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2011年1月

2011年1月31日 (月)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り9

宿善といえば、『本願寺なぜ答えぬ』に宿善のすべてが説明されていると講師部員も幹部会員も、堅く信じています。実際にそのように講師部員が言っています。

『本願寺なぜ答えぬ』には、

 ではなぜ、信前の人に、自力一杯の聴聞や、破邪顕正、布施行などの諸善を勧めるのか。
 机上の空論や、合点なら易しい。仏教は、行学である。
自力は捨てもの、間に合わぬものと、合点するのはたやすいが、実地の体験は、難中之難、無過斯だから、浄土は、易往而無人なのだ。
 後生の一大事の解決には、自力は間に合うか、合わぬか、実際、全力を尽くして、初めて、出きることか、出来ないことか、可能か不可能か、ハッキリ知らされるのだ。
 喩えて言えば、クラスで力自慢の、小学一年の男子を連れて、母親が瀬戸物店へ、買い物に行った。
 大バーゲンで、たんまり仕込んだ母親が、重そうに、荷物を持って店を出た。
瀬戸物は、量の割に、重いものだ。
 それを見て、子供が、
「お母さん、僕、それ持ってあげる。僕、力強いんだよ、昨日もクラスの相撲で、一番だった」
と、自分の力を、誇示する。
 とてもとても、子供の力に合うような、品物でないことは、母親は、百も千も承知している。
「こんな重いものが、あんたなんかに、持てますか、落としたら、どうするの」
頭から、叱りつける母親は、余り、利口な親とは、言われぬ。
「そうお、坊や、そんなに強くなったの、お母さん、嬉しいわ、それじゃあ持ってくれる」
利口な母親は、持てないことを充分承知の上で、一度持たせてみせるのだ。
 落としたら大変だから、母親は、密かに、下に手を廻している。
 子供は、誉められて持ったのだから、男の意地だ、何とか持とうと渾身の力で、力んではみるが、とてもかなわぬ重荷を知らされ、力尽きて、
「お母さん、やっぱり、僕の力じゃ、駄目だ、早くとって!!落とすよ、早く、早く」
と、母親に任せる。
 子供は、母親が、荷物を下から支えていることを知らないから、驚いて、心から素直に、母親に、任せるのだ。

この話は、高森会長の法話でも昔は度々ありました。もちろんこの子供の喩えも、大沼法竜師の作ったもので、高森会長が考えたものではありません。

『顕真』1月号に、

十九願建立の弥陀の目的

善を励むほど、悪性が見えて来る。
励む善そのものは
「雑毒の善」でもなければ
「虚仮の行」でもないのだが、
励む我々の心が邪見であり、
虚仮であり、不実だから、
「真実の行」とならないのである。
励んでそれを分からせ、
他力の名号に向かわせようと、
弥陀が仕組まれたのが
十九願建立の願意である。

とあるのも、同様のことを言わんとしたものです。

この喩えは、クラスで力自慢の男子相撲で一番になった子供の話です。力に自信のない子供の話ではありません。高森会長は、この力自慢の男子を全ての人という意味で使っていますが、最初から矛盾しています。
仏になるには、真実の善をすればいいと聞いて、それならば自分にできそうだ、と思った人には、聖道門が勧められているのです。聖道門までは無理だと思う人には、19願が勧められるのです。

真実の善は自分にはできないと思っている人が、親鸞聖人の教えを聞くのです。

真実の善ができると自惚れている人は、親鸞聖人の教えを聞こうとはしません。

真実の善ができると自惚れている人は聖道門を信じるか、19願での往生を願うでしょう。

真実の善ができないと思っているから親鸞聖人の教えを聞いて、18願での往生を願うのです。
それは瀬戸物が持てるとは全く思っていない子供と同じです。クラスでは力の弱い子供、相撲でも簡単に負けてしまう子供、つまりこれだけの善ができなければ仏になれない、往生できない、と聞かされても、それは自分にはとても無理だと思う人に、

お前は腹底では瀬戸物が持てると自惚れているんだ、自分の力で成仏、往生できると自惚れているのだ

と無理やり瀬戸物を持たせ、善を強要すればどうなるか。大抵は潰れてしまうでしょう。瀬戸物を持てるなどと全く思っていない、持つことを嫌がる子供に瀬戸物を無理やり持たせようとするのを虐待といいます。しかしその親はいうでしょう、

虐待ではなく躾だ

と。高森会長は、子供を虐待する親と同じ思考です。

聖道門で成仏を目指す、あるいは聖道門は無理でも19願での往生を目指す、という人には、瀬戸物を持たせるという権仮方便が必要になることはあります。
しかし、18願での往生を願っている人に、無理やり、

お前は真実の善ができると自惚れているんだから、命懸けの財施、法施をせよ、命懸けでやらなかったら必堕無間だぞ

と脅して強要するのは虐待そのものであり、方便ではありません。この親鸞会の虐待によって、多くの人が精神も肉体も病んで、そのために亡くなった人もあれば、未だにPTSDで苦しんでいる人も相当の数にのぼります。
一方で、未だに会員として残っている人は、親から虐待されても親から離れられない子供と同じです。

一刻も早く、虐待されている子供達を救いたいと思っています。

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2011年1月27日 (木)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り8

教えを捻じ曲げても平気なのは、自己の名利のことしか考えていないからです。金集め、人集めが、往生と何の関係もないことは、少しでも聖教を読んでみれば判る話です。

高森会長が35周年記念大会で三願転入を言い始めるまでは、宿善のことを強調していましたが、共に目的は同じです。

さて、中断していました『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤りについて、もう少し述べてみたいと思います。

親鸞会の本意である”善のすすめ”を隠すために、『顕真』昨年の12月号と今年1月号は”聴聞のすすめ”に徹しています。”善のすすめ”を言わなければ、おかしいことを言っていても、それほど非難される事はないと思っているのでしょう。
それでも問題はいくつもありますが、大きな問題だけを取り上げておきます。

善導大師は、「ユルサレテキク」(聴)から、
弥陀の勅命を「シンジテキク」(聞)までの心
(信仰)の道程を、「二河白道の譬喩」でこう
開顕されている。

(中略)

「白道」は、聞法心(弥陀の救いを求める心)
を喩えたものだが、求める心があっても微弱だ
から四五寸の細い道と、説く。
「群賊」や「悪獣」とは、聞法心を妨げるすべ
てのものを表す。

(中略)

これは十方衆生が弥陀に救われるまでの信仰
(心)の道程を、巧みに教えられた善導大師の
有名な警えである。

如何でしょうか。高森会長の話しか聞いた事がない人は、どこが問題なのかと思われるかも知れませんが、二河白道の譬喩が根本的に間違っています。

二河白道の譬喩については、

「親鸞会教義の誤り」
宿善とは7
宿善とは8

に解説がありますので、詳しくはそちらを御覧下さい。
二河白道の譬喩は、信心守護の譬喩ですから信後のことを表すために作られた話です。
三定死は、こちらの岸にいる時のことで、白道に一歩足を踏み出した時が、獲信です。白道は聞法心ではなく、信後の他力信心です。

このように「高森会長の説明とは大きなずれがあります。

このように言いますと、喩えにはある程度の自由度があってもいい、と思考停止の会員は反論してきますが、意味がまるで違ってきてしまうから、大問題なのです。

高森会長は、白道を聞法心、信仰の道程としていますので、水の河と火の河の煩悩と戦うのが求道であり、聴聞だと教えますが、その考えが全くおかしいのです。煩悩と戦うのは、聖道門の考え方です。親鸞聖人の教えに、煩悩と戦って求道する、聴聞する、ということはありません。

そのことを最も端的に表現されたのが存覚上人の『持名鈔』です。

されば仏法を行ずるには、家をもすて欲をもすてて修行すべきに、世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて、ながく輪廻の故郷をはなれんことは、ひとへにはからざるさいはひなり。

聖道門では、「家をもすて欲をもすてて修行すべき」と教えられるのですが、真宗では「世をもそむかず名利にもまつはれながら」、世の中の倣いにしたがって名利に執着しながら、「無上の仏法をきをききて、ながく輪廻の故郷をはなれんこと」ができるのです。煩悩と戦ってというのではなく、煩悩にまみれたまま聴聞するのです。だからといって、悪をしていいということではないです。

『持名鈔』といえば、『教学聖典』の問答

(問)
 「後生の一大事は、どんな犠牲を払っても解決せね
 ばならぬものである」と教えられた、存覚上人の
 お言葉と、その根拠を示せ。

(答)
 ○仏法の為には身命をも捨て、財宝をも惜しむ
  べからず。
                        (持名鈔)

が典型的な断章取義であることを、過去に述べています。

典型的な断章取義教学
恩徳讃の気持ちのない悪知識

命をかけて求道せよ、財産を親鸞会にすべて捧げよ、という教えにすり替えていますが、全くのデタラメであり、捏造ともいえる程の断章取義です。

これも、二河白道の譬喩と同じ目的で、教えが歪められています。

真剣な聴聞を勧めることで留めておけばいいものを、命がけの法施と財施を、一切衆生必堕無間とセットで強要します。更には、善知識への無条件服従を加えて、カルト教義となります。

このように高森会長が教えを歪めるのは、会員に信心獲得させたい慈悲ではありません。会長がお金を獲得する欲望のみです。

もし嘘だと思うのならば、超豪華で不相応な会長施設の数々を見てみれば判ります。実物は秘密にしてありますが、図面と概要は「さよなら親鸞会」に載っていますし、当ブログでも紹介しました。

三つの髻をそりすてずは、法師といひがたし
財施は獲信のためではなかったと、高森会長は身をもって教えてくれています
高森会長が雑行を勧める理由

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2011年1月26日 (水)

批判をかわすためのその場凌ぎ教義

前回のエントリーに関して、2000畳座談会に参加していた方からコメントを頂きました。私の言葉足らずの部分を、補足説明をしてくださいました。

>先日の2000畳座談会で、疑情とは19願に対する疑いである、などと高森会長が話をしたと聞きました。
>驚嘆すべき邪説です。

ちょっとニュアンスが違うかと思います。
19願と言っても18願を離れての19願はないから19願に対する疑いも18願に対する疑いと同じことである。
という感じだったように思います。「疑情=19願に対する疑い」とは言ってなかったと思いますよ。

いつものように“三願転入のみ教え”の話ですから、19願を18願に上手く?重ねつつ話してました。

まぁ、おかしなことには変わりはないんですが。

外部の情報を見始めた人は特にですが、この微妙な違いで「インターネットはいい加減な便所の落書きだ」と
判断してしまう人もいると思うので。一応ですが…。

アシスタントがその話題を出した途端に休憩を促して、終了間際に思い出したように上記のことを言ってました。
都合が悪かったから休憩のあいだに切り替えし方を考えていたように思えてならないです。

当然だ的な態度で堂々と18願に絡めて話をしてくるので、外部情報に目をつぶっている人や見ていても
親鸞会以外は全て間違っているというレッテルを貼っている人は18願のみ心を聞いていると思い込んでしまうんですよね~。

僕が驚いたのは、「阿弥陀仏が無量光明土に生まれる足しにならない善を19願で勧めておられるのか?」という
自問に対して「それは弥陀のお計らいだ」と答えたことです。
わからないから納得出来るように説明せよという人は弥陀より偉い人で、弥陀に救われる必要のない人だ」とも
言ってました。かなり強い口調で饒舌に話していたのが印象的でした。
こう言われると会員は疑問を持っていてもそれ以上は何も言えないですよね。支部長などに疑問を言った途端、
それは自惚れだと言われるのがみえてますからね。お聖教を拝読する気もないのですから、
もう思考停止しかないですよ。

「善を勧めておられる」という所を無理やり肯定するために「それは弥陀のお計らいだ」なんて…。
根拠も何もあったもんじゃないですよ。「代打、俺ならぬ根拠、俺」ですね。
根拠がないものは仏教ではないと常々言っておきながら、困ったら弥陀のお計らいではねぇ…。
自己矛盾も甚だしいです。

会長の理屈から言えば、

>『教行信証』化土巻に
>仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。

と19願についておっしゃった親鸞聖人が悪くなってしまいますよね。
この根拠は会内では絶対に出さないから何を言っても良いんでしょうね。
ワシの出さない根拠は教行信証に何が書かれてあっても根拠ではないのでしょう。

これまで何度も述べてきましたが、

阿弥陀仏が無量光明土に生まれる足しにならない善を19願で勧めておられるのか?

の問い自体が真宗でないことを如実に物語っています。聖道門が法然上人を非難した内容と同じです。
この答えが更にすごいです。

わからないから納得出来るように説明せよという人は弥陀より偉い人で、弥陀に救われる必要のない人だ

上から目線で物を言う態度は、講師部員、自称獲信者なおたん氏とそっくりです。流石は、親鸞会のトップという感じです。

阿弥陀仏が19願を建てられた御心について、親鸞聖人は納得できるように説明されていますが、聖教を読んでいない高森会長が無知なだけです。

会員との問答(19願、諸善について)

で、まとめておきましたので、ご確認ください。
関連項目として

会員との問答(方便について)
会員との問答(十方衆生について)

を読んで頂けると、高森会長の邪説がお判り頂けるのではないでしょうか。
難しい御文を理解できない会員さんのために、やさしく解説しますと、阿弥陀仏はどんな極悪人でも、善悪無関係に他力念仏1つで救うと誓われたのが、18願です。

この18願を聞いて、18願での救いを願う人は、極僅かです。仏教自体を否定する正法誹謗の人は、仏教を否定したままで救われることはありません。また、同じ仏教徒と言いながらも聖道仏教を信じている人は、18願を悪人のための願と見下していますので、18願での救いを願おうとはしません。

・18願での救いを願う人
・聖道仏教を信じて18願の救いを願わない人
・仏教自体を否定する人

これらの違う人に対して、全く同じ導き方をすべきと思う方がおかしいでしょう。
仏教自体を否定している人には、まず仏教を信じさせる話をしなければなりません。
聖道仏教を信じている人には、浄土仏教を信じるような導き方が必要になります。
これを権仮方便というのです。
法然上人を非難した聖道門の学僧達は、18願は自分たちには関係ないと思っていましたが、19願は尊重していたのです。
親鸞聖人が仰るように、19願は聖道門から浄土門へ導くための要門に実際になっていたのです。このように聖道門の人を浄土門に導いて、最終的に18願を願わせようと阿弥陀仏が建立されたのが19願なのです。

親鸞聖人は、このように納得できる説明を『教行信証』化土巻でされているのです。それでも納得できない聖道門の人のために、親鸞聖人御自身の体験を仰ったのが、三願転入の文です。

たとえ、外道の信者であっても、聖道門の人であってでも、高森会長のように、

弥陀に救われる必要のない人だ

などと阿弥陀仏は全く思われていません。誹謗正法の者まで救いたもう仏です。

高森会長の主張は、感情と嘘でコロコロ変わりますが、根本は『教行信証』を全く読んだことがないところからきています。

コメントをされた方の言われる通り、教義批判に耐えられなくなったら高森会長は最後に

根拠、俺

と言うと思われます。

高森会長は、外部からの教義批判にその場凌ぎで教えを曲げ続けています。今更修正できず、今後もとことん曲げ続けることでしょう。

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2011年1月25日 (火)

真仮の水際を説けない高森会長(補足)

先日の2000畳座談会で、疑情とは19願に対する疑いである、などと高森会長が話をしたと聞きました。
驚嘆すべき邪説です。

真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。

とは、まさに高森会長のことをいいます。真実と方便の区別がまるで付いていません。

このことは、

「安心問答」
「本願を疑う心」の本願は「19願」「20願」「18願」のいずれか

で早速取り上げられていました。

18願に対する疑いを疑情というのです。19願ではありません。こんなことを一々説明しなければならないことでしょうか?

