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2010年12月

2010年12月30日 (木)

会員との問答(帖外御文の「後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事」について)

Q.親鸞会では最近、「後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事なれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思ひとりて」という帖外御文をよく引用して、後生の一大事とは地獄に堕ちる一大事のことだという根拠としていますが、これはどうでしょうか?

A.以前は、『帖外御文』をできるだけ使うな、と高森会長が言っていたこともありましたが、これだけ教義批判が激しくなると、調べにくい『帖外御文』を敢えて引用して誤魔化しに必死で、なりふり構わずといったところでしょうか。

この根拠ももちろん断章取義です。前後も含めて紹介しておきます。

世間は一且の浮生、後生は永生の楽果なれば、今生はひさしくあるべき事にもあらず候。後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事なれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思ひとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし。

後生は永生の楽果なれば」というお言葉は、親鸞会にとっては実に都合が悪いので、そこは出せません。
ここの部分は、『御文章』1帖目第10通

まづ人間はただ夢幻のあひだのことなり、後生こそまことに永生の楽果なりとおもひとりて、人間は五十年百年のうちのたのしみなり、後生こそ一大事なりとおもひて、もろもろの雑行をこのむこころをすて、あるいはまた、もののいまはしくおもふこころをもすて、一心一向に弥陀をたのみたてまつりて、そのほか余の仏・菩薩・諸神等にもこころをかけずして、ただひとすぢに弥陀に帰して、このたびの往生は治定なるべし

あるいは、『御文章』2帖目第7通

人界の生はわづかに一旦の浮生なり、後生は永生の楽果なり。たとひまた栄華にほこり栄耀にあまるといふとも、盛者必衰会者定離のならひなれば、ひさしくたもつべきにあらず。ただ五十年・百年のあひだのことなり。それも老少不定ときくときは、まことにもつてたのみすくなし。これによりて、今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。

と同じことを仰っています。そこに「後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事なれば」と付け加えられただけです。

ここで蓮如上人は「後生」を「永生の楽果」と「ながき世まで地獄にをつる事」と2つの表現をされていますが、これは死後には、最高の「永生の楽果」と最低の「ながき世まで地獄にをつる事」という両極端があることを仰って、短い今生のことにとらわれずに、永い死後のことを考えなさいと誡められたものです。

ですから、「後生の一大事」は後の「弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし」に続きますので、ここでの「後生の一大事」も、往生の一大事、もしくは往生できるかどうかの一大事、という紅楳英顕師の説明通りになります。

蓮如上人がここで地獄という極論を仰ったのは、先の『執持鈔』にある親鸞聖人のお言葉と似ています。

親鸞会では断章取義ばかりを行っていますので、親鸞会が出してくる根拠は前後を読んでから、その解釈が正しいかどうかを判断しなければなりません。

親鸞聖人は、化土往生についての誡めは多くありますが、報土往生も化土往生もできない人の死後については、念仏を誹謗し、邪義を唱えている人に対して地獄と仰っている以外は、ほとんど言及がありません。それは死後についてはすべて阿弥陀仏におまかせするのが他力で、死んだら地獄に行くのだろうと詮索するのが自力であることを示されるためと思われます。



Q.『執持鈔』は親鸞聖人のお言葉の伝聞ですので、親鸞聖人の直のお言葉で、そのようなことを仰っている箇所はありますか?

A.『教行信証』行巻に、曇鸞大師の『浄土論註』を引かれています。

まさにまた例を引きて自力・他力の相を示すべし。人、三塗を畏るるがゆゑに禁戒を受持す。禁戒を受持するがゆゑによく禅定を修す。禅定を修すをもつてのゆゑに神通を修習す。神通をもつてのゆゑによく四天下に遊ぶがごとし。

かくのごときらを名づけて自力とす。また劣夫の驢に跨つて上らざれども、転輪王の行くに従へば、すなはち虚空に乗じて四天下に遊ぶに障碍するところなきがごとし。かくのごときらを名づけて他力とす。愚かなるかな後の学者、他力の乗ずべきを聞きてまさに信心を生ずべし。みづから局分することなかれ。

(現代語訳)

さらに例をあげて、自力と他力のありさまを示そう。人が、地獄や餓鬼や畜生の世界に落ちることを恐れるから戒律をたもち、戒律をたもつから禅定を修めることができ、禅定を修めるから神通力を習得し、神通力を得るからあらゆる世界へ自由自在に行くことができるようになる。このようなことを自力という。また、力のないものがロバに乗っても空へのぼることはできないが、転輪聖王にしたがって行けば、空にのぼってあらゆる世界へ行くのに何のさまたげもない。このようなことを他力というのである。

自力にとらわれるのは何と愚かなことであろう。後の世に道を学ぶものよ、すべてをまかせることができる他力の法を聞いて、信心をおこすべきである。決して自力にこだわってはならない。

曇鸞大師が

愚かなるかな後の学者、他力の乗ずべきを聞きてまさに信心を生ずべし。

と仰っている通り、親鸞聖人も「他力の乗ずべきを聞きてまさに信心を生ずべし」、としか教えられていません。

死後に行く世界を恐れさせ、自力にこだわっているのは、全く親鸞会の教えそのものです。
愚かなる親鸞会の教えを離れて、他力18願のみを聞いて、信心決定し報土往生を遂げよ、これが親鸞聖人の教えです。

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2010年12月27日 (月)

会員との問答(死後と捨自帰他との関係について)

Q.「御たすけ候へとたのみ」を「地獄に堕ちるのを助けてください、お願いします」、と解釈するのは捨自帰他が判っていない、というところをもう少し説明して下さい。

A.『歎異抄』第2章

念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

について、高森会長の解釈が間違っていることを以前に

浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず

で指摘しました。『執持鈔』と比較することで、高森会長の間違いがよく判ります。以下は親鸞聖人のお言葉として覚如上人が書かれたものです。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人(源空)の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。しかるにいま聖人の御化導にあづかりて、弥陀の本願をきき摂取不捨のことわりをむねにをさめ、生死のはなれがたきをはなれ、浄土の生れがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつはりて往生浄土の業因ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、われ地獄におつといふとも、さらにくやしむおもひあるべからず。

そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

(石田瑞磨著『親鸞全集 別巻』による現代語訳)

浄土に生れるという、これほどの一大事について、愚かなものがさかしらな才覚をめぐらしてはならない、ただ一すじに如来におかませしなければならない。総じて愚かなひとに限らず、次の世に仏となってあらわれることが約束された弥勒菩薩をはじめとして、仏の智慧の不思議になまじいの才覚をしてはならない。まして愚かなひとの浅はかな智慧には、当然許されない。ねんごろに如来の智慧のお誓いにおまかせをしなければならない。これを、仏にすべてを託した、真実の信心をえたひとというのである。

だから自分から、浄土に行くことができそうだとも、また地獄に堕ちるかもしれないとも、決めてはならない。なくなられた上人<黒谷の源空、法然上人のことばである>の仰せられた言葉として、「源空の生れるところへ行こうとお考えになってください」ということをたしかにうけたまわったうえは、たとえ地獄であっても、なくなられた上人のおいでになるところへ行かなければならない、と思うのである。このたび、もし正しい教えの師にお会いしないならば、わたしたち愚かなものはかならず地獄に堕ちるはずである。ところがいま、上人のお導きにあずかって、阿弥陀仏の本願を聞き、救いとってお捨てにならない道理を胸に収め、離れにくい生死の迷いを離れて、生れにくい浄土にかならず生れようと、心に深くたのむのは、けっしてわたしの力によるものではない。たとい、阿弥陀仏の智慧にすべてを託して念仏することが地獄に堕ちる行為でしかないのに、それをいつわって、「浄土に生れるための行為なのだ」、と上人がお教えになることにだまされて、わたしが地獄に堕ちるとしても、けっしてくやしく思うはずはない。

その理由は、智慧の勝れた師にお逢いしないで終ってしまうならば、かならず悪道に行くはずの身だから、というのである。ところが、正しい教えの師にだまされて悪道に行くならば、そのときはひとりで行くはずがない。かならず師と一緒に堕ちて行くだろう。だから、ただ地獄に堕ちるほかない、といっても、なくなった上人のおいでになるところへ参ろうと決心したのであるから、生れるさきの善し悪しはわたしのきめるところではない、というのである。これが自力を捨てて他力にすべてをまかせる姿である。

如何でしょうか。『歎異抄』の「総じてもって存知せざるなり」を高森会長の『歎異抄をひらく』では、

「知らん」は「知らん」でも知りすぎた、知らん

と書いていますが、『執持鈔』には関東の同行が出てきませんので、状況が違います。『執持鈔』を読めば、高森会長のような解釈にはなりません。

  • 往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし
  • われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
  • 善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず

死後にどこにいくかを自分ではからって決めてはならないのです。要するに、死後が判るものではないということです。
捨自帰他については、

  • 如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
  • 善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

と仰っています。「自分は地獄に堕ちたくないから、助けてください」では、阿弥陀仏に何もまかせていないのです。自分で地獄行きと決めつけ、浄土往きに変更してほしいと請求しているのです。阿弥陀仏にすべてをまかせるとは、死後にどこに行くかも完全にまかせることです。

救われるとき、あるいは救われたら、地獄一定と歴然と知らされる、極楽一定と歴然と知らされる、などと思っているのを自力というのです。それを捨てよです。

従って、「知らん」は文字どおり「知らん」で、平たく言えば、「阿弥陀仏か法然上人に聞いてくれ」、ということなのです。



Q.しかし、『執持鈔』でも「このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし」とありますが、これはどういうことですか?

A.断章取義をせずに、全体をよく見なければなりません。
全く同じことを

明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身

と仰っています。「地獄」が「悪道」になっています。この他にも、

善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば

とやはり、「地獄」が「悪道」に替っています。更に続いて

さればただ地獄なりといふとも

とありますので、親鸞聖人が仰っている「地獄」とは「悪道」の中で極論を仰っていることと判ります。
それでも地獄秘事の親鸞会では、「地獄」に固執するでしょうから、更に後にある親鸞聖人のお言葉を読んで下さい。

  • おのれが悪業のちから、三悪・四趣の生をひくより
  • かかるあさましきものが、六趣・四生よりほかはすみかもなくうかむべき期なき
  • 十悪・五逆・四重・謗法の悪因にひかれて三途・八難にこそしづむべけれ

とあります。仏教で教えられている通り、我々凡夫は死後に六趣、四趣、三悪道(三途)に行くのだ、と親鸞聖人はそのまま理解されて仰っています。従って、親鸞聖人御自身が地獄に堕ちるとはっきり知らされたというのではありません。教えの理屈から仰っているのであって、救われても地獄が見えて、地獄行きとはっきり実感されるのではないのです。同様に、阿弥陀仏に死後のことをすべてをおまかせしたから、本願の通り浄土往生間違いなしと理解するのであって、浄土の様子が見えたり、浄土往生が実感できたというのでもありません。

地獄一定も往生一定も体験として歴然と知らされるという高森会長の信心は、法然上人、親鸞聖人、覚如上人の信心とは明らかに異なっています。
さて、高森会長及び親鸞会でいうところの信心は、一体誰の信心と同じなのでしょうか?

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2010年12月26日 (日)

会員との問答(後生の一大事について)

Q.領解文の「一大事の後生」は地獄に堕ちる一大事ではありませんか?

A.前回紹介した紅楳英顕師の論文をよく読まれれば、以下の領解文の意味も判られると思います。

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。
たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ。
この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人(親鸞)御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。
このうへは定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもりまうすべく候ふ。

後生の一大事とは、”地獄に堕ちる一大事”、という先入観があると、全ての御文がそういった意味だとしか思えなくなりますから、難しいかも知れませんが、一度その先入観をなくして読んでみて下さい。

ちなみに領解文の「御たすけ候へとたのみ」の意味は、本願寺出版社の教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)』巻末註には、

衆生が阿弥陀如来に向かっておたすけを請求する意ではなく、許諾(先方の言い分を許し承諾する)の義で、「必ずたすける」という本願招喚の勅命を領納して、仰せの通りに信順している信相をあらわす。

とあります。すべて阿弥陀仏から回向してくださる訳ですので、こちらからお願いするものはありません。
従って、「御たすけ候へとたのみ」を「地獄に堕ちるのを助けてください、お願いします」、と解釈するのは自力を捨てて他力に帰すという捨自帰他が判っていないからです。お願いするのは自力です。どれだけお願いしても、自力は自力です。

親鸞会でも捨自帰他という言葉は使いますが、実際は自力と他力が逆になっています。何でも自分で準備して、「これだけ揃えましたので、助けて下さい」と自力回向しているのが親鸞会の教義です。

阿弥陀仏の救いとは、どんなものか全く判っていない証拠です。どう見ても異安心集団ですね。

Q.親鸞聖人は「地獄は一定すみかぞかし」と仰っていますが、後生は無間地獄に堕ちることは必定ではないのですか?

A.これは『歎異抄』にある親鸞聖人が仰ったとされるお言葉ですが、親鸞聖人が御自身の罪悪観を述べられたものです。罪悪観については、以前にも詳しく述べました。

仏教でも真宗でも一般には、死後は六道輪廻と教えられ、我々のような悪凡夫は、三悪道に堕ちると書かれてあるものが多いです。
その中で、罪悪観を突き詰めていけば、三悪道とは言いながらも地獄しか行き場のないものという親鸞聖人のお言葉になる訳です。罪悪感とは、自己の内省です。自己を厳しく顧みられた時に、地獄に堕ちても文句の言えないものと親鸞聖人は、懺悔されたのですが、だからといって、死後に地獄に堕ちることが決まっているということではありません。あくまで、罪悪観であり、懺悔です。仏でもないのに、自分には未来を知る能力があると考えることがそもそもおかしいです。
しかもここで言われている罪業は、十悪のことであり、五逆謗法の無間業ではないことをよく知って頂かねばなりません。ですから「無間地獄に堕ちる」という言い方ではありません。

親鸞聖人の御著書の中で、我々が無間地獄も含めて、地獄に堕ちると教えられた箇所は全くありません。これまでにも、何度も何度も述べてきましたように、親鸞聖人は「一切衆生必堕無間」を完全に否定しておられます。
もし親鸞聖人が「一切衆生必堕無間」という意味のことを仰ったお言葉があれば、是非とも教えて下さい。

蓮如上人も、地獄に堕ちると仰った箇所は、異安心、邪義の者に対してという条件付きの場合が多いです。そうでない場合は、六道、三悪道という表現になっています。

これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もってのほか相違す。そのゆえは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といい、これを信心のひとといえり。これおおきなるあやまりなり。また弟子は、坊主にものをだにもおおくまいらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきようにおもえり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあいだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに、極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことはうたがいなし。(一帖目第十一通

それ越前の国にひろまるところの秘事法門といえることは、さらに仏法にてはなし。あさましき外道の法なりこれを信ずるものは、ながく無間地獄にしずむべき業にて、いたずらごとなり。(二帖目第十四通

されば、死出の山路のすえ、三途の大河をば、ただひとりこそゆきなんずれ。(一帖目第十一通

はやめにみえてあだなる人間界の老少不定のさかいとしりながら、ただいま三途八難にしずまん事をば、つゆちりほども心にかけずして、(二帖目第一通

されば、五道六道といえる悪趣に、すでにおもむくべきみちを、弥陀如来の願力の不思議として、これをふさぎたまうなり。(二帖目第四通

総合的に考える能力が完全に欠落している高森会長、講師部員と偽装退会者は

この信心を獲得せずは、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。(二帖目第二通

この1つの文章をもって、これに反する膨大な根拠をすべてを否定するという典型的な断章取義です。

なお、江戸時代に大谷派で地獄が強調されたことがありましたが、それもそのような学説があっただけのことで、それを紹介したところで、

それで何?

となるだけです。「念仏無間」と誰かが言っていたら、それに飛びつくのと同じ位愚かな思考です。そんなブログを書いていて虚しくならないのでしょうかね。

負け犬の遠吠え、論点ずらし、詭弁でしか語れないのが親鸞会です。

親鸞聖人の教えを語る前に、人間として、大人として恥ずかしくない主張を展開してほしいものです。

と何度言っても、改めることの絶対にしない親鸞会でした。

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2010年12月23日 (木)

会員との問答(一切衆生悉有仏性について)

Q.仏教を聞く目的は、後生の一大事の解決のためと親鸞会では教えていますが、それも間違いということですか?

A.親鸞会の言っている意味では、間違いです。

後生の一大事とは、往生浄土の一大事、往生浄土できるかどうかの一大事、ということです。約30年前に紅楳英顕師が、そのことを『派外からの異説について』で指摘されています。

最近親鸞会では、後生の一大事には必堕無間と往生浄土という二つの意味がある、とこれまでの必堕無間一辺倒から転換して説明しているようです。紅楳師がこの指摘をした際に、高森会長が、往生浄土の一大事も一大事だが、信前は必堕無間の一大事のことをいうのだ、と30年近く前に説法で話をしていたことがありましたが、それ以来きいたことがありませんでした。嵐のような親鸞会への教義批判に対応する形で、また詭弁を使っているだけのことです。

浄土門において、仏教を聞く目的は、浄土往生して仏に成ることです。必堕無間から逃れるためではありません。無間地獄から逃れるためだけであれば、無間業を造らなければいいだけです。先にもいいましたが、親鸞会で教えているように神を拝めば蛇に生れる筈ですので、積極的に神を拝んでもよいと勧めてもよいことになってしまいます。もっとレベルを上げれば、化土往生ができれば万万歳です。

しかし、親鸞聖人は化土往生を願うことさえも誡めておられます。報土往生だけを願えとしか教えられていません。従って、必堕無間の解決のために仏教を聞くというのは、親鸞聖人の教えではありません。単なるカルトの教えです。

『涅槃経』には、「一切衆生悉有仏性」と説かれていて、親鸞会でいう「一切衆生必堕無間」の教えは、浄土真宗でも仏教でもないのです。



Q.「一切衆生悉有仏性」とはどういうことですか?

