逆にいたらず、功十念にすぎたらんをや。

とか、

われら、罪業おもしというとも、五逆をばつくらず。

更にはsutybi氏が、議論の進め方が間違っている事を指摘されます。

基本的なことが間違っていると思いますよ。
なおたんさんは、すべてのひとが必堕無間と言われた訳です。
ということは、無間業である五逆罪・謗法罪をすべてのひとが造っていることを証明しなければなりません。

しかし、そんなことを釈尊も七高僧も親鸞聖人も全く仰っていないという事実があるのです。

それをなおたんさんの個人的な思い込みで一生懸命説明していますが、根拠がないことをいくら書いたところで、なおたんさんの思い込み以外の何物でもありません。

法然上人、聖覚法印、親鸞聖人のお言葉をEMSさんは示されていますので、それを覆すことができなければ、なおたんさんの間違いは決定です。

論点を広げ過ぎると誤魔化しやすくなりますので、あくまで論点を絞って議論するのが鉄則です。

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コメント

http://sinshu.blog.shinobi.jp/Entry/681/
本願寺を批判し、おそらく親鸞会でもない人が書いてるんですが、
飛雲さんどう思われますか?

投稿: こう | 2011年1月17日 (月) 18時41分

こうさん

M野さんじゃないですか。

本気で尋ねているのですか?

投稿: M野さんへ | 2011年1月17日 (月) 21時58分

すいません、私はM野さんという方のことを何にも知りませんし、
ただ質問しただけです。
失礼な質問だったです。
無視して頂いてけっこうです。
すいませんでした。

投稿: こう | 2011年1月17日 (月) 22時36分

こう 様

「辛口!真宗時評」ですね。
私も時々見ていますが、ネット上では有名なM野講師のブログです。
都合の悪いコメントを載せなかったり、改竄したり、苦笑氏とのメールのやり取りを公開したら訴えると脅したりという、実に親鸞会らしい行為でも有名です。
最近は話題になる事も少なくなりましたので、御存知ない方もあるかもしれません。
書いてある内容も、親鸞会邪義そのものです。

投稿: 飛雲 | 2011年1月18日 (火) 05時11分

飛雲さま本願寺を批判することも悪ですか?

投稿: | 2011年1月19日 (水) 18時29分

また法謗罪の定義を教えて頂ければと思います。
親鸞会の法謗罪とは違うのでしょうか?
よろしくおねがいします。

投稿: | 2011年1月19日 (水) 18時31分

すいません、上2つ質問したのは
こうです。先日も質問させて頂き飛雲さんに
回答して頂きありがとうござました!

投稿: こう | 2011年1月19日 (水) 19時20分

こう 様

親鸞聖人は『教行信証』信巻に『浄土論註』を引かれています。


問うていはく、なんらの相か、これ誹謗正法なるやと。
答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。

(現代語訳)

問うていう。正しい法を謗るとは、どのようなことをいうのか。
答えていう。仏もなく仏の教えもなく、菩薩もなく菩薩の教えもないというような考えを、自分自身でおこしたり、他の人に教えられて、その通りと心に定めることを、みな正しい法を謗るというのである。


仏法そのものを根本から否定することを謗法罪といいます。
同様の意味から、念仏の教えを根本から否定することも謗法罪と見做されます。

つまりは、親鸞聖人の教えを信じている人は、謗法罪にはなりません。

本願寺の批判に関しては、正しい教えについての批判であれば悪ですが、組織的なこと、布教活動についての問題点を批判するのは、いいと思います。批判のための批判であってはなりませんが、より多くの人が正しい教えを聞くことに役立つ批判であれば、立場を弁えてされれば、よろしいかと思います。

とにかく、親鸞会で聞いてきた事を全て疑ってみられることをお勧めします。それほど、親鸞会の教えは間違っているということです。

投稿: 飛雲 | 2011年1月19日 (水) 20時12分

飛雲さん、ありがとうございます。
そうすると一般の人でも、謗法罪を犯してるひとは結構いるということでしょうか?
親鸞聖人の教えに関心も興味もなく、それだけでなく仏教なんて信じられないなんて
言う人も結構いると思われます。
親鸞聖人の教え以外のキリスト教を信じる人、無宗教の人、こういう人も
謗法罪に当たるのでしょうか。
お忙しいとおもいますが、よろしくお願いします。

投稿: こう | 2011年1月19日 (水) 20時35分

こう 様

『浄土論註』をそのまま読めば、仏教を根本から否定する人ならば、謗法罪になると思います。しかし無宗教で仏教に無関心な人は、根本から否定している訳ではありませんので、謗法罪と言えないように思いますが、そのあたりは議論の分れるところかもしれません。
それ以上のことは言えません。

投稿: 飛雲 | 2011年1月19日 (水) 21時08分

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