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2010年12月23日 (木)

会員との問答(一切衆生悉有仏性について)

Q.仏教を聞く目的は、後生の一大事の解決のためと親鸞会では教えていますが、それも間違いということですか?

A.親鸞会の言っている意味では、間違いです。

後生の一大事とは、往生浄土の一大事、往生浄土できるかどうかの一大事、ということです。約30年前に紅楳英顕師が、そのことを『派外からの異説について』で指摘されています。

最近親鸞会では、後生の一大事には必堕無間と往生浄土という二つの意味がある、とこれまでの必堕無間一辺倒から転換して説明しているようです。紅楳師がこの指摘をした際に、高森会長が、往生浄土の一大事も一大事だが、信前は必堕無間の一大事のことをいうのだ、と30年近く前に説法で話をしていたことがありましたが、それ以来きいたことがありませんでした。嵐のような親鸞会への教義批判に対応する形で、また詭弁を使っているだけのことです。

浄土門において、仏教を聞く目的は、浄土往生して仏に成ることです。必堕無間から逃れるためではありません。無間地獄から逃れるためだけであれば、無間業を造らなければいいだけです。先にもいいましたが、親鸞会で教えているように神を拝めば蛇に生れる筈ですので、積極的に神を拝んでもよいと勧めてもよいことになってしまいます。もっとレベルを上げれば、化土往生ができれば万万歳です。

しかし、親鸞聖人は化土往生を願うことさえも誡めておられます。報土往生だけを願えとしか教えられていません。従って、必堕無間の解決のために仏教を聞くというのは、親鸞聖人の教えではありません。単なるカルトの教えです。

『涅槃経』には、「一切衆生悉有仏性」と説かれていて、親鸞会でいう「一切衆生必堕無間」の教えは、浄土真宗でも仏教でもないのです。



Q.「一切衆生悉有仏性」とはどういうことですか?

A.親鸞聖人は『教行信証』信巻・信楽釈に引かれています。

『涅槃経』(師子吼品)にのたまはく、「善男子、大慈大悲を名づけて仏性とす。なにをもつてのゆゑに、大慈大悲はつねに菩薩に随ふこと、影の形に随ふがごとし。一切衆生、つひにさだめてまさに大慈大悲を得べし。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。大慈大悲は名づけて仏性とす。仏性は名づけて如来とす。

大喜大捨を名づけて仏性とす。なにをもつてのゆゑに、菩薩摩訶薩は、もし二十五有を捨つるにあたはず、すなはち阿耨多羅三藐三菩提を得ることあたはず。もろもろの衆生、つひにまさに得べきをもつてのゆゑなり。

このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といへるなり。大喜大捨はすなはちこれ仏性なり、仏性はすなはちこれ如来なり。仏性は大信心と名づく。なにをもつてのゆゑに、信心をもつてのゆゑに、菩薩摩訶薩はすなはちよく檀波羅蜜乃至般若波羅蜜を具足せり。一切衆生は、つひにさだめてまさに大信心を得べきをもつてのゆゑに。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。大信心はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ如来なり。

仏性は一子地と名づく。なにをもつてのゆゑに、一子地の因縁をもつてのゆゑに、菩薩はすなはち一切衆生において平等心を得たり。一切衆生は、つひにさだめてまさに一子地を得べきがゆゑに、このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。一子地はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ如来なり」と。

(現代語訳)

『涅槃経』に説かれている。

「善良なものよ、大慈・大悲を仏性というのである。なぜかというと、大慈・大悲は、影が形にしたがうように、常に菩薩から離れないのである。すべての衆生は、ついには必ずこの大慈・大悲を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。大慈・大悲を仏性といい、仏性を如来というのである。

また、大喜・大捨を仏性というのである。なぜかというと、菩薩が、もし迷いの世界を離れることができなければ、この上ないさとりを得ることはできない。あらゆる衆生は、ついには必ずこの大喜・大捨を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。大喜・大捨は仏性であり、仏性はそのまま如来である。

また仏性を大信心というのである。なぜかというと、菩薩はこの信心によって、六波羅蜜の行を身にそなえることができるのである。すべての衆生は、ついには必ず大信心を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。大信心は仏性であり、仏性はそのまま如来である。

また、仏性を一子地というのである。なぜかというと、菩薩は、その一子地の位にいたるから、すべての衆生をわけへだてなく平等にながめることができるのである。すべての衆生は、ついには必ずその位を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。この一子地は仏性であり、仏性はそのまま如来である」

一切衆生悉有仏性」というと、衆生の中に仏性があると理解しがちですが、そうではありません。衆生の側に仏性があるのではなく、阿弥陀仏から大慈大悲を具えた大信心を賜るから、一切衆生は悉く仏性が有ると説かれているのです。

