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2010年12月11日 (土)

会員との問答(聖教の読み方について)

Q.確かに私は親を殺していませんし、仏法を信じています。しかし、自分を見れば、悪ばかり造っている悪人です。とても善人とは思えません。経典や善知識方の御著書には、善が勧められているような所もあり、よく判りません。

A.親鸞会は、断章取義が徹底しています。聖教の一部分だけを取り出して、前後を無視するものです。
判りやすくいえば、

左へ行きなさい

と書かれてあれば、左へ行けということだと思えるのですが、前後をよく読んでみると、

「左へ行きなさい」という人がいるが、それでは遠回りだから右へ行きなさい

とあり、結局は右に行くことを勧められていることになります。
これが親鸞会には一杯あるのです。故意に断章取義をしている場合と、知らずに勘違いしている場合があります。伊藤康善師や大沼法竜師の著書に、たまたま引用してあった根拠を意味も判らずにパクリ損ない、両師の誤字がそのまま高森会長の著書に書いてあることもあって、高森会長のレベルの低さがよく判ります。

悪凡夫の私たちのために、簡潔明瞭に教えて下されたのが法然上人です。

『勅伝』に

上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすゝめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすゝめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」

とありますように、善人に対して勧められた教えと悪人に対して勧められた教えがあるので、悪人に対して教えられた所を読み、聞いていくのです。悪人に対して勧めらた教えを読み、聞くことで、信心決定し、往生できると法然上人が教えて下されています。

また、「念仏往生義」で

善根無ければ、此の念仏を修して、無上の功徳を、得んとす。余の善根、多くば、例え念仏せずとも、頼む方も、有るべし。然れば善導は、我が身をば、善根薄少なりと信じて、本願を頼み、念仏をせよと、勧め給ヘリ。経に、一度名号を、称えるに、大利を得とす。又即ち、無上の功徳を得と、とけり。いかに況や、念々相続せんをや。然れば善根無ければとて、念仏往生を、疑うべからず。

と教えておられます。

これまで善をしてこなかったならば、念仏して、この上ない功徳を得るべきです。それに対して、善を沢山してきた人々は、たとえ念仏しなくても極楽浄土へ往生できると、自力の善根をあてにしてしまうものなのです。
だから善導大師は『往生礼讚』にて、「自分はこれまで善根をわずかしか積んでこなかった者であると信じて、阿弥陀仏の本願を信じて念仏しなさい」と勧められています。
『大無量寿経』には、「一回阿弥陀仏の名号を称えたならば、無上の功徳を得る」と説かれています。まして、念仏を相続することは言うまでもないことです。
だから、これまで善根を積んでこなかったからといって、念仏した者が浄土往生できることを疑ってはなりません。

更には、『選択本願念仏集』で

諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。

釈尊定散の諸行を付属せず、ただ念仏をもつて阿難に付属したまふ文。
 『観無量寿経』にのたまはく、「仏、阿難に告げたまはく、〈なんぢよくこの語を持て。この語を持てとは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり〉」と。
 同経の『疏』(散善義)にいはく、「〈仏告阿難汝好持是語〉といふより以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通することを明かす。上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」と。

とまではっきりと法然上人は仰っているのです。
そのために、聖道門の人達から、激しい非難があったことは先に詳しく述べた通りです。

親鸞聖人も、法然上人の教えを受け継がれたことはいうまでもありません。

親鸞聖人は『教行信証』行巻に

しかるに教について念仏諸善比校対論するに、難易対、頓漸対、横竪対、超渉対、順逆対、大小対、多少対、勝劣対、親疎対、近遠対、深浅対、強弱対、重軽対、広狭対、純雑対、径迂対、捷遅対、通別対、不退退対、直弁因明対、名号定散対、理尽非理尽対、勧無勧対、無間間対、断不断対、相続不続対、無上有上対、上上下下対、思不思議対、因行果徳対、自説他説対、回不回向対、護不護対、証不証対、讃不讃対、付属不属対、了不了教対、機堪不堪対、選不選対、真仮対、仏滅不滅対、法滅利不利対、自力他力対、有願無願対、摂不摂対、入定聚不入対、報化対あり。
この義かくのごとし。しかるに本願一乗海を案ずるに、円融満足極速無碍絶対不二の教なり。

(現代語訳)