A.親鸞聖人は『教行信証』信巻・信楽釈に引かれています。

『涅槃経』(師子吼品)にのたまはく、「善男子、大慈大悲を名づけて仏性とす。なにをもつてのゆゑに、大慈大悲はつねに菩薩に随ふこと、影の形に随ふがごとし。一切衆生、つひにさだめてまさに大慈大悲を得べし。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。大慈大悲は名づけて仏性とす。仏性は名づけて如来とす。

大喜大捨を名づけて仏性とす。なにをもつてのゆゑに、菩薩摩訶薩は、もし二十五有を捨つるにあたはず、すなはち阿耨多羅三藐三菩提を得ることあたはず。もろもろの衆生、つひにまさに得べきをもつてのゆゑなり。

このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といへるなり。大喜大捨はすなはちこれ仏性なり、仏性はすなはちこれ如来なり。仏性は大信心と名づく。なにをもつてのゆゑに、信心をもつてのゆゑに、菩薩摩訶薩はすなはちよく檀波羅蜜乃至般若波羅蜜を具足せり。一切衆生は、つひにさだめてまさに大信心を得べきをもつてのゆゑに。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。大信心はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ如来なり。

仏性は一子地と名づく。なにをもつてのゆゑに、一子地の因縁をもつてのゆゑに、菩薩はすなはち一切衆生において平等心を得たり。一切衆生は、つひにさだめてまさに一子地を得べきがゆゑに、このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。一子地はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ如来なり」と。

(現代語訳)

『涅槃経』に説かれている。

「善良なものよ、大慈・大悲を仏性というのである。なぜかというと、大慈・大悲は、影が形にしたがうように、常に菩薩から離れないのである。すべての衆生は、ついには必ずこの大慈・大悲を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。大慈・大悲を仏性といい、仏性を如来というのである。

また、大喜・大捨を仏性というのである。なぜかというと、菩薩が、もし迷いの世界を離れることができなければ、この上ないさとりを得ることはできない。あらゆる衆生は、ついには必ずこの大喜・大捨を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。大喜・大捨は仏性であり、仏性はそのまま如来である。

また仏性を大信心というのである。なぜかというと、菩薩はこの信心によって、六波羅蜜の行を身にそなえることができるのである。すべての衆生は、ついには必ず大信心を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。大信心は仏性であり、仏性はそのまま如来である。

また、仏性を一子地というのである。なぜかというと、菩薩は、その一子地の位にいたるから、すべての衆生をわけへだてなく平等にながめることができるのである。すべての衆生は、ついには必ずその位を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。この一子地は仏性であり、仏性はそのまま如来である」

一切衆生悉有仏性」というと、衆生の中に仏性があると理解しがちですが、そうではありません。衆生の側に仏性があるのではなく、阿弥陀仏から大慈大悲を具えた大信心を賜るから、一切衆生は悉く仏性が有ると説かれているのです。

これを『浄土和讃』では

平等心をうるときを
 一子地となづけたり
 一子地は仏性なり
 安養にいたりてさとるべし

(現代語訳)

煩悩の火が消えて、一切のとらわれがなくなり、 自他、 善悪、 その他すべてを平等に見る 「平等心」 を得るとき、直ちに如来の大悲心が起こる。
その大悲心は、 迷いの世界の一切の衆生を一人子のように愛する心なので、『涅槃経』では 「一子地」 と名づけられた。
一子地は、仏としての性質であるから 「仏性」 ともいわれる。
一子地といわれる仏の慈悲心は、 安養の浄土に往生して身に得ることができるのである。

如来すなはち涅槃なり
 涅槃を仏性となづけたり
 凡地にしてはさとられず
 安養にいたりて証すべし

(現代語訳)

すべてのものにとらわれるべき本性がないという真理そのものが法身の如来であり、またそれが涅槃の本質である。
涅槃の本質は、仏の本性という意味で、仏性とも名づけられる。
このような涅槃の境界は、凡夫の世界ではさとることはできない。
安養の浄土に往生してさとるはずである。

信心よろこぶそのひとを
 如来とひとしとときたまふ
 大信心は仏性なり
 仏性すなはち如来なり

(現代語訳)

『華厳経』にも、信心を得てよろこぶ人は諸仏と等しいと説かれている。
それは、 信を得たそのとき、往生成仏が約束されるので、もう仏となったようなものだという意味である。
また、『涅槃経』 には、 大信心は仏性なり、 仏性は即ち如来なりとある。
如来回向の大信心は、衆生の心にはたらく仏のはたらきである。この仏のはたらきである仏性を、如来ともいわれている。この信心によって、仏のさとりを得させていただくのである。

と仰っています。

仏性のないものが大信心を賜って報土往生し仏になるのですから、一大事なのです。無間業を造ったものが地獄に堕ちるのは、当たり前のことで一大事ではありません。親鸞会の教えは、極めて低いレベルの話をしているのです。

それと、衆生の側に仏性がないことと、闡提とを混乱しているお目出たい人がいますが、親鸞聖人の御著書を読んだことがないだけのことです。

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2010年12月17日 (金)

会員との問答(闡提について)

Q.『涅槃経』を読むと、十方衆生は闡提だから必堕無間だ、と教えている人は間違っていることになりますね。

A.全くその通りです。闡提とは、一闡提の略語ですが、
本願寺出版の教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)』の巻末註には、

一闡提

梵語イッチャンティカ(icchantika)の音写。一闡底迦・一顛迦ともいい、略して闡提ともいう。断善根・信不具足と漢訳する。

世俗的な快楽を追求するのみで正法を信ぜず、さとりを求める心がなく成仏することのできない衆生のこと。浄土教では、これらのものも回心すれば往生することができると説く。

とあります。もちろん親鸞聖人も、十方衆生が闡提であり必堕無間だ、とは仰っていません。

『高僧和讃』善導讃には

本願毀滅のともがらは
 生盲闡提となづけたり
 大地微塵劫をへて
 ながく三塗にしづむなり

(現代語訳)

本願を討ち滅ぼそうとする人は、
ものごとの見えない人であり教えを聞かない人と名づけられた。
想像もできない時間を経て、
長い間地獄餓鬼畜生の世界に沈むのである。

と仰っています。
毀滅」の左訓には

そしるにとりても、わがする法は勝り、またひとのする法は賤しといふを毀滅といふなり

とあります。つまり闡提とは、親鸞聖人の教えを真面目に信じている人のことではありません。更に、闡提の者の死後については、「ながく三塗にしづむなり」という表現をなされています。もちろん必堕無間という意味ではありません。

また、『唯信鈔文意』には、

「不簡多聞持浄戒」といふは、「多聞」は聖教をひろくおほくきき、信ずるなり。「持」はたもつといふ、たもつといふは、ならひまなぶこころをうしなはず、ちらさぬなり。「浄戒」は大小乗のもろもろの戒行、五戒・八戒・十善戒、小乗の具足衆戒、三千の威儀、六万の斎行、『梵網』の五十八戒、大乗一心金剛法戒、三聚浄戒、大乗の具足戒等、すべて道俗の戒品、これらをたもつを「持」といふ。かやうのさまざまの戒品をたもてるいみじきひとびとも、他力真実の信心をえてのちに真実報土には往生をとぐるなり。みづからの、おのおのの戒善、おのおのの自力の信、自力の善にては実報土には生れずとなり。

「不簡破戒罪根深」といふは、「破戒」は上にあらはすところのよろづの道俗の戒品をうけて、やぶりすてたるもの、これらをきらはずとなり。「罪根深」といふは、十悪・五逆の悪人、謗法・闡提の罪人、おほよそ善根すくなきもの、悪業おほきもの、善心あさきもの、悪心ふかきもの、かやうのあさましきさまざまの罪ふかきひとを「深」といふ、ふかしといふことばなり。すべてよきひと、あしきひと、たふときひと、いやしきひとを、無碍光仏の御ちかひにはきらはずえらばれずこれをみちびきたまふをさきとしむねとするなり。真実信心をうれば実報土に生るとをしへたまへるを、浄土真宗の正意とすとしるべしとなり。

(現代語訳)

「不簡多聞持浄戒」というのは、「多聞」とは、聖教を広く多く聞き、信じることである。「持」は、「たもつ」ということである。「たもつ」というのは、習い学ぶ心を失わず、散漫にならないことである。「浄戒」とは、大乗・小乗のさまざまな戒律のことであり、五戒、八戒、十善戒、小乗の具足戒、三千の威義、六万の斎行、『梵網経』に説かれる五十八戒、大乗一心金剛法戒、三聚浄戒、大乗の具足戒など、出家のものや在家のものが守るすべての戒律をいう。そしてこれらをたもつことを「持」というのである。このようなさまざまな戒律をたもっている立派な人々であっても、本願他力の真実信心を得て、はじめて真実の浄土に往生を遂げることができるのである。自らの力によってそれぞれが戒律を守ることで得る善根、それぞれの自力の信心や自力の善根では、真実の浄土には生れることができないというのである。

「不簡破戒罪根深」というのは、「破戒」とは、これまでに示したような出家のものや在家のものの守るべきさまざまな戒律を受けていながら、それを破り、捨ててしまったもののことであり、このようなものを嫌わないというのである。「罪根深」というのは、十悪、五逆の罪を犯した悪人、仏法を謗るものや一闡提などの罪人のことであり、総じて善根の少ないもの、悪い行いの多いもの、善い心が浅いもの、悪い心が深いもの、このような嘆かわしいさまざまな罪深い人のことを「深」といっているのであり、すなわち「深」は「ふかい」という言葉である。総じて、善い人も、悪い人も、身分の高い人も、低い人も、無碍光仏の誓願においては、嫌うことなく選び捨てることなく、これらの人々をみなお導きになることを第一とし、根本とするのである。他力真実の信心を得れば必ず真実の浄土に生れると教えてくださっていることこそ、浄土真実の教えの本意であると知らなければならないというのである。

と、親鸞聖人は、善人と悪人を分けて説明されています。

よきひと
=「多聞持浄戒」の人

あしきひと
=「破戒罪根深」の人

です。「あしきひと」「破戒罪根深」の人を更に分ければ、

破戒」の人
=「よろづの道俗の戒品をうけて、やぶりすてたるもの

罪根深」の人
=「十悪・五逆の悪人、謗法・闡提の罪人
=「善根すくなきもの、悪業おほきもの、善心あさきもの、悪心ふかきもの

となります。
つまり、親鸞聖人は善人と悪人とをこのように定義されて、悪人も細かく区別されています。十方衆生が、五逆、謗法、闡提という意味で仰っていないことは、明らかです。

『唯信鈔文意』はもちろん『唯信鈔』を解説なされたものですから、「あしきひと」「破戒罪根深」の人についてもともとの『唯信鈔』では、

仏いかばかりのちからましますとしりてか、罪悪の身なればすくはれがたしとおもふべき。五逆の罪人すら、なほ十念のゆゑにふかく刹那のあひだに往生をとぐ。いはんや罪五逆にいたらず、功十念にすぎたらんをや。罪ふかくはいよいよ極楽をねがふべし。「不簡破戒罪根深」(五会法事讃)といへり。善すくなくはますます弥陀を念ずべし。

と書かれてあります。
私たちは五逆罪までは犯していませんが、「罪悪の身」です。しかし、当ブログの読者は、五逆の者でさえないのですから、仏法を積極的に謗る謗法の者でもありませんし、仏法を求める心のない闡提でもありません。

では「多聞持浄戒」の人は、自力で真実の報土に生まれられるのかどうかについて先の『唯信鈔文意』で

みづからの、おのおのの戒善、おのおのの自力の信、自力の善にては実報土には生れずとなり。

と仰っています。
これを『教行信証』信巻の信楽釈では、

無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。
また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。

と仰っているのです。どんな善人でも、「清浄の信楽」「真実の信楽」はありませんので、「真実の業」はできません。従って自力では、「無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり」なのです。

ですから『高僧和讃』善導讃には

願力成就の報土には
 自力の心行いたらねば
 大小聖人みなながら
 如来の弘誓に乗ずなり

(現代語訳)

本願力で完成した浄土には、
自力の心や修行では至れないので、
大乗・小乗の聖人がみなともに、
阿弥陀如来の弘き誓いにおまかせするのである。

と教えられている通りです。
当たり前のことですが、「清浄の信楽」「真実の信楽」がないから闡提だ、という意味にはなりません。

わが身は五逆、謗法、闡提の者と味わわれることは、自由です。それが間違っていても、他人に迷惑をかけません。しかし、十方衆生が五逆、謗法、闡提で必堕無間と、他人を脅迫することは、親鸞聖人の教えでも、仏教でもありませんので、多くの人を迷わせる謗法罪となります。
また、いつまでもくだらないことを言い続けて、「そしるにとりても、わがする法は勝り、またひとのする法は賤し」と「毀滅」している会長と講師部員は、闡提です。

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2010年12月15日 (水)

会員との問答(一切衆生必堕無間について)

Q.確か親鸞会で、過去世に聖道門の修行をして善根を積んできてそれが宿善になったとも聞いたことがあります。また永く無間地獄に堕ちて沈んでいたところを、阿弥陀仏のお力で今生は滅多にない人間界の生を受けた、とも親鸞会では教えていますが、よくよく考えれば矛盾しています。

A.親鸞会で教えていることは、根拠のないことばかりですから、矛盾しかないのは当然です。
親鸞会の説明では、永い永い無間地獄の合間に人間界に生を受けることが、極めて稀にあることになり、六道輪廻とはいいながら、無間地獄と人間界以外は実質的に存在し得ないことになります。
しかし、畜生界は間違いなくあることが確認できるのですから、「一切衆生必堕無間」の教えは、これだけでも論理的破綻を証明できます。

『教学聖典』にはこんな問答もあります。

(問)
 神に仕えた者の恐ろしい結果を教えられた経文を書け。

(答)
 一度、神を拝んだ者は、五百生の蛇身を受け、現世に福報は更に来たらずして、後生は必ず三悪道に堕す。

これも、自己矛盾をさらけ出しているようなものです。親鸞会で苦しい思いをして獲信できずに無間地獄に堕ちるくらいならば、神を信じて蛇に生れた方が余程よいことになります。これでは神信心を勧めているようなもので、私も会員の時に、そのように思ったことが実際にありました。

六道輪廻を必堕無間とすり替えて、金集め人集めのための脅し文句とした悪意が感じられます。



Q.六道輪廻について教えられた根拠はあるのですか?

A.六道輪廻については、至る所で教えられていますので、文証を挙げるまでもないことですが、具体的に詳しく説明されているのが『安楽集』にありますので、一応紹介しておきます。

無始劫よりこのかたここにありて、輪廻無窮にして身を受くること無数なることを明かすとは、『智度論』(意)にいふがごとし。「人中にありて、あるいは張家に死して王家に生じ、王家に死して李家に生ず。かくのごとく閻浮提の界を尽して、あるいはかさねて生じ、あるいは異家に生ず。あるいは南閻浮提に死して西拘耶尼に生ず。

閻浮提のごとく余の三天下もまたかくのごとし。四天下に死して四天王天に生ずることもまたかくのごとし。あるいは四天王天に死して忉利天に生ず。忉利天に死して余の上四天に生ずることもまたかくのごとし。色界に十八重天あり、無色界に四重天あり。ここに死してかしこに生ず。一々にみなあまねきことまたかくのごとし。あるいは色界に死して阿鼻地獄に生ず。阿鼻地獄のなかに死して余の軽繋地獄に生ず。軽繋地獄のなかに死して畜生のなかに生ず。畜生のなかに死して餓鬼道のなかに生ず。餓鬼道のなかに死してあるいは人天のなかに生ず。かくのごとく六道に輪廻して苦楽の二報を受け、生死窮まりなし。

胎生すでにしかなり。 余の三生もまたかくのごとし」と。

(中略)

問ひていはく、これらの衆生はすでに流転多劫なりといふ。しかるに三界のなかには、いづれの趣にか身を受くること多しとなす。

答へていはく、流転すといふといへども、しかも三悪道のなかにおいて身を受くることひとへに多し。

『経』(十住断結経・意)に説きてのたまふがごとし。「虚空のなかにおいて方円八肘を量り取りて、地より色究竟天に至る。この量内においてあらゆる可見の衆生は、すなはち三千大千世界の人天の身よりも多し」と。ゆゑに知りぬ、悪道の身多し。
なんがゆゑぞかくのごとしとならば、ただ悪法は起しやすく、善心は生じがたきがゆゑなり。いまの時ただ現在の衆生を看るに、もし富貴を得れば、ただ放逸・破戒を事とす。天のなかにはすなはちまた楽に着するもの多し。このゆゑに『経』(五苦章句経・意)にのたまはく、「衆生は等しくこれ流転してつねに三悪道を常の家となす。人天にはしばらく来りてすなはち去る。名づけて客舎となすがゆゑなり」と。

(現代語訳)

無始曠劫よりこのかた、三界にあって輪廻きわまりなく、身を受けることが、無数であることを明かすならば、《智度論》にいわれているとおりである。

人間界の中にあって、あるいは張姓の家に死んで、王姓の家に生まれ、王姓の家に死んで、李姓の家に生まれる。このように閻浮提の世界をことごとくつくして、あるいは同じ家に生まれ、あるいは異なった家に生まれる。あるいは南閻浮提に死んで西拘耶尼に生まれる。閻浮提におけるように、他の西拘耶尼・北鬱単越・東弗婆提の三天下もまたこのとおりである。四天下に死んで四天王天にうまれるようなものもまた同様である。あるいは四天王天に死んで忉利天に生まれ、忉利天に死んでその上の夜摩天・兜率天・変化天・他化自在天に生まれるのも、また同様である。色界に十八重の天があり、無色界に四重の天がある。ここに死んでかしこに生まれ、一々みなあまねくめぐることもかたこのとおりである。あるいは色界に死んで阿鼻地獄に生まれ、阿鼻地獄の中に死んでそのほかの軽繋地獄に生まれ、軽繋地獄の中に死んで畜生の中に生まれ、畜生の中に死んで餓鬼道の中に生まれ、餓鬼道の中に死んであるいは人天の中に生まれる。このように六道をめぐって苦楽の二報を受け、生死がきわまりない。胎生がすでにこのとおりであって、そのほかの卵生・湿生・化生もまた同様である。

(中略)

問うていう。これらの衆生は、すでに多劫のあいだ流転しているという。しかしながら、三界の中では、どの生に身を受けることが多いとするのか。

答えていう。流転しているというが、しかも三悪道の中で身をうけることが殊に多い。経に説かれているとおりである。

虚空の中において、八肘四方を量り取り、地面より色究竟天に至るまで、この中にいる衆生は、三千大千世界の人天の身の数よりも多い。

と。ゆえに悪道の身が多いことが知られる。なぜこのようであるかというと、すべて悪法は起こしやすく、善心は生じがたいからである。いま現にいる衆生を見ると、もし富貴を得ればただ放逸破戒を事としており、天上界にあっては、また楽しみに執着する者が多い。こういうわけで、経に説かれてある。

衆生はひとしく流転して、つねに三悪道を住家としている。人天の境界にしばらく来ても、すぐ去ってしまう。人天の境界を名づけて客舎とするからである。

六道を経巡ることが、判りやすく解説なされています。その上で、三悪道にいるものが多いと教えられています。確かに、地球上だけを見ても、畜生界にいるものの数は、天文学的な数値になるでしょう。

親鸞会の「一切衆生必堕無間」論は、キリスト教の原罪と同じ理屈です。仏教とは相容れない理論です。
親鸞聖人は『教行信証』真仏土巻に『涅槃経』を引かれて、

またのたまはく(涅槃経・迦葉品)、「〈善男子、如来は知諸根力を具足したまへり。このゆゑによく衆生の上・中・下の根を解り分別して、よくこの人を知ろしめして、下を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて上となす。よくこの人を知ろしめして、上を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて下となす。このゆゑにまさに知るべし、衆生の根性に決定あることなし。定なきをもつてのゆゑに、あるいは善根を断ず、断じをはりて還りて生ず。もしもろもろの衆生の根性定ならば、つひに先に断じて、断じをはりてまた生ぜざらん。また一闡提の輩、地獄に堕して寿命一劫なりと説くべからず。善男子、このゆゑに如来、一切の法は定相あることなしと説きたまへり〉と。

(現代語訳)

また次のように説かれている(涅槃経)。

 「釈尊が仰せになる。<善良なものよ、如来は衆生の資質を知る力をそなえておられる。だから如来は、衆生の資質がすぐれているか劣っているかをよく見きわめ、その人の劣った資質があらたまり、よりすぐれたものとなることを知り、あるいは、その人のすぐれた資質が損なわれ、より劣ったものとなることを知っておられるのである。だからよく知るがよい。衆生の資質は定まったものではないのである。定まったものではないから、善い資質を失うようなことがあり、失ってしまっても、ふたたび善い資質を生じることがある。衆生の資質が定まったものであるなら、ひとたび善い資質を失ってしまうと、また生じるということはないであろう。したがって、一闡提のものは地獄に堕ちて寿命が一劫であると説くこともできないのである。善良なものよ、このようなわけで、如来はすべてのものには定まった相がない、と説くのである>と。

と教えられていますが、仏教には、「衆生の根性に決定ある」、つまり私たちが固定不変な無間業をもっているなどという教えなどないのです。
如来、一切の法は定相あることなしと説きたまへり」であるのに、一切衆生には五逆、謗法、闡提の無間業という「定相」があると説く高森会長と講師部員は、如来を超えた存在、絶対的な神とでも思っているのでしょう。

ですから何度も申している通り、親鸞会は浄土真宗でもなければ、仏教でもないのです。

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2010年12月14日 (火)

会員との問答(聖道門の修行について)

Q.親鸞聖人は比叡山での20年間の御修行で、地獄一定のものと知らされたのではないですか?