これを『浄土和讃』では

平等心をうるときを
 一子地となづけたり
 一子地は仏性なり
 安養にいたりてさとるべし

(現代語訳)

煩悩の火が消えて、一切のとらわれがなくなり、 自他、 善悪、 その他すべてを平等に見る 「平等心」 を得るとき、直ちに如来の大悲心が起こる。
その大悲心は、 迷いの世界の一切の衆生を一人子のように愛する心なので、『涅槃経』では 「一子地」 と名づけられた。
一子地は、仏としての性質であるから 「仏性」 ともいわれる。
一子地といわれる仏の慈悲心は、 安養の浄土に往生して身に得ることができるのである。

如来すなはち涅槃なり
 涅槃を仏性となづけたり
 凡地にしてはさとられず
 安養にいたりて証すべし

(現代語訳)

すべてのものにとらわれるべき本性がないという真理そのものが法身の如来であり、またそれが涅槃の本質である。
涅槃の本質は、仏の本性という意味で、仏性とも名づけられる。
このような涅槃の境界は、凡夫の世界ではさとることはできない。
安養の浄土に往生してさとるはずである。

信心よろこぶそのひとを
 如来とひとしとときたまふ
 大信心は仏性なり
 仏性すなはち如来なり

(現代語訳)

『華厳経』にも、信心を得てよろこぶ人は諸仏と等しいと説かれている。
それは、 信を得たそのとき、往生成仏が約束されるので、もう仏となったようなものだという意味である。
また、『涅槃経』 には、 大信心は仏性なり、 仏性は即ち如来なりとある。
如来回向の大信心は、衆生の心にはたらく仏のはたらきである。この仏のはたらきである仏性を、如来ともいわれている。この信心によって、仏のさとりを得させていただくのである。

と仰っています。

仏性のないものが大信心を賜って報土往生し仏になるのですから、一大事なのです。無間業を造ったものが地獄に堕ちるのは、当たり前のことで一大事ではありません。親鸞会の教えは、極めて低いレベルの話をしているのです。

それと、衆生の側に仏性がないことと、闡提とを混乱しているお目出たい人がいますが、親鸞聖人の御著書を読んだことがないだけのことです。

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コメント

領解文の「一大事の後生」は地獄に堕ちる一大事ではありませんか?

投稿: 不審 | 2010年12月24日 (金) 02時18分

「本願を信受せずば地獄に堕ちることは自明である」ことは本願寺も認めていることではないですか?

投稿: 不審 | 2010年12月24日 (金) 02時22分

不審 様

紅楳英顕師の論文をよく読まれれば、領解文の意味も判られると思います。
地獄に堕ちる一大事という先入観があると、全ての御文がそういった意味だとしか思えなくなりますから、難しいかも知れませんが、一度その先入観をなくして読んでみて下さい。

ちなみに領解文の「御たすけ候へとたのみ」の意味は、衆生が阿弥陀如来に向かっておたすけを請求する意ではなく、許諾(先方の言い分を許し承諾する)の義で、「必ずたすける」という本願招喚の勅命を領納して、仰せの通りに信順している信相をあらわしています。

地獄に堕ちるのを助けてください、と解釈するのは捨自帰他ということが判っていないからです。


「本願を信受せずば地獄に堕ちることは自明である」についてですが、これは歎異抄にある親鸞聖人のお言葉を承けて言われたものであり、自分の罪業を見たら、地獄しか行き場が無いという親鸞聖人の罪悪観からのお言葉です。
仏教でも真宗でも一般には、死後は六道輪廻と教えられ、我々のような悪凡夫は、三悪道に堕ちると書かれてあるものが多いです。その中で、罪悪感を突き詰めていけば、三悪道とは言いながらも地獄しか行き場のないものという親鸞聖人のお言葉になる訳です。罪悪感とは、自己の内省です。
しかもここで罪業は、十悪のことであって、五逆謗法の無間業ではないことをよく知って頂かねばなりません。ですから「無間地獄に堕ちる」ではありません。

親鸞聖人の御著書の中で、我々が無間地獄も含めて、地獄に堕ちると教えられた箇所は全くありません。もしあれば、教えて下さい。

蓮如上人も、地獄に堕ちると仰った箇所は、異安心、邪義の者に対してという条件付きの場合が多いです。そうでない場合は、六道、三悪道という表現になっています。

親鸞会は断章取義が徹底していますので、全体を見ることが皆無です。

素直に、真面目に聖教を読んでください。

投稿: 飛雲 | 2010年12月24日 (金) 07時19分

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