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2010年12月 7日 (火)

会員との問答(機の深信について)

Q.善人も、機の深信で地獄一定と知らされるのですか?

A.機の深信ということを誤解しています。機の深信とは自力無功と知らされることです。

機の深信について善導大師は『散善義』

一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。

と仰っています。もう一つ『往生礼讃』にもあります。

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。

自分の力では出離できないということであって、地獄一定と知らされるのではありません。『往生礼讃』の方では、「善根薄少」ですから、善人が善をしていても、その程度の善では出離はできないということであって、地獄一定という意味にはなりません。
機の深信を地獄一定と仰った善知識方はありません。

存覚上人は『六要鈔』の中で二種深信を

次に深心を釈する中に、「二者」等とは、これ経文を牒す。「深」等というは、能信の相を明かす。「亦有」等とは、所信の事を顕かす。これ則ち機法二種の信心なり。「無有」等とは、正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力に在ることを明かす。聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて、偏に仏力に帰す。これに依りて、この信は殊に最要なり。「無疑」等とは、「若不生者不取正覚」、正覚既に成ず、故に無疑という。「即得往生住不退転」一念誤ることなし、故に無慮という。

と解説されていますが、簡単にいえば、

機の深信=自力無功
法の深信=他力全託

です。これが今日の真宗学における二種深信の基本です。

親鸞会では罪悪観と機の深信の区別が全くついていませんので、こんな基本的な誤りを犯すのです。

Q.六道を出離した聖者はどうですか?

A.基本は同じです。聖者であっても、仏ではありません。聖者が地獄に堕ちることはありませんので、もちろん地獄一定などと知らされることはある筈がありません。

聖者ではあっても、自力では真実の報土に往生することはできませんので、

機の深信=自力無功

です。このことを山辺習學・赤沼智善著の『教行信證講義』で、判りやすく解説してあります。

 弥陀を信ずると云ふことが、単に、一心帰命と発表せられた場合には、起らなかった問題が、この機の深信の発表によって起った。夫は此の機の深信が、凡夫のみならず聖者にも通ずるのであるかと云ふ問題である。これを凡聖通局論と称す。
 この問題は、見方によりては、甚だ有益にして、興味のあるものである。即ち言葉を換へて云へば、他力宗教の於ける聖者の意義とでも云ふべきである。所が一方他力教それ自身に於ても、龍樹、天親の二祖を菩薩と称して聖者の部類に入れてあり、そして二祖の著書の上にも、この機の深信が明示されていないために、この問題は、内外の聖者に対する興味あるものとなったのである。
 従って問題の起因は、甚だ簡単である。即ち聖者の意義である。自力の修道によりて得たる證りは、果して真正なる證りであるかと云ふことである。所詮聖者と称せらるる人々は、卓越した能力を以つて、凡人以上の高尚なる精神生活をしてゐても、其中心に迷ひの根の断ち切れてをらぬかどうかと云ふのである。聖道の教へにありては、盛んに衆生も佛も同一であると談じて、道を修めてをるけれども、或は天に向ひて、バベルの塔を築いてゐるやうな愚を演じてをるのではなかろうか。素より漸次に努力すれば、凡人以上の高い立場の上に立つことが出来るけれども、上れば上るほど、哀心は益々絶対に対して取りつくことの出来ぬ悩みがあるのではないか。若しその悩みを感ぜずして、自己の現在の立場を楽しみ、夫を自負し、夫を固執するならば、知らず知らず驕慢の煩悩に捕へられてゐると云はねばならぬ。強く云へば、人間として生れた以上は、純善無漏の聖者と云はるる人は一人もなく、皆、中心には迷ひの根切れのしない所がありはせぬかと云ふのである。龍樹、天親二祖の如きも、善導大師の如く、明瞭に機相を打ち出されてはないけれども、一心に如来に乗託せられたことに依りて見れば、或は罪悪の根低たる自我の真相に触れて、自力無功を自覚して、他力に帰せられたことかも知れぬ。聖者と凡夫の間には、境遇や思想の相違から、等しく自力無功を自覚するにも、其感味は種々に異ることであらうが、其自己の真相に触れる點に至っては、同一であるかも知れぬ。或は聖者の方が、自力の高い山上から叩き落ちる點に於て、一層明瞭に此機相を自覚するかも知れぬ。我聖人の胸中には、御自身の實験上から、此凡聖是一の思想をもつてをられたことは明らかであるように思はれる。

この後も解説は続きますが、要するに自力無功ということが述べられているのです。

『高僧和讃』善導讃には

願力成就の報土には
 自力の心行いたらねば
 大小聖人みなながら
 如来の弘誓に乗ずなり

(現代語訳)

本願力で完成した浄土には、
自力の心や修行では至れないので、
大乗・小乗の聖人がみなともに、
阿弥陀如来の弘き誓いにおまかせするのである。

とあります。聖者の位にいる方々も、自力では報土に往生することができないので、報土に至るには他力18願に帰さなければなりません。

この次の御和讃で、機の深信について仰っています。

煩悩具足と信知して
 本願力に乗ずれば
 すなはち穢身すてはてて
 法性常楽証せしむ

(現代語訳)

煩悩まみれであると信じて、
本願の済いにまかせるならば、
必ず迷いの身を捨てて、
さとりの自由を得させていただける。

煩悩具足と信知して」が機の深信です。「大小聖人」も「煩悩具足と信知して」ですから、ここは我々底下の凡夫と共通しているところです。

それが親鸞会でも有名な『教行信証』信巻

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。
如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。
すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。

です。
衆生には、仏に成れるような因である清浄心、真実心がないことを最初に仰っています。これを「機無」と言います。善が一切できないではなく、仏に成れるような善ができないです。
この「機無」を本として法蔵菩薩が衆生のために本願を建てて下され、清浄心、真実心をもって行を行じられ、名号を成就なされたことを仰ったのが第二・第三文で、「円成」と言います。
第四文は、不可思議功徳の名号を阿弥陀仏が衆生に向って等しく与えて下されることを仰ったもので、「回施」と言われます。
最後の二文は、他力回向の真実心を衆生は賜わるので、自力の一切混じるものではないことを仰っています。

悪人は悪しかできないことで六道から出離できず、聖者は真実の善ができないから真実の報土に往生できないことが知らされるのです。

これだけはっきり教えられているにも関わらず、機の深信を地獄一定と言い続けている哀れな人達が、高森会長と講師部員です。

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コメント

M野さんの愚かさがよくわかりました。
機の深信=地獄一定という根拠のないことを前提として話をするから詭弁なのです。

自力無功といっても、M野さんには理解できないのでしょうね。

投稿: M野さんへ | 2010年12月 7日 (火) 14時52分

機の深信について、私も騙されてました。
M野講師も、酷い人ですね。

投稿: | 2010年12月 7日 (火) 15時03分

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