« 会員との問答(後生の一大事について) | トップページ | 会員との問答(帖外御文の「後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事」について) »

2010年12月27日 (月)

会員との問答(死後と捨自帰他との関係について)

Q.「御たすけ候へとたのみ」を「地獄に堕ちるのを助けてください、お願いします」、と解釈するのは捨自帰他が判っていない、というところをもう少し説明して下さい。

A.『歎異抄』第2章

念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

について、高森会長の解釈が間違っていることを以前に

浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず

で指摘しました。『執持鈔』と比較することで、高森会長の間違いがよく判ります。以下は親鸞聖人のお言葉として覚如上人が書かれたものです。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人(源空)の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。しかるにいま聖人の御化導にあづかりて、弥陀の本願をきき摂取不捨のことわりをむねにをさめ、生死のはなれがたきをはなれ、浄土の生れがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつはりて往生浄土の業因ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、われ地獄におつといふとも、さらにくやしむおもひあるべからず。

そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

(石田瑞磨著『親鸞全集 別巻』による現代語訳)

浄土に生れるという、これほどの一大事について、愚かなものがさかしらな才覚をめぐらしてはならない、ただ一すじに如来におかませしなければならない。総じて愚かなひとに限らず、次の世に仏となってあらわれることが約束された弥勒菩薩をはじめとして、仏の智慧の不思議になまじいの才覚をしてはならない。まして愚かなひとの浅はかな智慧には、当然許されない。ねんごろに如来の智慧のお誓いにおまかせをしなければならない。これを、仏にすべてを託した、真実の信心をえたひとというのである。

だから自分から、浄土に行くことができそうだとも、また地獄に堕ちるかもしれないとも、決めてはならない。なくなられた上人<黒谷の源空、法然上人のことばである>の仰せられた言葉として、「源空の生れるところへ行こうとお考えになってください」ということをたしかにうけたまわったうえは、たとえ地獄であっても、なくなられた上人のおいでになるところへ行かなければならない、と思うのである。このたび、もし正しい教えの師にお会いしないならば、わたしたち愚かなものはかならず地獄に堕ちるはずである。ところがいま、上人のお導きにあずかって、阿弥陀仏の本願を聞き、救いとってお捨てにならない道理を胸に収め、離れにくい生死の迷いを離れて、生れにくい浄土にかならず生れようと、心に深くたのむのは、けっしてわたしの力によるものではない。たとい、阿弥陀仏の智慧にすべてを託して念仏することが地獄に堕ちる行為でしかないのに、それをいつわって、「浄土に生れるための行為なのだ」、と上人がお教えになることにだまされて、わたしが地獄に堕ちるとしても、けっしてくやしく思うはずはない。

その理由は、智慧の勝れた師にお逢いしないで終ってしまうならば、かならず悪道に行くはずの身だから、というのである。ところが、正しい教えの師にだまされて悪道に行くならば、そのときはひとりで行くはずがない。かならず師と一緒に堕ちて行くだろう。だから、ただ地獄に堕ちるほかない、といっても、なくなった上人のおいでになるところへ参ろうと決心したのであるから、生れるさきの善し悪しはわたしのきめるところではない、というのである。これが自力を捨てて他力にすべてをまかせる姿である。

如何でしょうか。『歎異抄』の「総じてもって存知せざるなり」を高森会長の『歎異抄をひらく』では、

「知らん」は「知らん」でも知りすぎた、知らん

と書いていますが、『執持鈔』には関東の同行が出てきませんので、状況が違います。『執持鈔』を読めば、高森会長のような解釈にはなりません。

  • 往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし
  • われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
  • 善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず

死後にどこにいくかを自分ではからって決めてはならないのです。要するに、死後が判るものではないということです。
捨自帰他については、

  • 如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
  • 善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

と仰っています。「自分は地獄に堕ちたくないから、助けてください」では、阿弥陀仏に何もまかせていないのです。自分で地獄行きと決めつけ、浄土往きに変更してほしいと請求しているのです。阿弥陀仏にすべてをまかせるとは、死後にどこに行くかも完全にまかせることです。

救われるとき、あるいは救われたら、地獄一定と歴然と知らされる、極楽一定と歴然と知らされる、などと思っているのを自力というのです。それを捨てよです。

従って、「知らん」は文字どおり「知らん」で、平たく言えば、「阿弥陀仏か法然上人に聞いてくれ」、ということなのです。



Q.しかし、『執持鈔』でも「このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし」とありますが、これはどういうことですか?

A.断章取義をせずに、全体をよく見なければなりません。
全く同じことを

明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身

と仰っています。「地獄」が「悪道」になっています。この他にも、

善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば

とやはり、「地獄」が「悪道」に替っています。更に続いて

さればただ地獄なりといふとも

とありますので、親鸞聖人が仰っている「地獄」とは「悪道」の中で極論を仰っていることと判ります。
それでも地獄秘事の親鸞会では、「地獄」に固執するでしょうから、更に後にある親鸞聖人のお言葉を読んで下さい。

  • おのれが悪業のちから、三悪・四趣の生をひくより
  • かかるあさましきものが、六趣・四生よりほかはすみかもなくうかむべき期なき
  • 十悪・五逆・四重・謗法の悪因にひかれて三途・八難にこそしづむべけれ

とあります。仏教で教えられている通り、我々凡夫は死後に六趣、四趣、三悪道(三途)に行くのだ、と親鸞聖人はそのまま理解されて仰っています。従って、親鸞聖人御自身が地獄に堕ちるとはっきり知らされたというのではありません。教えの理屈から仰っているのであって、救われても地獄が見えて、地獄行きとはっきり実感されるのではないのです。同様に、阿弥陀仏に死後のことをすべてをおまかせしたから、本願の通り浄土往生間違いなしと理解するのであって、浄土の様子が見えたり、浄土往生が実感できたというのでもありません。

地獄一定も往生一定も体験として歴然と知らされるという高森会長の信心は、法然上人、親鸞聖人、覚如上人の信心とは明らかに異なっています。
さて、高森会長及び親鸞会でいうところの信心は、一体誰の信心と同じなのでしょうか?

|

« 会員との問答(後生の一大事について) | トップページ | 会員との問答(帖外御文の「後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事」について) »

コメント

親鸞会は「地獄一定の自己がハッキリしなければ救われたとは言えぬ」という異安心であるとつくづく感じます。

他にも、会員は「救われたら過去自分のしてきた行いが全て(部分的にでも)判る」「阿頼耶識に納まっている業が全て(部分的にでも)判る」とでも思っている節があります。会長の因果の道理の話を聞くとそのように受け取りかねません。
また、救われたら「生命の尊厳さ」「人命は地球よりも重いということ」がハッキリ知らされると思っているかもしれません。しかし、救われているはずの会長が「ワシがいたら血の海になっていただろう」などと話すでしょうかね?
まだまだ高森先生信心の弊害はあるでしょうが、今ぱっと思いついたことを書いてみました。

投稿: 淳心房 | 2010年12月28日 (火) 01時05分

淳心房 様

高森会長の信仰体験がすべての、体験至上主義ですから、同じ体験をしなければ正しい信心とは言えないと堅く堅く信じきっています。問題は、その体験が歴代の善知識方と同じなのかどうかです。
結論を言えば、教えも違えば、体験も違います。従って、真宗とは異なる宗教ですから、一刻も早く、真宗とも親鸞聖人とも無関係と宣言してもらいたいものです。

投稿: 飛雲 | 2010年12月28日 (火) 07時36分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 会員との問答(後生の一大事について) | トップページ | 会員との問答(帖外御文の「後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事」について) »