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2010年12月 5日 (日)

会員との問答(聖道門と浄土門の違い)

M野氏ではないと否定されている方が、意味不明の負け犬の遠吠えをブログに書いて騒いでいるそうですが、私も暇ではありませんので読む気にもなりません。
問答の方を続けます。

Q.支部長は、「高森先生は体験と教学を具えた蓮如上人以来の善知識だから、阿弥陀仏の御心、親鸞聖人の真意を正しく理解できるのは、今日、高森先生以外にはおられない」と言っていますが、どう思いますか?

A.高森会長が講師部員に言わせているのでしょうが、自惚れも甚だしいでしょう。

善導大師は『散善義』

仏はこれ大悲を満足したまへる人なるがゆゑなり、実語したまふがゆゑなり。仏を除きて以還は、智行いまだ満たず。その学地にありて、正習の二障ありていまだ除こらざるによりて、果願いまだ円かならず。これらの凡聖はたとひ諸仏の教意を測量すれども、いまだ決了することあたはず。

(現代語訳)

仏は大いなる慈悲をまどかにそなえた方だからであり、その説かれた言葉はまことだからである。仏以外のものは、智慧も行もまだ十分でなく、それを学ぶ位にあり、煩悩もその習気もまだすべては除かれていないので、さとりを求める願いも、まだまどかに成就していない。したがって、これらのものは、たとえ仏のおこころを推しはかっても、確かに知ることはまだできないのである。

と書いておられますが、たとえ菩薩であっても、仏の御心を知ることはできないと仰っています。
また『玄義分』

仏の密意弘深なれば、教門をして暁りがたし。三賢・十聖測りて闚ふところにあらず。いはんやわれ信外の軽毛なり。あへて旨趣を知らんや。

(現代語訳)

仏の思し召しは広くて奥深いから、その教えは容易に知ることができない。三賢・十聖という位にある菩薩でさえはかり知ることはできないのである。ましてわたしは十信の位にも入ることのできない愚かな凡夫である。どうしてその思し召しを知ることができようか。

と善導大師御自身のことにまで言及されています。善導大師のような大変に優れた方であってさえも、菩薩でもないのだから、仏の御心を知ることなど、とてもできることではないと仰っています。

ましてや、善導大師、親鸞聖人がはっきり仰っていることも理解できずに珍しい解釈をしている高森会長が、

私は阿弥陀仏の本願を説き切っています

などと言っているのですから、おこがましいにも程があります。仏になったつもりでいるのでしょうか。

法然上人は『三心料簡事』で、

凡そ聖道門は智慧を極めて生死を離れ、浄土門は愚痴に還りて極楽に生る。

と仰っています。
親鸞聖人も法然上人のお言葉を『御消息』で紹介されて

故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを御覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまひしをみまゐらせ候ひき。文沙汰して、さかさかしきひとのまゐりたるをば、「往生はいかがあらんずらん」と、たしかにうけたまはりき。

と仰っています。

聖道門の道理を浄土門に持ち込んでいるのが、高森会長です。獲信したら、多くの真理が判る智慧を体得するかのように教えていますが、獲信して知らされることは、愚者であるということです。獲信を、自力で智慧を体得することと同じと考えているところが、実にお粗末です。

はっきり言えば、高森会長は、自力聖道門と他力浄土門との違いさえも理解できていないのです。もちろん、高森会長の言葉を鵜呑みにしている講師部員は、論外です。

もし本当に獲信していて愚者を自覚するならば、聖教とは異なることを平気な顔をして話などできる訳がないでしょう。
私は愚者を自覚していますので、聖教に基づいてしか話ができません。



Q.聖道門と浄土門の違いについてもう少し詳しく教えてもらえますか。

A.聖道門では、阿弥陀仏の本願の中で19願を最も尊重します。

聖道門は、此土入聖といって、諸行によってこの世で聖者の位に入り、成仏を目指すものです。19願は、聖道門と同じ行を阿弥陀仏に回向することで、往生して成仏するというものです。ですから、聖道門の人にとりましては、19願は聖道門に近いものと考えてきました。