A.親鸞会で作ったアニメでも、そんな表現にはなっていません。
親鸞聖人は、比叡山の教えでは自分は救われないことが知らされたのです。それで、比叡山を下りられて、自分の救われる教えを説かれる知識を探された、と以前は高森会長も説明していました。

『嘆徳文』では

しかれども機教相応、凡慮明らめがたく、すなはち近くは根本中堂の本尊に対し、遠くは枝末諸方の霊崛に詣でて、解脱の径路を祈り、真実の知識を求む。

と書かれてある通りです。

それがいつのまにか、比叡山での御修行で、地獄一定、助かる縁手掛かりのない者と親鸞聖人は知らされたのだ、と高森会長は説明するようになりました。もし現在の高森会長の説明通りであるなら、親鸞聖人は知識探しはされないでしょう。なぜなら、自分が救われる教えが他にあると探されているということは、自分には助かる縁手掛かりがあると思われたからです。

少し考えればデタラメとすぐに判るような説明です。
説明を変えた理由は、命懸けの善(金集め、人集め)を正当化させるためでしょう。



Q.聖道門は誤って伝えられた教えで、元々は阿弥陀仏の19願から釈尊が聖道門を説かれたのだ、と高森会長は説明していますが、どうですか?

A.とんでもない邪義です。浄土門の善知識方で、聖道門自体を否定された方はありません。釈尊がこの地球上で聖道門を説かれる以前から、聖道門はあるのです。

善導大師は『散善義』

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)

わが身は、無始よりこのかた、他のものと同時に、発願し、悪を断ち、菩薩の道を行じたのに、他のものはことごとく身命を惜しまず、修行して位を進め、因が円満し、果が成就して、聖者の位を証した。その数は、大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、われら凡夫は過去より今日に至るまで、いたずらに流転して、煩悩の悪障が次第にますます多くなり、福徳智慧のきわめて少ないことは、重昏くらやみをもって明鏡に望むがようである。今このことを考えると、どうして心驚き悲しまずにおられようか。

と仰っています。無始より聖道門の修行をして、聖者の位を証してゆかれた方々があったのに、我々凡夫は落ちこぼれで、これまで出離の縁のない者であっただけです。

最初に聖道門と浄土門を分けられた龍樹菩薩は『十住毘婆沙論』易行品で、

問ひていはく、この阿惟越致の菩薩の初事は先に説くがごとし。阿惟越致地に至るには、もろもろの難行を行じ、久しくしてすなはち得べし。 あるいは声聞・辟支仏地に堕す。もししからばこれ大衰患なり。
(中略)
このゆゑに、もし諸仏の所説に、易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得る方便あらば、願はくはためにこれを説きたまへと。

答へていはく、なんぢが所説のごときは、これ儜弱怯劣にして大心あることなし。これ丈夫志幹の言にあらず。なにをもつてのゆゑに。もし人願を発して阿耨多羅三藐三菩提を求めんと欲して、いまだ阿惟越致を得ずは、その中間において身命を惜しまず、昼夜精進して頭燃を救ふがごとくすべし。
(中略)
大乗を行ずるものには、仏かくのごとく説きたまへり。「願を発して仏道を求むるは三千大千世界を挙ぐるよりも重し」と。なんぢ、阿惟越致地はこの法はなはだ難し。久しくしてすなはち得べし。もし易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得るありやといふは、これすなはち怯弱下劣の言なり。これ大人志幹の説にあらず。なんぢ、もしかならずこの方便を聞かんと欲せば、いままさにこれを説くべし。

(現代語訳)

問うていう。この不退の菩薩が初地に入るまでの修行のありさまは、さきに説いた通りである。不退の位に至るについては、多くの難行を行じ、久しい間かかってようやくこれを得ることができるので、あるいは声聞・縁覚の地位に退堕することがある。もしそうなれば、これは大きな損失であり、災患である。
(中略)
こういうわけであるから、もし諸仏の説きたもう中に、易行道ですみやかに不退の地位に至ることのできる方法があるならば、どうか、わたしのためにこれを説かれよ。

答えていう。そなたのいうようなことは、根機の劣った弱い者のいうことで大きな志ではなく、これは雄々しく堅固な志を持つ者のことばではない。なぜかというと、もし人が願いを起こし無上仏果を求めようと欲して、まだ不退の位を得ないならば、その間は身命を惜しまず昼夜精進して、頭に付いた火を払い消すようにせねばならぬ。
(中略)
大乗を行ずる者には、仏は次のように説かれてある。「発願して仏果を求めることは三千大千世界をもち挙げるよりも重い」と。そなたが不退の位を得る法は甚だむずかしく、久しい間かかってようやく得ることができる。もしすみやかに不退の位に至ることのできる易行の道があろうかというならば、これはすなわち根機の劣った弱い者の言葉で、すぐれた人、堅固な志を持つ者のいうことではない。
しかしながら、そなたが、もし必ずこの方法を聞きたいと思うならば、今まさにこれを説くであろう。

と仰っています。「丈夫志幹」「大人志幹」に対しての難行道(聖道門)と、「儜弱怯劣」「怯弱下劣」に対しての易行道(18願)が説かれているのであって、龍樹菩薩も難行道を否定されていません。

法然上人のお言葉として『勅伝』には、

聖道門の修行は、正像の時の、教えなるが故に、上根上智の輩にあらざれば、証し難し。(中略)
浄土門の修行は、末法濁乱の時の教えなるが故に、下根下智の輩を器とす。
(中略)
大原にして、聖道浄土の、論談有りしに、法門は牛角の論なりしかども、気根比べには、源空勝ちたりき。
聖道門は深しといえども、時過ぎぬれば、今の機に適わず。浄土門は浅きに似たれども、当根に適い易しと、云いし時、末法万年、余経悉滅、弥陀一経、利物偏増の道理に、折れて、人みな、信伏しきとぞ、仰せられける。

とあります。
聖道門は、正法・像法の時期の教えであり、浄土門は、末法の時期の教えです。大原問答での争点は、聖道門と浄土門の教えの優劣ではなく、我々の根機にあっているかどうかであったことを法然上人が仰ったものです。聖道門にしても、19願にしても、如実に修行できる人が正法・像法の時期にはあったから説かれた教えであって、誰も修行のできない教えではないのです。

親鸞聖人は『教行信証』化土巻

まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。

(現代語訳)

いま、まことに知ることができた。聖道門のさまざまな教えは、釈尊の在世時代と正法のためのものであって、像法や末法や法滅の時代とその人々のためのものではない。すでにそれは時代にあわず、人々の資質に背くものである。浄土の真実の教えは、釈尊財施の時代にも、正法や像法や末法や法滅の時代にも変りなく、煩悩に汚れた人々を同じように慈悲をもって導いてくださるのである。

と、「聖道の諸教は在世・正法のため」と肯定されています。ただ、時機が不相応であるから、末法の我々には浄土門しかないと仰っているのです。

蓮如上人は『御文章』2帖目第3通で、

当流のなかにおいて、諸法・諸宗を誹謗することしかるべからず。いづれも釈迦一代の説教なれば、如説に修行せばその益あるべし。さりながら末代われらごときの在家止住の身は、聖道諸宗の教におよばねば、それをわがたのまず信ぜぬばかりなり。

と仰っています。

聖道門の修行ができれば、成仏できるのです。

法蔵菩薩も、聖道門の御修行によって、仏になられ、願を成就されたのです。聖道門を否定して、仏教は成り立ちません。

19願を強調させたいがために、念仏を軽視し、聖道門までも否定する高森会長は、何教の教祖でしょうか?

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2010年12月13日 (月)

会員との問答(一向と雑行について)

Q.親鸞会では、善をしなければ信仰が進まない、と教えていますが。

A.極めて珍しき教えです。発想は聖道門ですが、聖道門では善ができる前提で善を勧めます。親鸞会では、善のできないことが知らされるには、善をしてみなければ判らないといいます。
具体的にいえば、命がけで財施をしたら、善のできないことが知らされると教えていますが、財施自体は善ですから、財施をした人は、財施という善ができた人です。善をして善ができないと知らされるのもおかしな話です。

たとえば全財産が1億円ある人が、1億円すべてを財施したら、何が知らされますか?
自分は全財産、しかも相当の額を出したのだから、因果の道理で、出していない人よりもよい結果が返ってくるに違いない、と思うだけです。
全財産を出したくらいでは命がけの財施とはいえない、というのであれば、借金して2億円財施をしたらどうですか?
自分は借金までして他の誰よりも多くの財施をしたのだから、誰よりも獲信に近い筈だとしか思えないでしょう。
それでも足りなければ、銀行を騙して10億円の借金をしてそれをすべて財施したらどうですか?
100億円なら、1000億円なら、1兆円なら善のできない者と知らされますか?
どこまでいっても同じです。

もし善と往生との関係で言いたいのであれば、財施という善を回向する19願での往生はできないことが知らされたということなら判らないことはありません。しかし、19願での往生を目指して財施をしている訳ではありませんので、19願での往生ができないと知らされることもありません。

善とは無関係の18願での往生を目指しているのであれば、最初から最後まで善は無関係なのです。
親鸞会でも昔は、「仏教の結論は一向専念無量寿仏」と教えていた筈ですが、最近は言いません。



Q.「一向専念無量寿仏」とはどういうことですか?

A.このことについては法然上人が『選択本願念仏集』で次のように教えておられます。

しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。
「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・下)のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。
すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。

(現代語訳)

ところが本願の中に更に余行はない。三輩共に上の本願に依るから「一向に専ら無量寿仏を念ずる」と説かれているのである。
「一向」というのは、二向・三向などに対する言葉である。例えば、かの五天竺 (印度) に三種の寺があるようなものである。一つには一向大乗寺。この寺の中には小乗を学ぶことはない。二つには一向小乗寺。この寺の中には大乗を学ぶことはない。三つには大小兼行寺。その寺の中には大乗と小乗とを兼ねて学ぶから兼行寺という。大乗・小乗の両寺には一向の言葉があり、兼行の寺には一向の言葉がないと知るべきである。
今この経の中の一向もまたその通りである。もし念仏のほかにまた余行を加えるのであれば、すなわち一向ではない。もし寺に準ずるならば兼行というべきである。すでに一向というのであるから、余の行を兼ねないことは明らかである。すでにさきには余行を説くけれども後には「一向に専ら念ずる」という。よって諸行を廃してただ念仏だけを用いるから一向ということが明らかに知られる。もしそうでなければ、一向の言葉がどうしても解釈しがたいであろう。

念仏と善との「兼行」では、「一向」ではありません。
尤も、親鸞会の場合は、念仏を疎かにして親鸞会で教えるまがい物の”善”だけの「一向」といえますが‥‥。
ここで法然上人の仰っている「一向」とはもちろん念仏のことです。

親鸞聖人は『一念多念証文』

「一心専念」(散善義)といふは、「一心」は金剛の信心なり、「専念」は一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。

と仰り、蓮如上人も『御文章』2帖目第9通

そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへるそのこころはいかんぞなれば、それ弥陀仏の誓ひましますやうは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなる罪ふかき機なりとも、すくひたまはんといへる大願なり。

しかれば一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり。このゆゑに人間においても、まづ主をばひとりならではたのまぬ道理なり。されば外典のことばにいはく、「忠臣は二君につかへず、貞女は二夫をならべず」(史記・意)といへり。阿弥陀如来は三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまはざるべきや。このいはれをもつてよくよくこころうべし。

さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。

と、親鸞聖人も蓮如上人も、法然上人と同じことを仰っています。
もちろん、「一向」とは、「余の善にうつらず」のことであり、雑行である「自余の万善万行」に対して、「なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや」なのです。

親鸞会の会員が救われない理由は、「余の善にうつ」るからであり、「諸行諸善にこころをとど」めているからです。



Q.親鸞会では、雑行を捨てよであって、善を捨てよということではない、と教えていますが?

A.『教行信証』化土巻

安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。
正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。

(現代語訳)

浄土に往生してさとりを開くのを浄土門といい、易行道という。この浄土門の中に、横出と横超、方便と真実、漸教と頓教、そして助正と雑行、雑修と専修がある。
 正とは、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五正行である。助とは、称名以外の読誦・観察・礼拝・讃嘆・供養の五種である。雑行とは、正・助の行以外をすべて雑行というのである。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善・散善や世福・戒福・行福の善を修め、三輩・九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。

と親鸞聖人は仰っています。つまり、往生と関係付けた善のことを「雑行」というのです。親鸞会で教えている、”三願転入の教え”、”宿善論”は、完璧に「雑行」です。
訳の判らないことを言っていますが、親鸞会は「横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門」である「雑行」を間違いなく勧めているのですから、「雑行」を捨てよと教えられた善知識方の教えに反しています。

従って、救われないのは当然です。

善知識方の教えられたことと高森会長の教えていることとが、全く違うことをこれまで詳しく説明してきましたので、あとは、善知識方を信じて報土往生を遂げるか、高森会長の説く迷信を妄信して昿劫多生の間、輪廻を続けるのか、よくよくお考えください。

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2010年12月11日 (土)

会員との問答(聖教の読み方について)

Q.確かに私は親を殺していませんし、仏法を信じています。しかし、自分を見れば、悪ばかり造っている悪人です。とても善人とは思えません。経典や善知識方の御著書には、善が勧められているような所もあり、よく判りません。

A.親鸞会は、断章取義が徹底しています。聖教の一部分だけを取り出して、前後を無視するものです。
判りやすくいえば、

左へ行きなさい

と書かれてあれば、左へ行けということだと思えるのですが、前後をよく読んでみると、

「左へ行きなさい」という人がいるが、それでは遠回りだから右へ行きなさい

とあり、結局は右に行くことを勧められていることになります。
これが親鸞会には一杯あるのです。故意に断章取義をしている場合と、知らずに勘違いしている場合があります。伊藤康善師や大沼法竜師の著書に、たまたま引用してあった根拠を意味も判らずにパクリ損ない、両師の誤字がそのまま高森会長の著書に書いてあることもあって、高森会長のレベルの低さがよく判ります。

悪凡夫の私たちのために、簡潔明瞭に教えて下されたのが法然上人です。

『勅伝』に

上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすゝめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすゝめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」

とありますように、善人に対して勧められた教えと悪人に対して勧められた教えがあるので、悪人に対して教えられた所を読み、聞いていくのです。悪人に対して勧めらた教えを読み、聞くことで、信心決定し、往生できると法然上人が教えて下されています。

また、「念仏往生義」で

善根無ければ、此の念仏を修して、無上の功徳を、得んとす。余の善根、多くば、例え念仏せずとも、頼む方も、有るべし。然れば善導は、我が身をば、善根薄少なりと信じて、本願を頼み、念仏をせよと、勧め給ヘリ。経に、一度名号を、称えるに、大利を得とす。又即ち、無上の功徳を得と、とけり。いかに況や、念々相続せんをや。然れば善根無ければとて、念仏往生を、疑うべからず。

と教えておられます。

これまで善をしてこなかったならば、念仏して、この上ない功徳を得るべきです。それに対して、善を沢山してきた人々は、たとえ念仏しなくても極楽浄土へ往生できると、自力の善根をあてにしてしまうものなのです。
だから善導大師は『往生礼讚』にて、「自分はこれまで善根をわずかしか積んでこなかった者であると信じて、阿弥陀仏の本願を信じて念仏しなさい」と勧められています。
『大無量寿経』には、「一回阿弥陀仏の名号を称えたならば、無上の功徳を得る」と説かれています。まして、念仏を相続することは言うまでもないことです。
だから、これまで善根を積んでこなかったからといって、念仏した者が浄土往生できることを疑ってはなりません。

更には、『選択本願念仏集』で

諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。

釈尊定散の諸行を付属せず、ただ念仏をもつて阿難に付属したまふ文。
 『観無量寿経』にのたまはく、「仏、阿難に告げたまはく、〈なんぢよくこの語を持て。この語を持てとは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり〉」と。
 同経の『疏』(散善義)にいはく、「〈仏告阿難汝好持是語〉といふより以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通することを明かす。上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」と。

