会員との問答(19願、諸善について)
Q.19願をなぜ建てられたのか?
A.聖道門の人を浄土門に誘引するためです。
『教行信証』化土巻・要門釈の最初に
しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、
いまし九十五種の邪道を出でて、半満・ 権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、 実なるものははなはだもつて希なり。 偽なるものははなはだもつて多く、 虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。
と仰っています。
前半は
外道の人が半字教(小乗仏教)、満字教(大乗仏教)、権教(
です。外道から聖道門に入っても、
それを承けられて釈尊は、福徳蔵(観経の定散二善)を説かれた、
その元は、法然上人の『西方指南抄』(親鸞聖人御真筆)に
第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也。
とあることを受け継がれたものと言えるでしょう。
『浄土和讃』で19願の心を解説なされた
臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく
『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり
に仰っておられる通りです。「定散諸機」とは、親鸞会で教えているような「定散二善」
『正信偈』の「矜哀定散与逆悪」『正信偈大意』の「
Q.19願は十方衆生にとって必要か、必要でないか?
A.上記の通り、19願は善人にとっては必要な人もありますが、
『教行信証』行巻には『往生要集』をそのまま引用されて
『往生要集』にいはく、「『双巻経』の三輩の業、
浅深ありといへども、しかるに通じてみな〈一向専念無量寿仏〉 といへり。三つに四十八願のなかに、 念仏門において別して一つの願を発してのたまはく、〈乃至十念 若不生者 不取正覚〉と。四つに『観経』には〈極重の悪人他の方便なし。 ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得〉」と。
と仰り、また『高僧和讃』源信讃にも
極悪深重の衆生は
他の方便さらになし
ひとへに弥陀を称してぞ
浄土にうまるとのべたまふ
と親鸞聖人は仰っています。
もちろん『正信偈』には、
極重悪人唯称仏
と書いておられます。
以上を承けられて蓮如上人は『正信偈大意』に
「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、
ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり 。
と仰っています。「極重の悪人」には、
逆の言い方をすれば、善人には他の方便があるのです。他の方便とは、聖道門、19願、20願になります。
Q.釈尊は韋提希に善を勧められたのではないのか?
A.勧められていません。
『観無量寿経』に
ときに韋提希、仏にまうしてまうさく、「世尊、わがごときは、
いま仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る。 もし仏滅後のもろもろの衆生等、 濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、 まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」と。
とあり、『玄義分』にも
問ひていはく、定散二善はたれの致請による。
答へていはく、定善の一門は韋提の致請にして、散善の一門はこれ仏の自説なり。
とあります。韋提希夫人が、
参考までに『観無量寿経』の下品下生を見ると
仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、
あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、 もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、 悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、 多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。 かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、 善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、 教へて念仏せしむるに遇はん。この人、 苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈 なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕 を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、 声をして絶えざらしめて、 十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、 念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。
とあります。下品上生、下品中生も含めて、
先ほどの問答でも書きましたように、「他の方便なし」なのです。
Q.釈尊が善を教えられているのは、
A.基本は善のできる善人
このことを法然上人は『選択本願念仏集』に
わたくしに問ひていはく、上輩の文のなかに、
念仏のほかにまた捨家棄欲等の余行あり。中輩の文のなかに、 また起立塔像等の余行あり。下輩の文のなかに、 また菩提心等の余行あり。なんがゆゑぞただ念仏往生といふや。
答へていはく、善導和尚の『観念法門』にいはく、「またこの『経』(大経)の下巻の初めにのたまはく、〈仏(釈尊)、 一切衆生の根性の不同を説きたまふに、上・中・下あり。
その根性に随ひて、仏、みなもつぱら無量寿仏の名を念ぜよと勧めたまふ。 その人命終らんと欲する時、仏(阿弥陀仏)、 聖衆とみづから来りて迎接したまひて、 ことごとく往生を得しめたまふ〉」と。この釈の意によるに、 三輩ともに念仏往生といふ。
