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2010年12月 4日 (土)

会員との問答(宿善について)

Q.親鸞会では、過去世からたくさん善をしてきた宿善の厚い人が早く救われると教えていますが、これはどうですか?

A.間違いです。

それは善人が早く救われ、悪人が遅く救われるということを言っているのと同じです。もしそうであれば、今生で聖道門の修行を真面目にしている人は、過去世から善をしてきた善人ですから、直ちに18願で救われてもよい筈ですが、聖道門の修行をしている人は、18願を悪人のためのものと見下していますので、無宿善の機といえます。

一方で、『観無量寿経』には、五逆罪の下品下生のものが、平生に悪ばかりし続けてきて、仏法を聞くこともないのに、臨終に善知識に遇って、臨終の苦しみの中でやっとやっと念仏を称えて往生すると説かれています。
このことを『選択本願念仏集』には

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

とありますし、『唯信鈔文意』でも解説をなされています。

「汝若不能念」(観経)といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」(観経)とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。

「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」(観経)といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。

(現代語訳)

『観無量寿経』に「汝若不能念」と説かれているのは、五逆・十悪の罪を犯した人や、私利私欲のために教えを説いたものが、病の苦しみに阻まれて、心に阿弥陀仏を念じることができなければ、ただ口に「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。これは称名念仏を本願の行としてお誓いになっていることをあらわそうとされているのである。続いて「応称無量寿仏」と説かれているのは、この意味である。「応称」は、称えよということである。

『観無量寿経』に「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」と説かれているのは、五逆の罪を犯した人はその身に八十億劫の十倍の罪をもつことになるので、十回「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。一回の念仏で八十億劫の十倍の罪を消すことができないのではないけれども、五逆の罪がどれほど重いのかを人々に知らせるために、このようにいわれているのである。「十念」というのは、ただ口に念仏を十回称えよというのである。このようなわけで、選択本願に「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」と誓われていると『往生礼讃』にいわれているのは、阿弥陀仏の本願は、念仏するのがたとえ十回ほどであっても、みな浄土に往生することができることを知らせようと善導大師がお思いになって、「十声」といわれているのである。「念」と「声」とは同じ意味であると心得なさいというのである。「念」を離れた「声」はなく、「声」を離れた「念」はないということである。

因果の道理を元に考えたならば、過去世の行いが現在世に影響するのですから、下品下生のものは、過去世から無善で、悪ばかり造ってきたことになり、親鸞会でいう無宿善のものとなる筈です。これでは無宿善のものが、往生することになり、矛盾でしかありません。

Q.ということは、今生で善を好んでいるかどうかという有様をもって、宿善の厚い人が早く救われ、宿善の薄い人が遅く救われるという親鸞会の宿善論はおかしいということですか?

A.全くその通りです。

親鸞会でも教えている実例をだせば、耳四郎は強盗、殺人、放火を平気でしてきた人でしたが、法然上人の御法話に盗みに忍び込んで、そこで法然上人の話をたまたま聞いて救われたとされています。ここでも矛盾がありますので、最近は耳四郎の話はなくなりました。

親鸞会の発想は、聖道門と同じです。天台大師智顗が著したとされる『浄土十疑論』では、臨終に善知識に遇って十回の念仏で往生を遂げる五逆罪を犯した者は、宿世に善を行ってきた宿善業の強い人であったので往生できるのだ、と『観無量寿経』の下品下生を解釈しています。今生では、悪縁によって極悪人になってはいますが、元々は善人であるという苦しい解釈です。

しかし、浄土門の善知識方で、そのように解釈された方はありません。過去世からの極悪人がそのまま救われるのが18願です。

『口伝鈔』では、

機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるところなり。しかればまつたく、往生においては善もたすけとならず、悪もさはりとならずといふこと、これをもつて准知すべし

と教えています。過去現在の善悪は、往生とは関係ないのです。更には、

たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。

とまで仰っています。

一方、親鸞会では

今年、阿弥陀仏に救われた人(獲信者)は、昨年、自己の修した善をふりかえり、宿善と喜ぶことになります。
獲信と、よい関係にある、修善をすすめることは間違いでしょうか?