『正像末和讃』には、誡疑讃と呼ばれる御和讃が23首あります。これまで、何度も何度も、誡疑讃については述べてきました。
19願と20願を信じて、自力修善、自力念仏に励んでいる人について、

方便の行信⇒方便の利益(化土)

ということを繰り返し繰り返し、言葉を変えられて同じことを仰っているのです。誡疑讃23首のなかで、明らかに19願について仰ったのは以下の1首のみです。

自力諸善のひとはみな 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて 七宝の獄にぞいりにける


(現代語訳)

自分の力で善行を積み浄土往生を願う人はみんな、 言葉に尽くせない仏智の本願を疑うので、
善悪因果の道理に従って自分が作った原因を身に受けて、 七宝で飾られた疑城胎宮に止められるのです。

他は20願についてです。
つまり、親鸞聖人は誡疑讃では19願をあまり問題にされてもいません。
なぜなら、御和讃は同行向けに書かれたものであるからです。
一方で、『教行信証』は『摧邪輪』等の聖道門の学僧達に対する反論の意味が強いため、19願についても詳しく書かれています。
『教行信証』以外で、19願についてほとんど触れられていないのは、そのためです。
蓮如上人は19願について触れられていません。

真宗内でほとんど問題にもされない19願に対する疑いを疑情とするなど、真宗のイロハのイも知らない者の言うことです。

真仮の水際以前の問題です。

判らない会員が多いようですので、くどいようですがまとめておきます。
因果の道理を知っているなら

真実の行信⇒真実の利益(報土)

方便の行信⇒方便の利益(化土)

となるのは当たり前の理屈です。

高森会長のたとえを使うなら、

スイカの種を蒔かなければスイカはとれません。カボチャの種からはカボチャしかできません。カボチャの種を蒔いて、それがスイカの種になってスイカができることはありません。スイカが欲しければ、スイカの種を蒔きなさい、カボチャの種を蒔いてもスイカはできませんよ、ということです。

だから、方便の行信を捨てて、真実の行信をとりなさい、と教えられているのです。

ではなぜ方便の行信が説かれているのか、という疑問が起きるでしょうから、親鸞聖人は善導大師の解釈を承けられて、

『教行信証』化土巻

仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。

(現代語訳)

第十九願を方便の願とするのは、まことに意味深いことである。釈尊が『観無量寿経』に定善・散善を説かれ、善導大師がこれは浄土を慕い願わせるための方便の教えであると解釈されたおこころが、いよいよ明らかに知られるのである。

と教えられているのです。浄土を願っていない聖道門の人に浄土を慕い願わせるためなのです。

このことも、何度も何度も述べてきましたが、

また決定して、釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して人をして欣慕せしむと深信すと。

で簡単にまとめておきましたので、御参照下さい。

真仮が何も判らないのに、判ったように教えを説く人を悪知識というのです。

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2011年1月23日 (日)

真仮の水際を説けない高森会長

親鸞会の教義は、根拠のない出鱈目です。当ブログでは膨大な根拠を提示して、それを明らかにしてきましたし、昨年からの法論でも誰一人として、親鸞会の正しさを証明する根拠さえ出せませんでした。

この事実を現会員に知らせますと、同じことを言い返してきます。

真仮の水際を説かれる方は、高森先生以外にはおられない!

なぜ私は親鸞会をやめたのかを読んで
(19)これが獲信か

にも

真仮の分際を、常に鮮明にご教導いただいている親鸞会会員は、なんと幸せなことだろう喜びすぎることはない。

と書いてあります。前回紹介しましたこうへい氏の見苦しい言い訳にも、

真仮を鮮やかに説かれる高森先生が教えてくだされることは、
間違いなく親鸞聖人の教えです。

とあります。

尤もこの「真仮の水際」「真仮の分際」も、大沼法竜師の言葉です。

では、高森会長は真仮について本当に説いているのでしょうか?
親鸞会でいう真仮とは、『教行信証』真仏土巻

真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。

を示して説明していますが、このお言葉の意味を理解していません。

前後を見てみますと、

仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。これによりて、いま真仏・真土を顕す。これすなはち真宗の正意なり。

(現代語訳)

方便の仏と浄土のことは、次の「化身土文類」に示すので、そこで知るがよい。すでに述べてきたように、真実も方便も、どちらも如来の大いなる慈悲の願の果報として成就されたものであるから、報仏であり報土であると知ることができる。方便の浄土に往生する因は、人によってそれぞれにみな異なるから、往生する浄土もそれぞれに異なるのである。これを方便の化身・方便の化土という。如来の願に真実と方便とがあることを知らないから、如来の広大な恩徳を正しく受け取ることができないのである。このようなわけで、ここに真実の仏・真実の浄土について明らかにした。これが浄土のまことの教えである。

ですが、簡単にまとめると

真=真仏・真土=18願
仮=方便化身・化土=19願・20願

ということです。

なぜこのようなことを仰ったのかと言えば、聖道門では阿弥陀仏の48の願の中で、19願を最も重要な願と位置付けており、18願だけを教えられた法然上人を非難していましたから、親鸞聖人は「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。」と反論されたのです。
明恵高弁の『摧邪輪』での関連個所を今までに何度も示しましたので、それを読んで頂ければ誰でも判ることです。最近のエントリーでは下記です。

会員との問答(浄土門と聖道門の違い)

親鸞聖人は19願を重視する聖道門の学僧に対して、
19願は方便の願であるから方便化土にしか往けないが、18願は真実の願であるから、真実報土に往生できる
と断言されたのです。

この御文を読めば、方便化土について教えることのない高森会長が、真仮の意味を理解せずに、大沼師の言葉を単にパクっただけであることがよく判ります。

親鸞聖人が教えられたのは、
方便の行と信に迷ってしまっている人をも、方便の利益として化土往生を遂げることもできますが、化土から報土に往くことは大変難しいので、方便の行と信を捨てて、真実の行と信によって報土往生を遂げよ、
ということです。

法然上人の三選の文、親鸞聖人の三願転入の文も、共に方便の行信を捨てよと同じことを仰っているのですが、親鸞会はそれも理解できないのです。
真実に入るために必ず方便を通らなければならない、
などと言うのは、真実を知らない者の戯言でしかありません。

こんな真仮の常識的な意味さえ知らない高森会長に、「真仮の水際」が説ける訳がないです。

まあ、親鸞会で言っている真仮とは、信前と信後があるという程度の話ですが、信前と信後があると教えられる布教師は、全国にたくさんおられます。単に、井の中の蛙大海を知らず、の状態なだけです。無知を晒すのも、大概にしておきましょう。

以前にも紹介しましたが、30年ほど前にあった親鸞会と本願寺との宿善論争で、本願寺側の親鸞会担当であった紅楳英顕師の法話を録音したものが下記で聞けます。紅楳英顕師は、現生での救いを強調されますので、信前と信後の違いについて明確にされている方の一人です。聞かれたことのない会員は、一度聞いてみて、井の外を確かめてください。

紅楳英顕先生の法話

紅楳英顕師は法話を全面公開している一方で、法話内容さえも一般に公開できず、録音厳禁にしているどこかの会長は、秘事法門そのものです。

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2011年1月22日 (土)

自称獲信者との論争8

昨年一年は、講師部員との法論に何度も関わってきました。陰で高森会長が操っていたものもありますが、結果はすべて講師部員の逃亡でした。
今回は講師部員ではありませんでしたが、自称獲信者との論争(法論と呼ぶにはレベルが低すぎる)でしたので、体験談満載でした。なおたん氏は、途中で講師部員からアドバイスをもらっていたようですので、親鸞会の”教学”と”体験”の揃った最強の論争である筈が、結果は御覧の通りです。

親鸞会で”教学”と”体験”の揃った人物と言えば、高森会長しかいませんが、今回はその代理でして、高森会長と論争しても、ほとんど同様の経過を辿るでしょう。

偽物は本物には勝てないというだけのことです。

さて、なおたん氏は、次の言葉を残しています。

以前、土蔵秘事だったという人の文章も読んだ事もあります。

土蔵秘事の体験を書かれている文章を読ませていただいて、類似した心の体験談

も読ませていただいた事もあります。

言葉の表現からいえば、非常に類似していていました。

だから、私の表現した文章をそう思われても仕方のない事です。

自分でも自覚しているようです。どんなに熱っぽく体験談を述べようと、なおたん氏の体験談は、親鸞会が非難している土蔵秘事と何も変わりません。土蔵秘事との違いは、教えだと親鸞会は言っていますが、その肝心の”教え”は、突っ込みどころ満載の根拠捏造・改竄・断章取義・勘違いで作り出されたものでしかありません。

そしてなおたん氏最後の書込みが、

あなたと、ここのコミュの書き込みをされておられる方々は、きっとみんな龍樹菩薩のような、上品上輩のお方かと拝察いたしました。ですから、

なおたんが、
「みなさん、必堕無間ですよ!!」と書きこみしたら、

「何ていう暴言を吐くんですか??」というご指摘が来たのだと、理解しています。

みなさんきっと、上品上輩の方だから、應堕悪道されないと断言されておられるわけですね。。

今、はじめて、今まで、失礼をもうし上げてしまったのだと気づかされました~!!すみませんでした。

下品下輩の者が、大変失礼を申しあげてしまいました。

です。他人を地獄行きと蔑めた反省の気持ちなど、微塵もありません。これが仏法者の言葉でしょうか?

地獄一定と知らされたと言いながら、地獄行きの罪悪を造っても懺悔の気持ちなど更々なく、口先だけの「自分は地獄行きの者です」は、落語程度の軽さしかない言葉です。

以前になおたん氏は

本当の地獄を説き切る者と聞き切る者がいたら、双方とも血を吐いて死んでしまうとまで言われている大変な一大事があるのに、それでも地獄がお好きなのなら、仕方がありませんね。

と書いていましたが、血を吐いて死んでしまうような重みのある言葉は、1つとしてありません。親鸞会は大袈裟な形容表現をよく使いますが、単なる誇大妄想でしかないことが、なおたん氏の言葉からも読み取れます。

この後、なおたん氏は★親鸞聖人★コミュニティに移動します。三願転入の法論から逃亡してより半年になるこうへい氏が自己紹介はこちらへで、見苦しい言い訳の書込みをしていました。

不思議の御本願を不思議の御本願と、
真仮を鮮やかに説かれる高森先生が教えてくだされることは、
間違いなく親鸞聖人の教えです。

こう私が断言すれば、賛否両論あり、
解釈を異にする方からは「根拠のない思い込み」との反論もあるわけです。
当然過ぎることですよね。
その反論を、相手にしなければ、
「根拠が言えず逃げた」「こちらが正しいと決着」
と言われるでしょう。

言わせておきましょう。
世の中には、相手や環境を考慮して、
「今は相手にしない」という相手の仕方もあるのです。

いささかも動じるに及ばぬことです。

私のこのコメントも、
反論があっても、今のところ相手にするつもりはありません。

いつか真実は知らされる時が必ず来ますので。

それに応答するように、なおたん氏が書込みをしています。

縁あって、某大学の友人から、富山県に、高森先生という、きわめて正確に、親鸞聖人のみ教えを教えてくださる、すばらしい先生の存在を教えていただきました。

御蔭さまで、現在は、高校生の息子と共に、親子で、仏教を学ばせていただき、人間に生まれてきて、本当によかった!!と心から喜んでおります。そして、かけがえの無い幸せな時間を幸せ一杯に過ごさせていただいております。

法論は、大変苦手です。だから、息子と一緒に、みなさんの法論や、意見の交換を楽しく拝読させていただくだけになるかと思いますが、どうそよろしくお願いいたします。

なおたん氏は、こうへい氏が法論をすると期待していたのかもしれませんが、全くの期待外れです。この後、多くのトピックでEMS氏がこうへい氏の主張(もちろん親鸞会の教義)を悉く否定しましたが、反論する気配は全くありません。
今年のこうへい氏の書込みの後、EMS氏が書いたのは、以下の所です。

●後生の一大事の解決
信心決定すると何が変わるのか
善知識について
一向専念無量寿仏
【宿善について】

もちろん、なおたん氏も傍観するのみです。
多くの講師部員がmixiに参加して、EMS氏の書込みを見ていながら、誰一人として親鸞会教義の擁護をしようともしません。

もちろん反論できる知識も能力もありませんが、そんな気概ならば講師部を辞めろと言いたいです。自分の信じている教義の正統性さえも主張できなくて、何のために布教師をしているのでしょうか?

講師部員は高森会長と同じく、生活費を稼いだり、自己の名誉欲を満たす手段として布教していることがよく判ります。

当ブログで多くの根拠を挙げてハイレベルな話をしても、聖教を読んだことの無い高森会長はじめ講師部員は全く理解できないようですので、今後は易しい内容で書いていこうと思います。

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2011年1月20日 (木)

自称獲信者との論争7

自称獲信者のなおたん氏は、自分が出した根拠であるのに、EMS氏に反論されてからは、その根拠には一切触れる事ができません。親鸞会教義とは、一撃で論破される程度のものということです。

これが講師部員であっても、たとえ高森会長であってでも同じ結果でしょう。

親鸞会の誤魔化し手口である体験談で、なおたん氏も逃げをはかりますが、余りにも下らないので、読まれる必要はないでしょう。興味のある方は、mixiで直接御確認下さい。

さて、この論争で参考になる書込みがありますので、少し紹介しておきます。
sutybi氏は以下のように述べています。

こちらからは、すべての人が五逆罪を造っていないという根拠をいくらでも出せます。

なおたんさんの未知のものとして『法然上人絵伝』には、九品往生人のことが実名と根拠入りで記されています。

上品上生  智覚禅師(新修往生伝)
上品中生  尼善慧(戒珠集)
上品下生  侍従所監藤原忠季(後捨遺往生伝)
中品上生  大原沙彌(戒珠集)
中品中生  少将義孝(保胤往生伝有夢告)
中品下生  沙門智縁(戒珠伝)
下品上正  釈法敬(戒珠伝)
下品中生  覚真阿闍梨(続本朝往生伝)
下品下生  釈慧進(新修往生伝)

すべての人が五逆の者であるならば、上品上生から下品中生までは、机上の空論になる筈ですがね。

御要望ならば次は『教行信証』から別の根拠を出しますよ。

九品往生をした人について、上記のように伝えられています。親鸞聖人も『教行信証』信巻に律宗の元照師の言葉を引用されています。

禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。

伝承ではあっても、すべての人が下品下生で、五逆の者という認識を親鸞聖人も持っておられなかった証拠の1つです。

親鸞聖人が仰ってもいないことを仰ったかのように大嘘をいうのが、親鸞会の特徴です。高森会長の話は、信じられないほどいい加減で、大嘘ばかりなのです。

また、EMS氏が引用している

若佛子。自説出家在家菩薩比丘比丘尼罪過。教人説罪過。
罪過因罪過縁罪過法罪過業。
而菩薩聞外道惡人及二乘惡人説佛法中非法非律。常生悲心教化是惡人輩。
令生大乘善信。
而菩薩反更自説佛法中罪過者。是菩薩波羅夷罪

(『梵網経』大正蔵経vol.24.p.1004c.)

