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2010年12月15日 (水)

会員との問答(一切衆生必堕無間について)

Q.確か親鸞会で、過去世に聖道門の修行をして善根を積んできてそれが宿善になったとも聞いたことがあります。また永く無間地獄に堕ちて沈んでいたところを、阿弥陀仏のお力で今生は滅多にない人間界の生を受けた、とも親鸞会では教えていますが、よくよく考えれば矛盾しています。

A.親鸞会で教えていることは、根拠のないことばかりですから、矛盾しかないのは当然です。
親鸞会の説明では、永い永い無間地獄の合間に人間界に生を受けることが、極めて稀にあることになり、六道輪廻とはいいながら、無間地獄と人間界以外は実質的に存在し得ないことになります。
しかし、畜生界は間違いなくあることが確認できるのですから、「一切衆生必堕無間」の教えは、これだけでも論理的破綻を証明できます。

『教学聖典』にはこんな問答もあります。

(問)
 神に仕えた者の恐ろしい結果を教えられた経文を書け。

(答)
 一度、神を拝んだ者は、五百生の蛇身を受け、現世に福報は更に来たらずして、後生は必ず三悪道に堕す。

これも、自己矛盾をさらけ出しているようなものです。親鸞会で苦しい思いをして獲信できずに無間地獄に堕ちるくらいならば、神を信じて蛇に生れた方が余程よいことになります。これでは神信心を勧めているようなもので、私も会員の時に、そのように思ったことが実際にありました。

六道輪廻を必堕無間とすり替えて、金集め人集めのための脅し文句とした悪意が感じられます。



Q.六道輪廻について教えられた根拠はあるのですか?

A.六道輪廻については、至る所で教えられていますので、文証を挙げるまでもないことですが、具体的に詳しく説明されているのが『安楽集』にありますので、一応紹介しておきます。

無始劫よりこのかたここにありて、輪廻無窮にして身を受くること無数なることを明かすとは、『智度論』(意)にいふがごとし。「人中にありて、あるいは張家に死して王家に生じ、王家に死して李家に生ず。かくのごとく閻浮提の界を尽して、あるいはかさねて生じ、あるいは異家に生ず。あるいは南閻浮提に死して西拘耶尼に生ず。

閻浮提のごとく余の三天下もまたかくのごとし。四天下に死して四天王天に生ずることもまたかくのごとし。あるいは四天王天に死して忉利天に生ず。忉利天に死して余の上四天に生ずることもまたかくのごとし。色界に十八重天あり、無色界に四重天あり。ここに死してかしこに生ず。一々にみなあまねきことまたかくのごとし。あるいは色界に死して阿鼻地獄に生ず。阿鼻地獄のなかに死して余の軽繋地獄に生ず。軽繋地獄のなかに死して畜生のなかに生ず。畜生のなかに死して餓鬼道のなかに生ず。餓鬼道のなかに死してあるいは人天のなかに生ず。かくのごとく六道に輪廻して苦楽の二報を受け、生死窮まりなし。

胎生すでにしかなり。 余の三生もまたかくのごとし」と。

(中略)

問ひていはく、これらの衆生はすでに流転多劫なりといふ。しかるに三界のなかには、いづれの趣にか身を受くること多しとなす。

答へていはく、流転すといふといへども、しかも三悪道のなかにおいて身を受くることひとへに多し。

『経』(十住断結経・意)に説きてのたまふがごとし。「虚空のなかにおいて方円八肘を量り取りて、地より色究竟天に至る。この量内においてあらゆる可見の衆生は、すなはち三千大千世界の人天の身よりも多し」と。ゆゑに知りぬ、悪道の身多し。
なんがゆゑぞかくのごとしとならば、ただ悪法は起しやすく、善心は生じがたきがゆゑなり。いまの時ただ現在の衆生を看るに、もし富貴を得れば、ただ放逸・破戒を事とす。天のなかにはすなはちまた楽に着するもの多し。このゆゑに『経』(五苦章句経・意)にのたまはく、「衆生は等しくこれ流転してつねに三悪道を常の家となす。人天にはしばらく来りてすなはち去る。名づけて客舎となすがゆゑなり」と。

(現代語訳)

無始曠劫よりこのかた、三界にあって輪廻きわまりなく、身を受けることが、無数であることを明かすならば、《智度論》にいわれているとおりである。

人間界の中にあって、あるいは張姓の家に死んで、王姓の家に生まれ、王姓の家に死んで、李姓の家に生まれる。このように閻浮提の世界をことごとくつくして、あるいは同じ家に生まれ、あるいは異なった家に生まれる。あるいは南閻浮提に死んで西拘耶尼に生まれる。閻浮提におけるように、他の西拘耶尼・北鬱単越・東弗婆提の三天下もまたこのとおりである。四天下に死んで四天王天にうまれるようなものもまた同様である。あるいは四天王天に死んで忉利天に生まれ、忉利天に死んでその上の夜摩天・兜率天・変化天・他化自在天に生まれるのも、また同様である。色界に十八重の天があり、無色界に四重の天がある。ここに死んでかしこに生まれ、一々みなあまねくめぐることもかたこのとおりである。あるいは色界に死んで阿鼻地獄に生まれ、阿鼻地獄の中に死んでそのほかの軽繋地獄に生まれ、軽繋地獄の中に死んで畜生の中に生まれ、畜生の中に死んで餓鬼道の中に生まれ、餓鬼道の中に死んであるいは人天の中に生まれる。このように六道をめぐって苦楽の二報を受け、生死がきわまりない。胎生がすでにこのとおりであって、そのほかの卵生・湿生・化生もまた同様である。

(中略)