しかるに教法について、念仏と諸善とを比較し、相対して論じると、次のようになります。
難易対、諸善は難行であり、念仏は易行である。
頓漸対、念仏は速やかに成仏し、諸善は長い時間を要する。
横竪対、念仏は他力によって横さまに迷いを超え、諸善は自力によって、竪さまに順を迫って迷いを離れていく。
超渉対、念仏は迷いの世界を飛び超えるが、諸善は歩いて渡るようなものである。
順逆対、念仏は本願に順じているが、諸善は本願に背いている。
大小対、念仏は大功徳であるが、諸善の功徳は小さい。
多少対、念仏は多善根であるが、諸善は少善根である。
勝劣対、念仏は最勝の行であり、諸善は劣行である。
親疎対、念仏は仏に親しく馴染み深いが、諸善は疎遠である。
近遠対、念仏は仏に近く、諸善は遠く離れている。
深浅村、念仏は深い法であり、諸善は浅薄である。
強弱対、念仏は強い本願に支えられているが、諸善を支える自力は弱い。
重軽対、念仏は重い願力に支えられているが、それのない諸善は軽い。
広狭対、念仏は一切を救うから広く、諸善は善人にかぎるから狭い。
純雑対、念仏は純粋な往生行であるが、諸善は三乗に通ずる行である。
径迂対、念仏はさとりに至る近道であり、諸善はまわり道である。
捷遅対、念仏は早くさとりに至る道であり、諸善は遅い道である
通別対、諸善は聖道に通ずる通途の法であり、念仏は特別の法である。
不退退対、念仏は不退転の法であり、諸善は退転のある法である。
直弁因明対、念仏は仏の出世の本意としてただちに説かれた法であり、諸善は自力の機に止むを得ず説かれた法である。
名号定散対、念仏は釈尊が付属された名号であり、諸善は付属されなかった定散二善である。
埋尽非理尽対、念仏は道理を尽くして説かれた完全な法であり、諸善は理を尽くさない不完全な説にすぎない。
勧無勧対、念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない。
無間間対、念仏は他力に支えられているからその信心は途切れることがないが、諸善を修するものの信は途切れることがある。
断不断対、念仏は摂取されているから信心断絶しないが、諸善は断絶する。
相続不続対、念仏は法の徳によって臨終まで相続するが、諸善は相続しない。
無上有上対、念仏は無上の功徳を具しているが、諸善は有上功徳でしかない。
上上下下対、念仏は最も勝れた上上の法であるが、諸善は下下の法である。
思不思議対、念仏は不可思議の仏智の顕現であり、諸善は分別思議の法である。
因行果徳対、諸善は不完全な囚人の行であるが、念仏は阿弥陀仏の果徳を与えられた完全な法である。
自説他説対、念仏は阿弥陀仏自身が説かれた行法であり、諸善はそうではない。
回不回向対、諸善は衆生が回向しなければ往生行にはならないが、念仏は如来回向の法であるから、衆生は回向する必要がない。
護不護対、念仏は如来に護念せられる法であるが、諸善には護念はない。
証不証対、念仏は諸仏が証明されているが、諸善には諸仏の証明がない。
讃不讃対、念仏は諸仏に讃嘆される法であるが、諸善は讃嘆されない。
付嘱不嘱対、念仏は釈迦・弥陀二尊の本意にかなった法であるから付属されたが、諸善は付属されなかった。
了不了教対、念仏は仏の本意が完全に説き示された法であるが、諸善はそうではなかった。
機堪不堪対、念仏はどのような愚劣の機にも堪えられるように成就された法であるが、諸善は劣機には堪えられない法である。
選不選対、念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法である。
真仮対、念仏は真実の法であり、諸善はしばらく仮に用いられる方便の法である。
仏滅不滅対、諸善のものは往生しても入滅する応化仏を見るが、念仏往生のものは永久に入滅しない真仏を見る。
法滅利不利対、法減の時になっても念仏は滅びることなく衆生を利益し続けるが、諸善は滅びるから利益がない。しかし、これを法減不滅対と利不利対の二対に分ける説もある。
自力他力対、諸善は自力の法であり、念仏は他力の法である。
有願無願対、念仏は本願の行であり、諸善は本願の行ではない。
摂不摂対、念仏は摂取不捨の利益があり、諸善は摂取されない。
入定聚不入対、念仏は正定聚に入る法であるが、諸善は正定聚に入れない。
報化対、念仏は真実報土に往生する行であるが、諸善は化土にとどまる行である。

教法について念仏と諸善を比較すると、このような違いが明らかになってきます。ところで本願一乗海である念仏について考えてみると、あらゆる善根功徳が円かに融け合って、衆生の煩悩悪業にもさまたげられることなく、速やかに満足せしめていくという、比較を超えた唯一絶対の教法であることがわかります。

と仰っています。念仏と諸善とを徹底的に比較されて、念仏1つを説かれた方が親鸞聖人です。

その中で、

勧無勧対、念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない。

とある通りで、この意味が高森会長や講師部員には判らないのです。

読解力もなければ、経典も善知識方の御著書もまともに読んだことのない人の言っていることに、早く見切りを付けて下さい。

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