と教えており、浄土門とは相容れないのです。

聖道門と浄土門の違いは、善人正機と悪人正機の差です。親鸞会の宿善論は、善人正機の聖道門の発想です。

Q.そういえば、高森会長は盗作・浄財の私的流用を何十年もし続けていますし、講師部員も窃盗などの犯罪を行ったものがいると噂で聞いています。宿善が誰よりも厚い筈の高森会長と講師部員が悪を好む姿は、宿善論の破綻を教えてくれているような‥‥

A.親鸞会の宿善論は、完全に破綻しています。

会長や講師部員は、18願の救いは悪人正機なのだから善をしなくてもいいし、善をしていると嘘をついても構わないと思っているのではないですかね。
耳四郎は、信後も泥棒は止められなかったそうですから、会長や講師部員は耳四郎の真似をしているつもりかも知れません。しかし、耳四郎の場合は、泥棒を止めようと努力して止められなかったので、昔よりも益々嘘をつき通そうとする会長とは違います。

会長の目的は、会員に善を勧めて、献金と人集めを促して、私欲を満たすこととしか言えません。
三願転入論、宿善論、方便論、すべてが同じ理由で教えが故意にねじ曲げられています。

ちなみに、18願の救いと、善の有無を関係付ける心を自力の心というのです。
自力の心を捨てよ、ということは、親鸞会の三願転入論、宿善論、方便論を捨てよということです。親鸞会の間違った考え方を捨てない限り、他力に帰すことはありません。

それが『唯信鈔文意』

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず

(現代語訳)

自力の心を捨てるということは、大乗・小乗の聖人、善人・悪人すべての凡夫、そのような色々な人々、さまざまなものたちが、自分自身を是とする思いあがった心を捨て、わが身をたよりとせず、こざかしく自分の悪い心を顧みたりしないことである。

です。経典にも、善知識方の御著書にも書かれてなく、そんな解釈を誰もしていないことを

これこそが誰も明らかにできなかった親鸞聖人の真意だ

などと言っていること自体が、「みづからが身をよしとおもふこころ」の典型です。

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コメント

教えてください!
まだ難しいことはわかりませんが、会の教えの疑問の答えが理解でき、このブログには本当に助けられています。
会では浄土がある、この世とは別の世界があると教えられました。聞という声を聞くまでなんとしても聴聞をしなさい、ただの一回をしなかったが為すくわれないことがあるので、世間ごとはあとまわしにして聴聞しなさい、同じ話でも何度でも新しい気持ちで聞きなさい。と
ですが、会以外の方の聴聞をきいて思うことは、信心決定するということは 聴聞をすることでだんだん法教にちかずき、死とかが気にならなくなる自分になってきたように思うのです。会の聴聞では必死に救われたいとなりふりかまわず通っていた自分が、このブログがきっかけで、会以外の話、ブログ、本を読むうち
とっても楽になってきました、救われるということはこういうことなのではないかなんておもいはじめてますが・・・私はおかしいですか?

投稿: 雪 | 2010年12月 4日 (土) 23時27分

雪 様

親鸞会の間違いに気が付かれたようで、喜ばしいことです。

>死とかが気にならなくなる自分になってきたように思うのです。会の聴聞では必死に救われたいとなりふりかまわず通っていた自分が、このブログがきっかけで、会以外の話、ブログ、本を読むうちとっても楽になってきました


これをもって救われたかどうか判断はできませんが、親鸞会のマインドコントロールが解けてきたことは間違いないと思います。

救われたというのは、

『教行信証』信巻の
「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

『一念多念証文』の
きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。

ということです。阿弥陀仏の本願に疑心のない状態です。これを言い換えたのが捨自帰他、二種深信です。自分の力では出離できないものであり、阿弥陀仏に死後も含めてすべてをおまかせしたのが、救われたということです。

救われる一念に、驚天動地の体験があるという親鸞会の説明は間違っていますので、上記のことで御判断下さい。

投稿: 飛雲 | 2010年12月 5日 (日) 07時11分

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