問うていう。これらの衆生は、すでに多劫のあいだ流転しているという。しかしながら、三界の中では、どの生に身を受けることが多いとするのか。

答えていう。流転しているというが、しかも三悪道の中で身をうけることが殊に多い。経に説かれているとおりである。

虚空の中において、八肘四方を量り取り、地面より色究竟天に至るまで、この中にいる衆生は、三千大千世界の人天の身の数よりも多い。

と。ゆえに悪道の身が多いことが知られる。なぜこのようであるかというと、すべて悪法は起こしやすく、善心は生じがたいからである。いま現にいる衆生を見ると、もし富貴を得ればただ放逸破戒を事としており、天上界にあっては、また楽しみに執着する者が多い。こういうわけで、経に説かれてある。

衆生はひとしく流転して、つねに三悪道を住家としている。人天の境界にしばらく来ても、すぐ去ってしまう。人天の境界を名づけて客舎とするからである。

六道を経巡ることが、判りやすく解説なされています。その上で、三悪道にいるものが多いと教えられています。確かに、地球上だけを見ても、畜生界にいるものの数は、天文学的な数値になるでしょう。

親鸞会の「一切衆生必堕無間」論は、キリスト教の原罪と同じ理屈です。仏教とは相容れない理論です。
親鸞聖人は『教行信証』真仏土巻に『涅槃経』を引かれて、

またのたまはく(涅槃経・迦葉品)、「〈善男子、如来は知諸根力を具足したまへり。このゆゑによく衆生の上・中・下の根を解り分別して、よくこの人を知ろしめして、下を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて上となす。よくこの人を知ろしめして、上を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて下となす。このゆゑにまさに知るべし、衆生の根性に決定あることなし。定なきをもつてのゆゑに、あるいは善根を断ず、断じをはりて還りて生ず。もしもろもろの衆生の根性定ならば、つひに先に断じて、断じをはりてまた生ぜざらん。また一闡提の輩、地獄に堕して寿命一劫なりと説くべからず。善男子、このゆゑに如来、一切の法は定相あることなしと説きたまへり〉と。

(現代語訳)

また次のように説かれている(涅槃経)。

 「釈尊が仰せになる。<善良なものよ、如来は衆生の資質を知る力をそなえておられる。だから如来は、衆生の資質がすぐれているか劣っているかをよく見きわめ、その人の劣った資質があらたまり、よりすぐれたものとなることを知り、あるいは、その人のすぐれた資質が損なわれ、より劣ったものとなることを知っておられるのである。だからよく知るがよい。衆生の資質は定まったものではないのである。定まったものではないから、善い資質を失うようなことがあり、失ってしまっても、ふたたび善い資質を生じることがある。衆生の資質が定まったものであるなら、ひとたび善い資質を失ってしまうと、また生じるということはないであろう。したがって、一闡提のものは地獄に堕ちて寿命が一劫であると説くこともできないのである。善良なものよ、このようなわけで、如来はすべてのものには定まった相がない、と説くのである>と。

と教えられていますが、仏教には、「衆生の根性に決定ある」、つまり私たちが固定不変な無間業をもっているなどという教えなどないのです。
如来、一切の法は定相あることなしと説きたまへり」であるのに、一切衆生には五逆、謗法、闡提の無間業という「定相」があると説く高森会長と講師部員は、如来を超えた存在、絶対的な神とでも思っているのでしょう。

ですから何度も申している通り、親鸞会は浄土真宗でもなければ、仏教でもないのです。

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コメント

> しかし、畜生界は間違いなくあることが確認できるのですから、「一切衆生必堕無間」の教えは、これだけでも論理的破綻を証明できます。

無間地獄に堕ちた衆生が次に畜生界に生まれ、また無間地獄に堕ちて…という説明はおかしいですか?

投稿: | 2010年12月16日 (木) 11時28分

>無間地獄に堕ちた衆生が次に畜生界に生まれ、また無間地獄に堕ちて…という説明はおかしいですか?

一切衆生が必堕無間なら、畜生に生まれることがあるのもおかしいでしょう。人間界に生まれるのは阿弥陀仏のお力、畜生界に生まれるのも阿弥陀仏のお力ということですか。それなら天上界に生まれるのも阿弥陀仏のお力、餓鬼界に生まれるのも阿弥陀仏のお力、地獄界でも無間地獄以外の地獄に生まれるのも阿弥陀仏のお力ですか?

投稿: カルト教義反対 | 2010年12月16日 (木) 12時39分

名無し 様
カルト教義反対 様

親鸞会の『教学聖典』には

(問)
蒔いた重い種ほど、まず結果を引き起こす因果の道理を教えられたお聖教のお言葉を示せ。
(答)
○業道は秤の如し、重き者先ず牽く。(教行信証)

とあります。
一切衆生が、五逆・謗法・闡提の者であるとすれば、人間も、畜生も、無間地獄に堕ちている者も、すべて無間業を抱えているのです。とすれば、無間業がいつまで経ってもなくなることはありませんので、親鸞会の理論で言えば、無間地獄から抜け出すことは不可能になります。
人間に生れたことは、阿弥陀仏のお力によるものとする、特例をたとえ認めたとしても、畜生はどうなるのか、ということが言いたかった訳です。
カルト教義反対さんがいわれているように、畜生に生れたことも、阿弥陀仏のお力であるとするならば、他も阿弥陀仏のお力としなければなりません。つまり、無間業とは言いながらも、阿弥陀仏のお力で六道を経巡ることになり、必堕無間は有名無実ということです。

『安楽集』と『教行信証』に引かれた『涅槃経』の御文を紹介しましたが、よく読んで頂ければ、親鸞会の原罪思想の誤りがお判り頂けると思います。

投稿: 飛雲 | 2010年12月16日 (木) 20時07分

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