(訳)
仏の子よ。
もしも出家や在家の菩薩や、比丘・比丘尼の罪過を自ら説き、他の人に教えて罪過を説かせたならば、それは罪過の原因となり、罪過の条件となり、罪過の法(教え)となり、罪過の業となる。

だから、菩薩は外道である悪人、さらに二乗である悪人が、仏法の中において法でないものや律でないものを説いているのを聞いたならば、常に慈しみの心を生じて、この悪人を教化して、大乗の善なる信心を生じさせなさい。

それなのに、菩薩がかえって更に自ら仏法の中における罪過を説いたならば、これは菩薩としては教団追放に値する罪なのである。

これは、釈尊が「仏の子」すなわち仏弟子に仰った言葉です。

釈尊は、出家者・在家者を問わず、仏弟子が他の人の罪過を、自ら説いたり、他の人に教えて説かせたりすることは、

それはその行為が、新たな罪過の原因となり条件となり、罪過となる教えとなり、罪過となる行為になるのでしてはいけない。

そのように禁じておられます。

つまり仏教者は、他の人に

「地獄に堕ちるわよ!」

と言ってはいけないのです。

それはなぜでしょうか?

善因楽果、悪因苦果、自業自得が仏教の業報思想ですが、現在行った行為の果報が、必ず来世に得られるものであるかどうかは、仏智を獲得した仏陀でなければ、わからないし、その行為が、本当に地獄に堕ちるような果報をもたらすものであるかどうかも、仏智を獲得した仏陀でなければ、わからないからです。

それなのに、他の人に「地獄に堕ちるわよ!」と言って、その人が地獄に堕ちることがなかったらどうなるでしょうか?

そうです。

「地獄に堕ちるわよ!」と言った人こそが、妄語の罪を犯し、その罪過をうけなければならなくなるのです。

だから釈尊は、仏弟子が、他の人の罪過を自ら説いたり、他の人に教えて説かせたりすることを禁じられたのです。

仏弟子が、罪過を犯した人に対する時は、常に慈しみの心を生じて、この悪人を教化し、大乗の善なる信心を生じさせるように、ひたすら導いていかなければならないのです。

それでは多くの仏典で、地獄や地獄行きの業が説かれているのはなぜでしょうか?

それは、釈尊が三明・六神通という仏智でもって、どのような悪業を作った人が地獄に行くかを知り、そのような悪業を犯さないように、仏弟子逹に教えてくださっているからなのです。

一方、私達は三明・六神通からはほど遠い罪悪生死の凡夫です。

その私達が、罪業とその業果を論じる場合は、釈尊が、三明・六神通でご覧になったものをお説きになった経典に基き、「釈尊が『こういう業にはこういう果報がある』と仰っていた」という形でしか論じることはできないのです。

三明六神通を獲得してもいないのにも関わらず、凡夫のはからいで、

「あなた地獄に堕ちるわよ!」

と言う人は、仏教徒でも仏弟子ではありません。

これは浄土宗の方が投稿された

「清森問答」
親鸞会教義の相対化・26

にあります。菩薩でさえ判らないことを凡夫が死後のことなど断言できる訳がないです。もちろん、明らかな五逆罪、謗法罪を造っている人ならば経典に説かれてある通りに、地獄に堕ちるということはできるでしょうが、そうではない人に地獄行きだ、などというのは、仏法者ではありません。
この論争のきっかけとなったなおたん氏の発言

そんなに地獄がお好きなら、閻魔大王の前に突き出されて、赤鬼と、青鬼さ

んが、火の車にしょうちゃんさんを乗せて、地獄に連れて行ってくだされる

そうですから、どうぞお達者でね~!!

が、看過できないものであることが、これでお判り頂けるのではないでしょうか。

尤も、当のなおたん氏は、これだけ言われても他人事です。造悪無碍の典型例です。
親鸞会は、高森会長から、講師部員、幹部会員に至るまで、このような外道の発言を日常的に発します。

実に恐ろしい団体です。

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2011年1月19日 (水)

自称獲信者との論争6

ここで、なおたん氏は親鸞会教学を思い出し、自信満々の反撃に出ます。一発逆転ができたと確信していたに違いありません。これが親鸞会教学を引き出させるための罠とも知らずにです。

某会長のお言葉を使われて、私が体験至上主義だとのご指摘がありましたが、某会長のご指導に従って、某会の方々でないあなた方が、某会長の御言葉をものさしになされておられる事が、判明いたしました!!それについて、まず、私は、大変喜んでおります。

では、大変博学な皆さまでいらっしゃるようですので、ここで質問です。

私は、仏教とは、口と体で造る罪よりも、心で造る罪が、一番重いのだと理解しております。親鸞聖人は、体で造る罪だけの事を教えらのでしょうか??

五逆罪について、EMSさんが、根拠をあげて教えられていますが、私は、実際に親を殺してはおりませんが、心で、どれだけ邪魔にしていたのかという事を知らされました。このことを

親鸞聖人が、末灯鈔において、

親を謗る者をば、五逆の者と申すなり。』と教えていただいています。

親孝行という行学を通して、実際に、この聖人の御言葉を根拠と照らし合わせて学ぶという行為は行学だと理解しております。

これを行学を通して知らされたわが身の五逆罪だと理解しておりますが、これも体験談だと解釈されますか??

蓮如上人は

御文章二帖目通に、
この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。

と教えてくださいますが、これを読んで、

信心獲得しなければ、必ず地獄に堕ちるのだという根拠だという事にはなりませんか??

殺生罪とは、自分で、生き物を実際に殺すことだけではなく、他人に屠殺してもらって、肉や魚を食べる行為だと理解しております。

此の事から、考えてみますと、私たちは、日々、殺生罪を犯しつつ生活しております。

仏教では、殺生罪を犯している者は、等活地獄に堕ちるという事が、一般の仏教の常識だと言われておりますが、これも、根拠にはなりませんか??

以上、皆さま、御相談の上、ご回答よろしくおねがいいたします。

親鸞会にいた人で、なおたん氏が出すであろう根拠を予想できない人はいないでしょう。これはM講師にもいえます。そんなことも判らずに議論に挑んでいると思っているところが実にお目出たいです。

待ってましたとばかりに、EMS氏のトドメの一撃です。

体験談について延々と述べられるのは困りますので、釘を刺しておきました。今後も教義で話をして下さい。
さて、論点が惚けるのを防ぐため、五逆罪に絞ってついて述べます。

『末灯鈔』には確かに

善知識をおろかにおもい、師をそしるものをば、謗法のものともうすなり。親をそしるものをば、五逆のものともうすなり。同座をせざれとそうろうなり。されば、きたのこうりにそうらいし善証坊は、親をのり、善信をようようにそしりそうらいしかば、ちかづきむつまじくおもいそうらわで、ちかづけずそうらいき。明法の御坊の往生のことをききながら、そのあとをおろかにもせんひとびとは、その同朋にあらずそうろうべし。

とあります。しかし後の部分もしっかり読んで下さい。
訳してみますと、

善知識をおろそかに思い、師を謗る人を、謗法の者というのです。親を謗る人を五逆の者というのです。このような人とは同席をしてはいけないといわれています。ですから、北の郡にいた善証房は、親を罵り、親鸞を様々に謗っていましたので、親しく接しようとは思わずに、近づけないようにしていました。明法房の往生のことを聞きながら、その遺志をおろそかにする人々は、同朋ではありません。

このようになります。
謗法罪の人、五逆罪の人とは親しくしてはいけないと教えられていますから、謗法罪、五逆罪を犯していた善証房を遠ざけていました、と親鸞聖人は仰っているのです。ここで謗法罪、五逆罪の者とは、善証房のことを指しています。
このお言葉に近い内容として、同じく『末灯鈔』に

この御なかのひとびとも、少々はあしきさまなることもきこえそうろうめり。師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなずりなんどしあわせたまうよしきこえそうろう。あさましくそうろう。すでに、謗法のひとなり、五逆のひとなり。なれむつぶべからず。『浄土論』(論註)ともうすふみには、「かようのひとは、仏法信ずるこころのなきより、このこころはおこるなり」とそうろうめり。また、至誠心のなかには、「かように悪をこのまんひとには、つつしみてとおざかれ、ちかづくことなかれ」とこそ、おしえおかれてそうらえ。善知識・同行にはしたしみちかづけとこそ、ときおかれそうらえ

とあります。このお言葉も、関東の同行に宛てたお手紙の一部です。訳してみますと、

皆さんの中にも、少々悪い噂が聞こえてきます。師を謗り、善知識を軽んじ、同行を貶めあっていると聞いています。浅ましいことです。こんな人は、すでに謗法の人であり、五逆の人です。親しく接してはいけません。『浄土論註』という書には、「このような人は、仏法を信ずる心がないから、この心が起こるのだ」と書かれています。また、『観無量寿経疏』の「至誠心釈」の中に、「このように悪を好む人には、慎んで遠ざかれ、近付いてはならない」と教えられています。善知識・同行には親しみ近づきなさいと説かれているのです。

となります。
これらのお言葉から、かつて親鸞聖人から直接話を聞いていた関東の同行の中に、謗法罪、五逆罪の者がいるから、彼らに近付くな、と仰っていることがわかりますし、このような恐ろしい悪を慎むように誡めておられます。もちろん謗法罪、五逆罪を犯していない同行がいる前提で仰っていることは明らかです。
ですから当然のごとく全ての人が謗法罪、五逆罪を犯しているという意味合いで、親鸞聖人は仰っていません。
前後を読めば、謗法罪、五逆罪の人とは、一部の人という意味にしか解釈できませんが、違いますか。

心で造る罪ももちろん問題ですが、心で思っただけでは無間業にはならないということです。御本典でも、思っただけで無間業などとは、全く仰っていません。

これを思い込みといいます。

『御文章』についても、これまでいくつも根拠を挙げました。
死後に六道、三悪道という言い方もいくつもあります。他の御文で、地獄に堕ちると仰ったのは、邪義を唱えている者、異安心の者に対してです。

理性のある人が総合的に読めば、なおたんさんが示した御文は、邪義を唱えている者、異安心の者に対して書かれたお手紙と判断するでしょう。

なおたんさんの子供さんに、国語の問題として尋ねてみたらいいでしょう。

さて、五逆罪を造っていない十悪の者について善導大師は『観無量寿経疏』で次のように仰っています。

下が上の文に説くがごとし。「ただ五逆と謗法とを作らず、自余の諸悪はことごとくみなつぶさに造りて、慚愧すなはち一念に至るまでもあることなし。命終らんと欲する時、善知識の、ために大乗を説き、教へて仏を称せしむるに遇ひて一声す。その時阿弥陀仏、すなはち化仏・菩薩を遣はしてこの人を来迎し、すなはち往生を得しめたまふ」(観経・意)と。ただかくのごとき悪人目に触るるにみなこれなり。もし善縁に遇へば、すなはち往生を得。もし善に遇はざれば、さだめて三塗に入りていまだ出づべからず。

現代語訳は以下の通り

下品上生の文に説かれている通りである。
ただ五逆と謗法を作らないだけで、そのほかの悪は皆ことごとく造り、わずか一念も慚愧する心がない。そういう者が命終わろうとする時、善知識がその人のために大乗を説き、教えて念仏させるのに遇う。一声すると、そのとき阿弥陀仏は化仏・菩薩をつかわして、この人を来迎し、そこで往生を得る。
このような悪人は、すべて人の常に見るところである。もし善知識の縁に遇えば往生を得るが、善知識の縁に遇わなければ必ず三途に沈んで出ることができない。

五逆罪、謗法罪を造っていなければ、三悪道とありますね。もちろん五逆罪、謗法罪を造っていない人がいるという大前提でしか仰っていません。『観無量寿経』も同様です。

五逆罪について、阿弥陀仏はどう見なされて、本願を建てられたのかを説明しましょう。

18願の
唯除五逆誹謗正法
は、19願・20願にはありません。このことを親鸞聖人は

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。(尊号真像銘文)

と解説しておられます。
要するに、18願には五逆・謗法の者も含まれているが、19願・20願には含まれていないということで、阿弥陀仏は五逆・謗法の者とそうでない者がいると見なされているのです。これは三願転入の議論で、詳しく説明しました。参考までに、こうへいさんは、この件で全く反論できませんでしたよ。代わりになおたんさんが根拠を挙げて反論されても結構です。(体験談はお断りします)

次に蓮如上人でいえば、

つぎに「本願名号信受して寤寐にわするることなかれ」といふは、かたちはいかやうなりといふとも、また罪は十悪・五逆、謗法・闡提の輩なれども、回心懺悔して、ふかく、かかるあさましき機をすくひまします弥陀如来の本願なりと信知して(1帖目第2通)

ただ阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、かかる十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人までも、みなたすけたまへる不思議の誓願力ぞとふかく信じて(2帖目第10通)

それ、弥陀如来の念仏往生の本願(第十八願)と申すはいかやうなることぞといふに、在家無智のものも、また十悪・五逆のやからにいたるまでも、なにのやうもなく他力の信心といふことをひとつ決定すれば、みなことごとく極楽に往生するなり。 (3帖目第3通)

さて弥陀如来の超世の大願はいかなる機の衆生をすくひましますぞと申せば、十悪・五逆の罪人も五障・三従の女人にいたるまでも、みなことごとくもらさずたすけたまへる大願なり。(3帖目第5通)

しかれば、それ阿弥陀如来は、すでに十悪・五逆の愚人、五障・三従の女人にいたるまで、ことごとくすくひましますといへることをば、いかなる人もよくしりはんべりぬ。(3帖目第3通)

これによりて、いかなる十悪・五逆、五障・三従の女人なりとも、もろもろの雑行をすてて、ひたすら後生たすけたまへとたのまん人をば、たとへば十人もあれ百人もあれ、みなことごとくもらさずたすけたまふべし。(5帖目第8通)

まづ機をいへば、十悪・五逆の罪人なりとも、五障・三従の女人なりとも、さらにその罪業の深重にこころをばかくべからず。(5帖目第15通)

以上のことから、「までも」「いたるまでも」「なりとも」とあることから、最低の者までの範囲を示されているのであって、最低の者とは違うその上の者が当然いる前提で仰っています。
それは次のお言葉で明らかです。

されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり。(正信偈大意)

以上より、今回の結論です。

************************************
五逆罪についてすべての人が造っているのかどうか、簡単にまとめてみました。

阿弥陀仏:大多数の人は造っていない。ほんの一部の人だけが造っている。
釈尊:大多数の人は造っていない。ほんの一部の人だけが造っている。
七高僧:大多数の人は造っていない。ほんの一部の人だけが造っている。
聖覚法印:大多数の人は造っていない。ほんの一部の人だけが造っている。
親鸞聖人:大多数の人は造っていない。ほんの一部の人だけが造っている。
蓮如上人:大多数の人は造っていない。ほんの一部の人だけが造っている。

************************************

さて、まだなおたんさんは、教義上で

なおたんさん:すべての人が造っている。造っていない人はいない。

と主張されますか?あるいは、某会長の嫌う体験談で主張されますか?

ここまで完璧に否定されては、教義では全く言い返す事ができません。実質的に、これでなおたん氏の教義での反撃は終わりました。
ただ、負けを認める訳にいかない、の一心でこの後は体験談を延々と書き続けます。事実上、これで議論は終了でした。

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2011年1月18日 (火)

自称獲信者との論争5

なおたん氏は、EMS氏の質問には一切答えず、体験談の連続です。体験談を語るな、と”御指導”されていながら、体験談しか語れず、実に親鸞会らしい矛盾です。

>EMSさんは

一生造悪を罪悪感??と解釈されているのですね。

はじめて御聞きしました。親鸞聖人は、そんなおつもりでは仰っておられないと思いますが。。

>stybyさん

⇒法然上人、聖覚法印、親鸞聖人の御言葉をEMSさんが示されているからといって、それを覆すことができなければ、私は、阿弥陀仏の本願には救われていないと断言されるということでしょうか??