とまではっきりと法然上人は仰っているのです。
そのために、聖道門の人達から、激しい非難があったことは先に詳しく述べた通りです。

親鸞聖人も、法然上人の教えを受け継がれたことはいうまでもありません。

親鸞聖人は『教行信証』行巻に

しかるに教について念仏諸善比校対論するに、難易対、頓漸対、横竪対、超渉対、順逆対、大小対、多少対、勝劣対、親疎対、近遠対、深浅対、強弱対、重軽対、広狭対、純雑対、径迂対、捷遅対、通別対、不退退対、直弁因明対、名号定散対、理尽非理尽対、勧無勧対、無間間対、断不断対、相続不続対、無上有上対、上上下下対、思不思議対、因行果徳対、自説他説対、回不回向対、護不護対、証不証対、讃不讃対、付属不属対、了不了教対、機堪不堪対、選不選対、真仮対、仏滅不滅対、法滅利不利対、自力他力対、有願無願対、摂不摂対、入定聚不入対、報化対あり。
この義かくのごとし。しかるに本願一乗海を案ずるに、円融満足極速無碍絶対不二の教なり。

(現代語訳)

しかるに教法について、念仏と諸善とを比較し、相対して論じると、次のようになります。
難易対、諸善は難行であり、念仏は易行である。
頓漸対、念仏は速やかに成仏し、諸善は長い時間を要する。
横竪対、念仏は他力によって横さまに迷いを超え、諸善は自力によって、竪さまに順を迫って迷いを離れていく。
超渉対、念仏は迷いの世界を飛び超えるが、諸善は歩いて渡るようなものである。
順逆対、念仏は本願に順じているが、諸善は本願に背いている。
大小対、念仏は大功徳であるが、諸善の功徳は小さい。
多少対、念仏は多善根であるが、諸善は少善根である。
勝劣対、念仏は最勝の行であり、諸善は劣行である。
親疎対、念仏は仏に親しく馴染み深いが、諸善は疎遠である。
近遠対、念仏は仏に近く、諸善は遠く離れている。
深浅村、念仏は深い法であり、諸善は浅薄である。
強弱対、念仏は強い本願に支えられているが、諸善を支える自力は弱い。
重軽対、念仏は重い願力に支えられているが、それのない諸善は軽い。
広狭対、念仏は一切を救うから広く、諸善は善人にかぎるから狭い。
純雑対、念仏は純粋な往生行であるが、諸善は三乗に通ずる行である。
径迂対、念仏はさとりに至る近道であり、諸善はまわり道である。
捷遅対、念仏は早くさとりに至る道であり、諸善は遅い道である
通別対、諸善は聖道に通ずる通途の法であり、念仏は特別の法である。
不退退対、念仏は不退転の法であり、諸善は退転のある法である。
直弁因明対、念仏は仏の出世の本意としてただちに説かれた法であり、諸善は自力の機に止むを得ず説かれた法である。
名号定散対、念仏は釈尊が付属された名号であり、諸善は付属されなかった定散二善である。
埋尽非理尽対、念仏は道理を尽くして説かれた完全な法であり、諸善は理を尽くさない不完全な説にすぎない。
勧無勧対、念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない。
無間間対、念仏は他力に支えられているからその信心は途切れることがないが、諸善を修するものの信は途切れることがある。
断不断対、念仏は摂取されているから信心断絶しないが、諸善は断絶する。
相続不続対、念仏は法の徳によって臨終まで相続するが、諸善は相続しない。
無上有上対、念仏は無上の功徳を具しているが、諸善は有上功徳でしかない。
上上下下対、念仏は最も勝れた上上の法であるが、諸善は下下の法である。
思不思議対、念仏は不可思議の仏智の顕現であり、諸善は分別思議の法である。
因行果徳対、諸善は不完全な囚人の行であるが、念仏は阿弥陀仏の果徳を与えられた完全な法である。
自説他説対、念仏は阿弥陀仏自身が説かれた行法であり、諸善はそうではない。
回不回向対、諸善は衆生が回向しなければ往生行にはならないが、念仏は如来回向の法であるから、衆生は回向する必要がない。
護不護対、念仏は如来に護念せられる法であるが、諸善には護念はない。
証不証対、念仏は諸仏が証明されているが、諸善には諸仏の証明がない。
讃不讃対、念仏は諸仏に讃嘆される法であるが、諸善は讃嘆されない。
付嘱不嘱対、念仏は釈迦・弥陀二尊の本意にかなった法であるから付属されたが、諸善は付属されなかった。
了不了教対、念仏は仏の本意が完全に説き示された法であるが、諸善はそうではなかった。
機堪不堪対、念仏はどのような愚劣の機にも堪えられるように成就された法であるが、諸善は劣機には堪えられない法である。
選不選対、念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法である。
真仮対、念仏は真実の法であり、諸善はしばらく仮に用いられる方便の法である。
仏滅不滅対、諸善のものは往生しても入滅する応化仏を見るが、念仏往生のものは永久に入滅しない真仏を見る。
法滅利不利対、法減の時になっても念仏は滅びることなく衆生を利益し続けるが、諸善は滅びるから利益がない。しかし、これを法減不滅対と利不利対の二対に分ける説もある。
自力他力対、諸善は自力の法であり、念仏は他力の法である。
有願無願対、念仏は本願の行であり、諸善は本願の行ではない。
摂不摂対、念仏は摂取不捨の利益があり、諸善は摂取されない。
入定聚不入対、念仏は正定聚に入る法であるが、諸善は正定聚に入れない。
報化対、念仏は真実報土に往生する行であるが、諸善は化土にとどまる行である。

教法について念仏と諸善を比較すると、このような違いが明らかになってきます。ところで本願一乗海である念仏について考えてみると、あらゆる善根功徳が円かに融け合って、衆生の煩悩悪業にもさまたげられることなく、速やかに満足せしめていくという、比較を超えた唯一絶対の教法であることがわかります。

と仰っています。念仏と諸善とを徹底的に比較されて、念仏1つを説かれた方が親鸞聖人です。

その中で、

勧無勧対、念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない。

とある通りで、この意味が高森会長や講師部員には判らないのです。

読解力もなければ、経典も善知識方の御著書もまともに読んだことのない人の言っていることに、早く見切りを付けて下さい。

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2010年12月 9日 (木)

会員との問答(五逆罪、謗法罪について)

Q.悪凡夫の我々は、後生は無間地獄に堕ちるということではないですか?

A.そんなことを親鸞聖人は仰っていません。
講師部員の作っているあるブログで、聖者も含めて、一切衆生必堕無間だと言っている愚かな主張がありますが、その件でコメント欄でやりとりされています。しかし、何人かの方が、コメントを拒否されたと聞きました。管理人がコメントをした人に質問をしておきながら、答えを拒否するとは、実に親鸞会らしい汚い手口です。

その拒否されたコメントが
「親鸞会ポータル・ナビ」
に出ていましたので、紹介しておきます。

コメントが拒否されました。卑怯者のブログに書きたかった内容は、以下のことです。

****************************************************

読解力に問題のある人には、機の深信と罪悪観の違いも
理解できないことでしょう。
一々説明するのも面倒なので、結論を言います。

親鸞聖人は涅槃経を引文された後、五逆罪についての解釈を
されています。

一つには三乗の五逆なり。いはく、
一つにはことさらに思うて父を殺す、
二つにはことさらに思うて母を殺す、
三つにはことさらに思うて羅漢を殺す、
四つには倒見して和合僧を破す、
五つには悪心をもつて仏身より血を出す。
恩田に背き福田に違するをもつてのゆゑに、これを名づけて
逆とす。この逆を執ずるものは、身壊れ命終へて、
必定して無間地獄に堕して、一大劫のうちに無間の苦を
受けん、無間業と名づくと。

阿闍世を通して、三乗の五逆罪を説明されて、
故意に親を殺すことを指して、
必定して無間地獄」「無間業と名づく」と仰っています。

大乗の五逆罪でさえ、「無間業と名づく」とは仰ってません。
それを一切衆生が無間業を造っていると考える発想が、
根本的に間違っています。

御消息には、

弥陀の御ちかひにまうあひがたくしてあひまゐらせて、
仏恩を報じまゐらせんとこそおぼしめすべきに、
念仏をとどめらるることに沙汰しなされて候ふらんこそ、
かへすがへすこころえず候ふ。あさましきことに候ふ。
ひとびとのひがざまに御こころえどもの候ふゆゑ、
あるべくもなきことどもきこえ候ふ。申すばかりなく候ふ。
ただし念仏のひと、ひがことを申し候はば、
その身ひとりこそ地獄にもおち、天魔ともなり候はめ。
よろづの念仏者のとがになるべしとはおぼえず候ふ。

と仰って、最後の2文
その身ひとりこそ地獄にもおち、天魔ともなり候はめ。
よろづの念仏者のとがになるべしとはおぼえず候ふ。

で、「念仏をとどめらるること」をしている親鸞会の会長・
講師部員が、地獄に堕ちて、他の念仏者は地獄に堕ちる罪で
ないことを明示されています。

更には、

一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。
されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号を
となへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。
詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を
信ぜざらんは辺地に生るべし。

とまで仰っています。

三乗の五逆罪の解説も、御消息も嘘を仰っているということ
なのでしょうか。
もっといえば、涅槃経の中でお釈迦様が阿闍世に対して、
地獄に堕ちる罪ではないと、空の思想で教えられてますが、
解からないでしょうね。

簡単な話をすれば、われわれが直接目にする人間と畜生は、
存在しているのです。
破綻した話をいつまでしているの?

機の深信を地獄一定としか考えられないようでは、とても
理解できないできないことですよね。
コメントが拒否されました|1|2010-12-08 16:35

親鸞聖人が、地獄に堕ちる人の定義を仰った根拠を挙げられての、的確なコメントです。

判りやすくいえば、五逆罪、謗法罪を造った人は無間地獄に堕ちるのですが、全ての人が五逆罪、謗法罪を造っているのではありませんから、一般的には、六道を輪廻すると教えられるのです。

Q.親鸞会では、親を邪魔者と心の中で思っただけでも、五逆罪を造っているから必堕無間と教えられていますが?

A.今のコメントにもありましたように、

一つにはことさらに思うて父を殺す、
二つにはことさらに思うて母を殺す、
三つにはことさらに思うて羅漢を殺す、
四つには倒見して和合僧を破す、
五つには悪心をもつて仏身より血を出す。
恩田に背き福田に違するをもつてのゆゑに、これを名づけて
逆とす。この逆を執ずるものは、身壊れ命終へて、
必定して無間地獄に堕して、一大劫のうちに無間の苦を
受けん、無間業と名づくと。

これが五逆罪です。「ことさらに思うて」殺すのですから、心の中で思っただけでは、五逆罪ではありません。
ただし、自分の心を見つめたときに、縁がきたら親を殺してしまうような心がある、と懺悔されることは構いません。それと無間業とは違うということです。
万引きをしたいとたとえ思ったとしても、実際に万引きをしなければ、罪に問われることはありませんが、それと同じです。

Q.『口伝鈔』で「もとより罪体の凡夫、大小を論ぜず、三業みな罪にあらずといふことなし」と教えられていますように、心で思っただけでも、五逆罪になるのではないですか?

A.これは『口伝鈔』第20条にあるお言葉ですが、断章取義しているから、意味が判らなくなっているのです。長いですが全文と現代語訳も載せておきます。

一 罪は五逆・謗法生るとしりて、しかも小罪もつくるべからずといふ事。

 おなじき聖人(親鸞)の仰せとて、先師信上人(如信)の仰せにいはく、世の人つねにおもへらく、小罪なりとも罪をおそれおもひて、とどめばやとおもはば、こころにまかせてとどめられ、善根は修し行ぜんとおもはば、たくはへられて、これをもつて大益をも得、出離の方法ともなりぬべしと。この条、真宗の肝要にそむき、先哲の口授に違せり。まづ逆罪等をつくること、まつたく諸宗の掟、仏法の本意にあらず。しかれども悪業の凡夫、過去の業因にひかれてこれらの重罪を犯す、これとどめがたく伏しがたし。また小罪なりとも犯すべからずといへば、凡夫こころにまかせて、罪をばとどめえつべしときこゆ。しかれども、もとより罪体の凡夫、大小を論ぜず、三業みな罪にあらずといふことなし。しかるに小罪も犯すべからずといへば、あやまつても犯さば、往生すべからざるなりと落居するか、この条、もつとも思択すべし。これもし抑止門のこころか。抑止は釈尊の方便なり、真宗の落居は弥陀の本願にきはまる。しかれば小罪も大罪も、罪の沙汰をしたたば、とどめてこそその詮はあれ、とどめえつべくもなき凡慮をもちながら、かくのごとくいへば、弥陀の本願に帰託する機、いかでかあらん。謗法罪はまた仏法を信ずるこころのなきよりおこるものなれば、もとよりそのうつはものにあらず。もし改悔せば、生るべきものなり。しかれば、「謗法闡提回心皆往」(法事讃・上)と釈せらるる、このゆゑなり。

(現代語訳 石田瑞磨著『親鸞聖人全集 別冊』より)

一、罪は五逆・謗法を犯しても、浄土に生れることができると思って、しかもどんな小さな罪もつくってはならない、ということ。

同じ聖人の仰せであるといって、なくなられた師、如信上人が仰せられた。

世間のひとはつねに「どんな小さな罪でも、罪を恐ろしく思って、止めようと思えば心のままに止めることができ、善のたねは修め行おうと思えば蓄えることができて、これによって、阿弥陀仏の大きな恵みをうることもでき、またこれが迷いの世界を逃れる方法ともなるだろう」と思っている。しかしこの考えは、真宗の教えの根本にそむき、また先哲の口ずからお説きになったこととも違っている。まず、五逆罪などを造ることは、まったく諸宗の掟にふれるもので、仏法の本意ではない。しかしながら、悪を犯した愚かなひとは、その過去の宿業の原因にひかれて、これらの重罪をおかすのであって、これを止めることもおさえることも困難である。
また、「小さな罪であっても犯してはならない」と言うときは、愚かなひとでも思い通りに罪を犯さないでいることができる、とも受け取られる。しかしながら、もともと罪そのものを本性とする愚かものである以上、大・小の差別なく、身に行うこと、口に言うこと、心に思うこと、すべてが罪でないものはない。ところが、「小さな罪も犯してはならない」と言うときは、過って犯しても浄土に生れることはできない、と結着するものか。この点、よくよく考えをめぐらさなければならない。これは、仮に抑止する意味であろうか。抑止は釈尊の方便である。
しかし真宗の落ち着くところは阿弥陀仏の本願以外にはない。だから、小罪も大罪も、罪の詮索がしたいならば、どんな罪も犯さないでこそそのかいがあるので、犯さないでいることもできないあさはかな智慧を持ちながら、このように言うときは、阿弥陀仏の本願に帰して、身を託するものがはたしているだろうか。謗法の罪はまた仏法を信ずる心がないことからおこるものであるから、もともと浄土に生れる素質のあるものではない。しかし悔い改めるならば、生れることができるものである。だから、「謗法や闡提も回心すれば、みな浄土に生れる」と解釈されるのはこのためである。

ここで言われていることは、
まず、過去の宿業の原因にひかれて、五逆罪などの重罪を犯してしまうので、それを止めさせることは困難であることです。『口伝鈔』第4条にある

悪業をばおそれながらすなはちおこし

宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし

もし過去にそのたねあらば、たとひ殺生罪を犯すべからず、犯さばすなはち往生をとぐべからずといましむといふとも、たねにもよほされてかならず殺罪をつくるべきなり。

と言われていることと同じです。
ですから、凡夫は小罪を造らずに生きることができないが、小罪をも犯してはならないといわれるのは釈尊の抑止の方便であることを仰っています。
さらには、たとえ五逆罪、謗法罪を犯した悪人であってでも、阿弥陀仏は漏らさずに救ってくだされる摂取門を教えられています。

五逆罪を造る人もいれば、造らない人もいることがここでも判りますし、釈尊の廃悪修善の意味についても明らかにされています。
私たち悪凡夫は、五逆罪、謗法罪という大罪までは造っていませんが、小罪は造らずには生きていけないことを懺悔して、できるだけ慎むように努めましょうということです。

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2010年12月 8日 (水)

会員との問答(機の深信と罪悪観との違いについて)

Q.機の深信と罪悪観との違いがよく判りません。

A.親鸞会では、これが判っていませんので、機の深信がヘンテコな解釈になっているのです。

親鸞会の解釈の誤りについて、詳しく解説されているものがありますので、紹介しておきます。かなり長いですが、重要なところですので、よく読んでください。

「坊さんの小箱」
「本願力回向」

わかりやすい 宗義問答

(第2集)


(1) 真宗の信心とは

(2) 二種深信の意味

(3) 機の深信について

(4) 法の深信について

(5) 二種の関係について

宗義研究の会
(一)真宗の信心とは


問. どのような宗教においても「信心」は大切なこととされていますが、浄土真宗の信心は、他の教えでいわれるような信心とちがうのでしょうか。

答. 信心という言葉は同じでも、その意味内容は一つであるとは申せません。なぜかといいますと、それは信ずる法がちがうからであります。

問. どのように信心の意味内容がちがうのですか。

答.一くちに宗教といいましてもいろんな教えがありますから、それらの教えでいわれる信心の意味を一々とりあげて論ずることはできません。一応てもとにある辞書で「信心」の項をひらいてみますと、「神仏を信仰して祈念すること」と説明されてあります。これが普通にいわれる信心の意味であると考えてよいでしょう。 ところが、真宗の信心は阿弥陀如来の名号のいわれを聞いて、その救いの力にお任せすることであります。つまり、わたくしが仏に対して祈念するのではなくて、仏の尊い願いのお心がわたくしに届いて信心となってくださるのです。 「他力の信心」とか「御廻向の信心」とかいわれるのがその意味であります。したがって、〈信心する〉というような表現をしないで、 「ご信心をいただく」というふうに申すのであります。

問. 真宗の信心が他の教えでいわれる信心と異なることはわかりました。しかし、 「他力の信心」とはいわれましても、本当にこれをいただくためには命がけの真剣な聞法求道がなければならぬと思います。そういう意味で、単に頭で理解することは易いかも知れないけれども、わが身にかけてご信心を味わうということは至難のことだと思いますが、いかがでしょうか。

答. おっしゃるとおり、聞法はあくまで真剣でなければなりません。けれども、命がけの苦労をしなければご信心はいただけないというふうに決めてかかることは、他力真宗のご法義を誤るおそれがありますから、気をつけなければなりません。

問. でも、『大無量寿経』には、「もしこの経を聞きて信楽受持することは、難中の難、この難にすぎたるはなし」と説かれ、親鸞聖人も「真実の信楽まことにうること難し」とおっしゃっているではありませんか。