問ひていはく、この釈いまだ前の難を遮せず。なんぞ余行を棄ててただ念仏といふや。
答へていはく、これに三の意あり。一には諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。
(中略)
一に、諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説くといふは 、善導の『観経疏』(散善義)のなかに、「 上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、 仏の本願に望むるに、意、 衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」 といふ釈の意に准じて、しばらくこれを解せば、 上輩のなかに菩提心等の余行を説くといへども、上の本願( 第十八願)に望むるに、 意ただ衆生をしてもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」 といふ。 (現代語訳)
わたくしに問うていう。上輩の門の中に、念仏のほかにまた家を捨て欲を離れるなどの余行があり、 中輩の文の中にもまた塔をたて仏像をつくるなどの余行があり、 下輩の文の中にもまた菩提心などの余行がある。 それにどういうわけでただ念仏往生というのか。
答えていう。善導和尚の《観念法門》に、
また、この経 (大経) の下巻の初めにいわれている。「釈迦仏が説かれる。『一切衆生の機根はまちまちで、上・中・下の三種がある。 その機根に随って、 わたしはみな無量寿仏のみ名をもっぱら称えることを勧める。 その人が命終わろうとするときに、 阿弥陀仏は聖衆と共にみずから来て迎えとり、 ことごとく往生させてくださる。』」
といわれてある。この解釈の意によって三輩共に念仏往生というのである。
問うていう。この解釈ではまだ前の疑難をしりぞけていない。どうして余行を棄ててただ念仏というのか。
答えていう。これに三つの意がある。一つには諸行を廃して念仏に帰せしめるために諸行を説く。
(中略)
一つに、諸行を廃して念仏に帰せしめるために諸行を説くというのは、 善導の《観経疏》の中に、
《観経》の初めから、定善・散善の両門の利益を説いてきたけれども、 阿弥陀仏の本願に望めてみると、世尊の思し召しは、 人々をして一向に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあるので ある。
といわれた釈の意に準じて、しばらくこれを解釈すると、上輩の中に菩提心などの余行を説かれているけれども、 上の本願に望めてみると、 世尊の思し召しはただ衆生をして専ら阿弥陀仏の名号を称えさせる にある。ところが、本願の中に更に余行はない。 三輩共に上の本願に依るから「一向に専ら無量寿仏を念ずる」 と説かれているのである。
と仰り、また以下のことも仰っています。
また定散を説くことは、
念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。 もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
例するに『法華』の三説の上に秀でたるがごとし。もし三説なくは、なんぞ『法華』第一を顕さん。 ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、 念仏三昧は立せんがために説く。
(現代語訳)
また定・散の諸行を説くことは、念仏がその他の善に超え勝れていることを顕わすためである。 もし定散の諸行がなかったならば、 どうして念仏が特に秀でた行であることを顕わされようか。 例えば《法華経》が、それ以前の説、同時の説、 それ以後の説の三説の上に秀でているようなものである。 もし三説がなかったならば、どうして《法華経》 が第一に秀でていることを顕わされようか。ゆえに今、 定散の諸行はこれを廃するために説き、 念仏三昧はそれを立てるために説かれるのである。
このように法然上人は、念仏が諸善と比較して超え勝れていることを明らかにするために釈尊が諸善を説かれていて、結果として諸善を廃して、念仏を立てるために諸善を説かれているのだと仰っています。
また『教行信証』行巻に念仏諸善比校対論として
勧無勧対
(現代語訳)
念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、
諸善には諸仏の勧めはない
と親鸞聖人は仰っています。
それと先ほどの『往生要集』の
極重の悪人は、他の方便なし
が浄土仏教の大原則です。「極重の悪人」は善のできないものと見抜いて阿弥陀仏は18願を建てられたのに、「極重の悪人」に善を勧められる道理がありません。
今溺れて苦しんでいる人を救うのが、
『玄義分』に
しかるに諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、
心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。 ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。
また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、 なんぞ済ふを用ゐるをなさん。
とある通りです。溺れて苦しんでいる人に、あれをしろ、これをしろと指示することは意味がありません。そんな無慈悲なことをいうのは、仏様ではありません。善ができずに苦しんでいる人に、善をせよと勧めることは、溺れて苦しんでいる人に、泳げといっているようなものです。溺れ苦しんでいる人を助けるには、水からそのまま引き上げることです。善のできない人を助けるには、善と無関係な救いでなければなりません。
一方で、善のできる善人には、聖道門、19願、定散二善を説かれていますが、その善人も、18願によらなければ真実の報土に往生することができませんので、そのことを龍樹菩薩、天親菩薩を例にだされて『正像末和讃』に
像法のときの智人も
自力の諸教をさしおきて
時機相応の法なれば
念仏門にぞいりたまふ
と仰っているのです。
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コメント
十九願に十方衆生とあることについてはどうお考えですか?
投稿: | 2010年12月 6日 (月) 02時02分