相変わらず随分残酷な注文をしてこられるんですね。

阿弥陀仏の本願19願、20願、18願の三願のみは、なぜ十方衆生相手を救うと建てられたのでしょうね。
他でもない、阿弥陀仏の三願転入を否定されるあなた方とは、もうお話しすることはないです。

親鸞聖人は、「聞」というは、衆生仏願の(阿弥陀仏の本願の)生起本末を聞いて、疑心有ることなし。これを聞というなり。(教行信証)と述べておられます。

そんな難しい教学を知らずとも、阿弥陀仏に救っていただけるのだという事を知らされて、今日に至ります。

阿弥陀仏の声なき声を聞かせていただき、わが身が唯除五逆誹謗正法の者であったとハッキりと知らされて、無間のどん底にたたき落とされて、そのまま救うぞという声なき声が、全身を貫いた一念、大安心、大満足と躍り上がって、ようこそようこそ阿弥陀様と、無碍の一道の世界に出させていただけたからには、
言葉もいりません。

あなたが、私を間違いだと言われる以前に、何の間違いで、こんな幸せな身にしていただけたのかと、不思議不思議の他はありません。

想像を絶する世界だから、難思の弘誓と言われるし、もともと不可称、不可説、不可思議の世界です。言うことも、説くことも、想像することもできない世界
ですからね。貴重なお時間を費やしてくださって、どうも有難うございました。

最後に、私が、一番何回も読ませていただいていた御文障二帖八通にて、
根拠とさせていただきます。

十悪五逆の罪人も、五障三障の女人もみな十方三世の諸仏の悲願に洩れて捨て果てられたる我等ごときの凡夫なり。然れば、ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なれば、九遠実成の古仏として、今の如きの諸仏に捨て果てられたる末代不善の凡夫、五障三障の女人をば弥陀にかぎりて、「われひとり助けん」とい超世の大願を発して。我ら一切衆生を「平等に救わんと誓ひたまひて、無上の誓願を発して、すでに阿弥陀仏と成りましましけり。この如来を一筋にたのみたてまつらずば、末代の凡夫、極楽に往生する道、二も三もあるべからざるなり。」

とあります。あなた方の根拠をあげよという事は、私が、阿弥陀仏に救われた事には、全く関係ない、必要のない作業です。

私は、僧でも無く、講師でもない。一般の主婦です。

それに、二種深信が立つと教えていただいているから、善導大師の二種深信の御言葉をあげたまでで、そんなこと、善導大師や親鸞聖人だけではありません。救われたら万人が知らされる事ですからね。

七高僧方、皆表現だってちがいます。某会の教学にも、それぞれの御言葉を掲載していましたし。。

では、失礼いたします。お達者で~。

はっきり言いまして、意味不明です。知っている知識と根拠を並べれば、深い何かがあると思わせたいのか、思考がもともとおかしいのか?
なおたん氏の体験談と教えが、善知識方のお言葉と矛盾していることを指摘しているのですから、教学があるかどうかの問題ではありません。体験も教えも違っているのです。それが理解できないのか、理解したくないのか、とにかく支離滅裂です。

お達者で~」とあったので、この後、なおたん氏は現われないのかと思えば、また何度も、体験談を語り続けます。しかし、読むに値しませんので、省略します。

何度か同じやりとりをした後、sutybi氏が一旦まとめます。

なおたんさんの好きな必堕無間の根拠は、日蓮著『撰時抄』です。

教主釈尊の金言まことならば多宝仏の証明たがずば十方の諸仏の舌相一定ならば今日本国の一切の衆生無間地獄に堕ちん事疑うべしや

なおたんさんは、日蓮宗と真宗とを混乱されているようです。なおたんさん以外の方は、真宗の話をここでされていますので、日蓮宗の話とは噛み合いませんよね。

論点をずらすことで誤魔化されるのを避けたいので、一番分かりやすい五逆罪に絞って話をします。

五逆罪については、EMSさんが『教行信証』信巻での根拠を示されていますが、現代語にすると

一.故意に父を殺すこと
二.故意に母を殺すこと
三.故意に阿羅漢を殺すこと
四.間違った考えを起こして教団を乱すこと
五.悪い心を抱いて仏身を傷つけて血を流すこと

です。さてこの五逆罪についてすべての人が造っているのかどうか、簡単にまとめてみました。

釈尊:大多数の人は造っていない。ほんの一部の人だけが造っている
七高僧:大多数の人は造っていない。ほんの一部の人だけが造っている
聖覚法印:大多数の人は造っていない。ほんの一部の人だけが造っている
親鸞聖人:大多数の人は造っていない。ほんの一部の人だけが造っている
なおたんさん:すべての人が造っている。造っていない人はいない。

さて、釈尊、七高僧、聖覚法印、親鸞聖人の教えを完全に否定しているなおたんさんの主張は、何宗の話ですか?何教の話ですか?

根拠の全くないなおたんさん、

口空けば
 寝ても覚めても
  体験談

体験至上主義は間違いと、某会の会長から聞いてきませんでしたか?

更にはEMS氏が、

某会のHPより抜粋

体験至上主義ともいわれる彼らの生命線は、そんな体験談なのだ。 彼らに、体験談を話すな、書くなということは、親鸞学徒に、親鸞聖人の教えを説くな、教えるな、というのに等しい衝撃である。 生命を断たれることになるからだ。

これは、なおたんさんのことそのままです。
さて親鸞聖人の教えの中で、五逆罪とは重要な位置を占めます。
sutybiさんの書かれたことがすべてです。

*********************************************************************
この五逆罪についてすべての人が造っているのかどうか、簡単にまとめてみました。

釈尊:大多数の人は造っていない。ほんの一部の人だけが造っている
七高僧:大多数の人は造っていない。ほんの一部の人だけが造っている
聖覚法印:大多数の人は造っていない。ほんの一部の人だけが造っている
親鸞聖人:大多数の人は造っていない。ほんの一部の人だけが造っている

なおたんさん:すべての人が造っている。造っていない人はいない。
*********************************************************************

と駄目押しをします。
教義を語らず体験談ばかりの団体(親鸞会では華光会のことを指す)を非難した高森会長の”御指導”にも抵触していることを指摘しています。
尤も、高森会長自身も教義上の矛盾を突かれると、いつも体験談を語る事で誤魔化してきましたので、なおたん氏は高森会長の縮小コピーのようなものです。

しかし、親鸞会はあれだけ法論に負け続けながら、体験談ではない教えを説いていると堂々といえるのは、どんな神経なのでしょうか?

ここまで華光会を恐れているとは、高森会長が如何に小心者であるかよく判ります。

ともあれ、矛盾に満ちた高森会長の言葉も、親鸞会との議論の際には有効に使いましょう。

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2011年1月17日 (月)

自称獲信者との論争4

最近、高森会長・講師部員、そして幹部会員の、負け犬の遠吠えだけが聞こえます。反論する能力がないから仕方がないのでしょうが、それなら黙っていなさい、実にみっともないです。

自称獲信者なおたん氏の暴走は続きます。

EMSさん、今度の一大事の後生をまた、往生の一大事って、解釈されておられましたね~..

もっと簡単に書くとなおたんの後生の一大事を助けるぞ~!!としか読めませんね~。

いずれの行も及びがたければ、とても地獄は一定すみかぞかしって、親鸞聖人の御言葉を蓮如上人の体験文に重ねてみただけですよ。

二種深信ですが、一には、決定して自身は現に罪悪生死の凡夫、昿劫よりこの方
常に没し、常に流転して出離の縁あることなしという御言葉も、
親鸞聖人が仰った地獄一定と意味は、同じです。

二には、彼の阿弥陀仏、四十八願を以て、疑いなく慮りなく彼の願力に乗ずれば、定んで往生すと深信す。。ということで、

この言葉通りに私が書けなければ、言えなければ、私の信心と、善導大師や、親鸞聖人と同じ信心だとは言えないって、EMSさんは、仰っておられるのでしょうか~??
私は、智恵、才覚、学問、経験、などが同じとは言っておりませんよ。

弥陀からたまわった信心が同じです。それでも、教学で説明できなければ認めないっておっしゃるのなら、私の不徳の致すところですので、あしからず。

御心配なく。二種深信通りに、本当の自己を知らされていますので、EMSさんとは、同じ信心ではございませんので。。

自己の体験から頓珍漢な解釈をしている一方で、『歎異抄』の「地獄は一定すみかぞかし」を出してきました。しかしこれはEMS氏の作戦でした。

>もっと簡単に書くとなおたんの後生の一大事を助けるぞ~!!としか読めませんね~。

なおたんさんの個人的な味わいですね。
結局のところ、法然上人、、聖覚法印、親鸞聖人は、一般の人は五逆罪を造っていないとはっきり仰っていますことを否定できないということで、なおたんさんの邪義は証明されました。

あえて、『歎異抄』の「地獄一定」について私は言及しなかったのは、なおたんさんがそれを出してくると予想していたからです。

『歎異抄』のお言葉の意味は、『執持鈔』と比較することで、なおたんさんの間違いがよく判ります。以下は親鸞聖人のお言葉として覚如上人が書かれたものです。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。
(中略)
善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

自力を捨てて他力に帰すとは、死後どこへいくかをすべて阿弥陀仏にまかせるということです。自分で、地獄に行くとか浄土に往生できると計らうのではないと親鸞聖人は仰っています。

すべてを阿弥陀仏におまかせしたことが、正しい安心です。

ですから、なおたんさんの信心は、明らかに親鸞聖人の信心とは異なります。
もちろん覚如上人、蓮如上人とも違いますし、善導大師、法然上人、聖覚法印とも違います。

親鸞聖人が『歎異抄』で「地獄一定」と仰ったのは、懺悔からのことです。懺悔とは罪悪感からくるものですが、罪悪感、懺悔と機の深信との区別さえつかないような異安心です。

教学も間違っていますし、こちらの質問には一切答えられない。
善知識方の仰ったことを否定して、それで真宗を名乗るのはおこがましいと思われませんか?

なおたんさん、あなたのここでの発言は謗法罪です。

罪悪感と機の深信との違いについて、私から説明しても構いませんが、五逆罪を造っていないとの善知識方のお言葉を無視し続ける、なおたんさんの誤魔化しに加担しても仕方がないので、以下を読んでおいてください。

なおたんさん間違いが、普通の人にはよくわかると思います。

http://www009.upp.so-net.ne.jp/kobako/mondou.html

なおたん氏の体験が、真実信心とは相違することを次々と指摘されてしまいました。
親鸞会の議論はいつも同じです。直接の根拠が出せないと、関係ありそうな根拠を適当に出してきて、適当な理屈で説明する行き当たりばったり。そのため、すぐにボロがでます。

罪悪生死の凡夫って二種深信にありましたが、親鸞聖人は、一生造悪とまで仰っていませんか??

地獄=苦しみの絶えまない世界のことですよね??

その苦しみは、誰が造るのでもなく、一生造悪の親鸞が生み出す世界だから、地獄は一定の親鸞と仰ったではないですか?
二種深信とは、真実の姿が知らされる事ですよね??

真実の善ができれば、善因善果で、苦しまなくてもすむはずですが、
善根薄少ないっていうことは、それ以外の行為は、全部悪だから、悪因悪果で、苦しみの世界を生み出すじゃないですか??

そしたら、親鸞聖人が、地獄一定といっても、別におかしくないではありませんか??

信心決定の世界は、この地獄一定の親鸞が、阿弥陀仏の本願に救われて、
往生一定、極楽に行けると定まった世界に出た事ですよ。

だから、あんなに親鸞聖人喜ばれたわけで、だから、恩徳讃もうたわれてるわけですし。。

親鸞会で聞いてきたことを判ったような気になって書き連ね、何か理屈を言えば誤魔化せると思うところが、親鸞会思考です。もう一度、EMS氏が念を押します。

一生造悪と五逆謗法とは違いますが、それくらいのこともわからないのでしょうか?

罪悪感と機の深信との違いも理解できないようでは、話になりません。

以下のお言葉についての解釈をしてください。

法然上人は『往生大要鈔』で

われら罪業重しと云へども、いまだ五逆をばつくらず。

と仰り、また『浄土宗大意』には、

五逆をもつくらさるわれらを、弥陀の名号を称念せむに往生うたかうへからず。

ともあります。
聖覚法印の『唯信鈔』には、

五逆の罪人すら、なほ十念のゆゑにふかく刹那のあひだに往生をとぐ。いはんや罪五逆にいたらず、功十念にすぎたらんをや。

とか、

われら、罪業おもしというとも、五逆をばつくらず。

更にはsutybi氏が、議論の進め方が間違っている事を指摘されます。

基本的なことが間違っていると思いますよ。
なおたんさんは、すべてのひとが必堕無間と言われた訳です。
ということは、無間業である五逆罪・謗法罪をすべてのひとが造っていることを証明しなければなりません。

しかし、そんなことを釈尊も七高僧も親鸞聖人も全く仰っていないという事実があるのです。

それをなおたんさんの個人的な思い込みで一生懸命説明していますが、根拠がないことをいくら書いたところで、なおたんさんの思い込み以外の何物でもありません。

法然上人、聖覚法印、親鸞聖人のお言葉をEMSさんは示されていますので、それを覆すことができなければ、なおたんさんの間違いは決定です。

論点を広げ過ぎると誤魔化しやすくなりますので、あくまで論点を絞って議論するのが鉄則です。

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2011年1月16日 (日)

自称獲信者との論争3

教学、理論的には完敗を自覚したようで、自称獲信者なおたん氏は、この後体験談をひたすら書き続けますが、その切っ掛けは、EMS氏が論点ずらしを阻止したことです。

なおたんさんには難しい根拠をたくさん出しても解釈は無理でしょうから、以下のことだけでもどんな違った解釈があるのか教えてください。

法然上人は『往生大要鈔』で

われら罪業重しと云へども、いまだ五逆をばつくらず。

と仰り、また『浄土宗大意』には、

五逆をもつくらさるわれらを、弥陀の名号を称念せむに往生うたかうへからず。

ともあります。
聖覚法印の『唯信鈔』には、

五逆の罪人すら、なほ十念のゆゑにふかく刹那のあひだに往生をとぐ。いはんや罪五逆にいたらず、功十念にすぎたらんをや。

とか、

われら、罪業おもしというとも、五逆をばつくらず。

どこをどう読んでも、五逆罪を一般の人は造っていないとしか読めません。これをすべての人が五逆罪を造っていると解釈できる理由が全くわかりません。

全人類が五逆・謗法の者と仰った善知識は誰もいません。未だに全人類が逆謗・闡提だと超こじつけヘンテコ解釈をしている人がいるようですが‥‥。

これに対してなおたん氏は、体験での解釈でしか対抗できませんした。

もし、何も知らない私が、最初に、あなた方の話しを聞いていたら、仏教なんて
聞かなかったですよ。
だって、後生、地獄にも堕ちないし、五逆罪も造っていないし、死後、八万劫中
大苦脳、ひまなく受けるという後生の一大事も無いよ!っ
て言われるのですからねっ!
五逆罪は、両親の介護をさんざんして来た自分の体験を通して、ハッキりと知ら
されましたよ~。
口や身体では、表面上は、私は、大変いい娘でしたが、心で、両親をどれ
だけ切り刻み、邪魔にしてきた事でしょうか。何事も何事も、仏教において
行学は大事ですね~。
やってみないとわかりませんね~。そんなわが身であったなあと、
思い知らされましたから、どなた様が造らずとも、五逆罪を造りどおしの私と知
らされました。
だから、EMSさんのようには、読めませんね~。
阿弥陀仏に救われて、お礼の念仏(乃至十念)を称える身になれば、生きている
間は、罪は造っても、後生には関係なくなるわけで。。
その結果をまともに受ける事は無いのだよ。蓮如上人の御言葉で言うならば、
罪は無き分なり。という意味だとしたら、理解できますけれど。。。
こんな悪造る私は、阿弥陀仏の本願に洩れているのではないかと思ったほどで
す。

