« 会員との問答(聖道門と浄土門の違い) | トップページ | 会員との問答(機の深信について) »

2010年12月 6日 (月)

会員との問答(十方衆生について)

Q.19願に「十方衆生」とあるから、19願は我々に関係がない筈がない、と親鸞会では教えていますが?

A.完全なトリックですね。

聖道門の人は、18願に「十方衆生」とあっても、自分たちが18願に関係あるとは思っていません。18願の「十方衆生」とは、下劣根機、つまり悪人のことだと思っています。19願の「十方衆生」とは、上根機、つまり善人のことだと思っています。

一方で、浄土門の善知識方は、19願に「十方衆生」とあるから、全ての人に関係があることだとは言われていません。
先に述べたように、法然上人は19願についてほとんど言及さえされていませんでしたので、聖道門から非難されたくらいです。蓮如上人の『御文章』を読んでも、19願について書かれたところはありません。

高森会長のたとえを使えば、ある国の大統領選挙に立候補した人が、「私が大統領に当選したら、所得税を撤廃します」と公約したとします。国民全員と約束したのですが、国民全員に直接関係があるのではありません。所得税を払っていない人には、関係のないことです。
これが、「国民全員に、定額給付金を出します」となれば、関係のない人はありません。国民全員との約束ではあっても、約束の内容によって、国民全員に関係があるかないかが分れるのです。

高森会長が、人集め金集めのために19願を利用する口実として、「十方衆生」を持ち出しただけのことです。

Q.三願転入は親鸞聖人の教えの根基といわれていますが?

A.高森会長が勝手に言っているだけです。高森会長は、親鸞会の35周年大会の際に、”三願転入の教え”を突如言い始めて、その直後から、「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」と言い出しました。つまり、そんな大事な「親鸞聖人の教えの根基」を今まで話をしてこなかったのです。いわば、秘密の法門です。

元々は大沼法竜師が、『本派本願寺の危機 どちらが異安心か』という著書の中で、
大沼は三願転入を根基として布教して居るのだ
と書かれたのが最初です。大沼師は、本願寺の無帰命安心を批判するために、信前信後のあることを親鸞聖人の三願転入の文で説明しただけで、高森会長の言っている意味で、三願転入を使っていた訳ではありません。

Q.では、親鸞聖人には19願についての言及がありますが、どのようなものですか?

A.親鸞聖人も、19願の「十方衆生」については、聖道門の人と同じで、上根機と解釈されています。
それは、『大無量寿経』の異訳経からもいえますが、まとめると以下になります。

  大無量寿経19願の十方衆生
平等覚経 諸佛國人民有作菩薩道者(諸々の仏国の菩薩道をなす者)
大阿弥陀経 八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道(諸々の仏国の菩薩道をなす善男人善女人)
尊号真像銘文 「唯除五逆誹謗正法」がないから、五逆・謗法の者は除かれている
化土巻・要門釈 半満・権実の法門(聖道門)を断念した人
西方指南抄 諸行の人
浄土和讃 定散諸機

要するに、19願の「十方衆生」とは善人のことであるというのが、聖道門、浄土門共に共通した見解なのです。
従って、高森会長の解釈は、浄土門でないことはもちろんですが、聖道門とも違っているのです。

18願は悪人正機
19願は善人正機

ということです。このことを法然上人は判りやすく教えておられます。
『勅伝』に

上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすゝめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすゝめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」

とあります。善人に勧められた教えと、悪人に勧められた教えを区別されていることを知った上で、我々最下の凡夫は、悪人に勧められた教えを聞いていくことで、信心決定し、往生ができるのです。
高森会長の教えは、まさしく「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり」なのです。
まともに真宗の先生について仏教の勉強をしたことがないから、阿弥陀仏の本願を独自のデタラメ解釈に陥り、浄土門でも聖道門でもなくなった新興宗教と化しているのです。

Q.そうなると、善人には18願は関係ないということですか?

A.この疑問が、念仏弾圧の原因になったことは、先に説明した通りです。法然上人は、18願1つを説かれたのですが、聖道門の人たちの考えでは、18願は悪人に対してのことで、聖道門の修行をしている善人には19願や聖道門を勧めるのが筋ではないのか、という非難です。尤もな理屈です。
懐感禅師は『群疑論』に

『観経』の下品上生、下品中生、下品下生の三処の経文には、みなただ弥陀仏を念じて浄土に往生すと陳ぶ。

と書かれ、それを源信僧都が『往生要集』

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

と言い換えられています。それを親鸞聖人はそのまま承け継がれて『高僧和讃』

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と仰っているのですから、極重の悪人には18願しかないことは間違いないことですが、善人には関係ないように思うのもある意味しかたのないことです。

確かに、善人には聖道門や19願といった法門があるのですが、最終的には全ての人が18願に帰依しなければ真実の報土に往生できないと、聖道門からの非難に対して反論されたのが親鸞聖人の『教行信証』なのです。

化土巻・要門釈には、19願では化土往生しかできないことを仰った後、結論として

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

(現代語訳)

また 観無量寿経に説かれる定善・散善を修めるものについて、 きわめて罪が重い悪人はただ念仏すべきであるとお勧めになっているのである。 五濁の世のものは、 出家のものも在家のものも、 よく自分の能力を考えよということである。 よく知るがよい。

と仰ったお言葉に、親鸞聖人の19願に対するお考えが集約されているでしょう。
『正像末和讃』にある

像法のときの智人も
 自力の諸教をさしおきて
 時機相応の法なれば
 念仏門にぞいりたまふ

と共通するものです。龍樹菩薩や天親菩薩のような方でさえも、18願に帰依されたのだから、自分の能力をよく知って、18願他力念仏を信じて下さい、というお言葉です。

このようなことを踏まえられて三願転入の文を読まれれば、三願転入が我々に関係があるのかないのかが、自ずとお判り頂けるでしょう。

もちろん聖道門自体に対しても

まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。

(現代語訳)

いま、まことに知ることができた。聖道門のさまざまな教えは、釈尊の在世時代と正法のためのものであって、像法や末法や法滅の時代とその人々のためのものではない。すでにそれは時代にあわず、人々の資質に背くものである。浄土の真実の教えは、釈尊在世の時代にも、正法や像法や末法や法滅の時代にも変りなく、煩悩に汚れた人々を同じように慈悲をもって導いてくださるのである。

と仰っています。

|

« 会員との問答(聖道門と浄土門の違い) | トップページ | 会員との問答(機の深信について) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 会員との問答(聖道門と浄土門の違い) | トップページ | 会員との問答(機の深信について) »