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2010年12月 9日 (木)

会員との問答(五逆罪、謗法罪について)

Q.悪凡夫の我々は、後生は無間地獄に堕ちるということではないですか?

A.そんなことを親鸞聖人は仰っていません。
講師部員の作っているあるブログで、聖者も含めて、一切衆生必堕無間だと言っている愚かな主張がありますが、その件でコメント欄でやりとりされています。しかし、何人かの方が、コメントを拒否されたと聞きました。管理人がコメントをした人に質問をしておきながら、答えを拒否するとは、実に親鸞会らしい汚い手口です。

その拒否されたコメントが
「親鸞会ポータル・ナビ」
に出ていましたので、紹介しておきます。

コメントが拒否されました。卑怯者のブログに書きたかった内容は、以下のことです。

****************************************************

読解力に問題のある人には、機の深信と罪悪観の違いも
理解できないことでしょう。
一々説明するのも面倒なので、結論を言います。

親鸞聖人は涅槃経を引文された後、五逆罪についての解釈を
されています。

一つには三乗の五逆なり。いはく、
一つにはことさらに思うて父を殺す、
二つにはことさらに思うて母を殺す、
三つにはことさらに思うて羅漢を殺す、
四つには倒見して和合僧を破す、
五つには悪心をもつて仏身より血を出す。
恩田に背き福田に違するをもつてのゆゑに、これを名づけて
逆とす。この逆を執ずるものは、身壊れ命終へて、
必定して無間地獄に堕して、一大劫のうちに無間の苦を
受けん、無間業と名づくと。

阿闍世を通して、三乗の五逆罪を説明されて、
故意に親を殺すことを指して、
必定して無間地獄」「無間業と名づく」と仰っています。

大乗の五逆罪でさえ、「無間業と名づく」とは仰ってません。
それを一切衆生が無間業を造っていると考える発想が、
根本的に間違っています。

御消息には、

弥陀の御ちかひにまうあひがたくしてあひまゐらせて、
仏恩を報じまゐらせんとこそおぼしめすべきに、
念仏をとどめらるることに沙汰しなされて候ふらんこそ、
かへすがへすこころえず候ふ。あさましきことに候ふ。
ひとびとのひがざまに御こころえどもの候ふゆゑ、
あるべくもなきことどもきこえ候ふ。申すばかりなく候ふ。
ただし念仏のひと、ひがことを申し候はば、
その身ひとりこそ地獄にもおち、天魔ともなり候はめ。
よろづの念仏者のとがになるべしとはおぼえず候ふ。

と仰って、最後の2文
その身ひとりこそ地獄にもおち、天魔ともなり候はめ。
よろづの念仏者のとがになるべしとはおぼえず候ふ。

で、「念仏をとどめらるること」をしている親鸞会の会長・
講師部員が、地獄に堕ちて、他の念仏者は地獄に堕ちる罪で
ないことを明示されています。

更には、

一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。
されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号を
となへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。
詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を
信ぜざらんは辺地に生るべし。

とまで仰っています。

三乗の五逆罪の解説も、御消息も嘘を仰っているということ
なのでしょうか。
もっといえば、涅槃経の中でお釈迦様が阿闍世に対して、
地獄に堕ちる罪ではないと、空の思想で教えられてますが、
解からないでしょうね。

簡単な話をすれば、われわれが直接目にする人間と畜生は、
存在しているのです。
破綻した話をいつまでしているの?

機の深信を地獄一定としか考えられないようでは、とても
理解できないできないことですよね。
コメントが拒否されました|1|2010-12-08 16:35

親鸞聖人が、地獄に堕ちる人の定義を仰った根拠を挙げられての、的確なコメントです。

判りやすくいえば、五逆罪、謗法罪を造った人は無間地獄に堕ちるのですが、全ての人が五逆罪、謗法罪を造っているのではありませんから、一般的には、六道を輪廻すると教えられるのです。

Q.親鸞会では、親を邪魔者と心の中で思っただけでも、五逆罪を造っているから必堕無間と教えられていますが?

A.今のコメントにもありましたように、

一つにはことさらに思うて父を殺す、
二つにはことさらに思うて母を殺す、
三つにはことさらに思うて羅漢を殺す、
四つには倒見して和合僧を破す、
五つには悪心をもつて仏身より血を出す。
恩田に背き福田に違するをもつてのゆゑに、これを名づけて
逆とす。この逆を執ずるものは、身壊れ命終へて、
必定して無間地獄に堕して、一大劫のうちに無間の苦を
受けん、無間業と名づくと。

これが五逆罪です。「ことさらに思うて」殺すのですから、心の中で思っただけでは、五逆罪ではありません。
ただし、自分の心を見つめたときに、縁がきたら親を殺してしまうような心がある、と懺悔されることは構いません。それと無間業とは違うということです。
万引きをしたいとたとえ思ったとしても、実際に万引きをしなければ、罪に問われることはありませんが、それと同じです。

Q.『口伝鈔』で「もとより罪体の凡夫、大小を論ぜず、三業みな罪にあらずといふことなし」と教えられていますように、心で思っただけでも、五逆罪になるのではないですか?