しかし、悪人正機と歎異抄にもありますが、まさに、こんな悪しかできない私
おめあての阿弥陀仏の本願であったと知らされましたね。。。
私の体験ではなく、蓮如上人の体験文の方がいいでしょうから、書かせ
ていただきます。
これを何度も読ませていただいても、すばらしいです。

蓮如上人は、後生の一大事の解決を阿弥陀仏にしていただいて、
阿弥陀仏と次第相承の善知識に対して、大変なご恩を知らされて、喜ばれておら
れるのだとしか味わえないのです。

もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて、一心に阿弥陀如来 われらが
今度の一大事の後生 御助け候とたのみ申して候。
たのむ一念のとき、往生一定 おん助け治定と存知、このうへの称名は、
御恩報謝と存知よろこび申し候。この御ことわり聴聞もうしわけ候事、御開山
聖人の御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、
ありがたく存知候。このうへは、さだめおかせらるる御おきて、一期をかぎり
まもりもうすべく候。

もろもろの雑行・雑修・自力の心を阿弥陀仏の本願によって振り捨たった時、
たのむ一念の時とは、これは、地獄行き間違いない身でありながら、そんな私を
阿弥陀仏が、一念で助けて下さり、往生一定、死んで極楽浄土
に生まれるに定まった身に、助けてくださり、
御恩報謝の念仏と知らされて、報謝の念仏をよろこび称えさせていただいており
ますというです。。
そして、
いままで、仏教を聴聞させていただけたのは、親鸞聖人がこの世に生まれて下さ
れた御恩そして、お釈迦様をはじめとして、七高僧方の、あさからざる(深い)
御指導の御恩あったなればこそだと、ありがたいことだと喜んでおられるとし
か、解釈できませんの~。

あぶないところ助けていただけたのだと知らされたら、親鸞聖人の恩徳讃のみ心
も、ピタッと理解できるのですが、同じ御文章でも、いろんな解釈があるもの
でございますね~。

自分の体験はこうだとしか反論ができなくなったのです。仏教を聞く目的が、必堕無間から逃れるためということがいいたいのでしょうが、そこがそもそもの間違いです。

仏教を聞く目的は成仏です。浄土門ならば、浄土往生といってもいいです。

基本中の基本が間違っています。以前にもいいましたが、必堕無間から逃れるためだけならば、親鸞会理論では、仏教を聞かずに神に仕えることです。

『教学聖典』より

(問)
 神に仕えた者の恐ろしい結果を教えられた経文を書け。

(答)
 一度、神を拝んだ者は、五百生の蛇身を受け、現世に福報は更に来たらずして、後生は必ず三悪道に堕す。

ところで以前に、なおたん氏の日記上で論争があったのですが、その時はなおたん氏が、都合の悪い人のアクセスを禁止してしまったという経緯があります。
今回それができませんので、なんとしても負けだけは避けたい気持ちで必死に反論し続けています。しかも、親鸞会らしく、

お前に何が分かる、という他人を見下した態度

こうへい氏もそうでしたし、他の講師部員もそうでした。元を辿れば、高森会長が法論で負けそうになった時には、必ず体験談を持ち出してきます。
親鸞会のパターンは上から下までマニュアル通りです。

そこで逃げ道を塞ぐために体験談での論理飛躍解釈をEMS氏が指摘しています。

同じ御文章でも、いろんな解釈があるものでございますね~。

全く同感です。結局、なおたんさんの体験をもとにしてしか解釈ができない、文字上からはなおたんさんの解釈は導き出すことができない、ということですね。

ですから、文底秘沈と言ったのですが、その通りではないですか?

何度も何度も同じことを言わせないでください。

法然上人、聖覚法印、親鸞聖人は、一般の人は五逆罪を造っていないとはっきり仰っています。
どこをどう解釈したら、なおたんさんのように、すべての人が五逆罪を造っているからすべての人が必堕無間となるのですか?

文字上で答えてください。

体験至上主義で阿弥陀仏の救いを語るのは危険ですよね。

真実信心かどうかは、二種深信が立ったかどうかで判定できるといわれますよね。それは賛同いただけますか?

善導大師の機の深信は、『散善義』の 

一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。

が有名ですが、もう一つ『往生礼讃』にもあります。 

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。

善根薄少」とはありますが、「無善根」ではありません。善根が少ないので、自分の力では出離できないということであって、悪しかできないということではありません。

どこに必堕無間と知らされたと善導大師が仰っていますか?
この2つとも親鸞聖人は御本典に引用されて、真実信心の説明をされています。

なおたんさんの信心は、善導大師、親鸞聖人の信心とは異なるようですね。

私は、善導大師、親鸞聖人と全く同じ二種深信です。

『領解文』の意訳をすると

いろいろの雑行や雑修、自力の心をふりすてて、一心に阿弥陀如来、私たちのこの度の往生の一大事をすべておまかせ致しました。

このたのむ一念のときに、往生は定まり、御助けが治底したことと存じられます。この上から阿弥陀如来の御名を称えさせていただくのは、御恩報謝と存じてよろこんでおります。

この御ことわりを聞かせていただくことができたのは、親鸞聖人が、この世にお出ましになられた御恩、次第に御相承下された善知識方の少なからざるお導きの御恩と有り難く存じます。

この上は定められている御掟を一生涯を通じて守らせていただきます。

このようになります。
少し解説しますと、最初の段には、捨自帰他の安心が示されています。
第2段には、信の一念に往生が定まるから、それ以後の念仏は報恩にほかならないということです。
第3段には、上記の教えを教示し伝持された親鸞聖人や善知識の恩徳を謝すべきことが述べられています。
第4段には、真宗念仏者の生活の心がまえが示されています。

なお、「御たすけ候へとたのみ」というのは、衆生が阿弥陀如来に向かっておたすけを請求する意ではなく、許諾(先方の言い分を許し承諾する)の義で、「必ずたすける」という本願招喚の勅命を領納して、仰せの通りに信順している信相をあらわしています。

やはりどこにも、なおたんさんの体験談である

地獄行き間違いない身でありながら

という意味のことは仰っていません。

なおたんさんの信心は、一体誰と同じなのでしょうか?

体験談は否定できないと踏んだのでしょうが、なおたん氏の体験まで根拠に基づいて否定されてしまい、逃げ場を失っていきます。

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2011年1月15日 (土)

自称獲信者との論争2

mixiに登録されている方は、実際のやりとりを読まれればいいと思いますが、登録していない方のために、解説を入れながら紹介しています。

自称獲信者なおたん氏は、地獄と書かれた『御文章』と後生の一大事を盾に取って、死後は地獄である事を証明しようと必死になりました。

蓮如上人、御文章 一帖目~

かくの如く、坊主と門徒の間において、更に当流の信心の心得の分はなし。まことにあさましや。
⇒師・弟子ともに極楽には往生せずして、空しく地獄んい堕ちんことは疑いなし。
歎きてもなほあまりあり。悲しみてもなほ深く悲しむべし。
 

これが脅しで書かれたものでしょうか??

二帖目二通にも、

この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなりと仰っています。

EMSさんが仰っておられた、
後生は永生の楽果なりという意味で書かれている所は、

一帖目十一通の最後の方にあります。

然れば、今日よりのちは、他力の大信心の次第をよく存知したらん人に相尋ねて
、信心決定して、その信心の趣を弟子にも教えて、
 

⇒諸共に今度の一大事の往生を、よくよく遂ぐべきものなり。
あなかしこ。あなかしこ。

他にも、『信心をとりて弥陀をたのまんと思いたまわば』とあります。

信心をとる者とは、生きている今、信心決定して、阿弥陀仏に救われた人にとっては、後生の一大事は、死んで弥陀の浄土に往生するという一大事です。

EMSさんが仰っている一大事とは、この事だと理解できます。

後生の一大事という言葉の意味として、
蓮如上人の御文章に書かれている前後の文章によって、
二通りの意味に使われてることになります。

一つは、生きている現在、阿弥陀仏から、まことの信心を賜って、死んで弥陀の
浄土に往生するという一大事。

もう一つは、先に述べましたように、無間地獄に堕ちるという一大事です。

また、二帖目十通には、次のように述べられています。

それ、当流親鸞聖人の勧めまします所の一義の意というふは、先ず他力の信心をもって肝要とせられたり。この他力の信心というふことを詳しくしらずば、
今度の往生極楽は、真に以てかなうべからずと、経、釈ともに明らかに見えたり

蓮如上人も、往生極楽は、真にもってかなうべからずと仰っているのも脅しではありません。事実だからです。

答えていわく、「そもそも、当流の他力信心の趣(おもむき)と申すは、あながちにわが身の罪の深きにも心をかけず、ただ阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、かかる十悪、五逆の罪人も、五障、三従の女人までも、皆たすけたたまへる不思議の誓願力ぞ」と深く信じて、更に一念も本願を疑う心なければ、かたじけなくも、如来のよく知ろしめして、既に行者の悪き心を、如来のよき心と同じものになしたまうなり。この謂をもって『仏心と凡心と一体になる』といえるはこの意なり。

とあります。

以上の根拠によって、このように、親鸞聖人のみ教えについてを私は、理解しておりますが、それでも、これをEMSさんが、文底秘沈だと仰るのであれば、致し方ありません。

以上は断章取義による解釈です。当ブログでも取り上げてきましたので、読者の皆さんならば、トリックに気が付かれると思います。
なおたん氏が、本気で自分の言っている事が正しい、と思っているのか、もしそうなら知能を疑います。
EMS氏は、簡単に反論しています。

先ほどの私のコメントを読まれましたか。

>私は多くの根拠を出しました。私の出した根拠に対して、解釈がどう違うのか指摘してください。そうでなければ、浄土真宗を信じている人とは言えません。

法然上人、聖覚法印、親鸞聖人のお言葉は無視ですか?

自分に都合のよい根拠のみを示して、他の根拠との整合性をもたせないから、いい加減な解釈になるのです。断章取義されていますが、他の御文章では、地獄に堕ちると仰っているのは、異安心、邪義の者に対してです。

これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もってのほか相違す。そのゆえは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といい、これを信心のひとといえり。これおおきなるあやまりなり。また弟子は、坊主にものをだにもおおくまいらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきようにおもえり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあいだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに、極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことはうたがいなし。(1帖目第11通)

それ越前の国にひろまるところの秘事法門といえることは、さらに仏法にてはなし。あさましき外道の法なりこれを信ずるものは、ながく無間地獄にしずむべき業にて、いたずらごとなり。(2帖目第14通)

誰に対して地獄に堕ちると書かれていますか?
邪義、異安心の者に対してですね。それは理解できますか?

一方

されば、死出の山路のすえ、三途の大河をば、ただひとりこそゆきなんずれ。(一帖目第十一通)

はやめにみえてあだなる人間界の老少不定のさかいとしりながら、ただいま三途八難にしずまん事をば、つゆちりほども心にかけずして、(二帖目第一通)

されば、五道六道といえる悪趣に、すでにおもむくべきみちを、弥陀如来の願力の不思議として、これをふさぎたまうなり。(二帖目第四通)

と、一般論として死後は六道輪廻、あるいは三途(三悪道)に行くと仰っています。つまり、すべての人が死んで地獄に堕ちるという意味では仰っていないのですから、無間地獄に堕ちるという一大事という解釈は最初から成り立ちません。

単なる思い込みにしか過ぎません。

後生の一大事については、

まづ人間はただ夢幻のあひだのことなり、後生こそまことに永生の楽果なりとおもひとりて、人間は五十年百年のうちのたのしみなり、後生こそ一大事なりとおもひて、もろもろの雑行をこのむこころをすて、あるいはまた、もののいまはしくおもふこころをもすて、一心一向に弥陀をたのみたてまつりて、そのほか余の仏・菩薩・諸神等にもこころをかけずして、ただひとすぢに弥陀に帰して、このたびの往生は治定なるべし (1帖目第11通)

もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。(1帖目第11通)

ただし人界の生はわづかに一旦の浮生なり、後生は永生の楽果なり。たとひまた栄華にほこり栄耀にあまるといふとも、盛者必衰会者定離のならひなれば、ひさしくたもつべきにあらず。ただ五十年・百年のあひだのことなり。それも老少不定ときくときは、まことにもつてたのみすくなし。これによりて、今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。(2帖目第7通)

この他力の信心ということをくはしくしらずば、今度の一大事の往生極楽はまことにもてかなふべからず。(2帖目第10通)

いそぎてもいそぎてもねがうべきものは後生善所の一大事にすぎたるはなし。(帖外御文)

とあります通り、往生の一大事です。おわかりですか?

なおたんさんの挙げた根拠の解釈もおかしいです。

それ、当流親鸞聖人の勧めまします所の一義の意というふは、先ず他力の信心をもって肝要とせられたり。この他力の信心というふことを詳しくしらずば、
今度の往生極楽は、真に以てかなうべからずと、経、釈ともに明らかに見えたり

他力の信心というふことを詳しくしらずば、今度の往生極楽は、真に以てかなうべからず

【】の部分を抜かしていますが、信心決定しなければ、往生極楽は、真にもってかなうべからずと仰っているのですから、何も私の説明と矛盾しません。

答えていわく、「そもそも、当流の他力信心の趣(おもむき)と申すは、あながちにわが身の罪の深きにも心をかけず、ただ阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、かかる十悪、五逆の罪人も、五障、三従の女人までも、皆たすけたたまへる不思議の誓願力ぞ」と深く信じて、更に一念も本願を疑う心なければ、かたじけなくも、如来のよく知ろしめして、既に行者の悪き心を、如来のよき心と同じものになしたまうなり。この謂をもって『仏心と凡心と一体になる』といえるはこの意なり。

このお言葉と私の説明とどこに矛盾が生じると言いたいのかわかりませんが、【かかる十悪、五逆の罪人も、五障、三従の女人までも
というところでしょうか。【までも】の意味はおわかりですか?

