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2010年12月17日 (金)

会員との問答(闡提について)

Q.『涅槃経』を読むと、十方衆生は闡提だから必堕無間だ、と教えている人は間違っていることになりますね。

A.全くその通りです。闡提とは、一闡提の略語ですが、
本願寺出版の教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)』の巻末註には、

一闡提

梵語イッチャンティカ(icchantika)の音写。一闡底迦・一顛迦ともいい、略して闡提ともいう。断善根・信不具足と漢訳する。

世俗的な快楽を追求するのみで正法を信ぜず、さとりを求める心がなく成仏することのできない衆生のこと。浄土教では、これらのものも回心すれば往生することができると説く。

とあります。もちろん親鸞聖人も、十方衆生が闡提であり必堕無間だ、とは仰っていません。

『高僧和讃』善導讃には

本願毀滅のともがらは
 生盲闡提となづけたり
 大地微塵劫をへて
 ながく三塗にしづむなり

(現代語訳)

本願を討ち滅ぼそうとする人は、
ものごとの見えない人であり教えを聞かない人と名づけられた。
想像もできない時間を経て、
長い間地獄餓鬼畜生の世界に沈むのである。

と仰っています。
毀滅」の左訓には

そしるにとりても、わがする法は勝り、またひとのする法は賤しといふを毀滅といふなり

とあります。つまり闡提とは、親鸞聖人の教えを真面目に信じている人のことではありません。更に、闡提の者の死後については、「ながく三塗にしづむなり」という表現をなされています。もちろん必堕無間という意味ではありません。

また、『唯信鈔文意』には、

「不簡多聞持浄戒」といふは、「多聞」は聖教をひろくおほくきき、信ずるなり。「持」はたもつといふ、たもつといふは、ならひまなぶこころをうしなはず、ちらさぬなり。「浄戒」は大小乗のもろもろの戒行、五戒・八戒・十善戒、小乗の具足衆戒、三千の威儀、六万の斎行、『梵網』の五十八戒、大乗一心金剛法戒、三聚浄戒、大乗の具足戒等、すべて道俗の戒品、これらをたもつを「持」といふ。かやうのさまざまの戒品をたもてるいみじきひとびとも、他力真実の信心をえてのちに真実報土には往生をとぐるなり。みづからの、おのおのの戒善、おのおのの自力の信、自力の善にては実報土には生れずとなり。

「不簡破戒罪根深」といふは、「破戒」は上にあらはすところのよろづの道俗の戒品をうけて、やぶりすてたるもの、これらをきらはずとなり。「罪根深」といふは、十悪・五逆の悪人、謗法・闡提の罪人、おほよそ善根すくなきもの、悪業おほきもの、善心あさきもの、悪心ふかきもの、かやうのあさましきさまざまの罪ふかきひとを「深」といふ、ふかしといふことばなり。すべてよきひと、あしきひと、たふときひと、いやしきひとを、無碍光仏の御ちかひにはきらはずえらばれずこれをみちびきたまふをさきとしむねとするなり。真実信心をうれば実報土に生るとをしへたまへるを、浄土真宗の正意とすとしるべしとなり。

(現代語訳)

「不簡多聞持浄戒」というのは、「多聞」とは、聖教を広く多く聞き、信じることである。「持」は、「たもつ」ということである。「たもつ」というのは、習い学ぶ心を失わず、散漫にならないことである。「浄戒」とは、大乗・小乗のさまざまな戒律のことであり、五戒、八戒、十善戒、小乗の具足戒、三千の威義、六万の斎行、『梵網経』に説かれる五十八戒、大乗一心金剛法戒、三聚浄戒、大乗の具足戒など、出家のものや在家のものが守るすべての戒律をいう。そしてこれらをたもつことを「持」というのである。このようなさまざまな戒律をたもっている立派な人々であっても、本願他力の真実信心を得て、はじめて真実の浄土に往生を遂げることができるのである。自らの力によってそれぞれが戒律を守ることで得る善根、それぞれの自力の信心や自力の善根では、真実の浄土には生れることができないというのである。

