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2010年12月14日 (火)

会員との問答(聖道門の修行について)

Q.親鸞聖人は比叡山での20年間の御修行で、地獄一定のものと知らされたのではないですか?

A.親鸞会で作ったアニメでも、そんな表現にはなっていません。
親鸞聖人は、比叡山の教えでは自分は救われないことが知らされたのです。それで、比叡山を下りられて、自分の救われる教えを説かれる知識を探された、と以前は高森会長も説明していました。

『嘆徳文』では

しかれども機教相応、凡慮明らめがたく、すなはち近くは根本中堂の本尊に対し、遠くは枝末諸方の霊崛に詣でて、解脱の径路を祈り、真実の知識を求む。

と書かれてある通りです。

それがいつのまにか、比叡山での御修行で、地獄一定、助かる縁手掛かりのない者と親鸞聖人は知らされたのだ、と高森会長は説明するようになりました。もし現在の高森会長の説明通りであるなら、親鸞聖人は知識探しはされないでしょう。なぜなら、自分が救われる教えが他にあると探されているということは、自分には助かる縁手掛かりがあると思われたからです。

少し考えればデタラメとすぐに判るような説明です。
説明を変えた理由は、命懸けの善(金集め、人集め)を正当化させるためでしょう。



Q.聖道門は誤って伝えられた教えで、元々は阿弥陀仏の19願から釈尊が聖道門を説かれたのだ、と高森会長は説明していますが、どうですか?

A.とんでもない邪義です。浄土門の善知識方で、聖道門自体を否定された方はありません。釈尊がこの地球上で聖道門を説かれる以前から、聖道門はあるのです。

善導大師は『散善義』

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)

わが身は、無始よりこのかた、他のものと同時に、発願し、悪を断ち、菩薩の道を行じたのに、他のものはことごとく身命を惜しまず、修行して位を進め、因が円満し、果が成就して、聖者の位を証した。その数は、大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、われら凡夫は過去より今日に至るまで、いたずらに流転して、煩悩の悪障が次第にますます多くなり、福徳智慧のきわめて少ないことは、重昏くらやみをもって明鏡に望むがようである。今このことを考えると、どうして心驚き悲しまずにおられようか。

と仰っています。無始より聖道門の修行をして、聖者の位を証してゆかれた方々があったのに、我々凡夫は落ちこぼれで、これまで出離の縁のない者であっただけです。

最初に聖道門と浄土門を分けられた龍樹菩薩は『十住毘婆沙論』易行品で、

問ひていはく、この阿惟越致の菩薩の初事は先に説くがごとし。阿惟越致地に至るには、もろもろの難行を行じ、久しくしてすなはち得べし。 あるいは声聞・辟支仏地に堕す。もししからばこれ大衰患なり。
(中略)
このゆゑに、もし諸仏の所説に、易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得る方便あらば、願はくはためにこれを説きたまへと。

答へていはく、なんぢが所説のごときは、これ儜弱怯劣にして大心あることなし。これ丈夫志幹の言にあらず。なにをもつてのゆゑに。もし人願を発して阿耨多羅三藐三菩提を求めんと欲して、いまだ阿惟越致を得ずは、その中間において身命を惜しまず、昼夜精進して頭燃を救ふがごとくすべし。
(中略)
大乗を行ずるものには、仏かくのごとく説きたまへり。「願を発して仏道を求むるは三千大千世界を挙ぐるよりも重し」と。なんぢ、阿惟越致地はこの法はなはだ難し。久しくしてすなはち得べし。もし易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得るありやといふは、これすなはち怯弱下劣の言なり。これ大人志幹の説にあらず。なんぢ、もしかならずこの方便を聞かんと欲せば、いままさにこれを説くべし。

(現代語訳)

問うていう。この不退の菩薩が初地に入るまでの修行のありさまは、さきに説いた通りである。不退の位に至るについては、多くの難行を行じ、久しい間かかってようやくこれを得ることができるので、あるいは声聞・縁覚の地位に退堕することがある。もしそうなれば、これは大きな損失であり、災患である。
(中略)
こういうわけであるから、もし諸仏の説きたもう中に、易行道ですみやかに不退の地位に至ることのできる方法があるならば、どうか、わたしのためにこれを説かれよ。