すでに負けているのに、いつまでも言い訳のような屁理屈を言い続けるのが、親鸞会の特徴です。
すべての人が必ず地獄に堕ちないのであれば、後生の一大事が無間地獄に堕ちる一大事になる筈がありません。一部の人にしか当てはまらない後生の一大事を強調される意味がないのです。

このやり取りを、簡潔に言えば、

EMS氏:法然上人、聖覚法印、親鸞聖人は必堕無間を否定されていますよ。後生の一大事とは、往生の一大事のことです。

なおたん氏:蓮如上人が後生の一大事と仰っているのは必堕無間のことですから、すべての人は必堕無間になるのです。

EMS氏:蓮如上人は邪義・異安心の人に対して地獄に堕ちると仰っているのですから、必堕無間の意味で後生の一大事を言われることはありません。後生の一大事とは往生の一大事のことです。

親鸞会の人は、理論が破綻していても完璧な理論と思い込む癖があるようです。

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2011年1月13日 (木)

自称獲信者との論争1

読者の方から、mixiの中でちょっとおもしろいことが起きていたと教えてもらいました。

歎異鈔コミュニティにある悪人正機トピック

で、親鸞会会員の自称獲信者なおたん氏と、元会員さん含む数人との論争です。
事の発端は、真宗を学んでいない人に対して、自称獲信者のなおたん氏がいつもの親鸞会邪義を並べたてた上で、最後に

過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまいし所(みもと)にして、自力の大菩提心をおこして、恒沙の善根を修せしめしによりて、今、大願業力にもうあうことをえたり』(唯信鈔文意)

果てしない過去に、ガンジス河の砂の数ほどの諸仏のもとで、一大事を解決しようと大奮発心をおこし、計り知れない善を行ってきた因縁により、
今、弥陀の大願業力に救い摂られることができたのである。という意味ですから、どうぞ引き続き地獄で、罪の償いでもなんでもなさってくださいませ。

有漏(うろ)の穢身は、変わらねど、心は浄土に遊ぶなりと親鸞聖人も仰せです
が、阿弥陀仏の本願に救われた者は、この世から、浄土で遊んでいるような楽し
い心で、日暮しさせていただき、縁が尽きれば弥陀の浄土に往相回向して、
仏果を得て後に、すぐさま、お浄土から還相回向して、今度は、衆生済度の活躍
これをご縁に、しょうちゃんさんを救いに、馳せ参じてさしあげますからね~♪
悪因悪果、自因自果で、無限に苦しみ続けるしょうちゃんさんが、地獄で罪を償
いますって、本気で仰っているのですから、仕方がありませんものね~。
一度地獄に入りて長苦を受くる時、初めて人中の善知識を憶う』というお言葉
が、大無量寿経にありますが、後悔だけは、なさいませんように。。。
9歳で、親鸞聖人が、後生の一大事の解決をしようと20年間、求めて、やっと
法然上人から、真実の仏教を聞き、阿弥陀仏の本願に救われて、地獄に行くとい
う一大事が、極楽に往くという一大事に大変わりした境地。聖人が、命がけで、
伝えられたのは、ひとえに、万人の後生の一大事があるからではありません
か??そして、身命を賭して伝えて下されたのは、その後生の一大事解決は、
必ず出来るからですよ。仏語に虚妄なしです。お釈迦様も三世諸仏のお一人です
が、三世十方の諸仏も、こんな悪のかたまりの私たちを一度は救おうと試みたの
ですが、当然、力及ばずでした。悪ばかり造りどうしの私たちが、極楽に行く
なんて、虫がよすぎる話しですものね~!
だから、とうとう、三世の諸仏は、自分たちの手に負えず、背相を見せて逃げて
行かれたのです。
蓮如上人の御文章二帖八通には、その事が、述べられています。
それ十悪五逆の罪人も、五障三従の女人も虚しくみな十方三世の諸仏の悲願に洩
れて、捨て果てられたるわれらごときの凡夫なり。
然れば、ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なれば、久遠実成
の古仏として、今のごときの諸仏に捨て果てられたる末代不善の凡夫、五障三従
の女人をば弥陀にかぎりて、「われひとり助けん」という超世の大願を発して
(おこして)、われら一切衆生を「平等に救はんと誓ひたまひて、無上の誓願を
発して(おこして)、已に阿弥陀仏と成りましましけり。この如来を一筋に
たのみたてまつらずば、末代の凡夫、極楽に往生する道、二も、三も有るべから
ざるものなり。これによりて、親鸞聖人の勧めましますところの、他力の信心と
云う事を、よく存知せしめん人は、必ず十人は十人ながら、皆彼の浄土に往生
すべし。

苦しみ続けている私たちを哀れに思われて、本願を建立してくだされたのが、
阿弥陀仏です。。
欲生我国(極楽に生まれたい)と思う心まで、阿弥陀仏の方から起こしてくださ
れているのです。それでも、罪をせせら笑われてしまうのなら仕方ありませんね
~。そんなに地獄がお好きなら、閻魔大王の前に突き出されて、赤鬼と、青鬼さ
んが、火の車にしょうちゃんさんを乗せて、地獄に連れて行ってくだされる
そうですから、どうぞお達者でね~!!

という、とんでもない暴言を吐いたことです。
仮にも仏法者を名乗る者が、こんな暴言を吐くことは許される筈もなく、元会員のEMS氏が昨年の年末に抗議と教義上の問題点を書きました。年が明けてから、なおたん氏が反論してしばらく議論が続きました。

当ブログの読者の皆さんならば、簡単に論破できる内容でしょう。
エントリーで取り上げるほどのこともないのですが、今回は自称獲信者ということでしたので、教義では勝ち目がないと体験談の連続という、これまでとは違ったパターンです。mixiが見れない方もありますので、参考までにポイントを紹介していきます。

もちろんすでに逃亡しています。

上記の暴言の前に

すべての人を十方衆生と言われ、信楽の身に救うと誓われた法蔵菩薩(すでに阿
弥陀仏となられています)が、建立して下されたお約束が、阿弥陀仏の本願で
す。悪のかたまりのわれわれの煩悩を断ち切って救って下されるのではなくて、
悪しか造れない、極重の悪人とハッキりと知らせて、
『いづれの行も及びがたき親鸞、とても地獄は一定住みかぞかし』と唯除された
一念の救いが、阿弥陀仏の本願の救いでした。ですから、
十悪、五逆罪、法謗罪の中に、私たちの悪という悪はすべておさまってしまうの
だと解釈しています。解釈だけでなく、信知させられました。

となおたん氏は書いています。それに対してEMS氏は以下のことを述べられました。

>十悪、五逆罪、法謗罪の中に、私たちの悪という悪はすべておさまってしまうの
>だと解釈しています。解釈だけでなく、信知させられました。

あなたはそのような奇妙な体験をされたのかも知れませんが、釈尊も親鸞聖人も、そのようなことはどこにも仰っていません。

親鸞聖人は御本典に涅槃経を引文された後、五逆罪についての解釈を
されています。

一つには三乗の五逆なり。いはく、
一つにはことさらに思うて父を殺す、
二つにはことさらに思うて母を殺す、
三つにはことさらに思うて羅漢を殺す、
四つには倒見して和合僧を破す、
五つには悪心をもつて仏身より血を出す。
恩田に背き福田に違するをもつてのゆゑに、これを名づけて逆とす。
この逆を執ずるものは、身壊れ命終へて、必定して無間地獄に堕して、一大劫のうちに無間の苦を受けん、無間業と名づくと。
 

阿闍世を通して、三乗の五逆罪を説明され、故意に親を殺すことを指して、「必定して無間地獄」「無間業と名づく」と仰っています。
つまり、故意に親を殺すような人ではない我々は五逆の者ではありません。
もちろん謗法の者でもありません。

法然上人は『往生大要鈔』で

われら罪業重しと云へども、いまだ五逆をばつくらず。 

と仰り、また『浄土宗大意』には、

五逆をもつくらさるわれらを、弥陀の名号を称念せむに往生うたかうへからず。 

ともあります。
聖覚法印の『唯信鈔』には、

五逆の罪人すら、なほ十念のゆゑにふかく刹那のあひだに往生をとぐ。いはんや罪五逆にいたらず、功十念にすぎたらんをや。 

とか、

われら、罪業おもしというとも、五逆をばつくらず。 

とあります。われわれは五逆罪を造っていないと善知識、獲信なされた方々は仰っています。

また観経に九品が説かれているのは、最下の五逆の者もいるという意味であって、全人類が最下の者であるとは、善知識方も全く仰っていません。観経くらいは読まれてから仰っては如何でしょうか。

とにかく、あなたの文底秘沈の解釈を堂々と持ち出しすのはやめて頂きたいです。
嘘の解釈を他人に押しつけるあなたのことを親鸞聖人は御消息で次のように仰っています。

弥陀の御ちかひにまうあひがたくしてあひまゐらせて、仏恩を報じまゐらせんとこそおぼしめすべきに、念仏をとどめらるることに沙汰しなされて候ふらんこそ、かへすがへすこころえず候ふ。
あさましきことに候ふ。
ひとびとのひがざまに御こころえどもの候ふゆゑ、あるべくもなきことどもきこえ候ふ。申すばかりなく候ふ。
ただし念仏のひと、ひがことを申し候はば、その身ひとりこそ地獄にもおち、天魔ともなり候はめ。
よろづの念仏者のとがになるべしとはおぼえず候ふ。
 

最後の2文
その身ひとりこそ地獄にもおち、天魔ともなり候はめ。よろづの念仏者のとがになるべしとはおぼえず候ふ。
で、「
念仏をとどめらるること」をしているのが誰のことか、懺悔されるべきでしょう。

理性があるならば、これで自己の間違いに気が付いて終わりになるのでしょうが、親鸞会思考に凝り固まった会員には理解できないようでした。

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2011年1月11日 (火)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り7

高森会長は『観無量寿経』を読んだことがないけれど、真実の教である『大無量寿経』は流石に読んでいるだろうと思われる方があるかもしれません。

ならば、最低限『大無量寿経』の三輩については知っている筈ですが、実際はどうでしょうか。

『選択本願念仏集』に、

『観経』の九品と『寿経』(大経)の三輩と、本これ開合の異なり。

とありますように、『観無量寿経』の九品を合すれば『大無量寿経』の三輩になり、『大無量寿経』の三輩を開けば『観無量寿経』の九品になるということですので、九品と三輩は同じことです。

では、『大無量寿経』三輩段の下輩を見てみますと、

それ下輩といふは、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生れんと欲することありて、たとひもろもろの功徳をなすことあたはざれども、まさに無上菩提の心を発して一向に意をもつぱらにして、乃至十念、無量寿仏を念じたてまつりて、その国に生れんと願ずべし。もし深法を聞きて歓喜信楽し、疑惑を生ぜずして、乃至一念、かの仏を念じたてまつりて、至誠心をもつてその国に生れんと願ぜん。この人、終りに臨んで、夢のごとくにかの仏を見たてまつりて、また往生を得。功徳・智慧は、次いで中輩のもののごとくならん

(現代語訳)

次に下輩のものについていうと、すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏の国に生れたいと願うものがいて、たとえさまざまな功徳を積むことができないとしても、この上ないさとりを求める心を起こし、ひたすら心を一つにしてわずか十回ほどでも無量寿仏を念じて、その国に生れたいと願うのである。もし奥深い教えを聞いて喜んで心から信じ、疑いの心を起さず、わずか一回でも無量寿仏を念じ、まことの心を持ってその国に生れたいと願うなら、命を終えようとするとき、このものは夢に見るかのように無量寿仏を仰ぎ見て、その国に往生することができ、中輩のものに次ぐ功徳や智慧を得るのである

と釈尊は仰っています。「たとひもろもろの功徳をなすことあたはざれども」と下輩にとっては、善と往生とは関係のないことを釈尊は仰っています。

参考までに上輩は

それ上輩といふは、家を捨て欲を棄てて沙門となり、菩提心を発して一向にもつぱら無量寿仏を念じ、もろもろの功徳を修してかの国に生れんと願ぜん。これらの衆生、寿終らんときに臨んで、無量寿仏は、もろもろの大衆とともにその人の前に現れたまふ。すなはちかの仏に随ひてその国に往生す。すなはち七宝の華のなかより自然に化生して不退転に住せん。智慧勇猛にして神通自在ならん。このゆゑに阿難、それ衆生ありて今世において無量寿仏を見たてまつらんと欲はば、無上菩提の心を発し功徳を修行してかの国に生れんと願ずべし

(現代語訳)

上輩のものについていうと、家を捨て欲を離れて修行者となり、さとりを求める心を起して、ただひたすら無量寿仏を念じ、さまざまな功徳を積んで、その国に生れたいと願うのである。このものたちが命を終えようとするとき、無量寿仏は多くの聖者たちとともにその人の前に現れてくださる。そして無量寿仏にしたがってその国に往生すると、七つの宝でできた蓮の花におのずから生れて不退転の位に至り、智慧がたいへんすぐれ、自由自在な神通力を持つ身となるのである。だから阿難よ、この世で無量寿仏を見たてまつりたいと思うものは、この上ないさとりを求める心を起し、功徳を積んでその仏の国に生れたいと願うがよい

とあり、上輩は「家を捨て欲を棄てて沙門となり、(中略)もろもろの功徳を修して」です。在家の人のことではありません。高森会長と講師部員はここに属していそうな感じもありますが、マイホームを持ち、家庭を持ち、欲にまみれていますからここには入らないでしょう。もちろん功徳を修してもいません。

また中輩は、

それ中輩といふは、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生れんと願ずることありて、行じて沙門となりて大きに功徳を修することあたはずといへども、まさに無上菩提の心を発して一向にもつぱら無量寿仏を念ずべし。多少、善を修して斎戒を奉持し、塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、繒を懸け灯を燃し、華を散じ香を焼きて、これをもつて回向してかの国に生れんと願ぜん。その人、終りに臨みて、無量寿仏はその身を化現したまふ。光明・相好はつぶさに真仏のごとし。もろもろの大衆とともにその人の前に現れたまふ。すなはち化仏に随ひてその国に往生して不退転に住せん。功徳・智慧は、次いで上輩のもののごとくならん

(現代語訳)

次に中輩のものについていうと、すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏の国に生れたいと願うものがいて、上輩のもののように修行者となって大いに功徳を積むことができないとしても、この上ないさとりを求める心を起し、ただひたすら無量寿仏を念じるのである。そして善い行いをし、八斎戒を守り、堂や塔をたて、仏像をつくり、修行者に食べものを供養し、天蓋をかけ、灯明を献じ、散華や焼香をして、それらの功徳をもってその国に生れたいと願うのである。このものが命を終えようとするとき、無量寿仏は化身のお姿を現してくださる。その身は光明もお姿もすべて報身そのままであり、多くの聖者たちとともにその人の前に現れてくださるのである。そこでその化身の仏にしたがってその国に往生し、不退転の位に至り、上輩のものに次ぐ功徳や智慧を得るのである

と教えられています。
行じて沙門となりて大きに功徳を修することあたはずといへども、(中略)多少、善を修して斎戒を奉持し、塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、繒を懸け灯を燃し、華を散じ香を焼きて」ですが、親鸞会で勧めていることは、形式上はこれに当たるように見えます。
斎戒」とは、八戒斎のことで、本願寺出版社『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』の註には

八つの戒と一つの斎で八戒斎という。また八斎戒ともいい、略して八戒ともいう。在家の信者が一日一夜の期限を限って、出家者と同様に身心の行為動作を慎しむこと。五戒と衣・住・食の贅沢についての戒め。

①不殺生戒。
②不偸盗戒。
③不婬戒。
④不妄語戒。
⑤不飲酒戒。
⑥不香油塗身戒。身体に香油を塗ったりして化粧しない。
⑦不歌舞観聴戒。歌をうたったり舞をまったりしないと同時にそれを観てもいけない。
⑧不高広大床戒。高くゆったりとしたベッドに寝ない。
⑨不非時食戒。昼以後、何も食べない。以上の九のうち、
⑨不非時食戒を斎とするが、他にも諸説がある。

とありまして、親鸞会ではこれは全くできていません。それどころか高森会長、講師部員が積極的にこれらを破っています。
しかし次の「塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、繒を懸け」は会員に対して大いに勧められています。次から次へと会館の建設費を募り、高森会長と講師部員に法礼・報謝と称して貢がせ、会館の装飾品購入費の献金を強要しているのですから、親鸞会では中輩での往生を説いているようにみえます。