答. それは聖人が『正信偈』に「邪見キョウ慢の悪衆生、信楽受持すること甚だもって難し」とおっしゃるように、如来より廻向される純粋な他力の信心ですから、自力の心をまじえて得ようとするならば、これほどむつかしい信心はないという意味であります。

問. 親鸞聖人も比叡山で二十年間、血みどろになって求めぬかれ、三願転入してやっと他力の信に到達せられたのですから、わたくしたちもやはり祖師の歩まれたように、三願転入の経路をたどって、命がけで求めぬくところに、はじめて第十八願の他力の世界がひらけてくると思うのですが。

答. 三願転入は、自力を捨てて他力に帰入すべき旨をわたくしたちにお示しくださったのです。それを、わたくしたちも聖人と同じように、第十九願の諸行を修め、それから第二十願の自力念仏を励むというふうにせねばならないと考えるならば、かえって聖人のご苦労を無にし、聖人のお勧めにしたがわないことになりましょう。

問. わたくしがいいたいのは、なにも自力から他力へと順次にたどらねばならぬというのではありません。ただ第十八願の他力のお救いを客観的に聞いているだけでは駄目だと申すのであります。現にこのわたくしが出る息は入るを待たず、ただいまも無常の風にさそわれたならば永劫に苦界に沈まねばなりません。わたくしのこの現実が鬼であり、地獄である、と徹底して内観してゆくところに、はじめて泉が湧きでるように、 「われよく汝を救う」という如来のお慈悲にあわせていただくことができると思うのですが。

答. 他力のお救いを客観的に聞いているだけでは駄目だといわれることは、その通りにちがいあかません。しかし、お慈悲にあうためには、まず内観によって自己の罪悪を徹底的に掘りさげねばならぬといわれるならば、それは正しくありません。

問. でも、風呂に入るとき、着物をきたままで入る人がないように、お慈悲を聞かせていただくのに、心に着物をきて飾りたてていては、ご信心の味はいつまでたっても得られないのではありますまいか。つけてもらった教育も、おしえてもらった道徳も、ききおぼえた聴聞も、そのほかわたしの心を飾るあらゆるものをすっかり脱ぎすてたとき、いったい何が残るでしょう。お救いは如来のおはからいだと仰せられるのですから、如来にお任せしておけばよいので、わたくしたちは一切の飾りを捨てて、罪悪深重の愚か者である、と身を投げだすことによって、はじめて如来の真実の救いに遇えるのだと受けとめるのではいけないのでしょうか。

答. あなたは風呂に入るときのたとえを出して、わたくしの飾りをすっかり捨てて、如来の前に身を投げださねばならぬといわれますが、その飾りを捨てて身を投げだすことが、聞法の前提条件となり、わたくしの方からはからいをとってゆかねばならないと考えるならば、他力の信心とはちがうことにたりましょう。はからい多きわたくしが、聞法することによって、往生浄土についてのはからいがとれ、仏の仰せに信順する心がひらけるのであります。 真宗の信心のすがたは、機の深信と法の深信との二種に開いて明らかにされております。これを古来、二種深信と申します。この二種の深信を別々のように考えたり、機の深信が法の深信の前提であるかのように理解するのは誤りであります。


(二) 二種深信の意味


問. ソクラテスも「汝自身を知れ」といっています。親鸞聖人は「煩悩具足と信知して、本願力に乗ずれば……」とおおせられ、蓮如上人も「わがみはわろきいたずらものなりとおもいつめて、ふかく如来に帰入するこころをもつぺし」とおっしゃっています。「地獄一定」とわが身を見限ってこそ、はじめてそこに「かかる者が弥陀にたすけられる」という法の喜びが与えられるものと思います。これが善導大師のおっしゃる「二種深信」の領解であると思うのですが、いかがでしょう。

答. たくさんの文を引いて二種深信の解釈を述べられましたが、あなたは罪悪観と機の深信とを混同し ていられるようです。それでは深信ではなしに、自力の浅信になりましょう。罪悪観が獲信のための必然的な過程であるとはいえません。無常観より入信する人もありましょう。また人生の苦悩に泣いてそれから聞法する人もありましょう。善導大師の二種深信は、名号のいわれを聞いて疑いのとれた心相を、機と法との二面から示されましたので、機の深信から法の深信に入るとか、機の深信が法の深信の前提条件であるといったものではありません。

問. それでは、二種深信とはどのような意味なのか、説明してください。

答. 善導大師の『散善義』に、『観経』の三心についてくわしく解釈されてありますが、その深心の解釈に、
深心というはすなわちこれ深く信ずるの心なり。また二種あり。
一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、噴劫よりこのかた常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。 二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受したもう。疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生をうと信ず。
と示されてあります。はじめの深信は、救われるわたくし、すなわち機についてあらわされますから、「機の深信」とか「信機」とかいわれます。あとの深信は、救う如来の法について示されますから、「法の深信」とか「信法」とかいわれます。この二種は名号のいわれをお聞かせいただいて疑いの晴れた心相、すなわちわたくしのはからい心がとれて如来のお救いにうちまかせたすがたをあらわされるのです。

問. 「一つには」「二つには」と分けて、信機と信法とを示されているのですから、わたくしは地獄ゆきであると知らせてもらうことと、仏はそのようなわたくしをお救いくださるのであると知らせてもらうことと、明らかに二種の思いをおこすのではありませんか。

答. 二種にひらいてお示しくださってありますけれども、名号のいわれを聞いておこさしめられた他力信心のすがたを機と法との両面からあらわされたので、二種は別々の思いではありません。

問. 一つの信心のすがたであるならば、なぜ二種というのですか。

答. 真宗の信心は、わたくしの力はまにあわないと知らせていただいて、如来の願力におまかせすることであります。そこでこの信心を機のがわからいえば、自力がまにあわない(自力無功)と知って、わがはからいがすっかりとれることであり、法のがわについていえば、まったく仏にうちまかせ、仏にもたれきったということになります。わがはからいがすっかりとれることが、そのまま仏にすっかりうちまかせたことであり、仏にうちまかせたことが、そのままわがはからいのとれたことであって、この二種は別箇の心相ではありません。 このことは、二種深信の一々についてさらによくうかがえば、おわかりいただけるでしょう。


(三) 機の深信について


問. 機の深信の意味をお示しください。

答. 機の深信のご文は前にあげたとおりで、これは救われるわたくしのありのままのすがた、すなわち機の真実(機実)を知らされることであります。 「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」というのはわたくしの現在のすがたです。この罪悪は単に世間の法律や倫理などでいう悪だけではなく、如来の光によって照らし出されたわたくしの本性であります。うわべは善人らしくよそおい、人前ではりっばなことを言っていても、所詮は我利我欲にまどう罪深い凡夫であるといわれるのです。 「こう劫よりこのかた」等とは無限の過去からのすがたです。この世に人と生まれてから罪を造って迷うているだけではたくて、始めなき大昔から、いつも悪道に沈み迷界をさまよいつづけてきたというのであります。「出離の縁あることなし」とは、迷界を出るてがかりがないということです。これは前に示された現在と過去のすがたに対して、未来永遠にみずからの力では迷界を出ることができないわたくしである、という意味をあらわします。 そうしますと、機の深信とは、わたくしは現に罪深い迷いの凡夫であって、無限の大昔から迷いつづけ、今後も永遠に迷界を離れることのできない者である、と決定して深く信知することであります。

問. いまの「機の深信」の解釈によりますと、やはりわたくしの罪悪性を徹底的に見つめること、つまり曾無一善、唯知作悪、地獄一定の極悪人であるという自覚に徹することであると受けとれるのですが、そうではないのでしょうか。

答. 機の深信は、要するに自力無功と知らせていただくこと、つまり、迷界を出るためには わたくしの力はまにあわないと知らせていただいて、わがはからいを離れることであります。単に、自己の罪悪を徹底的に追究するということではありません。 『往生礼讃』の前序には、「深心」の意味を示して、
二つには深心、すなわちこれ真実の信心なり。 自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして、三界に流転して火宅を出でずと信知す(信機)。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声一声等におよぶまで定んで往生をえしむと信知して、いまし一念にいたるまで疑心あることなし(信法)。
とあらわされてあります。これは『散善義』のように、「一つには」「二つには」と分けてありませんけれども、やはり第十八願の真実信心のすがたを機と法との両面から示されたものであります。 『散善義』では「罪悪生死」と示されているのに対して、いまの『往生礼讃』では「善根薄少にして」と述べられてあって、『往生礼讃』の方が『散善義』よりも罪悪性の表現がゆるやかであります。けれども、わが力では迷界を出ることができないと知らせていただくという点では、両者は全く同一であります。

問. 同じ善導大師の著作でも、「善根薄少」といわれる『往生礼讃』は、『散善義』よりも前の著作で、思想的にはなお浅く、『散善義』に示された三世にわたる深刻な罪悪感こそ徹底した深い思想であると考えられないでしょうか。

答. 思想的に浅深の別があるなどと軽率にいうことは、つつしまねばなりません。善導大師の解釈によれば、『観経』の九品はすべて凡夫であって、上三品は大乗の善に遇った凡夫、中三品は小乗の善に遇った凡夫と世俗の善人、下三品は造悪の凡夫で、罪の軽重によって三品を分けられています。この善悪の凡夫が本願によって救われるのであります。ゆえに法然上人は『選択集』の第八の三心章に、いわゆる信疑決判の釈を示され、
まさに知るべし、生死の家には疑いをもって所止とし、涅槃のみやこには信をもって能入とす。ゆえにいま二種信心を建立して、九品の往生を決定するものたり。
と述べられてあります。上品や中品の善凡夫も己の善が浄土往生にまにあわず、下品の悪凡夫もその悪が往生のさわりにならず、善悪の凡夫がすべて己のはからいを離れて願力にうちまかせる信楽一心で往生させていただくのであります。 親鸞聖人は「その機は、すなわち一切善悪大小凡愚なり」と仰せられ、また「願力成就の報土には 自力の心行いたらねば 大小聖人みたながら、如来の弘誓に乗ずなり」と讃ぜられています。凡夫も聖者もすべてこの二種深信で報土の往生が決定するのであります。 これによって、単に罪悪感が深いとか浅いとかいうことで、機の深信が徹底しているか未徹底であるかを論ずることは、誤りであると知るべきでありましょう。

問. 凡夫も聖者も善人も悪人も、本願の信心をうれば浄土に往生し、本願を疑えば往生できないということは、よくわかります。その善人も聖者も、如来の前には極重の悪人であると知らしめられて、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」と気づかせていただくのが機の深信だと思いますが、いかがでしょう。

答. 善導大師は「自身は罪悪生死の凡夫」と仰せられ、わたくしどもも罪悪生死の凡夫であることは勿論であります。しかし、菩薩・聖者といわれるような方々を罪悪生死の凡夫とはいえません。そのような聖者がたのいただかれるご信心も、われわれ罪業の凡夫のいただくご信心も、一つであります。たとい聖者善人であっても、その善根や知恵では報土往生にはまにあいません。したがって、下品下生の悪機と同じく、自力を離れて他力に乗ずるのであります。存覚聖人の『六要鈔』に二種深信の意味を示されて、
「無有」等とは、まさしく有善無善を論ぜず、自功をからず、出離ひとえに他力にあることを明かす。……自力功なきを知るによって、ひとえに仏力に帰す。
等と解釈されてあります。自力がまにあわないと知らせていただいて、他力に帰することが肝要であって、すべての者が罪悪感に徹底せねばならぬなどとはおっしゃっていません。

問. 自己の罪悪感に徹しなくて、どうして他力の法水が入りましょうか。自分こそ下品下生の悪人であって地獄ゆきであると気づかしめられて、はじめてこれをお救いくださる法がいたたせかれるのではないでしょうか。

答. お救いにあずかるためには、どうしても自己の罪悪感に徹しなければならぬようにお考えのようですが、ほんとうに自己の罪悪のすべてを知りつくすことができるでしょうか。この世に生をうけて今日まで、罪でないと思ってしていることが実は罪であるという場合もありましょう。まして無始よりこのかた生々世々に造ってきた罪業、また未来に造るであろうところの罪業、それらの全体は到底はかり知ることができないでありましょう。 〈ほんとうに自己の罪悪感に徹した〉などと考えることは、ひとりよがりのうぬぽれではないでしょうか。あるいはまた、一時的な罪悪意識の高まりにすぎないのではないでしょうか。

問. 三世にわたる己の罪業をすべて知りつくすことはできないでしょう。けれども、現にわたくしは恐ろしい根性をかかえた極悪人であるということは、法を聞くことによって知らせていただけます。〈自分はそれほど悪人ではない〉というような不徹底な罪悪感でどうして他力のお救いがわかりましょうか。まして、〈自分にもなにがしかの善根はある〉というような考え方では到底他力に帰することはできないと思います。この点いかがでしょうか。

答. 〈自分はそれほど悪人ではない〉とか、〈自分にも善根はある〉などと思えというのではありません。わたくしは勿論罪業深重の凡夫であり、悪人であります。 しかし、罪悪感に徹することがお救いの必須条件のように考えることは誤りである、というのであります。人はそれぞれ性格が異なり、環境もちがいます。内向的な人もあれば外向的な人もいます。また凡夫と聖者との別があり、凡夫の中にも善悪の不同があり、悪にも軽重があります。したがって、その罪悪感も百人百様であります。そのような罪悪感を機の深信と考えるならば、機の深信は人によって千差万別とたります。それでは自力各別の信となりましょう。 『御伝紗』に、
信心のかわるともうすは自力の信にとりてのことなり。すなわち智慧各別なるがゆえに信また各別なり。
と仰せられ、
他力の信心は、善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、源空が信心も善信房の信心も、さらにかわるべからず。ただひとつなり。
と示されています。みずからの罪業を問いつめて、身をふめわせて号泣したからといって、必ずしも機の深信が徹底したとはかぎりません。また罪深いわたしであるとお聞かせいただき、事実そのとおりであると気づかせていただいていても、いっこうに深刻な罪悪感におののくことなく、ケロリとしているからといって、その人は機の深信がない、と一概に断定することはできません。
要は自力無功と知らせていただいて如来にうちまかせた心相、これが真宗の信心であります。

問. いまのお答えの中に、「みずからの罪業を問いつめて泣いたからといって、機の深信が徹底したとはかぎらない」とか、「深刻な罪悪感におののかないからといって、機の深信がないと一概に断定はできない」といわれますが、どうしてそんなことがいえるのですか。

答. みずからの罪業に気づいて号泣したとしても、それは一時の感情の高まりであって、それだけでは本物とはいえません。時がたてば泣いたことが嘘のように平気になり、またまた三毒の煩悩に身を焼くのが凡夫ではないでしょうか。ですから、そんな一時的な感情の高まりだけで、機の深信が徹底したなどと考えることは早計であります。 これは法の深信についても、同様のことがいえましょう。尊いお慈悲をお聞かせいただいて、感激にむせぶほどの喜びを味わったとしても、その感激の時に法の深信がいただけたとか、そんな経験がなければご信心をいただいたとはいえないなどと、一概にいうことはできません。
これはみずからの罪業を問いつめて泣くことがいけないとか、感激にむせぶことがいけないなどと申しているのではありません。ただそうした一時的な感動をもって獲信の確証であるかのように誤認し、そのような体験をあてにすることは、気をつけねばならないというのであります。 おのれの罪に泣くもよし、また泣けなくてもよし、感激にむせぶもよし、むせぶことができなくてもよしであります。要は、自分の機ざまを眺めて、それをあてたよりにすることなく、あてたよりになってくださる如来の願力にうちまかせた心相、それが他力の信心であります。

問. 自分を罪深いとも思わず、お慈悲を有難いとも思わなくても、ご信心がいただけるといわれるのですか。

答. そのようなことを言っているのではありません。仏願の生起本末を聞いて、わが身の罪深いことを知らせていただき、このようなわたくしをお救いくださる仏の慈悲をよろこばせていただくことは、いうまでもありません。 ただ、おのれの罪業を問いつめて泣くほど徹底せねばならぬとか、躍りあがるほどに喜びが満ちあふれねばならぬとか、そういう規格をつくって、それにあてはまらねば本当のご信心ではないというふうに考えることが、誤りであるというのであります。

問. 蓮如上人の御文章には、
ただわが身はつみふかきあさましきものなりとおもいとりて、かかる機までもたすけたま えるほとけは阿弥陀如来ばかりなりとしりて、 (五帖十二通)
とか、
ひとしれずつみのふかきこと、上臈にも下主にもよらぬあさましき身なりとおもうべし。 (五帖十四通)
等と示されてあります。これらのご文は罪深い身であると思わねばならぬというお勧めだと思いますが、いかがでしょう。

答. 御文章の一部分だけをつかまえないで、よく全体の思召しを味わわねばなりません。五帖第十二通の御文章は、そのつぎに、
なにのようもなく、ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖に、ひしとすがりまいらするおもいをなして、
等とおっしゃってあり、五帖第十四通の御文章も、そのつぎに、
それにつきては、なにとように弥陀を信ずべきぞというに、なにのわづらひもなく、阿弥陀如来をひしとたのみまいらせて、……さて、わが身のつみふかきことをばうちすてて弥陀にまかせまいらせて、
等と示されています。そのほかに「一心一向に阿弥陀如来たすけ給えとふかく心にうたがいなく信じて、我身の罪のふかぎ事をばうちすて、仏にまかせまいらせて」(五帖四通)とか、 「機をいえば十悪五逆の罪人たりとも、五障三従の女人なりとも、さらにその罪業の深重に こころをばかくべからず。ただ他力の大信心一つにて真実の極楽往生をとぐべぎものなり」(五帖十五通)
等と示されてあります。 機実(わたくしの本当のすがた)をいえば、罪業深重のいたずら者でありますが、その罪業を徹底的に問いつめねばならぬとおっしゃるのではありません。 「罪のふかきことをばうちすてて」とか「罪業の深重にこころをばかくべからず」とおっしゃるのであります。罪業はどれほど深くても、それを気にかけずともよい。かかる罪深き私をたすけんという本願を起こしてこれを成就せられた阿弥陀仏の法であるから、はからい離れて弥陀にまかせよ、とお勧めくださるのであります。

問. 「なにのようもたく弥陀にまかす」については、その前に自分の罪業を徹底して知らねばならないでしょう。自己の罪業の深さに徹しなくては、本当に弥陀にまかすことはできないと思いますが。