A.これは『口伝鈔』第20条にあるお言葉ですが、断章取義しているから、意味が判らなくなっているのです。長いですが全文と現代語訳も載せておきます。

一 罪は五逆・謗法生るとしりて、しかも小罪もつくるべからずといふ事。

 おなじき聖人(親鸞)の仰せとて、先師信上人(如信)の仰せにいはく、世の人つねにおもへらく、小罪なりとも罪をおそれおもひて、とどめばやとおもはば、こころにまかせてとどめられ、善根は修し行ぜんとおもはば、たくはへられて、これをもつて大益をも得、出離の方法ともなりぬべしと。この条、真宗の肝要にそむき、先哲の口授に違せり。まづ逆罪等をつくること、まつたく諸宗の掟、仏法の本意にあらず。しかれども悪業の凡夫、過去の業因にひかれてこれらの重罪を犯す、これとどめがたく伏しがたし。また小罪なりとも犯すべからずといへば、凡夫こころにまかせて、罪をばとどめえつべしときこゆ。しかれども、もとより罪体の凡夫、大小を論ぜず、三業みな罪にあらずといふことなし。しかるに小罪も犯すべからずといへば、あやまつても犯さば、往生すべからざるなりと落居するか、この条、もつとも思択すべし。これもし抑止門のこころか。抑止は釈尊の方便なり、真宗の落居は弥陀の本願にきはまる。しかれば小罪も大罪も、罪の沙汰をしたたば、とどめてこそその詮はあれ、とどめえつべくもなき凡慮をもちながら、かくのごとくいへば、弥陀の本願に帰託する機、いかでかあらん。謗法罪はまた仏法を信ずるこころのなきよりおこるものなれば、もとよりそのうつはものにあらず。もし改悔せば、生るべきものなり。しかれば、「謗法闡提回心皆往」(法事讃・上)と釈せらるる、このゆゑなり。

(現代語訳 石田瑞磨著『親鸞聖人全集 別冊』より)

一、罪は五逆・謗法を犯しても、浄土に生れることができると思って、しかもどんな小さな罪もつくってはならない、ということ。

同じ聖人の仰せであるといって、なくなられた師、如信上人が仰せられた。

世間のひとはつねに「どんな小さな罪でも、罪を恐ろしく思って、止めようと思えば心のままに止めることができ、善のたねは修め行おうと思えば蓄えることができて、これによって、阿弥陀仏の大きな恵みをうることもでき、またこれが迷いの世界を逃れる方法ともなるだろう」と思っている。しかしこの考えは、真宗の教えの根本にそむき、また先哲の口ずからお説きになったこととも違っている。まず、五逆罪などを造ることは、まったく諸宗の掟にふれるもので、仏法の本意ではない。しかしながら、悪を犯した愚かなひとは、その過去の宿業の原因にひかれて、これらの重罪をおかすのであって、これを止めることもおさえることも困難である。
また、「小さな罪であっても犯してはならない」と言うときは、愚かなひとでも思い通りに罪を犯さないでいることができる、とも受け取られる。しかしながら、もともと罪そのものを本性とする愚かものである以上、大・小の差別なく、身に行うこと、口に言うこと、心に思うこと、すべてが罪でないものはない。ところが、「小さな罪も犯してはならない」と言うときは、過って犯しても浄土に生れることはできない、と結着するものか。この点、よくよく考えをめぐらさなければならない。これは、仮に抑止する意味であろうか。抑止は釈尊の方便である。
しかし真宗の落ち着くところは阿弥陀仏の本願以外にはない。だから、小罪も大罪も、罪の詮索がしたいならば、どんな罪も犯さないでこそそのかいがあるので、犯さないでいることもできないあさはかな智慧を持ちながら、このように言うときは、阿弥陀仏の本願に帰して、身を託するものがはたしているだろうか。謗法の罪はまた仏法を信ずる心がないことからおこるものであるから、もともと浄土に生れる素質のあるものではない。しかし悔い改めるならば、生れることができるものである。だから、「謗法や闡提も回心すれば、みな浄土に生れる」と解釈されるのはこのためである。

ここで言われていることは、
まず、過去の宿業の原因にひかれて、五逆罪などの重罪を犯してしまうので、それを止めさせることは困難であることです。『口伝鈔』第4条にある

悪業をばおそれながらすなはちおこし

宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし

もし過去にそのたねあらば、たとひ殺生罪を犯すべからず、犯さばすなはち往生をとぐべからずといましむといふとも、たねにもよほされてかならず殺罪をつくるべきなり。

と言われていることと同じです。
ですから、凡夫は小罪を造らずに生きることができないが、小罪をも犯してはならないといわれるのは釈尊の抑止の方便であることを仰っています。
さらには、たとえ五逆罪、謗法罪を犯した悪人であってでも、阿弥陀仏は漏らさずに救ってくだされる摂取門を教えられています。

五逆罪を造る人もいれば、造らない人もいることがここでも判りますし、釈尊の廃悪修善の意味についても明らかにされています。
私たち悪凡夫は、五逆罪、謗法罪という大罪までは造っていませんが、小罪は造らずには生きていけないことを懺悔して、できるだけ慎むように努めましょうということです。

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