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2010年12月13日 (月)

会員との問答(一向と雑行について)

Q.親鸞会では、善をしなければ信仰が進まない、と教えていますが。

A.極めて珍しき教えです。発想は聖道門ですが、聖道門では善ができる前提で善を勧めます。親鸞会では、善のできないことが知らされるには、善をしてみなければ判らないといいます。
具体的にいえば、命がけで財施をしたら、善のできないことが知らされると教えていますが、財施自体は善ですから、財施をした人は、財施という善ができた人です。善をして善ができないと知らされるのもおかしな話です。

たとえば全財産が1億円ある人が、1億円すべてを財施したら、何が知らされますか?
自分は全財産、しかも相当の額を出したのだから、因果の道理で、出していない人よりもよい結果が返ってくるに違いない、と思うだけです。
全財産を出したくらいでは命がけの財施とはいえない、というのであれば、借金して2億円財施をしたらどうですか?
自分は借金までして他の誰よりも多くの財施をしたのだから、誰よりも獲信に近い筈だとしか思えないでしょう。
それでも足りなければ、銀行を騙して10億円の借金をしてそれをすべて財施したらどうですか?
100億円なら、1000億円なら、1兆円なら善のできない者と知らされますか?
どこまでいっても同じです。

もし善と往生との関係で言いたいのであれば、財施という善を回向する19願での往生はできないことが知らされたということなら判らないことはありません。しかし、19願での往生を目指して財施をしている訳ではありませんので、19願での往生ができないと知らされることもありません。

善とは無関係の18願での往生を目指しているのであれば、最初から最後まで善は無関係なのです。
親鸞会でも昔は、「仏教の結論は一向専念無量寿仏」と教えていた筈ですが、最近は言いません。



Q.「一向専念無量寿仏」とはどういうことですか?

A.このことについては法然上人が『選択本願念仏集』で次のように教えておられます。

しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。
「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・下)のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。
すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。

(現代語訳)

ところが本願の中に更に余行はない。三輩共に上の本願に依るから「一向に専ら無量寿仏を念ずる」と説かれているのである。
「一向」というのは、二向・三向などに対する言葉である。例えば、かの五天竺 (印度) に三種の寺があるようなものである。一つには一向大乗寺。この寺の中には小乗を学ぶことはない。二つには一向小乗寺。この寺の中には大乗を学ぶことはない。三つには大小兼行寺。その寺の中には大乗と小乗とを兼ねて学ぶから兼行寺という。大乗・小乗の両寺には一向の言葉があり、兼行の寺には一向の言葉がないと知るべきである。
今この経の中の一向もまたその通りである。もし念仏のほかにまた余行を加えるのであれば、すなわち一向ではない。もし寺に準ずるならば兼行というべきである。すでに一向というのであるから、余の行を兼ねないことは明らかである。すでにさきには余行を説くけれども後には「一向に専ら念ずる」という。よって諸行を廃してただ念仏だけを用いるから一向ということが明らかに知られる。もしそうでなければ、一向の言葉がどうしても解釈しがたいであろう。

念仏と善との「兼行」では、「一向」ではありません。
尤も、親鸞会の場合は、念仏を疎かにして親鸞会で教えるまがい物の”善”だけの「一向」といえますが‥‥。
ここで法然上人の仰っている「一向」とはもちろん念仏のことです。

親鸞聖人は『一念多念証文』

「一心専念」(散善義)といふは、「一心」は金剛の信心なり、「専念」は一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。

と仰り、蓮如上人も『御文章』2帖目第9通

そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへるそのこころはいかんぞなれば、それ弥陀仏の誓ひましますやうは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなる罪ふかき機なりとも、すくひたまはんといへる大願なり。

しかれば一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり。このゆゑに人間においても、まづ主をばひとりならではたのまぬ道理なり。されば外典のことばにいはく、「忠臣は二君につかへず、貞女は二夫をならべず」(史記・意)といへり。阿弥陀如来は三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまはざるべきや。このいはれをもつてよくよくこころうべし。

さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。

と、親鸞聖人も蓮如上人も、法然上人と同じことを仰っています。
もちろん、「一向」とは、「余の善にうつらず」のことであり、雑行である「自余の万善万行」に対して、「なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや」なのです。

親鸞会の会員が救われない理由は、「余の善にうつ」るからであり、「諸行諸善にこころをとど」めているからです。



Q.親鸞会では、雑行を捨てよであって、善を捨てよということではない、と教えていますが?

A.『教行信証』化土巻

安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。
正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。

(現代語訳)

浄土に往生してさとりを開くのを浄土門といい、易行道という。この浄土門の中に、横出と横超、方便と真実、漸教と頓教、そして助正と雑行、雑修と専修がある。
 正とは、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五正行である。助とは、称名以外の読誦・観察・礼拝・讃嘆・供養の五種である。雑行とは、正・助の行以外をすべて雑行というのである。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善・散善や世福・戒福・行福の善を修め、三輩・九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。

と親鸞聖人は仰っています。つまり、往生と関係付けた善のことを「雑行」というのです。親鸞会で教えている、”三願転入の教え”、”宿善論”は、完璧に「雑行」です。
訳の判らないことを言っていますが、親鸞会は「横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門」である「雑行」を間違いなく勧めているのですから、「雑行」を捨てよと教えられた善知識方の教えに反しています。

従って、救われないのは当然です。

善知識方の教えられたことと高森会長の教えていることとが、全く違うことをこれまで詳しく説明してきましたので、あとは、善知識方を信じて報土往生を遂げるか、高森会長の説く迷信を妄信して昿劫多生の間、輪廻を続けるのか、よくよくお考えください。

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