答. あなたは、どこまでも、みずからの罪悪感の徹底ということを獲信の必須条件のように考えていられますね。罪業深重のわたくしであるということは、如来の智慧によって見通されたわたくしの本当のすがたであります。勿論、法をお聞かせいただくことによってそれが知らしめられるのでありますが、その罪業の深さに徹するとはどういうことでしょうか。何か己の罪を徹底的に問いつめて、どうにもこうにもならぬと絶望の極に達するといった体験をすることを指すのであれば、それは思い誤りであります。 親鸞聖人は「無漸無愧のこの身」とおっしゃっています。 〈自分は本当に罪業の深さに徹することができた〉と思うたらば、それこそ大きなうぬぽれでありキョウ慢でありましょう。罪深い身であると知らせていただきながら、けっこう人なみ以上の善い人間であるようなつもりでいることよ、と反省慚愧せしめられるのが、本当にご法義が聞こえたすがたではたいでしょうか。

問. 善導大師の示された二河白道のたとえは、信心のすがたをあらわされたものと聞いております。あのたとえの中に、
時にあたりて惶怖すること、また言うべからず。すなわちみずから思念すらく。われいまかえらばまた死せん。とどまらばまた死せん。ゆかばまた死せん。一種として死をまぬがれず。
等と、いわゆる三定死が示されています。これは自分の煩悩悪業を知って、どうにもこうに
もならぬと、心の底からおそれおののく心境だと思います。これが二種深信の機の深信にあたるのではないでしょうか。

答. 二河白道のたとえは、おっしゃるように信心のすがたをあらわされたものであります。しかし、その中に示されてある三定死を機の深信であると考えるのは、大きな誤りです。 三定死は、まだ釈迦・弥陀二尊の発遣・招喚の声を聞かない前の状態であります。いいかえますと、まだお名号のおいわれが信受されていない時の行者の心相であります。だから、「惶怖すること、また言うべからず」と、おのれの罪におそれおののいているのです。 二種深信の信機は二尊の遣喚のお声が聞こえた心相、いいかえますと、お慈悲が届いたところにおこる心相であります。これは、あとに、
あおいで釈迦発遣しておしえて西方に向かわしめたもうことをこうむり、また弥陀の悲心 招喚したもうによりて、いま二尊のおんこころに信順して、水火二河を顧みず、念々にわ するることなく、かの願力の道に乗じて、
等とおっしゃってあります。この「水火二河を顧みず」というのは、己の罪に恐れおののくことではありません。前にあげた蓮如上人の御文章に、 「わが身のつみのふかきことをばうちすてて」とか、 「罪業の深重にこころをばかくべからず」とありましたとおり、罪はいかほど深くてもそれを心にかけることなく、はからい離れて仏願力にまかせきったすがたであります。

問. 三定死はまだ他力の信を得る以前の心相であり、二種深信の信機は如来の喚び声が届いたところに起こさしめられる心相であることは、よくわかりました。けれども、他力の信を得るについては、必ず三定死の境地を経がければならないのではないのでしょうか。

答. 二河白道のたとえでは、三定死の次に二尊の遣喚を聞いて、そして願力の道に乗るという順序で示されてありますが、入信の経路も必ずそのとおりでなければならぬと考えることは正しくないでしよう。遣喚を聞く前と聞いた後とでは、自力と他力との相違があって、それは要門と弘願とのちがいをあらわされたものと窺われるのであります。たぜならば、善導のご解釈の上に、弘願に入るためには必ず要門を経なければならぬというお示しはなく、要門を廃して弘願他力を勧められるからであります。親鸞聖人の三願転入(第十九願の諸行の法から、第二十願の自力念仏に入り、更に第十八願の他力念仏に入る)のご解釈も、すべての人がこのような経路をたどらねばならぬといわれるのではありません。方便の法を捨てて真実の法に帰すべき旨をあらわされるのであります。


(四) 法の深信について


問. つぎに、法の深信について解説して下さい。

答. 法の深信というのは、救いの法の真実(法実)を知らせていただくことであります。その文は前にかかげたとおりです。 「かの阿弥陀仏の四十八願は」と申しますのは、ことばは総じて阿弥陀仏の四十八願全体をあげていられますけれども、別しては第十八願の意味であります。第十八願には、衆生に名号を信じさせ称えさせて、もし往生させることができなければ仏にならぬ、とお誓いになってあります。そのお誓いのとおりに成就されたのが阿弥陀仏でありますから、衆生に信じさせ称えさせて往生させてくださるのは、この第十八願の成就したすがたであります。四十八願はそれぞれに仏の願いが誓われてありますけれども、要は衆生を救わねばおかぬという願いのほかはありません、ですから四十八願の全体が第十八願の一つにおさまってしまうのであります。言い換えますと、第十八願をひろげたものが四十八願ということになります。そこで、今は第十八願の意味を示すのに、「四十八願は」と総じてお出しになったのであります。
「衆生を摂受して」とは、わたくしどもをお救いくださることであって、その「衆生」というのは、まえの機の深信に示された罪悪生死で迷界を出ることのできないわれわれ凡夫であります。 「疑いなく慮りなく、かの願力に乗じて」等というのは、うたがいためらうことなく如来のお救いにうちまかせることであって、「かの願力」とは衆生を摂受したもう阿弥陀仏のお力であり、「乗じて」とは乗託(おまかせ)することであります。 そこで法の深信とは、阿弥陀仏は必ずわたくしをお救いくださるから、わたくしのはからいを去って如来の願力におまかせして、まちがいなく往生させていただく、と明らかに信知することであります。

問. 疑いぶかいわたくしどもは、「疑いなく慮りたく」といわれましても、到底ほんとうに疑慮不安から解放されることは不可能だと思います。このような心のままで救われるのである、と考えてよろしいのでしょうか。

答. 疑慮不安と決定深信とは、ま反対であります。疑慮不安のとれたのが真実信心であります。ですから、疑いの心があるかぎりは真実信心ではありません。したがって真実報土の往生はえられません。

問. それではどのようにして「疑いなく慮りなく」という心相になることができるのでしょうか。

答. 願力をお聞かせいただいて無疑無慮の心相になるのです。衆生を救うことにおいてまちがいのない法でありますから、これを聞いたわたくしの心相も、まちがいなく救われることよと無疑無慮にならせていただけるのです。
法の深信の「無疑無慮」は、下の文をつけて、「疑いなく慮りなくかの願力に乗じて」と読むときは、願力に乗託するわたくしの信じぶりに不安がないこと、何の綾府蝉もなくおまかせできたことをあらわします。これを上の文につけて、「衆生を摂受したまうこと疑いなく慮りなし。」と読みますと、衆生を救う願力の法に不安がないこと、法のお救いにまちがいたいことをあらわします。救う法が無疑無慮の法だから、これを知らせていただいた衆生の信じぶりも無疑無慮にならせていただけるのです。それが願力の聞ごえたすがたであります。

問. まちがいのない救いの法を聞くといわれましても、これを聞くわたくしに智慧の眼がないのですから、どれほど確かであると思い定めても、やはり何らかの不安は残りましょう。それがわたくしども凡夫の心情ではありませんか。

答. どれほど確かであると思い定めても何らかの不安は残るというのは、わたくしの思慮分別であるかぎり、当然でありましょう。しかし真宗の信心は、わたくしの思慮分別で思い定めるものではありません。 あすはよいお天気にちがいないとどれほど確信しても、それはあくまで自分の判断であって、天気そのものはあてになりませんから、ひょっとしたら雨が降るかも知れないという不安は残ります。しかし、明日は夜があけないかも知れないと心配する人はありますまい。なぜなら、時がくれば必ず夜はあけることにきまっているからであります。 まちがいなく救うの法を聞かせていただきながら、なお不安が残るということは、救いの法をあるがままに受取っていないことであります。まちがうことのない確かな法を知らせていただけば、おのずから自力疑心はとれてしまいます。それがおまかせできたすがたであります。

問. まちがいのない法を聞いてすっかりおまかせするか、おまかせしないかは、ぎりぎりのところでわたくしの宗教的決断であるといえましょうか。

答. その宗教的決断ということが、やはりわたくしの思慮分別でありましょう。口では「まちがいのない法を聞いて」といわれますが、ひょっとしたらという不安が残っているから、決断をせねばならないのです。そのような決断は他力の信心とは申せません。

問. 要するに、信仰はわたくしの知識の延長線上にあるのではなく、そこには飛躍がある。知識を越えたところに信仰があるということでしょう。信仰は一種の「かけ」(賭)であって、本願を信じて救われるか救われないか、そんなことはわたくしにはわからない。だが、自分は本願を信じて救われるという方にかけるのである。こう理解してよいでしょうか。
答. それはたいへんな誤りであります。信仰はたしかに単なる知識の延長ではありません。けれども、あなたがいまいわれるような「かけ」ではありません。はっきりと信知させていただくのであります。

問. でも、『歎異抄』の第二節に、 念仏はまことに浄土に生まるるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるたり。たとい法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。
等と示されてあります。これは〈往生できるかどうか知らないけれども、自分は法然のいうことを信ずる方に賭ける、それでもし地獄におちても悔いはない。どうせ地獄ゆきの身なのだから〉という意味にとれます。それが「疑いなく慮りなくかの願力に乗じた」心持ちではないでしょうか。

答. 『歎異抄』のその部分だけ読みますと、あるいはあなたの考えるようにも見えましょう。しかしよく全体の意味を考えて、何を言おうとされているのかを、あやまりなく受けとらねばなりません。 いったい、どのような相手に対して、どのような問題について、どのような意図で聖人がそういわれるのであるか。その背景を心得てうかがう必要があります。ここでくわしく解説することはさしひかえますが、要を申しますと、「総じてもって存知せざるなり」といわれるのは、往生できるかどうかわからないという不安を述べられたのではありません。人に言いまどわされて、念仏往生について不審をいだいたお同行がたずねてきたのに対し、聖人はそのようなことは如来のしろしめすところであって、わたしの関知するところでない、学問沙汰は要らぬ、はからいは無用だ、ということをおっしゃるのでありませす。また〈法然上人にだまされて地獄におちても後悔はない〉といわれるのも、地獄におちるかも知れぬという心配があるということではなくて、わたくしの本来もっている性質が地獄ゆきであって、わが力では絶対に助かる見込みがない身であることをいわれるのであります。ですから、つぎに「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と仰せられるのです。これは二種深信の機の深信にあたります。つまり、自力はまにあわないと知らせていただくことであります。 ゆえに、あとの文に「弥陀の本願まことにおわしまさば」等といって「親鸞が申す旨またもってむなしかるべからずそうろうか」といわれる。ここには人間のはからいのむなしいことと、如来の救いのむなしくないこととが、聖人の信の内容としてあざやかに示されていることを知るべきであります。

問. 機(わたくし)のすがたをながめれば、真実信心などさらになく、あるものは妄念煩悩ばかりで、往生いかがの不安もいっこうに消えぬ。しかし、法のお手元をながめれば助くるにまちがいない。このように心得て溢りますが、これで宜しいでしょうか。

答. それでは機と法とが別々であって、一信心の内容となっていません。助くるにまちがいないという法が聞こえたならば、往生いかがの不安はとれます。往生いかがの不安があるということは、助くるにまちがいない法が本当に聞こえていないこと、法がいただかれていないことであります。もちろん信後にも妄念煩悩は依然としてあり、地獄ゆきの自性に変わりはありませんが、信後に真実信心がないというのは、わけのわからぬことになります。

問. そうはいわれましても、わたしの心の中には真実心はありません。親鸞聖人も『悲歎述懐和讃』に、「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」とおおせられています。真実信心がいただけたと思うのは、自力の信になると思いますが。

答. それはちがいます。あなたは真実心と真実信心とを混同していられます。この真実心というのは真実清浄の心のことで、妄念煩悩の反対であります。そのような真実心がわれらの上にあるとは申されません。真実信心というのは妄念煩悩の身のままで願力にうちまかせた心相であります。そのうちまかせる以外に別に真実なるものが、わたくしの心の中にできるのではありません。 『悲歎述懐和讃』の「浄土真宗に帰すれども」等といわれるのは、本願を信受してはいるけれども清浄真実の心はないという意味であって、真実信心がないということではありません。これは救われた者の反省であり慚愧であって、そのままが法悦の中にあります。


(五)二種の関係について


問. 機の深信と法の深信とについて、それぞれの意味は、おおむね理解することができました。 しかし、自分が罪悪生死の凡夫で迷界を出ることができないと信知することと、如来の願力はこのようなわたくしを必ずお救いくださると信知することと、信知の内容が二つあるように思われます。しかも、法の深信の方は如来の願力におまかせするのですから他力ということはよくわかりますが、機の深信の方は自分の罪深いことを知ることですから、これは他力とはいえないと思いますが、いかがでしょう。

答. おたずねは二つですね。一つは信知の内容は二つであろうということ、もう一つは機の深信は自力であろうという疑問です。 はじめに信知の内容が二つあるのでないことを明らかにしましょう。機の深信はわたしの力がまにあわないと知らされることですから、往生成仏についてのわたくしのはからいがすっかり取れたこ之であります。ゆえに、信機(機の真実を信知すること)は、そのまま捨機(わたくしのはからいを捨て離れた)ということであります。法の深信はわたしをお救いくださる如来の願力を知らせていただくことですから、往生成仏についてすっかり願力におまかせできたことであります。そこで、信法(法の真実を信知すること)は、そのまま託法(願力の法にまかせた)ということであります。 このように信機は捨機であり、信法は託法でありますから、捨機即託法であって、別々の心相でないことがおわかりいただけるでしょう。わたくしのはからいがすっかりとれたのでなければ、如来にすっかりおまかせできたとはいえません。また如来にすっかりおまかせできたのでなければ、わたくしのはからいがすっかりとれたとはいえないのであります。したがって、信機の方は他力ではなかろうという疑問も、おのずから解消するでしょう。

問. 二種ともに他力の信心であることはわかりました。しかし機の深信は自己の罪悪性の問題で、自分が地獄ゆきの悪人であると知らしめられることでありましょう。これを知らされることが先決問題で、これが知られてはじめてお救いの法を受け入れることができると思われます。こういう意味で、信機が前で信法が後であるといえるのでは加いでしょうか。

答. それは誤りであります。信機信法の二種は阿弥陀仏の名号のいわれを聞かせていただくことによっておこさしめられた一信心の内容にほかなりません。前にお答えしたとおり、捨機即託法であって、捨機が前で託法が後であるというのはまちがっています。

問. 機法二種の深信は名号のいわれを聞くことによっておこさしめられる一信心の内容であるということを、もっとわかるように説明してください。

答. 第十八願成就文に「その名号を聞いて信心歓喜し」等と説かれてありますのを、親鸞聖人が解釈せられまして、
経に「聞」というは、衆生仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし。これを聞というなり。 「信心」というは、すなわち本願力廻向の信心なり。
等とおおせられてあります。これによりますと、「名号を聞く」とは「仏願の生起本末を聞く」ということであります。「仏願の生起本末」というのは、これを「仏願の生起」と「本」と「末」とに分けてうかがうことができます。 まず「仏願の生起」というのは、本願のおこりということであります。掃除器のおこりはゴミであり、電灯のおこりは夜の闇であります。ゴミがあるからこれを掃除する器具が考案せられ、夜は暗いからそのために電灯が発明せられました。阿弥陀仏の本願は迷いの衆生がいるためにおこされたので、本願のおこりは迷いの衆生であります。その迷いの衆生とは、ほかならぬこのわたくしであります。聖人の常のおおせとして、 『歎異抄』に、
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。
といわれるのは、この意味であります。 「本」とは因本の義で、阿弥陀仏が因位のとき、衆生を救うための願をおこし、行を修せられたことであります。 「末」とは果末の義で、因位の願行が成就して阿弥陀仏となられ、因位の願いのとおりに現に衆生を救いつつある果上の力をいいます。 この中で、仏願の「生起」は機であり、「本末」は法であります。この仏願の生起本末を聞いて、その通りに領解されたのが信心でありますから、おちるわたし(機)をお救いくださる願力(法)であることよ、と知らされます。この機と法とは切り離して考えることはできません。そのような名号のいわれを聞くことによっておこさしめられる信心ですから、信機と信法とは二種一具であって、前後はないのあります。 もし、信機が前で信法が後であるならば、信法の前の信機は真実信心でないことになりましょう。また、それでは二種は別々であって、一具とはいえません。

問. 信機と信法とが二種一具ということは、救われない者が救われるということで、〈救われない〉と〈救われる〉とは相反する内容であり、矛盾である。けれどもその矛盾のままが一信心として成り立つところに、真宗の救済の特異性があると考えて宜しいでしょうか。

答. それもまちがっております。救われない者が救われるといえば矛盾のように聞こえますが、実は矛盾ではありません。機の深信における無有出離之縁(迷界を出ることができぬ)ということは、わたくしの自性を示したものであって、他力によっても迷界を出ることができぬという意味ではありません。阿弥陀仏の願力によっても絶対に救われない者が阿弥陀仏の願力によって救われるというのであれば、矛盾でありましょう。しかし今はそういうことではありません。わたくしの自性をいえば罪悪生死の凡夫で、わが力では迷界を出ることができぬ。そのわが力で迷界を出ることのできないわたくしを救うのが、阿弥陀仏の法であります。 ゆえに、機と法とは矛盾するのではなくて、この機のためにこの法が成就せられ、この法はこの機を救うためにある。救われる機と救う法とは切り離すことのできない関係にあるのであります。

問. 二種深信は一具であって、前後もなく、また矛盾でもないとすれば、この二種は同時に並んで起こるのですか。

答. 同時に並んで起きるのであれば、二種は別々の心相にたります。二種深信はそのような別々の心相ではありません。名号のいわれを聞いて、おちるわたくしがお救いにあずかると知らせていただく、つまり信機信法の二種は一具であります。信機は捨機であり信法は託法でありますから捨機即託法といわれることは、すでにくりかえし述べたとおりであります。

問. 一枚の紙に裏表があるように、信機と信法との二種は一つの信心の表と裏とであると考えてよろしいでしょうか。

答. 表裏というと、どちらが表でどちらが裏かということになって誤解されるおそれがあります。往生についてすっかりわたくしのはからいがとれたということと、往生についてはすっかり如来さまにおまかせできたということとは、同一のことであります。

問. 同一のことであれば、二種といわずにどちらか一種だけでもよいのですか。

答. 信機か信法のいずれか一種だけならば、他力の信心ということは明らかにならないでしょう。わたくしのはからいがすっかりとれたことが、そのまま、如来さまにおまかせできたことであり、如来におまかせできたことが、そのまま、わたくしのはからいがすっかりとれたことである。こういう信心でなければ、他力真実の信心ではありません。

問. 最近、二種深信の解釈として、信機のところでは浄土は無限に遠い未来のものど感じ、信法のところでは浄土は今ここにあってふれるものである、という人がいるようです。こういう理解のしかたはいかがでしょうか。

