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2010年12月26日 (日)

会員との問答(後生の一大事について)

Q.領解文の「一大事の後生」は地獄に堕ちる一大事ではありませんか?

A.前回紹介した紅楳英顕師の論文をよく読まれれば、以下の領解文の意味も判られると思います。

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。
たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ。
この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人(親鸞)御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。
このうへは定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもりまうすべく候ふ。

後生の一大事とは、”地獄に堕ちる一大事”、という先入観があると、全ての御文がそういった意味だとしか思えなくなりますから、難しいかも知れませんが、一度その先入観をなくして読んでみて下さい。

ちなみに領解文の「御たすけ候へとたのみ」の意味は、本願寺出版社の教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)』巻末註には、

衆生が阿弥陀如来に向かっておたすけを請求する意ではなく、許諾(先方の言い分を許し承諾する)の義で、「必ずたすける」という本願招喚の勅命を領納して、仰せの通りに信順している信相をあらわす。

とあります。すべて阿弥陀仏から回向してくださる訳ですので、こちらからお願いするものはありません。
従って、「御たすけ候へとたのみ」を「地獄に堕ちるのを助けてください、お願いします」、と解釈するのは自力を捨てて他力に帰すという捨自帰他が判っていないからです。お願いするのは自力です。どれだけお願いしても、自力は自力です。

親鸞会でも捨自帰他という言葉は使いますが、実際は自力と他力が逆になっています。何でも自分で準備して、「これだけ揃えましたので、助けて下さい」と自力回向しているのが親鸞会の教義です。

阿弥陀仏の救いとは、どんなものか全く判っていない証拠です。どう見ても異安心集団ですね。

Q.親鸞聖人は「地獄は一定すみかぞかし」と仰っていますが、後生は無間地獄に堕ちることは必定ではないのですか?

A.これは『歎異抄』にある親鸞聖人が仰ったとされるお言葉ですが、親鸞聖人が御自身の罪悪観を述べられたものです。罪悪観については、以前にも詳しく述べました。

仏教でも真宗でも一般には、死後は六道輪廻と教えられ、我々のような悪凡夫は、三悪道に堕ちると書かれてあるものが多いです。
その中で、罪悪観を突き詰めていけば、三悪道とは言いながらも地獄しか行き場のないものという親鸞聖人のお言葉になる訳です。罪悪感とは、自己の内省です。自己を厳しく顧みられた時に、地獄に堕ちても文句の言えないものと親鸞聖人は、懺悔されたのですが、だからといって、死後に地獄に堕ちることが決まっているということではありません。あくまで、罪悪観であり、懺悔です。仏でもないのに、自分には未来を知る能力があると考えることがそもそもおかしいです。
しかもここで言われている罪業は、十悪のことであり、五逆謗法の無間業ではないことをよく知って頂かねばなりません。ですから「無間地獄に堕ちる」という言い方ではありません。

親鸞聖人の御著書の中で、我々が無間地獄も含めて、地獄に堕ちると教えられた箇所は全くありません。これまでにも、何度も何度も述べてきましたように、親鸞聖人は「一切衆生必堕無間」を完全に否定しておられます。
もし親鸞聖人が「一切衆生必堕無間」という意味のことを仰ったお言葉があれば、是非とも教えて下さい。

蓮如上人も、地獄に堕ちると仰った箇所は、異安心、邪義の者に対してという条件付きの場合が多いです。そうでない場合は、六道、三悪道という表現になっています。

これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もってのほか相違す。そのゆえは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といい、これを信心のひとといえり。これおおきなるあやまりなり。また弟子は、坊主にものをだにもおおくまいらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきようにおもえり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあいだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに、極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことはうたがいなし。(一帖目第十一通

それ越前の国にひろまるところの秘事法門といえることは、さらに仏法にてはなし。あさましき外道の法なりこれを信ずるものは、ながく無間地獄にしずむべき業にて、いたずらごとなり。(二帖目第十四通

されば、死出の山路のすえ、三途の大河をば、ただひとりこそゆきなんずれ。(一帖目第十一通

はやめにみえてあだなる人間界の老少不定のさかいとしりながら、ただいま三途八難にしずまん事をば、つゆちりほども心にかけずして、(二帖目第一通

されば、五道六道といえる悪趣に、すでにおもむくべきみちを、弥陀如来の願力の不思議として、これをふさぎたまうなり。(二帖目第四通

総合的に考える能力が完全に欠落している高森会長、講師部員と偽装退会者は

この信心を獲得せずは、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。(二帖目第二通

この1つの文章をもって、これに反する膨大な根拠をすべてを否定するという典型的な断章取義です。

なお、江戸時代に大谷派で地獄が強調されたことがありましたが、それもそのような学説があっただけのことで、それを紹介したところで、

それで何?

となるだけです。「念仏無間」と誰かが言っていたら、それに飛びつくのと同じ位愚かな思考です。そんなブログを書いていて虚しくならないのでしょうかね。

負け犬の遠吠え、論点ずらし、詭弁でしか語れないのが親鸞会です。

親鸞聖人の教えを語る前に、人間として、大人として恥ずかしくない主張を展開してほしいものです。

と何度言っても、改めることの絶対にしない親鸞会でした。

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コメント

M野さんは、どこまでピエロを演じるつもりでしょうか?
ここまでくると、A橋ドクターの患者です。

投稿: M野さんへ | 2010年12月27日 (月) 06時41分

わかりやすいです。
お領解文の「一大事の後生」を「地獄に堕ちる一大事」と解釈すると
「タスケタマヘトタノム」が、こちらから「阿弥陀様、地獄に堕ちないように助けて下さい」とお願いする、希願請求という事になってしまい、
「助ける、往生の一大事遂げさせるぞ」という先手の勅命に対して「(如来様のお望み通り)お助けになってください」と受け入れる許諾としての意味が通らなくなってしまいますね。
会長は著書の中で「後生の一大事が往生の意味であれば、なぜ領解文には助けたまえという言い方をされてるのか」と言って宗門に反論してましたが、こんな問いを出す事自体、会長が基本的な御文章の解釈もわかってないという証拠ですね。
S会は三業惑乱のビデオをつくって会員に見せたり、公式サイトにも取り上げてますが、何のことはない、会長の教義安心解釈は、三業派の所説に類するものでしかないという事ですね。

投稿: Rudel | 2010年12月27日 (月) 14時21分

M野さんへ 様

例の人は、壊れてしまっていますので、可哀相なものです。


Rudel 様

親鸞会は、邪義や異安心集団を一生懸命攻撃していますが、その攻撃が自分に跳ね返っていることに全く気が付いていないのです。邪義、異安心は、親鸞会を正としてですから、親鸞聖人を正とすれば、親鸞会は邪になるのです。

投稿: 飛雲 | 2010年12月28日 (火) 07時43分

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