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2010年12月 3日 (金)

会員との問答(方便について)

前回の続きです。

Q.親鸞会では方便よりしか真実に入れないと教えていますが?

A.方便の意味が根本的に間違っています。
方便といっても、善巧方便と権仮方便とがあります。教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)』の補註にあるものが判りやすいと思います。

 方便とは、仏が衆生を救済するときに用いられるたくみな方法をいう。その中に真実と権仮とがある。真実の方便とは、仏の本意にかなって用いられる教化の方法で、随自意の法門をいう。それは、大智を全うじた大悲が巧みな方法便宜をもって衆生を済度されるというので、善巧方便ともいう。阿弥陀仏を方便法身というときの方便がそれである。
 権仮方便とは、未熟な機は直ちに仏の随自意真実の法門を受けとれないから、その機に応じて、仮に暫く誘引のために用いられる程度の低い教えをいう。機が熟すれば真実の法門に入らしめて、権仮の法門は還って廃せられる。このように暫く用いるが、後には還って廃するような随他意の法門を権仮方便という。「方便化身土」といわれるときの方便がそれである。
 親鸞聖人は四十八願の中で、往生の因を誓われた第十八願、第十九願、第二十願のうち第十八願のみが真実願であり、第十九願、第二十願は方便願であるとされた。第十八願は、他力回向の行信によって、真実報土の果を得しめられる真実願であり、第十九願は、自力諸行によって往生を願うものを、臨終に来迎して方便化土に往生せしめることを誓われたものであり、第二十願は、自力念仏によって往生を願うものを、方便化土に往生せしめることを誓われた方便願であるといわれるのである。そしてこの三願は、聖道門の機を浄土門に誘うために第十九願が、自力諸行の機を念仏の法門に導き、さらにその自力心を捨てしめて第十八願の他力念仏往生の法門に引き入れるために第二十願が誓われたとされている。

これが理解できれば、『蓮如上人御一代記聞書』の以下のことも判ると思います。

一 蓮如上人仰せられ候ふ。方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふと[云々]。

少し解説しておきますと、「方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし」の「方便」は「廃立の義」ですから、捨てるべき権仮方便のことです。最後の文は文字通り、「善巧方便」のことです。「真実の信」は、「善巧方便によりて」うるのであって、「権仮方便によりて」ではありません。
権仮方便は捨てるべきものなのです。
判りやすくいえば、権仮方便が真実と思い込んでいる人にとっては、それが権仮方便となるのです。権仮方便が捨てものと理解できて信じている人には、必要ありません。


Q.未信の人は、真実も方便も判らないのではないか?

A.貴方は、18願が真実で、聖道門、19願、20願が方便と知って理解し、そして信じているではないですか。
聖道門の人は、18願が真実だと浄土門で教えていることは知っていますが、18願が真実とは全く思っていません。聖道門こそが真実であり、18願は下劣の者を聖道門に導くための方便と思っています。
19願での往生を願っている人は、19願こそが真実であり、18願はやはり方便と思っています。
ところが貴方は、18願が真実であること、聖道門、19願、20願が方便であることを知って理解し、信じています。聖道門の人、19願での往生を願っている人と明らかに違います。未信だからといって、外道を信じている人、聖道門の人、19願での往生を願っている人も同じだという発想が、親鸞会のトリックです。

蓮如上人が『御文章』3帖目第12通で仰っている

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。

宿善の機無宿善の機とは、まさにこのことです。18願が真実だと信じている未信の人が宿善の機であり、18願が真実とは思えずに、外道を信じている人、聖道門の人、19願での往生を願っている人のことを無宿善の機というのです。
18願が真実だと信じている未信の宿善の機に対して、親鸞聖人の教えを説きなさい。
18願が真実とは思えずに、外道を信じている人、聖道門の人、19願での往生を願っている無宿善の機には、親鸞聖人の教えを説いてはいけない、と蓮如上人は仰っているのです。明らかに区別されています。
貴方は
宿善の機です。

ですから、宿善の機には18願1つでよいのです。蓮如上人は19願について全く説かれていません。


Q.では宿善の機には方便はないのですか?

A.それが善巧方便です。
『教行信証』信巻・別序に

真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。

と仰っていまして、「権仮より顕彰せり」ではありません。善巧方便とは、真実の方便であり、随自意の法門です。
この善巧方便を具体的に描かれたのが、『教行信証』信巻末にある阿闍世の物語です。一見すれば、略されてもよいように思われる部分までも、事細かに引文されています。実に『教行信証』全体の1割も費やされて、親鸞聖人が伝えられたかったことは、衆生が善巧方便によって導かれることと、五逆罪を犯した極悪人をも洩らさず、普く救われることです。


Q.つまり、高森会長は方便の意味さえも理解していないということ?

A.半分は当っているでしょう。しかし、半分は権仮方便が不要と思いながら、私利私欲のために権仮方便の19願諸善を利用している確信犯でもあります。

その証拠は、親鸞会結成の年である昭和33年に発行された高森顕徹著『顕正』にあります。

 然るに、わが浄土真宗は、このような十九、二十の本願に当る浄土宗とは違って十八願の願意である、信心正因、称名報恩の仏意を弘通する教えであるから、信前の人にも信後の人にも、始終一貫して信心正因、称名報恩の教えを勧めなければならない。
 勿論、機には未熟の者もあるから、いくら信心正因、称名報恩、信心が往生の正因であり称える念仏は報謝だから、早く信心決定して報謝の念仏称える身になって下さいと勧めても、直にその通りになれない人もあろうけれども、それは機の過失であって法門は常に信因称報の仏意を説き示さなければならない。
 喩えば、虎の手本をみて虎を描こうと思っても、どうしても最初の間は虎ではなく猫の絵になってしまうが、たゆまず屈せずアキラメず虎の手本を見て描いているうちに本当の虎の絵がかけるようになるように、手本は如何に信心正因、称名報恩でも機執によって、そのようになれず、或は定散自力の称名となり、称名正因となるものもあろうが、たゆまずアキラメず信心正因、称名報恩の教えを勧めていれば、やがてその真意を諦得出来るようになるのである。
 或る画家が弟子に虎を描かす為に虎の手本を渡した。ところが弟子のかいたものは、どうみても虎ではなく、猫の絵であった。画家は再三描かせてみたが、やはり猫しか書けなかった。そこで師匠は虎をかゝせることをあきらめて猫の手本をわたした。その弟子は一生猫より描くことが出来なくなったという。
 未熟な人に合せて信心正因、称名報恩の教え以外の法門を説いて信心を得る方法には称名せよなどと教えればあたかも猫の手本を与えて虎をかく方法とするようなものである。故に教家は常に虎の説法をしなければならないのである。

とまで書いています。19願、20願を説く布教師のことを激しく非難しているのです。高森会長が親鸞会を作った時は、18願1つを説かなければならないと断言していたのです。
それが、会の運営資金にも苦労し、華光会、本願寺、創価学会に対抗するための組織拡大に心を奪われて、間もなく法を曲げ始めたのでしょう。

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コメント

親鸞聖人の教えの根基は三願転入だと聞いてきましたが、そのあたりはどうなのでしょうか?

投稿: | 2010年12月 6日 (月) 03時39分

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