答. 今のおことばだけでは、そのいわんとする意味がよくわかりませんが、信機と信法とを相反する二つの心相として見ていられるようですね。もしそうだとすれば、それは二種深信の正しい解釈とはいえないでしょう。また二種深信は信心の相状の問題であって、浄土が遠いとか近いとかいうような問題ではありません。

問. 「松影の暗きは月の光かな」という歌でたとえられますように、月の光に照らされて、はじめて松影の暗いことがわかる。松影の暗いことが知れたのは月の光に照らされたことにほかならぬ。みずからの罪業の重いことを知らされたときが、すなわち他力のお救いがいただけたときである。わが身の罪深きことが本当に知られないで、お救いをいただいたというのは、それは本当のお救いではないと思いますが、どうでしょうか。

答. その歌そのものは、法の光りに照らされて自分の罪深いことが知らされるという意味に味わってよいと思われます。けれども、「みずからの罪業の重いことを知らされたときがすたわち他力のお救いがいただけたときである」というのは、誤解を生ずるおそれがあります。なぜかと申しますと、罪の重いことを知ることが、お救いにあずかるための条件となって、いわゆる機責めということが行われたり、自己反省の内観を強制して、一種の秘事法門のようたかたちにおちいる危険があるからです。

問. おちるわたくしをお救いくださる法であると知られたのが他力の信心であるたらば、初起一念はたしかにおちるわたくしがお救いにあずかることになりましょうが、第二念以後の相続の上は、もはやお救いにあずかった身ですから、おちるわたしではない。したがって二種深信は初起一念の心相であって、信後にはもはや信機はないと考えてよいでしょうか。

答. それはとんでもない考えちがいであります。信後といえどもわたくしの自性は変わりません。依然として煩悩具足の凡夫であって、わが力では迷いを出られないわたくしであります。その自性のままで摂取の益をいただき、正定聚不退の身にならせていただくのです。ですから、
二種深信は初後一貫、臨終の一念にいたるまで同じ心相であります。

問. 信心をいただいてお救いにあずかれば、もはや地獄に落ちられない身となるのでありましょう。それに依然として罪悪生死の凡夫で迷いを出ることのできないわたくしであるというのは、矛盾ではありませんか。

答. 矛盾ではありません。石は沈むのが自性であります。その石が船に乗せられたならば、沈む自性のままで沈まずに川を渡ります。船に乗せられた石は沈まない石に変わったのではたく、目方も変わりませんが、船に乗せられたために沈まないだけであります。わたくしどもも、この肉体がなくなるまでは地獄ゆきの自性は変わりません。それが変わるのは臨終一念のときで、浄土に生まれて、さとりの仏と変わるのであります。

問. でも、ご法義を聞かせていただいてお救いにあずかれば、やはり信前に比べて大きなちがいがあるのではないでしょうか。信前も信後もちっとも変わらないのであれば、平生業成とか信益同時とかいわれることが無意味なものになると思われますが、この点はいかがでしょうか。

答. それはたしかに信前と信後と大きなちがいがありましょう。信後には、まず第一にお救いにあずかった大きな喜びがあります。それから日常の生活においてもいろいろと変わる面がありましょう。みずからを省みてたしなみ、またすこしでも如来の思召しにそうように、よりよき生活を心がけることもできましょう。しかし、煩悩具足の凡夫でなくたるわけではなく、地獄ゆきのお粗末な自性が変わるわけではありません。聖人が、
浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわがみにて 清浄の心もさらになし
とおおせられ、また、 悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを 喜ばず、真証のさとりに近づくことをたのしまざることを、恥づべし、いたむべし。
とおおせられるのは、この性得本来の機の相が変わらぬことを省みて悲傷せられたおことばであります。もちろん、それは単なる罪悪感による畏怖(おそれ)ではなく、如来のお慈悲にいだきとられた己のすがたを恥じていられるのであって、その恥じられるままが広大な法の喜びの中にあります。この点は信前の無漸無悦とは大がわりであります。

問. 二種深信というのは、とても複雑微妙なもので、容易には理解し得ないむつかしいものですね。

答. いいえ、決してそんなにむつかしいものではありません。一文不知の尼入道でもお聞かせにあずかれば必ずいただける、「こころえやすの安心」であります。聖人のお勧めを謙虚にお聞かせいただけば、ほんにやさしいおみのりであったことよと、心から喜んで受けいれることのできる尊いお味わいであります。よくよく聞かせていただいて、まちがいのないように領解させていただきましょう。



あとがき 浄土真宗の安心は、わたくしの往生成仏については、一切のはからいを捨て去って、如来の願力に任せきることであります。善導大師はこれを二種深信として示され、宗祖親鸞聖人はそれを承けて、『教行信証』の信文類に詳しく解明せられています。 しかるに、この二種深信について、いろいろの誤った受取りかたがなされているようであります。たとえば、深刻な自己内省による罪悪感を機の深信であると考え、あるいは、激しい情緒的な感動の体験をもって法の深信であると見なし、そのほか機法二種の深信について、二心に前後の別があるとし、また二心が並び起こると思い、さらには、二心は矛盾した心相であると考える、等々であります。 そこで、今回は機の深信・法の深信とはいかなる心相であるか、また二種の関係はどのようであるか、といったことについて、さまざまの問題を提起して、これをできるだけ平易に解説した。 もとより、平易に解説するとはいっても、内容が宗意安心の大切な問題でありますから、一読しただけではすぐにおわかりいただくことができないかも知れませんが、二度・三度と読みかえしていただいて、正しい領解を得てくださる一助ともなれば幸いであります。
昭和四十九年八月 宗義研究の会
編集者 宗義研究の会 伝道振興部

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2010年12月 7日 (火)

会員との問答(機の深信について)

Q.善人も、機の深信で地獄一定と知らされるのですか?

A.機の深信ということを誤解しています。機の深信とは自力無功と知らされることです。

機の深信について善導大師は『散善義』

一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。

と仰っています。もう一つ『往生礼讃』にもあります。

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。

自分の力では出離できないということであって、地獄一定と知らされるのではありません。『往生礼讃』の方では、「善根薄少」ですから、善人が善をしていても、その程度の善では出離はできないということであって、地獄一定という意味にはなりません。
機の深信を地獄一定と仰った善知識方はありません。

存覚上人は『六要鈔』の中で二種深信を

次に深心を釈する中に、「二者」等とは、これ経文を牒す。「深」等というは、能信の相を明かす。「亦有」等とは、所信の事を顕かす。これ則ち機法二種の信心なり。「無有」等とは、正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力に在ることを明かす。聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて、偏に仏力に帰す。これに依りて、この信は殊に最要なり。「無疑」等とは、「若不生者不取正覚」、正覚既に成ず、故に無疑という。「即得往生住不退転」一念誤ることなし、故に無慮という。

と解説されていますが、簡単にいえば、

機の深信=自力無功
法の深信=他力全託

です。これが今日の真宗学における二種深信の基本です。

親鸞会では罪悪観と機の深信の区別が全くついていませんので、こんな基本的な誤りを犯すのです。

Q.六道を出離した聖者はどうですか?

A.基本は同じです。聖者であっても、仏ではありません。聖者が地獄に堕ちることはありませんので、もちろん地獄一定などと知らされることはある筈がありません。

聖者ではあっても、自力では真実の報土に往生することはできませんので、

機の深信=自力無功

です。このことを山辺習學・赤沼智善著の『教行信證講義』で、判りやすく解説してあります。

 弥陀を信ずると云ふことが、単に、一心帰命と発表せられた場合には、起らなかった問題が、この機の深信の発表によって起った。夫は此の機の深信が、凡夫のみならず聖者にも通ずるのであるかと云ふ問題である。これを凡聖通局論と称す。
 この問題は、見方によりては、甚だ有益にして、興味のあるものである。即ち言葉を換へて云へば、他力宗教の於ける聖者の意義とでも云ふべきである。所が一方他力教それ自身に於ても、龍樹、天親の二祖を菩薩と称して聖者の部類に入れてあり、そして二祖の著書の上にも、この機の深信が明示されていないために、この問題は、内外の聖者に対する興味あるものとなったのである。
 従って問題の起因は、甚だ簡単である。即ち聖者の意義である。自力の修道によりて得たる證りは、果して真正なる證りであるかと云ふことである。所詮聖者と称せらるる人々は、卓越した能力を以つて、凡人以上の高尚なる精神生活をしてゐても、其中心に迷ひの根の断ち切れてをらぬかどうかと云ふのである。聖道の教へにありては、盛んに衆生も佛も同一であると談じて、道を修めてをるけれども、或は天に向ひて、バベルの塔を築いてゐるやうな愚を演じてをるのではなかろうか。素より漸次に努力すれば、凡人以上の高い立場の上に立つことが出来るけれども、上れば上るほど、哀心は益々絶対に対して取りつくことの出来ぬ悩みがあるのではないか。若しその悩みを感ぜずして、自己の現在の立場を楽しみ、夫を自負し、夫を固執するならば、知らず知らず驕慢の煩悩に捕へられてゐると云はねばならぬ。強く云へば、人間として生れた以上は、純善無漏の聖者と云はるる人は一人もなく、皆、中心には迷ひの根切れのしない所がありはせぬかと云ふのである。龍樹、天親二祖の如きも、善導大師の如く、明瞭に機相を打ち出されてはないけれども、一心に如来に乗託せられたことに依りて見れば、或は罪悪の根低たる自我の真相に触れて、自力無功を自覚して、他力に帰せられたことかも知れぬ。聖者と凡夫の間には、境遇や思想の相違から、等しく自力無功を自覚するにも、其感味は種々に異ることであらうが、其自己の真相に触れる點に至っては、同一であるかも知れぬ。或は聖者の方が、自力の高い山上から叩き落ちる點に於て、一層明瞭に此機相を自覚するかも知れぬ。我聖人の胸中には、御自身の實験上から、此凡聖是一の思想をもつてをられたことは明らかであるように思はれる。

この後も解説は続きますが、要するに自力無功ということが述べられているのです。

『高僧和讃』善導讃には

願力成就の報土には
 自力の心行いたらねば
 大小聖人みなながら
 如来の弘誓に乗ずなり

(現代語訳)

本願力で完成した浄土には、
自力の心や修行では至れないので、
大乗・小乗の聖人がみなともに、
阿弥陀如来の弘き誓いにおまかせするのである。

とあります。聖者の位にいる方々も、自力では報土に往生することができないので、報土に至るには他力18願に帰さなければなりません。

この次の御和讃で、機の深信について仰っています。

煩悩具足と信知して
 本願力に乗ずれば
 すなはち穢身すてはてて
 法性常楽証せしむ

(現代語訳)

煩悩まみれであると信じて、
本願の済いにまかせるならば、
必ず迷いの身を捨てて、
さとりの自由を得させていただける。

煩悩具足と信知して」が機の深信です。「大小聖人」も「煩悩具足と信知して」ですから、ここは我々底下の凡夫と共通しているところです。

それが親鸞会でも有名な『教行信証』信巻

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。
如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。
すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。

です。
衆生には、仏に成れるような因である清浄心、真実心がないことを最初に仰っています。これを「機無」と言います。善が一切できないではなく、仏に成れるような善ができないです。
この「機無」を本として法蔵菩薩が衆生のために本願を建てて下され、清浄心、真実心をもって行を行じられ、名号を成就なされたことを仰ったのが第二・第三文で、「円成」と言います。
第四文は、不可思議功徳の名号を阿弥陀仏が衆生に向って等しく与えて下されることを仰ったもので、「回施」と言われます。
最後の二文は、他力回向の真実心を衆生は賜わるので、自力の一切混じるものではないことを仰っています。

悪人は悪しかできないことで六道から出離できず、聖者は真実の善ができないから真実の報土に往生できないことが知らされるのです。

これだけはっきり教えられているにも関わらず、機の深信を地獄一定と言い続けている哀れな人達が、高森会長と講師部員です。

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2010年12月 6日 (月)

会員との問答(十方衆生について)

Q.19願に「十方衆生」とあるから、19願は我々に関係がない筈がない、と親鸞会では教えていますが?

A.完全なトリックですね。

聖道門の人は、18願に「十方衆生」とあっても、自分たちが18願に関係あるとは思っていません。18願の「十方衆生」とは、下劣根機、つまり悪人のことだと思っています。19願の「十方衆生」とは、上根機、つまり善人のことだと思っています。

一方で、浄土門の善知識方は、19願に「十方衆生」とあるから、全ての人に関係があることだとは言われていません。
先に述べたように、法然上人は19願についてほとんど言及さえされていませんでしたので、聖道門から非難されたくらいです。蓮如上人の『御文章』を読んでも、19願について書かれたところはありません。

高森会長のたとえを使えば、ある国の大統領選挙に立候補した人が、「私が大統領に当選したら、所得税を撤廃します」と公約したとします。国民全員と約束したのですが、国民全員に直接関係があるのではありません。所得税を払っていない人には、関係のないことです。
これが、「国民全員に、定額給付金を出します」となれば、関係のない人はありません。国民全員との約束ではあっても、約束の内容によって、国民全員に関係があるかないかが分れるのです。

高森会長が、人集め金集めのために19願を利用する口実として、「十方衆生」を持ち出しただけのことです。

Q.三願転入は親鸞聖人の教えの根基といわれていますが?

A.高森会長が勝手に言っているだけです。高森会長は、親鸞会の35周年大会の際に、”三願転入の教え”を突如言い始めて、その直後から、「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」と言い出しました。つまり、そんな大事な「親鸞聖人の教えの根基」を今まで話をしてこなかったのです。いわば、秘密の法門です。

元々は大沼法竜師が、『本派本願寺の危機 どちらが異安心か』という著書の中で、
大沼は三願転入を根基として布教して居るのだ
と書かれたのが最初です。大沼師は、本願寺の無帰命安心を批判するために、信前信後のあることを親鸞聖人の三願転入の文で説明しただけで、高森会長の言っている意味で、三願転入を使っていた訳ではありません。

Q.では、親鸞聖人には19願についての言及がありますが、どのようなものですか?

A.親鸞聖人も、19願の「十方衆生」については、聖道門の人と同じで、上根機と解釈されています。
それは、『大無量寿経』の異訳経からもいえますが、まとめると以下になります。

  大無量寿経19願の十方衆生
平等覚経 諸佛國人民有作菩薩道者(諸々の仏国の菩薩道をなす者)
大阿弥陀経 八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道(諸々の仏国の菩薩道をなす善男人善女人)
尊号真像銘文 「唯除五逆誹謗正法」がないから、五逆・謗法の者は除かれている
化土巻・要門釈 半満・権実の法門(聖道門)を断念した人
西方指南抄 諸行の人
浄土和讃 定散諸機

要するに、19願の「十方衆生」とは善人のことであるというのが、聖道門、浄土門共に共通した見解なのです。
従って、高森会長の解釈は、浄土門でないことはもちろんですが、聖道門とも違っているのです。

18願は悪人正機
19願は善人正機

ということです。このことを法然上人は判りやすく教えておられます。
『勅伝』に

上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすゝめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすゝめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」

とあります。善人に勧められた教えと、悪人に勧められた教えを区別されていることを知った上で、我々最下の凡夫は、悪人に勧められた教えを聞いていくことで、信心決定し、往生ができるのです。
高森会長の教えは、まさしく「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり」なのです。
まともに真宗の先生について仏教の勉強をしたことがないから、阿弥陀仏の本願を独自のデタラメ解釈に陥り、浄土門でも聖道門でもなくなった新興宗教と化しているのです。

Q.そうなると、善人には18願は関係ないということですか?

A.この疑問が、念仏弾圧の原因になったことは、先に説明した通りです。法然上人は、18願1つを説かれたのですが、聖道門の人たちの考えでは、18願は悪人に対してのことで、聖道門の修行をしている善人には19願や聖道門を勧めるのが筋ではないのか、という非難です。尤もな理屈です。
懐感禅師は『群疑論』に

『観経』の下品上生、下品中生、下品下生の三処の経文には、みなただ弥陀仏を念じて浄土に往生すと陳ぶ。

と書かれ、それを源信僧都が『往生要集』

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

と言い換えられています。それを親鸞聖人はそのまま承け継がれて『高僧和讃』

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と仰っているのですから、極重の悪人には18願しかないことは間違いないことですが、善人には関係ないように思うのもある意味しかたのないことです。

確かに、善人には聖道門や19願といった法門があるのですが、最終的には全ての人が18願に帰依しなければ真実の報土に往生できないと、聖道門からの非難に対して反論されたのが親鸞聖人の『教行信証』なのです。

化土巻・要門釈には、19願では化土往生しかできないことを仰った後、結論として

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

(現代語訳)

また 観無量寿経に説かれる定善・散善を修めるものについて、 きわめて罪が重い悪人はただ念仏すべきであるとお勧めになっているのである。 五濁の世のものは、 出家のものも在家のものも、 よく自分の能力を考えよということである。 よく知るがよい。

と仰ったお言葉に、親鸞聖人の19願に対するお考えが集約されているでしょう。
『正像末和讃』にある

像法のときの智人も
 自力の諸教をさしおきて
 時機相応の法なれば
 念仏門にぞいりたまふ

と共通するものです。龍樹菩薩や天親菩薩のような方でさえも、18願に帰依されたのだから、自分の能力をよく知って、18願他力念仏を信じて下さい、というお言葉です。

このようなことを踏まえられて三願転入の文を読まれれば、三願転入が我々に関係があるのかないのかが、自ずとお判り頂けるでしょう。

もちろん聖道門自体に対しても

まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。

(現代語訳)

いま、まことに知ることができた。聖道門のさまざまな教えは、釈尊の在世時代と正法のためのものであって、像法や末法や法滅の時代とその人々のためのものではない。すでにそれは時代にあわず、人々の資質に背くものである。浄土の真実の教えは、釈尊在世の時代にも、正法や像法や末法や法滅の時代にも変りなく、煩悩に汚れた人々を同じように慈悲をもって導いてくださるのである。

と仰っています。

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2010年12月 5日 (日)

会員との問答(聖道門と浄土門の違い)

M野氏ではないと否定されている方が、意味不明の負け犬の遠吠えをブログに書いて騒いでいるそうですが、私も暇ではありませんので読む気にもなりません。
問答の方を続けます。

Q.支部長は、「高森先生は体験と教学を具えた蓮如上人以来の善知識だから、阿弥陀仏の御心、親鸞聖人の真意を正しく理解できるのは、今日、高森先生以外にはおられない」と言っていますが、どう思いますか?

