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2010年12月30日 (木)

会員との問答(帖外御文の「後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事」について)

Q.親鸞会では最近、「後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事なれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思ひとりて」という帖外御文をよく引用して、後生の一大事とは地獄に堕ちる一大事のことだという根拠としていますが、これはどうでしょうか?

A.以前は、『帖外御文』をできるだけ使うな、と高森会長が言っていたこともありましたが、これだけ教義批判が激しくなると、調べにくい『帖外御文』を敢えて引用して誤魔化しに必死で、なりふり構わずといったところでしょうか。

この根拠ももちろん断章取義です。前後も含めて紹介しておきます。

世間は一且の浮生、後生は永生の楽果なれば、今生はひさしくあるべき事にもあらず候。後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事なれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思ひとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし。

後生は永生の楽果なれば」というお言葉は、親鸞会にとっては実に都合が悪いので、そこは出せません。
ここの部分は、『御文章』1帖目第10通

まづ人間はただ夢幻のあひだのことなり、後生こそまことに永生の楽果なりとおもひとりて、人間は五十年百年のうちのたのしみなり、後生こそ一大事なりとおもひて、もろもろの雑行をこのむこころをすて、あるいはまた、もののいまはしくおもふこころをもすて、一心一向に弥陀をたのみたてまつりて、そのほか余の仏・菩薩・諸神等にもこころをかけずして、ただひとすぢに弥陀に帰して、このたびの往生は治定なるべし

あるいは、『御文章』2帖目第7通

人界の生はわづかに一旦の浮生なり、後生は永生の楽果なり。たとひまた栄華にほこり栄耀にあまるといふとも、盛者必衰会者定離のならひなれば、ひさしくたもつべきにあらず。ただ五十年・百年のあひだのことなり。それも老少不定ときくときは、まことにもつてたのみすくなし。これによりて、今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。

と同じことを仰っています。そこに「後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事なれば」と付け加えられただけです。

ここで蓮如上人は「後生」を「永生の楽果」と「ながき世まで地獄にをつる事」と2つの表現をされていますが、これは死後には、最高の「永生の楽果」と最低の「ながき世まで地獄にをつる事」という両極端があることを仰って、短い今生のことにとらわれずに、永い死後のことを考えなさいと誡められたものです。

ですから、「後生の一大事」は後の「弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし」に続きますので、ここでの「後生の一大事」も、往生の一大事、もしくは往生できるかどうかの一大事、という紅楳英顕師の説明通りになります。

蓮如上人がここで地獄という極論を仰ったのは、先の『執持鈔』にある親鸞聖人のお言葉と似ています。

親鸞会では断章取義ばかりを行っていますので、親鸞会が出してくる根拠は前後を読んでから、その解釈が正しいかどうかを判断しなければなりません。

親鸞聖人は、化土往生についての誡めは多くありますが、報土往生も化土往生もできない人の死後については、念仏を誹謗し、邪義を唱えている人に対して地獄と仰っている以外は、ほとんど言及がありません。それは死後についてはすべて阿弥陀仏におまかせするのが他力で、死んだら地獄に行くのだろうと詮索するのが自力であることを示されるためと思われます。



Q.『執持鈔』は親鸞聖人のお言葉の伝聞ですので、親鸞聖人の直のお言葉で、そのようなことを仰っている箇所はありますか?

A.『教行信証』行巻に、曇鸞大師の『浄土論註』を引かれています。

まさにまた例を引きて自力・他力の相を示すべし。人、三塗を畏るるがゆゑに禁戒を受持す。禁戒を受持するがゆゑによく禅定を修す。禅定を修すをもつてのゆゑに神通を修習す。神通をもつてのゆゑによく四天下に遊ぶがごとし。

かくのごときらを名づけて自力とす。また劣夫の驢に跨つて上らざれども、転輪王の行くに従へば、すなはち虚空に乗じて四天下に遊ぶに障碍するところなきがごとし。かくのごときらを名づけて他力とす。愚かなるかな後の学者、他力の乗ずべきを聞きてまさに信心を生ずべし。みづから局分することなかれ。

(現代語訳)

さらに例をあげて、自力と他力のありさまを示そう。人が、地獄や餓鬼や畜生の世界に落ちることを恐れるから戒律をたもち、戒律をたもつから禅定を修めることができ、禅定を修めるから神通力を習得し、神通力を得るからあらゆる世界へ自由自在に行くことができるようになる。このようなことを自力という。また、力のないものがロバに乗っても空へのぼることはできないが、転輪聖王にしたがって行けば、空にのぼってあらゆる世界へ行くのに何のさまたげもない。このようなことを他力というのである。

自力にとらわれるのは何と愚かなことであろう。後の世に道を学ぶものよ、すべてをまかせることができる他力の法を聞いて、信心をおこすべきである。決して自力にこだわってはならない。

曇鸞大師が

愚かなるかな後の学者、他力の乗ずべきを聞きてまさに信心を生ずべし。

と仰っている通り、親鸞聖人も「他力の乗ずべきを聞きてまさに信心を生ずべし」、としか教えられていません。

死後に行く世界を恐れさせ、自力にこだわっているのは、全く親鸞会の教えそのものです。
愚かなる親鸞会の教えを離れて、他力18願のみを聞いて、信心決定し報土往生を遂げよ、これが親鸞聖人の教えです。

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