答えていう。そなたのいうようなことは、根機の劣った弱い者のいうことで大きな志ではなく、これは雄々しく堅固な志を持つ者のことばではない。なぜかというと、もし人が願いを起こし無上仏果を求めようと欲して、まだ不退の位を得ないならば、その間は身命を惜しまず昼夜精進して、頭に付いた火を払い消すようにせねばならぬ。
(中略)
大乗を行ずる者には、仏は次のように説かれてある。「発願して仏果を求めることは三千大千世界をもち挙げるよりも重い」と。そなたが不退の位を得る法は甚だむずかしく、久しい間かかってようやく得ることができる。もしすみやかに不退の位に至ることのできる易行の道があろうかというならば、これはすなわち根機の劣った弱い者の言葉で、すぐれた人、堅固な志を持つ者のいうことではない。
しかしながら、そなたが、もし必ずこの方法を聞きたいと思うならば、今まさにこれを説くであろう。

と仰っています。「丈夫志幹」「大人志幹」に対しての難行道(聖道門)と、「儜弱怯劣」「怯弱下劣」に対しての易行道(18願)が説かれているのであって、龍樹菩薩も難行道を否定されていません。

法然上人のお言葉として『勅伝』には、

聖道門の修行は、正像の時の、教えなるが故に、上根上智の輩にあらざれば、証し難し。(中略)
浄土門の修行は、末法濁乱の時の教えなるが故に、下根下智の輩を器とす。
(中略)
大原にして、聖道浄土の、論談有りしに、法門は牛角の論なりしかども、気根比べには、源空勝ちたりき。
聖道門は深しといえども、時過ぎぬれば、今の機に適わず。浄土門は浅きに似たれども、当根に適い易しと、云いし時、末法万年、余経悉滅、弥陀一経、利物偏増の道理に、折れて、人みな、信伏しきとぞ、仰せられける。

とあります。
聖道門は、正法・像法の時期の教えであり、浄土門は、末法の時期の教えです。大原問答での争点は、聖道門と浄土門の教えの優劣ではなく、我々の根機にあっているかどうかであったことを法然上人が仰ったものです。聖道門にしても、19願にしても、如実に修行できる人が正法・像法の時期にはあったから説かれた教えであって、誰も修行のできない教えではないのです。

親鸞聖人は『教行信証』化土巻

まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。

(現代語訳)

いま、まことに知ることができた。聖道門のさまざまな教えは、釈尊の在世時代と正法のためのものであって、像法や末法や法滅の時代とその人々のためのものではない。すでにそれは時代にあわず、人々の資質に背くものである。浄土の真実の教えは、釈尊財施の時代にも、正法や像法や末法や法滅の時代にも変りなく、煩悩に汚れた人々を同じように慈悲をもって導いてくださるのである。

と、「聖道の諸教は在世・正法のため」と肯定されています。ただ、時機が不相応であるから、末法の我々には浄土門しかないと仰っているのです。

蓮如上人は『御文章』2帖目第3通で、

当流のなかにおいて、諸法・諸宗を誹謗することしかるべからず。いづれも釈迦一代の説教なれば、如説に修行せばその益あるべし。さりながら末代われらごときの在家止住の身は、聖道諸宗の教におよばねば、それをわがたのまず信ぜぬばかりなり。

と仰っています。

聖道門の修行ができれば、成仏できるのです。

法蔵菩薩も、聖道門の御修行によって、仏になられ、願を成就されたのです。聖道門を否定して、仏教は成り立ちません。

19願を強調させたいがために、念仏を軽視し、聖道門までも否定する高森会長は、何教の教祖でしょうか?

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コメント

学友部が学生部といわれていた頃の元会員です。当時の合宿では、3〜4回生対象の講義は、その求道姿勢を正すのが目的でした。その講義の中で、龍樹菩薩が軟心の菩薩を叱りとばす話が必ずありました。私も聞かされたし、逆に私自身が後輩にこの事を話したこともありました。少なくとも当時の学生部会員の求めていた救いは、他力の信心ではなく、自力で求める大変お粗末な〈さとり〉だったのでした。
なお、今も会員として残っている当時の仲間は、未だに「私は軟心の菩薩なので救われません」と言っています。

投稿: 雑草 | 2010年12月20日 (月) 07時40分

私も『十住毘婆沙論』を自分で読むまでは、意味がよく判っていませんでしたが、原文を読んでみてはじめて聖道門のことを言われていたと知りました。
親鸞会の発想は、基本的に聖道門です。そこに、カルト的要素を加えたものが、親鸞会教義になっていると思います。
浄土門の基本的なことを、親鸞会の会員にも知ってもらいたいものです。

投稿: 飛雲 | 2010年12月20日 (月) 20時53分

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