ところが、法然上人は往生のためには念仏1つと教えられ、諸善を捨てよ、18願だけが阿弥陀仏が選び取られた本意の願であると仰ったので、聖道門から激しい非難があったのです。
判りやすく言えば念仏弾圧の背景には、法然上人が、聖道門の尊重する19願と諸善とを排斥したことがあったのです。

承元の法難の直接の切っ掛けとなった『興福寺奏状』には、

ここに専修、此のごときの難を蒙らんの時、万事を顧みず、ただ一言に答へん、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」と。何ぞ爾許の大願を隠して、ただ一種を以て本願と号せんや。

とありまして、阿弥陀仏の本願は48あるのに、18願だけというのはおかしいと言っているのです。

また法然上人が亡くなられた後、明恵上人高弁が『摧邪輪』を著して、

解して曰く、発菩提心は、是れ仏道の正因、是れ体声なり。専念弥陀は、是れ往生の別行、是れ業声なり。汝が体を捨てて業を取るは、火を離れて煙を求むるがごとし。咲ふべし、咲ふべし。まさに知るべし。これらの解釈の文は、皆菩提心においては、置いてこれを論ぜず、ただ所起の諸行についてこれを判ず。しかるに本願の中にさらに菩提心等の余行なしと言うは、何が故ぞ。第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云々。是れ本願にあらずや。

と具体的に19願を出しています。

一方18願、念仏に対しては、『興福寺奏状』に

善導一期の行ただ仏名に在らば、下機を誘ふるの方便なり。

とあり、また『摧邪輪』には、

往生宗所引の念仏の善の証文には称名の外に無量の余行あり、一一出すに邊あらず、若し彼を撥すれば念仏の深義また成ずべからず、若し汝の言う所の如く一文を守らば称名行は是れ下劣根機の為に説く所也。
(中略)
称名一行は下根の一類の為に授ずくる所也。汝何ぞ天下の諸人を以て皆下劣の根機と為す乎。無礼之至り称計す可からず、此の文証を引くに依りて称名行を執らずに非ず、唯是汝之一門、称名を以て無上殊勝の行と為し、余行を撥して下劣と為す。

とあるように、18願、念仏は悪人のための方便の願であるのに、それを万人にまで適応させるとは無礼ではないか、とまで激しく攻撃しているのです。

要するに、18願だけ、念仏一行を説かれた法然上人は間違っている、と非難している訳です。これは真実と方便が反対で、善人悪人の意味の違いはありますが、高森会長が本願寺を非難している論理と同じです。

逆に言えば、それほど法然上人は18願1つ、念仏だけを強調された方であったということです。実際に法然上人は19願については、言及さえほとんどありません。

この『摧邪輪』に反論されたのが、親鸞聖人の『教行信証』です。もちろん、親鸞聖人は、法然上人が18願念仏往生1つと仰ったことの正しさを、膨大な経論釈を引かれて証明されたのです。浄土真宗の常識中の常識です。

たとえ聖教を読んだことがなくても、日本の浄土仏教の歴史を少しでも学んでいれば、高森会長のような主張が、浄土門から大きく外れた、それどころか破壊するものであることがお判り頂けるのではないでしょうか。

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コメント

ごもっとも、そのとおりです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: | 2010年12月 5日 (日) 17時01分

会での疑問 ①宿善は、信心決定するまでが過去世になるから、がんばりなさいといわれ聴聞にはげんできました。
      ②2000畳で会長が ここは取引所だ、1000万や2000万円なんていうものではない億だ。と言いました。  
      
       ②は会員の人もびっくりの発言でしたが誰も脱会の声を出す人        はいません。
        今冷静に思えば、どうかんがえても変だと思います。そして        変だと思わない?思うことが怖いと思っている?会員の人たち        がかわいそう・・・皆まじめでいい人ばかりでした。

投稿: 雪(の精) | 2010年12月 6日 (月) 00時10分

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