ところが、親鸞会では、全人類は下輩、『観無量寿経』でいえば下品下生といっているのですから、根本的に理論がおかしいのです。全人類が下輩ならば、中輩にある善を勧めては、三輩の区別がついていないことになります。釈尊は何のために三輩を分けられたのかまるっきり理解できていないのです。中輩は、出家はしていませんが、善ができるから善を勧められているのです。下輩は、「たとひもろもろの功徳をなすことあたはざれども」ですから、善ができない人のことで、善のできない下輩に対して釈尊は善を勧められていません。実に単純なことですが、これさえ知らないのです。

僅かでも論理的な思考がある人ならば、次のように理解するはずです。

出家してレベルの高い善のできる人には、レベルの高い善を勧められていますが、もちろん必堕無間ではありません。
出家まではできませんが少し善のできる人にもそれ相応の善を勧められていますが、善のできる人はやはり必堕無間ではありません。
悪しかできない人には善を勧めてもできないのですから、善の勧めはありませんが、造っている悪の軽重に応じて、死後は六道、三悪道になり、無間業を造っているならば必堕無間になります。

高森会長理論は、釈尊を超えているのか、幼稚園児並なのか、どちらかでしょう。会員でも前者と思う人は、流石にいないと思いますが、もしいたら高森本仏論者でしょう。

高森会長は真実の教である『大無量寿経』も読んだことがないから、自分のいっていることがどれほど頓珍漢なことなのかも判らず、恥ずかしいとも思っていないのでしょう。
親鸞聖人の教えを真面目に学んだ人ならば、この理論に呆れ果てています。実際、本願寺は親鸞会を新興宗教と見做して、無視しています。

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2011年1月 9日 (日)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り6

宿善について語る時に、避けて通れないのが『観無量寿経』の下品下生です。
高森会長は『観無量寿経』を読んだことがないから、下品下生とはどんなことかもよく知りません。

善導大師は『玄義分』

下が下とは、「これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず」と。この人もし善に遇はずは、必定して下沈すべし。終りに善に遇ふによりて七宝来迎す。

(現代語訳)

下品下生とは、
これらの衆生は、善くない業おこないである五逆・十悪を造り、いろいろの悪を犯している。この人は悪業によるから必ず地獄に堕ちて多劫のあいだ窮まりない苦しみを受ける人であるが、命終わろうとするとき、善知識が南無阿弥陀仏と称えることを教え、往生を勧めてくださるのに遇う。この人はその教にしたがって念仏し、念仏によって往生する。
とある。この人がもし善知識に遇わなければ必ず地獄に堕ちるところであったが、臨終に善知識に遇うたことによって、七宝の蓮台に迎えられたのである。

と解説しておられますように、必ず地獄に堕ちて長い間、窮まりのない苦しみを受ける五逆・十悪を造った者が、臨終に善知識から念仏を勧められて、その勧めに従って念仏によって往生できたのです。
平生に善をせず、しかも仏法を平生に聞いていない者が、臨終の念仏で救われるとは、因果の道理から言えば、考えにくいことです。
親鸞会の理論からいえば、あり得ない話です。

そこで、天台大師が著したとされる『浄土十疑論』では、過去世に善根を積んできた宿善業の強い人であったから、善知識に遇えて往生したのだ、と解釈したのです。

この『浄土十疑論』の影響をうけて、宿善について語られるようになりました。

『唯信鈔』には、

つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生す ることを得んや」と。

という問いから、宿善について述べられています。

これに対する回答が、

これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。

です。
因果の道理かいらいえば、親鸞会の『教学聖典』にもある

宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。

となります。
ところが、この理屈で言えば「五逆の罪人」は「宿善すくなきもの」となりますが、その「宿善すくなき」の「五逆の罪人」でさえも臨終の十回の念仏で往生できる宿善があったのですから、「五逆をばつくらず」の念仏者が、一生涯念仏していることを、「宿善あさしとおもふべきや」なのです。
つまり、平生に仏法を聞いていない宿善の少ない五逆罪を造った人でさえ、往生できるのだから、平生から念仏の教えを聞いていて、五逆罪を造っていない皆さんには宿善がもちろんあり、五逆罪の人よりもなお往生できるといえるのです。

親鸞会の宿善論は、『唯信鈔』からいっても、完全に破綻しています。

『唯信鈔』を承けられて、覚如上人は『口伝鈔』

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

とあります。因果の道理に基づけば、「宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。」となります。しかし覚如上人は、過去世に行なってきた善悪と、往生とを関係付けてはいけない、と仰っているのです。やはり、親鸞会の宿善論を完全否定されています。

往生の大益をば如来の他力にまかせ」るのが、真宗の教えです。「かつて機のよきあしきに目をかけて」いるのが親鸞会です。

はっきりいいまして、高森会長は阿弥陀仏の本願が何も判っていないのです。

延暦寺第二探題であった禅瑜でさえ、『浄土十疑論』注釈書である『阿弥陀新十疑』を著して

未断惑の凡夫も、念仏の力によりて、往生することを得るなり。

十悪五逆を造るの人も、臨終の時、心念あたわずと雖も、口に南無阿弥陀仏と称するによりて、往生することを得るなり。

と解説しています。聖道門でも、「念仏の力」つまり阿弥陀仏のお力で、五逆の者も往生させることができると教えているのです。それが宿善の薄いものは宿善を厚くしなければ阿弥陀仏は往生させてくれない、とトンデモ珍説を唱えている親鸞会は何でしょうか。これを仏智疑惑といわれて、その罪の深さを親鸞聖人は、厳しく誡めておられます。

阿弥陀仏の本願に対する高森会長の理解は、お粗末を通り越して、滑稽です。
高森会長の話を聞くくらいなら、天台浄土教を聞いていた方が、どれだけましか、という話です。

昿劫多生の目的と言われて喜んでいる親鸞会の会員も、実に哀れです。平生に善などしたこともない、仏法をきいたこともない親殺しの者が、臨終になって始めて仏法を聞いて、十回の念仏で救われるのが阿弥陀仏の救いです。

『観無量寿経』を全く知らない高森会長から、救われない教えを昿劫多生の間聞いても、何兆円財施をしても、救われません。

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2011年1月 7日 (金)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り5

親鸞聖人は、「宿善」という言葉を御著書の中で使われていませので、真宗における「宿善」の定義は、覚如上人によってなされたといえます。

前回紹介しました『慕帰絵詞』に記された、覚如上人と唯善との論争についてもう少しみてみます。

この論争の結論については、

その後は互ひに言説を止めけり。

となっています。いわゆる玉虫色の決着です。といいますのは、覚如上人と唯善とは、「宿善」の定義が違っていたままの論争であったと思います。

覚如上人は、

宿善の故に、知識に会ふ故に、聞く其の名号・信心・歓喜乃至一念する時分に往生決得し、定聚に住し、不退転に至るとは相伝し侍れ。

と仰っているのに対して、唯善は

十方衆生と誓ひ給へば、更に宿善の有無を沙汰せず、仏願に遇へば、必ず往生を得るなり。さてこそ不思議の大願にて侍れ

との主張です。「宿善」の定義によって、両方とも正しいと言えるでしょう。
覚如上人が仰っている「宿善」とは

善知識に遇う因縁、18願の教えに遇う因縁

ということは前回述べました。
一方の唯善の定義は、

過去世の善根

という通仏教的意味です。
唯善は、過去世の善根と18願との救いは無関係であることを言われているのです。

覚如上人も『口伝鈔』で、

機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるところなり。しかればまつたく、往生においては善もたすけとならず、悪もさはりとならずといふこと、これをもつて准知すべし

たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。

と仰っています。過去世にどれだけ善をしてきたかどうかということは、往生・獲信とは関係がないことを強調されています。
つまり、覚如上人、唯善共に、親鸞会で教えているところの宿善論を完全に否定されているのです。

では覚如上人と唯善との根本的な違いは何かということになりますが、それは前々回紹介しました『口伝鈔』

しかれば往生の信心の定まることはわれらが智分にあらず、光明の縁にもよほし育てられて名号信知の報土の因をうと、しるべしとなり。これを他力といふなり。

です。覚如上人は「宿善」を阿弥陀仏の光明によるお育て、と定義されているのです。
それを蓮如上人も引き継がれて、『御文章』2帖目第13通

しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて他力の信心といふことをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御方よりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。

と仰っています。
阿弥陀仏の慈悲は平等でも、機がそれぞれ違うために、「宿善の機」「無宿善の機」と差ができてしまうのです。

覚如上人、蓮如上人が仰っている「宿善の機」とは、18願での救いを願い求めている人のことであり、「無宿善の機」とは、18願での救いを願わない人のことです。
宿善の機」と「無宿善の機」の違いは、18願での救いを願うかどうかです。

善知識に遇わず、18願の教えに遇わなければ、救われることはありません。
宿善の機」とは善知識に遇う因縁、18願の教えに遇う因縁のあった人です。
無宿善の機」は善知識に遇う因縁、18願の教えに遇う因縁のない人、もしくは遇っていても信じる気持ちがなければこの因縁のない人です。

したがって、「宿善の機」に対してと「無宿善の機」に対しての話が違ってくるのは当然なことです。それで『御文章』3帖目第12通

されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。

と仰っているのです。

以上を踏まえれば、釈尊が八万四千の法門といわれる多くの方便を駆使された理由も、阿弥陀仏が19願、20願を建てられた理由も判る筈です。

18願を信じられない、18願を願う気のない「無宿善の機」に、18願を説いても誹謗するだけです。そのために、18願を信じて願い求める気持ちにさせるまでの手立てとして、権仮方便の聖道門、19願、20願が必要であったのです。
しかし、すでに18願を信じて願い求めている「宿善の機」には、わざわざ遠回りをさせる必要がありませんので、「宿善の機」に対しては18願1つを説き聞かせるのが善知識の役割になります。

親鸞会では、信前の人は同じ方便の道を通らなければならないと教えていますが、機が違うのですから、すべての人が同じ方便の道を通ることにはなりません。人それぞれ機が違いますので、釈尊は機に応じて「八万四千の法門」を説かねばならなかったのです。親鸞会でも対機説法という言葉は知っていますが、その意味を知らないのでしょう。

無宿善の機」に対して説かれた「八万四千の法門」を「浄土の方便の善」「要門」「仮門」とまとめて仰ったのが、親鸞会の好きな『一念多念証文』のお言葉です。

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

権仮方便である「八万四千の法門」は「無宿善の機」に対して説かれ、真実18願は「宿善の機」に対して説かれていることも理解できないのですから、親鸞会はお粗末極まりないと言わざるを得ません。

これでも判らない人は、蓮如上人のお言葉をしっかり読んで理解しておきましょう。

この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。

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2011年1月 5日 (水)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り4

宿善」の基本的な意味が理解できていませんので、親鸞会がいくら根拠を挙げたところで、すべてお笑いのトンデモ解釈にしかなっていません。

『慕帰絵詞』に、覚如上人と唯善との間で行われた宿善についての論争が記されています。

法印(覚如上人)は、「往生は宿善開発の機こそ善知識に値ひて聞けば、即ち信心歓喜する故に報土得生すれ」と云々。
善公(唯善)は、「十方衆生と誓ひ給へば、更に宿善の有無を沙汰せず、仏願に遇へば、必ず往生を得るなり。さてこそ不思議の大願にて侍れ」と。

此処に法印重ねて示すやう、
「『大無量寿経』には、『若人無善本 不得聞此経 清浄有戒者 乃獲聞正法 曾更見世尊 則能信此事 謙敬聞奉行 踊躍大歓喜 驕慢弊懈怠 難以信此法 宿世見諸仏 楽聴如是教』と説かれたり。
宿福深厚の機は即ちよくこの事を信じ、無宿善のものは驕慢弊懈怠にして、此法を信じ難しといふこと、明らけし。
随ひて光明寺和尚(善導大師)この文を受けて、『若人無善本 不得聞仏名 驕慢弊懈怠 難以信此法 宿世見諸仏 則能信此事 謙敬聞奉行 踊躍大歓喜』と釈せらる。
経釈共に歴然、争かこれらの明文を消して、宿善の有無を沙汰すべからずとは宣ふや」と。

其の時又、唯公、「さては念仏往生にてはなくて、宿善往生と云ふべしや、如何」と。
また法印、「宿善に因て往生するとも申さばこそ、宿善往生とは申されめ。宿善の故に、知識に会ふ故に、聞く其の名号・信心・歓喜乃至一念する時分に往生決得し、定聚に住し、不退転に至るとは相伝し侍れ。是をなんぞ宿善往生とはいふべき哉」と。

その後は互ひに言説を止めけり。

簡単にいえば、唯善が、「阿弥陀仏は十方衆生を救うと誓っておられるから、宿善の有無に関係なく救われるのだ」、と主張したのに対して、覚如上人が、「宿善が有るから善知識に遇うことができ、信心決定して救われるのだ」、と反論されたのです。

覚如上人は、「宿善」を善知識に遇う因縁という意味で仰っていたことがここでも判ります。
参考までに道元禅師は『正法眼蔵』の中で、

いまわれら宿善のたすくるによりて、如來の遺法にあふたてまつり、昼夜に三宝の宝号をききたてまつること、時とともにして不退なり。

と書いていますが、曹洞宗での「宿善」も「如來の遺法にあふ」因縁としています。

ところが、善知識に遇う因縁、18願の教えに遇う因縁である「宿善」を、獲信の因縁と理解してしまったのが親鸞会です。

宿善」の説明として親鸞会で最近よく使われているのが『唯信鈔文意』

おほよそ過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまひしみもとにして、自力の菩提心をおこしき。恒沙の善根を修せしによりて、いま願力にまうあふことを得たり。

です。『顕真』平成22年12月号の巻頭言にも使われています。
このお言葉も、善知識に遇う因縁、18願の教えに遇う因縁と理解すれば、筋が通ります。
しかし、この御文の前後を見ると、少しニュアンスが違ってきます。

この御文は、善導大師の『法事讃』にある「極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生 故使如来選要法 教念弥陀専復専」の解説をされた中の一部です。ここで

 「随縁雑善恐難生」といふは、「随縁」は衆生のおのおのの縁にしたがひて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを極楽に回向するなり。すなはち八万四千の法門なり。これはみな自力の善根なるゆゑに、実報土には生れずときらはるるゆゑに「恐難生」といへり。「恐」はおそるといふ、真の報土に雑善・自力の善生るといふことをおそるるなり。「難生」は生れがたしとなり。
 「故使如来選要法」といふは、釈迦如来、よろづの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものにあたへたまへるなりとしるべしとなり。これを「選」といふ、ひろくえらぶといふなり。「要」はもつぱらといふ、もとむといふ、ちぎるといふなり。「法」は名号なり。

(現代語訳)

 「随縁雑善恐難生」というのは、「随縁雑善」とは、人々がそれぞれの縁にしたがい、それぞれの心にまかせてさまざまの善を修め、それを極楽に往生するために回向することである。すなわち八万四千の法門のことである。これはすべて自力の善根であるから、真実の報土には生れることができないと嫌われる。そのことを「恐難生」といわれている。「恐」は「おそれる」ということである。真実の報土にはさまざまな自力の善によって生れることができないことを気づかわれているのである、「難生」とは生れることができないというのである。
 「故使如来選要法」というのは、釈尊があらゆる善のなかから南無阿弥陀仏の名号を選び取って、さまざまな濁りに満ちた時代のなかで、悪事を犯すものばかりであり、よこしまな考えにとらわれて真実の信心をおこすことのないものにお与えになったのであると知らなければならないというのである。このことを「選」といい、広く多くのものから選ぶという意味である。「要」はひとすじにということであり、求めるということであり、約束するということである。「法」とは名号である。