「不簡破戒罪根深」というのは、「破戒」とは、これまでに示したような出家のものや在家のものの守るべきさまざまな戒律を受けていながら、それを破り、捨ててしまったもののことであり、このようなものを嫌わないというのである。「罪根深」というのは、十悪、五逆の罪を犯した悪人、仏法を謗るものや一闡提などの罪人のことであり、総じて善根の少ないもの、悪い行いの多いもの、善い心が浅いもの、悪い心が深いもの、このような嘆かわしいさまざまな罪深い人のことを「深」といっているのであり、すなわち「深」は「ふかい」という言葉である。総じて、善い人も、悪い人も、身分の高い人も、低い人も、無碍光仏の誓願においては、嫌うことなく選び捨てることなく、これらの人々をみなお導きになることを第一とし、根本とするのである。他力真実の信心を得れば必ず真実の浄土に生れると教えてくださっていることこそ、浄土真実の教えの本意であると知らなければならないというのである。

と、親鸞聖人は、善人と悪人を分けて説明されています。

よきひと
=「多聞持浄戒」の人

あしきひと
=「破戒罪根深」の人

です。「あしきひと」「破戒罪根深」の人を更に分ければ、

破戒」の人
=「よろづの道俗の戒品をうけて、やぶりすてたるもの

罪根深」の人
=「十悪・五逆の悪人、謗法・闡提の罪人
=「善根すくなきもの、悪業おほきもの、善心あさきもの、悪心ふかきもの

となります。
つまり、親鸞聖人は善人と悪人とをこのように定義されて、悪人も細かく区別されています。十方衆生が、五逆、謗法、闡提という意味で仰っていないことは、明らかです。

『唯信鈔文意』はもちろん『唯信鈔』を解説なされたものですから、「あしきひと」「破戒罪根深」の人についてもともとの『唯信鈔』では、

仏いかばかりのちからましますとしりてか、罪悪の身なればすくはれがたしとおもふべき。五逆の罪人すら、なほ十念のゆゑにふかく刹那のあひだに往生をとぐ。いはんや罪五逆にいたらず、功十念にすぎたらんをや。罪ふかくはいよいよ極楽をねがふべし。「不簡破戒罪根深」(五会法事讃)といへり。善すくなくはますます弥陀を念ずべし。

と書かれてあります。
私たちは五逆罪までは犯していませんが、「罪悪の身」です。しかし、当ブログの読者は、五逆の者でさえないのですから、仏法を積極的に謗る謗法の者でもありませんし、仏法を求める心のない闡提でもありません。

では「多聞持浄戒」の人は、自力で真実の報土に生まれられるのかどうかについて先の『唯信鈔文意』で

みづからの、おのおのの戒善、おのおのの自力の信、自力の善にては実報土には生れずとなり。

と仰っています。
これを『教行信証』信巻の信楽釈では、

無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。
また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。

と仰っているのです。どんな善人でも、「清浄の信楽」「真実の信楽」はありませんので、「真実の業」はできません。従って自力では、「無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり」なのです。

ですから『高僧和讃』善導讃には

願力成就の報土には
 自力の心行いたらねば
 大小聖人みなながら
 如来の弘誓に乗ずなり

(現代語訳)

本願力で完成した浄土には、
自力の心や修行では至れないので、
大乗・小乗の聖人がみなともに、
阿弥陀如来の弘き誓いにおまかせするのである。

と教えられている通りです。
当たり前のことですが、「清浄の信楽」「真実の信楽」がないから闡提だ、という意味にはなりません。

わが身は五逆、謗法、闡提の者と味わわれることは、自由です。それが間違っていても、他人に迷惑をかけません。しかし、十方衆生が五逆、謗法、闡提で必堕無間と、他人を脅迫することは、親鸞聖人の教えでも、仏教でもありませんので、多くの人を迷わせる謗法罪となります。
また、いつまでもくだらないことを言い続けて、「そしるにとりても、わがする法は勝り、またひとのする法は賤し」と「毀滅」している会長と講師部員は、闡提です。

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コメント

M野さん、かわいそう。最後の拠りどころまで否定されちゃってさ。

やめておけばいいのに、過去世の業なのでしょうね。

投稿: M野さんへ | 2010年12月18日 (土) 16時41分

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