とあり、獲信のためには善を捨てて念仏を立てよ、との御教示です。その上、断章取義している先程のお言葉の次には

他力の三信心をえたらんひとは、ゆめゆめ余の善根をそしり、余の仏聖をいやしうすることなかれとなり。

(現代語訳)

至心・信楽・欲生と本願に誓われている他力の信心を得た人は、決して念仏以外の善を謗ったり、阿弥陀仏以外の仏や菩薩を軽んじたりすることがあってはならないということである。

と付け加えられていますので、親鸞聖人が仰りたかったことは、獲信のためには捨てものの善ではあっても、18願の教えに遇う因縁になったのだから、善や諸仏・菩薩を謗ってはいけない、との誡めです。
従って、獲信のために善を勧められたお言葉ではありません。その逆ですが、行き過ぎて造悪無碍の邪義に陥ることを警戒されて補足されたものと判ります。
もしこれが善を勧められたお言葉というのであれば、「善根」だけを切り取らずに、「三恒河沙の諸仏」「余の仏聖」に仕えることも勧められたお言葉としなければなりません。しかしそれは絶対にいいません。”無二の善知識”たる高森会長に仕えよ、とは教えますが。

とにかく、親鸞会は断章取義ばかりですから、矛盾した論理で溢れかえっています。
意味を知ってか知らずか、誤謬が酷すぎて、外から親鸞会をみると本当に恥ずかしい団体です。

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2011年1月 3日 (月)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り3

親鸞会は、蓮如上人の言行録である『御一代記聞書』が好きです。親鸞会の宿善論の根拠として、『御一代記聞書』からいくつも挙げられています。
『顕真』平成22年11月号にも、3つ引用されています。

【「宿善めでたし」と云うはわろし。御一流には「宿善有り難し」と申すがよく候】
                                 (御一代記聞書)
(意訳)
「『宿善めでたし』と言うのはよろしくない。親鸞学徒は『宿善有り難し』というべきであろう」

 聞き難い仏法に遇えたのは、決して自分の意志で出来たことではないのだから、「おめでとう」と言うのは適当ではない。
 絶対にあり得ないことが有ったのだから、
「有り難いことがあった」と感謝しなければならないことなのである。

と書いていますが、親鸞会でも認めている通り、「宿善」とは「自分の意志で出来たことではない」のですから、「宿善」を求めよ、と教えていることが矛盾しているのです。「絶対にあり得ないことが有った」とは、自分では求めても得られることの絶対に無いことがあった、という意味です。
自分で「宿善」を求めて、薄い「宿善」が厚くなったのならば、「宿善」を自分で得たのであり、「絶対にあり得ないことが有った」とは思えず、自分の行為により「あり得ることが有った」と思う筈です。
また、善ができなければ「宿善」とはなりませんので、1つの善もできない者と知らされることもありません。雑毒であろうが自分のやった善が「宿善」となったのですから、自分の善が獲信の少しは足しになった、としか知らされません。
こんな簡単なことさえも理解できないで、よくも支離滅裂な文章を書けるものだと感心してしまいました。

『口伝鈔』には

しかれば往生の信心の定まることはわれらが智分にあらず、光明の縁にもよほし育てられて名号信知の報土の因をうと、しるべしとなり。これを他力といふなり。

とありますように、「宿善」を阿弥陀仏の光明によるお育てと理解するするのが、真宗なのです。ですから、「宿善有り難し」になるのです。

実際に、宿善を求めよ、という根拠として以下の事が書かれています。

【「時節到来」という事、用心をもし、其の上に事の出来候を「時節到来」とはいうべし。無用心にて事の出来候を「時節到来」とはいわぬ事なり。聴聞を心がけての上の「宿善、無宿善」ともいう事なり。ただ信心は聞くにきはまる事なる由、仰せのよし候】
                                 (御一代記聞書)
(意訳)
「『時節到来』ということは、心がけ求めて物事が成就したことを『時節到来した』というのである。
 何にもせず心がけもせずに物事が出来上がったのを『時節到来』とは言わぬのだ。
 真剣に聴聞を心がけている人のみに『宿善・無宿善』ということがあるのである。
 信心獲得できるか否かは、ただ聞く一つで決するのである、と蓮如上人は仰せられた」

「時節到来」とか「宿善到来」というから真宗の人たちは、宿善とは向こうの方からヨチヨチやってきて宿善開発するように思っている。
 丁度、金持ちになるには福の神が来ればよいと待っているのと同じである。福の神が向こうからやってくるのではない、日々の努力精進が福の神になるのである。
 求めてのみ「時節到来」ということがあるのである。「宿善」も待っているものではなく、用心して真剣な聴聞を求めてゆくものなのだ。
 仏法は聞くにきわまると言われる所以である。

前回述べたように、「宿善・無宿善」とは、18願での救いを願うかどうかのことですから、聴聞を心掛けた上で「宿善・無宿善」ということが言えると蓮如上人が仰ったのです。
つまり、18願での救いを願う「宿善の機」ならば、聞く気持ちがありますが、18願での救いを願っていない「無宿善の機」は、親鸞聖人の教えを聞く気持ちがありません。
聴聞を「宿善を求めること」と考えるのが、そもそも間違いです。
存覚上人は『浄土見聞集』で、

聞よりおこる信心、思よりおこる信心といふは、ききてうたがはず、たもちてうしなはざるをいふ。思といふは信なり、きくも他力よりきき、おもひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひちりばかりもよりつかざるなり。

と言われていますが、聴聞という自力の積み重ねで他力になるのではありません。「他力よりきき」であり、「自力のはからひちりばかりもよりつかざる」なのです。

以上のことが理解できれば、親鸞会で宿善の薄い人が厚くならなければ救われないとしている『御一代記聞書』の

陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。

も判ると思います。ここは蓮如上人御愛読の『安心決定鈔』を言い換えられたもので、

「親鸞会教義の誤り」
宿善とは3

で、すでに説明されています。ここでの「宿善」は信心のことを指しています。真宗では常に信心と往生との関係で教えられます。善と往生との関係でいえば、”無関係”、と教えられます。
陽気・陰気」とは、阿弥陀仏の光明によるお育てを表現されていて、18願での救いを願っている「陽気」の人は獲信が早いが、18願での救いを願わない「陰気」の人(外道を信じている人、善をしなければ往生できないと思っている人も含む)は獲信が遅い、ということです。
これを、宿善の薄い人は厚くしなければならない、と解釈するのは、獲信・往生とは別の目的で、会員に””を勧めているのです。

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2011年1月 2日 (日)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り2

『観無量寿経』の下品下生で説かれているのは、五逆罪を造った極悪人という最下の者の臨終という最悪の状況での往生です。

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。
命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。

(現代語訳)

続いて釈尊は阿難と韋提希に仰せになった。
「 次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。
この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。
そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい>と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。

耳四郎よりも悪い五逆罪を造ったものが、平生には善もせず、仏法も聞いていない状況で、臨終になってようやく善知識に巡り遇って、初めて阿弥陀仏を念じて浄土を願ったのです。ところが善知識から勧められるままに念仏を称えようとするものの、臨終の苦しみのために、阿弥陀仏も浄土も念じられず、口先だけのお粗末な念仏にしかならなかったのですが、10回の念仏で往生したと説かれています。

ここで釈尊が教えられていることは、阿弥陀仏の18願は、最下の極悪人の最悪の状況でも救いたもう本願だということです。したがって、十方衆生洩れることなく救われるのです。ここで注目すべきは、下品下生のものは平生も臨終にも善を勧められてはいませんし、善をしてもいないことです。

では何もしなくても、誰でも救われるのかといえば、そうではありません。阿弥陀仏の18願を教えてくれる善知識に遇って、教えを聞いて念仏を称えた人が救われているのです。

ですから、条件としては善知識、教えに遇って、教えに従わないと救われないのです。
当たり前のことですが、キリスト教を信じていても、聖道門を信じていても、18願での救いを願わなければ救われません。

この18願での救いを願うかどうかが非常に重要になります。それを「宿善」といわれているのです。存覚上人の『浄土見聞集』に

この法を信ぜずはこれ無宿善のひとなり。
(中略)
おぼろげの縁にては、たやすくききうべからず。もしききえてよろこぶこころあらば、これ宿善のひとなり。善知識にあひて本願相応のことはりをきくとき、一念もうたがふごころのなきはこれすなはち摂取の心光行者の心中を照護してすてたまはざるゆへなり。
光明は智慧なり。この光明智相より信心を開発したまふゆへに信心は仏智なり。仏智よりすすめられたてまりてくちに名号はとなへらるるなり。

とあるのも、また蓮如上人が『御文章』で

これによりて五重の義をたてたり。
一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。
(2帖目第11通)

とあるのも、「善知識」にあって18願を聞かなければ救われることはありません。それで存覚上人も蓮如上人も一番最初に「宿善」を出されて、次に「善知識」なのです。「善知識」の後に「宿善」ではないことをよく知らねばなりません。「善知識」、18願の教えに遇う条件が「宿善」なのです。

更には『口伝鈔』第2章では

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

とあり、『御文章』でも

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。
(3帖目第12通)

されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。
しかれば念仏往生の根機は、宿因のもよほしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。このこころを聖人の御ことばには「遇獲信心遠慶宿縁」(文類聚鈔)と仰せられたり。これによりて当流のこころは、人を勧化せんとおもふとも、宿善・無宿善のふたつを分別せずはいたづらごとなるべし。
このゆゑに、宿善の有無の根機をあひはかりて人をば勧化すべし。
(4帖目第1通)

無宿善の機にいたりてはちからおよばず。(4帖目第8通)

とあるように、善知識に遇って、18願の教えを聞いて18願で救われたいと願う人かどうかを覚如上人は「過去の宿善あつきもの」「宿福なきもの」と表現なされ、蓮如上人は「宿善の機」「無宿善の機」と仰っています。

ですから、「宿善」があって「善知識」に遇い、18願を聞いて、その通りに救われたならば、「宿善」のあったことを慶ぶのです。それを親鸞聖人は『教行信証』総序

たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ

と仰り、『浄土文類聚鈔』 にも

たまたま信心を獲ば、遠く宿縁を慶べ

と仰っているのです。

これを善の勧めと誤解させているのが親鸞会です。高森会長は華光会にいた時には、「宿善」ということは言っていないので、親鸞会という組織を作って、金集め人集めを会員にさせる口実が、「宿善」だったのです。

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2011年1月 1日 (土)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り1

年が明けましたので、新しいシリーズに切り換えていきます。
以前にも予告していました通り、『顕真』で宿善についての特集が組まれていますので、親鸞会の宿善についての誤りを、しばらく徹底的に指摘していきます。

『顕真』平成22年11月号に、宿善についての解説が長々と書かれています。これまでと同じ主張で、何度も間違いが指摘されながら、修正しようという気持ちが全くなく、進歩が感じられません。
絶版になった『会報』を少し変えた程度の内容です。

この中で「頓機」と「漸機」という言葉を使って宿善の厚薄を説明しています。

 宿善の厚い人を「頓機」といい、宿善の薄い人を「漸機」ともいう。
 宿善の厚い人は弥陀の救いに頓くあえるから「頓機」といわれる。それに対して宿善の薄い人を「漸機」といわれるのは、救いにあうのが遅いからである。
 丁度、枯松葉と青松葉のようなもの。枯松葉はマッチ一本で火がつくが、青松葉はプスプス水をはじいてなかなか火がつきにくい。
 同様に宿善の厚い人は、枯松葉のように凡心(我々の心)に仏心(弥陀の大慈悲心)の火がつき、仏凡一体(絶対の幸福)と救われ燃えあがるのが速い。
 宿善薄き人は聞法を重ねても、なかなか弥陀の救いにあえず、昨日もカラッポ今日も落第、どれだけ聞けば助かるのか、どう聞けばよいのかとブスブス小言ばかりいって流転を続ける。

(中略)

 しかも宿善厚き頓機は極めて少なく、宿善薄き漸機は圧倒的に多いと説かれている。

 記録に残っているものから窺っても、法然上人のお弟子三百八十余人の中、頓機は親鸞聖人と蓮生房、耳四郎の三人のみ。
 聖人の門下では明法房弁円、ただ一人である。その外にもあったであろうが甚だ少なかったから、法然上人は『和語灯録』に、
「頓機の者は少なく、漸機の者は多し」
(宿善の厚い人は少なく、宿善の薄い人がほとんどである)
と仰せられている。

とありますが、法然上人はそのようなことを仰っていないことは、すでに何度も指摘されています。
『和語灯録』には、「頓機」と「漸機」という言葉自体がありません。つまり、根拠の捏造です。「頓機」「漸機」を法然上人のお言葉で探すと、

「やさしい浄土真宗の教え」
§7 聴聞(何を「聞く」のか?)

でも紹介されているように

人の心は頓機漸機とて二品に候なり。
頓機はききてやがて解る心にて候。漸機はようよう解る心にて候なり。
物詣なんどをし候に、足はやき人は一時にまいりつくところへ、
足おそきものは日晩しにかなわぬ様には候えども、
まいる心だにも候えば、ついにはとげ候ように、
ねごう御心だにわたらせ給い候わねば、
年月をかさねても御信心もふかくならせおわしますべきにて候。
『往生浄土用心』昭法全p.562

(訳)
人の心には頓機、漸機という二つがある。
頓機というのは聞いたならばすぐにその内容を理解できる人、
漸機というのは徐々に理解していく人のことをいう。
たとえば神社仏閣へ参詣するにしても、
足の速い人は、わずかな時間でそこまでたどりつくことができるのに、
足の遅い人は一日かけても着くことができないようなものである。
しかし、そこに行こうという心があれば、
最後には必ずお参りすることができるのと同じように、
浄土に往生したいと願う気持ちさえあるならば、
時間はかかっても御信心は深くなっていくに違いない。

と別の書物にあります。しかも、親鸞会で使っているような宿善の厚薄という意味で法然上人は仰っていません。
頓機」「漸機」とは、理解能力等のことを仰っているのですから、「漸機」が「頓機」になるように努力することではありません。判りやすくいえば、「漸機」の人は「漸機」のままで、「頓機」にならなくても救われることを仰っているのです。親鸞会の宿善論とは無関係です。

根拠も解釈も全くのデタラメです。これを元にして宿善論を展開していますから、全てがおかしいのです。

頓機」として名前の挙がっている耳四郎については、これまで何度も取り上げました。
耳四郎は、強盗、殺人を平気で犯してきた人で、獲信後も泥棒を止められなかったと伝えられています。ですから、耳四郎は過去世に悪を人一倍してきて、善をしてこなかった人で、獲信後でさえも過去世からの業で犯罪を犯し続けていたのです。

しかし耳四郎は、『観無量寿経』の下品三生の救いと合致しています。

法然上人の『選択本願念仏集』には

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

とありまして、下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことでありますが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれているのです。これは、親鸞会の宿善論を否定するもので、浄土門では常識中の常識です。こんなことをわざわざ説明しなければならないのも情けないことで、本願寺の熱心な門徒でも知っていることでしょう。

高森会長は、『観無量寿経』も『選択本願念仏集』も読んだことがないから、矛盾にも気が付いていないのでしょうが、そのことで学の低さをよりさらけ出しています。

尤も、高森会長も講師部員も法を犯すことには抵抗がなく、過去世に善を人一倍してきた人物でないことは明らかです。その反対ですから、善悪の基準も無茶苦茶です。

このように理論も言動もおかしい親鸞会を、正しいと信じることができるのは、マインドコントロールの効いている会員だけです。従って、宿善論を押し付けようとして無視された本願寺だけでなく、一般社会からも相手にされていません。

高森会長と講師部員は、少しは恥ずかしと思った方がいいですよ。

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