A.高森会長が講師部員に言わせているのでしょうが、自惚れも甚だしいでしょう。

善導大師は『散善義』

仏はこれ大悲を満足したまへる人なるがゆゑなり、実語したまふがゆゑなり。仏を除きて以還は、智行いまだ満たず。その学地にありて、正習の二障ありていまだ除こらざるによりて、果願いまだ円かならず。これらの凡聖はたとひ諸仏の教意を測量すれども、いまだ決了することあたはず。

(現代語訳)

仏は大いなる慈悲をまどかにそなえた方だからであり、その説かれた言葉はまことだからである。仏以外のものは、智慧も行もまだ十分でなく、それを学ぶ位にあり、煩悩もその習気もまだすべては除かれていないので、さとりを求める願いも、まだまどかに成就していない。したがって、これらのものは、たとえ仏のおこころを推しはかっても、確かに知ることはまだできないのである。

と書いておられますが、たとえ菩薩であっても、仏の御心を知ることはできないと仰っています。
また『玄義分』

仏の密意弘深なれば、教門をして暁りがたし。三賢・十聖測りて闚ふところにあらず。いはんやわれ信外の軽毛なり。あへて旨趣を知らんや。

(現代語訳)

仏の思し召しは広くて奥深いから、その教えは容易に知ることができない。三賢・十聖という位にある菩薩でさえはかり知ることはできないのである。ましてわたしは十信の位にも入ることのできない愚かな凡夫である。どうしてその思し召しを知ることができようか。

と善導大師御自身のことにまで言及されています。善導大師のような大変に優れた方であってさえも、菩薩でもないのだから、仏の御心を知ることなど、とてもできることではないと仰っています。

ましてや、善導大師、親鸞聖人がはっきり仰っていることも理解できずに珍しい解釈をしている高森会長が、

私は阿弥陀仏の本願を説き切っています

などと言っているのですから、おこがましいにも程があります。仏になったつもりでいるのでしょうか。

法然上人は『三心料簡事』で、

凡そ聖道門は智慧を極めて生死を離れ、浄土門は愚痴に還りて極楽に生る。

と仰っています。
親鸞聖人も法然上人のお言葉を『御消息』で紹介されて

故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを御覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまひしをみまゐらせ候ひき。文沙汰して、さかさかしきひとのまゐりたるをば、「往生はいかがあらんずらん」と、たしかにうけたまはりき。

と仰っています。

聖道門の道理を浄土門に持ち込んでいるのが、高森会長です。獲信したら、多くの真理が判る智慧を体得するかのように教えていますが、獲信して知らされることは、愚者であるということです。獲信を、自力で智慧を体得することと同じと考えているところが、実にお粗末です。

はっきり言えば、高森会長は、自力聖道門と他力浄土門との違いさえも理解できていないのです。もちろん、高森会長の言葉を鵜呑みにしている講師部員は、論外です。

もし本当に獲信していて愚者を自覚するならば、聖教とは異なることを平気な顔をして話などできる訳がないでしょう。
私は愚者を自覚していますので、聖教に基づいてしか話ができません。



Q.聖道門と浄土門の違いについてもう少し詳しく教えてもらえますか。

A.聖道門では、阿弥陀仏の本願の中で19願を最も尊重します。

聖道門は、此土入聖といって、諸行によってこの世で聖者の位に入り、成仏を目指すものです。19願は、聖道門と同じ行を阿弥陀仏に回向することで、往生して成仏するというものです。ですから、聖道門の人にとりましては、19願は聖道門に近いものと考えてきました。

ところが、法然上人は往生のためには念仏1つと教えられ、諸善を捨てよ、18願だけが阿弥陀仏が選び取られた本意の願であると仰ったので、聖道門から激しい非難があったのです。
判りやすく言えば念仏弾圧の背景には、法然上人が、聖道門の尊重する19願と諸善とを排斥したことがあったのです。

承元の法難の直接の切っ掛けとなった『興福寺奏状』には、

ここに専修、此のごときの難を蒙らんの時、万事を顧みず、ただ一言に答へん、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」と。何ぞ爾許の大願を隠して、ただ一種を以て本願と号せんや。

とありまして、阿弥陀仏の本願は48あるのに、18願だけというのはおかしいと言っているのです。

また法然上人が亡くなられた後、明恵上人高弁が『摧邪輪』を著して、

解して曰く、発菩提心は、是れ仏道の正因、是れ体声なり。専念弥陀は、是れ往生の別行、是れ業声なり。汝が体を捨てて業を取るは、火を離れて煙を求むるがごとし。咲ふべし、咲ふべし。まさに知るべし。これらの解釈の文は、皆菩提心においては、置いてこれを論ぜず、ただ所起の諸行についてこれを判ず。しかるに本願の中にさらに菩提心等の余行なしと言うは、何が故ぞ。第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云々。是れ本願にあらずや。

と具体的に19願を出しています。

一方18願、念仏に対しては、『興福寺奏状』に

善導一期の行ただ仏名に在らば、下機を誘ふるの方便なり。

とあり、また『摧邪輪』には、

往生宗所引の念仏の善の証文には称名の外に無量の余行あり、一一出すに邊あらず、若し彼を撥すれば念仏の深義また成ずべからず、若し汝の言う所の如く一文を守らば称名行は是れ下劣根機の為に説く所也。
(中略)
称名一行は下根の一類の為に授ずくる所也。汝何ぞ天下の諸人を以て皆下劣の根機と為す乎。無礼之至り称計す可からず、此の文証を引くに依りて称名行を執らずに非ず、唯是汝之一門、称名を以て無上殊勝の行と為し、余行を撥して下劣と為す。

とあるように、18願、念仏は悪人のための方便の願であるのに、それを万人にまで適応させるとは無礼ではないか、とまで激しく攻撃しているのです。

要するに、18願だけ、念仏一行を説かれた法然上人は間違っている、と非難している訳です。これは真実と方便が反対で、善人悪人の意味の違いはありますが、高森会長が本願寺を非難している論理と同じです。

逆に言えば、それほど法然上人は18願1つ、念仏だけを強調された方であったということです。実際に法然上人は19願については、言及さえほとんどありません。

この『摧邪輪』に反論されたのが、親鸞聖人の『教行信証』です。もちろん、親鸞聖人は、法然上人が18願念仏往生1つと仰ったことの正しさを、膨大な経論釈を引かれて証明されたのです。浄土真宗の常識中の常識です。

たとえ聖教を読んだことがなくても、日本の浄土仏教の歴史を少しでも学んでいれば、高森会長のような主張が、浄土門から大きく外れた、それどころか破壊するものであることがお判り頂けるのではないでしょうか。

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2010年12月 4日 (土)

会員との問答(宿善について)

Q.親鸞会では、過去世からたくさん善をしてきた宿善の厚い人が早く救われると教えていますが、これはどうですか?

A.間違いです。

それは善人が早く救われ、悪人が遅く救われるということを言っているのと同じです。もしそうであれば、今生で聖道門の修行を真面目にしている人は、過去世から善をしてきた善人ですから、直ちに18願で救われてもよい筈ですが、聖道門の修行をしている人は、18願を悪人のためのものと見下していますので、無宿善の機といえます。

一方で、『観無量寿経』には、五逆罪の下品下生のものが、平生に悪ばかりし続けてきて、仏法を聞くこともないのに、臨終に善知識に遇って、臨終の苦しみの中でやっとやっと念仏を称えて往生すると説かれています。
このことを『選択本願念仏集』には

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

とありますし、『唯信鈔文意』でも解説をなされています。

「汝若不能念」(観経)といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」(観経)とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。

「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」(観経)といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。

(現代語訳)

『観無量寿経』に「汝若不能念」と説かれているのは、五逆・十悪の罪を犯した人や、私利私欲のために教えを説いたものが、病の苦しみに阻まれて、心に阿弥陀仏を念じることができなければ、ただ口に「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。これは称名念仏を本願の行としてお誓いになっていることをあらわそうとされているのである。続いて「応称無量寿仏」と説かれているのは、この意味である。「応称」は、称えよということである。

『観無量寿経』に「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」と説かれているのは、五逆の罪を犯した人はその身に八十億劫の十倍の罪をもつことになるので、十回「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。一回の念仏で八十億劫の十倍の罪を消すことができないのではないけれども、五逆の罪がどれほど重いのかを人々に知らせるために、このようにいわれているのである。「十念」というのは、ただ口に念仏を十回称えよというのである。このようなわけで、選択本願に「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」と誓われていると『往生礼讃』にいわれているのは、阿弥陀仏の本願は、念仏するのがたとえ十回ほどであっても、みな浄土に往生することができることを知らせようと善導大師がお思いになって、「十声」といわれているのである。「念」と「声」とは同じ意味であると心得なさいというのである。「念」を離れた「声」はなく、「声」を離れた「念」はないということである。

因果の道理を元に考えたならば、過去世の行いが現在世に影響するのですから、下品下生のものは、過去世から無善で、悪ばかり造ってきたことになり、親鸞会でいう無宿善のものとなる筈です。これでは無宿善のものが、往生することになり、矛盾でしかありません。

Q.ということは、今生で善を好んでいるかどうかという有様をもって、宿善の厚い人が早く救われ、宿善の薄い人が遅く救われるという親鸞会の宿善論はおかしいということですか?

A.全くその通りです。

親鸞会でも教えている実例をだせば、耳四郎は強盗、殺人、放火を平気でしてきた人でしたが、法然上人の御法話に盗みに忍び込んで、そこで法然上人の話をたまたま聞いて救われたとされています。ここでも矛盾がありますので、最近は耳四郎の話はなくなりました。

親鸞会の発想は、聖道門と同じです。天台大師智顗が著したとされる『浄土十疑論』では、臨終に善知識に遇って十回の念仏で往生を遂げる五逆罪を犯した者は、宿世に善を行ってきた宿善業の強い人であったので往生できるのだ、と『観無量寿経』の下品下生を解釈しています。今生では、悪縁によって極悪人になってはいますが、元々は善人であるという苦しい解釈です。

しかし、浄土門の善知識方で、そのように解釈された方はありません。過去世からの極悪人がそのまま救われるのが18願です。

『口伝鈔』では、

機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるところなり。しかればまつたく、往生においては善もたすけとならず、悪もさはりとならずといふこと、これをもつて准知すべし

と教えています。過去現在の善悪は、往生とは関係ないのです。更には、

たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。

とまで仰っています。

一方、親鸞会では

今年、阿弥陀仏に救われた人(獲信者)は、昨年、自己の修した善をふりかえり、宿善と喜ぶことになります。
獲信と、よい関係にある、修善をすすめることは間違いでしょうか?

と教えており、浄土門とは相容れないのです。

聖道門と浄土門の違いは、善人正機と悪人正機の差です。親鸞会の宿善論は、善人正機の聖道門の発想です。

Q.そういえば、高森会長は盗作・浄財の私的流用を何十年もし続けていますし、講師部員も窃盗などの犯罪を行ったものがいると噂で聞いています。宿善が誰よりも厚い筈の高森会長と講師部員が悪を好む姿は、宿善論の破綻を教えてくれているような‥‥

A.親鸞会の宿善論は、完全に破綻しています。

会長や講師部員は、18願の救いは悪人正機なのだから善をしなくてもいいし、善をしていると嘘をついても構わないと思っているのではないですかね。
耳四郎は、信後も泥棒は止められなかったそうですから、会長や講師部員は耳四郎の真似をしているつもりかも知れません。しかし、耳四郎の場合は、泥棒を止めようと努力して止められなかったので、昔よりも益々嘘をつき通そうとする会長とは違います。

会長の目的は、会員に善を勧めて、献金と人集めを促して、私欲を満たすこととしか言えません。
三願転入論、宿善論、方便論、すべてが同じ理由で教えが故意にねじ曲げられています。

ちなみに、18願の救いと、善の有無を関係付ける心を自力の心というのです。
自力の心を捨てよ、ということは、親鸞会の三願転入論、宿善論、方便論を捨てよということです。親鸞会の間違った考え方を捨てない限り、他力に帰すことはありません。

それが『唯信鈔文意』

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず

(現代語訳)

自力の心を捨てるということは、大乗・小乗の聖人、善人・悪人すべての凡夫、そのような色々な人々、さまざまなものたちが、自分自身を是とする思いあがった心を捨て、わが身をたよりとせず、こざかしく自分の悪い心を顧みたりしないことである。

です。経典にも、善知識方の御著書にも書かれてなく、そんな解釈を誰もしていないことを

これこそが誰も明らかにできなかった親鸞聖人の真意だ

などと言っていること自体が、「みづからが身をよしとおもふこころ」の典型です。

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2010年12月 3日 (金)

会員との問答(方便について)

前回の続きです。

Q.親鸞会では方便よりしか真実に入れないと教えていますが?

A.方便の意味が根本的に間違っています。
方便といっても、善巧方便と権仮方便とがあります。教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)』の補註にあるものが判りやすいと思います。

 方便とは、仏が衆生を救済するときに用いられるたくみな方法をいう。その中に真実と権仮とがある。真実の方便とは、仏の本意にかなって用いられる教化の方法で、随自意の法門をいう。それは、大智を全うじた大悲が巧みな方法便宜をもって衆生を済度されるというので、善巧方便ともいう。阿弥陀仏を方便法身というときの方便がそれである。
 権仮方便とは、未熟な機は直ちに仏の随自意真実の法門を受けとれないから、その機に応じて、仮に暫く誘引のために用いられる程度の低い教えをいう。機が熟すれば真実の法門に入らしめて、権仮の法門は還って廃せられる。このように暫く用いるが、後には還って廃するような随他意の法門を権仮方便という。「方便化身土」といわれるときの方便がそれである。
 親鸞聖人は四十八願の中で、往生の因を誓われた第十八願、第十九願、第二十願のうち第十八願のみが真実願であり、第十九願、第二十願は方便願であるとされた。第十八願は、他力回向の行信によって、真実報土の果を得しめられる真実願であり、第十九願は、自力諸行によって往生を願うものを、臨終に来迎して方便化土に往生せしめることを誓われたものであり、第二十願は、自力念仏によって往生を願うものを、方便化土に往生せしめることを誓われた方便願であるといわれるのである。そしてこの三願は、聖道門の機を浄土門に誘うために第十九願が、自力諸行の機を念仏の法門に導き、さらにその自力心を捨てしめて第十八願の他力念仏往生の法門に引き入れるために第二十願が誓われたとされている。

これが理解できれば、『蓮如上人御一代記聞書』の以下のことも判ると思います。

一 蓮如上人仰せられ候ふ。方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふと[云々]。

少し解説しておきますと、「方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし」の「方便」は「廃立の義」ですから、捨てるべき権仮方便のことです。最後の文は文字通り、「善巧方便」のことです。「真実の信」は、「善巧方便によりて」うるのであって、「権仮方便によりて」ではありません。
権仮方便は捨てるべきものなのです。
判りやすくいえば、権仮方便が真実と思い込んでいる人にとっては、それが権仮方便となるのです。権仮方便が捨てものと理解できて信じている人には、必要ありません。


Q.未信の人は、真実も方便も判らないのではないか?

A.貴方は、18願が真実で、聖道門、19願、20願が方便と知って理解し、そして信じているではないですか。
聖道門の人は、18願が真実だと浄土門で教えていることは知っていますが、18願が真実とは全く思っていません。聖道門こそが真実であり、18願は下劣の者を聖道門に導くための方便と思っています。
19願での往生を願っている人は、19願こそが真実であり、18願はやはり方便と思っています。
ところが貴方は、18願が真実であること、聖道門、19願、20願が方便であることを知って理解し、信じています。聖道門の人、19願での往生を願っている人と明らかに違います。未信だからといって、外道を信じている人、聖道門の人、19願での往生を願っている人も同じだという発想が、親鸞会のトリックです。

蓮如上人が『御文章』3帖目第12通で仰っている

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。

宿善の機無宿善の機とは、まさにこのことです。18願が真実だと信じている未信の人が宿善の機であり、18願が真実とは思えずに、外道を信じている人、聖道門の人、19願での往生を願っている人のことを無宿善の機というのです。
18願が真実だと信じている未信の宿善の機に対して、親鸞聖人の教えを説きなさい。
18願が真実とは思えずに、外道を信じている人、聖道門の人、19願での往生を願っている無宿善の機には、親鸞聖人の教えを説いてはいけない、と蓮如上人は仰っているのです。明らかに区別されています。
貴方は
宿善の機です。

ですから、宿善の機には18願1つでよいのです。蓮如上人は19願について全く説かれていません。


Q.では宿善の機には方便はないのですか?

A.それが善巧方便です。
『教行信証』信巻・別序に

真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。

と仰っていまして、「権仮より顕彰せり」ではありません。善巧方便とは、真実の方便であり、随自意の法門です。
この善巧方便を具体的に描かれたのが、『教行信証』信巻末にある阿闍世の物語です。一見すれば、略されてもよいように思われる部分までも、事細かに引文されています。実に『教行信証』全体の1割も費やされて、親鸞聖人が伝えられたかったことは、衆生が善巧方便によって導かれることと、五逆罪を犯した極悪人をも洩らさず、普く救われることです。


Q.つまり、高森会長は方便の意味さえも理解していないということ?

A.半分は当っているでしょう。しかし、半分は権仮方便が不要と思いながら、私利私欲のために権仮方便の19願諸善を利用している確信犯でもあります。

その証拠は、親鸞会結成の年である昭和33年に発行された高森顕徹著『顕正』にあります。

 然るに、わが浄土真宗は、このような十九、二十の本願に当る浄土宗とは違って十八願の願意である、信心正因、称名報恩の仏意を弘通する教えであるから、信前の人にも信後の人にも、始終一貫して信心正因、称名報恩の教えを勧めなければならない。
 勿論、機には未熟の者もあるから、いくら信心正因、称名報恩、信心が往生の正因であり称える念仏は報謝だから、早く信心決定して報謝の念仏称える身になって下さいと勧めても、直にその通りになれない人もあろうけれども、それは機の過失であって法門は常に信因称報の仏意を説き示さなければならない。
 喩えば、虎の手本をみて虎を描こうと思っても、どうしても最初の間は虎ではなく猫の絵になってしまうが、たゆまず屈せずアキラメず虎の手本を見て描いているうちに本当の虎の絵がかけるようになるように、手本は如何に信心正因、称名報恩でも機執によって、そのようになれず、或は定散自力の称名となり、称名正因となるものもあろうが、たゆまずアキラメず信心正因、称名報恩の教えを勧めていれば、やがてその真意を諦得出来るようになるのである。
 或る画家が弟子に虎を描かす為に虎の手本を渡した。ところが弟子のかいたものは、どうみても虎ではなく、猫の絵であった。画家は再三描かせてみたが、やはり猫しか書けなかった。そこで師匠は虎をかゝせることをあきらめて猫の手本をわたした。その弟子は一生猫より描くことが出来なくなったという。
 未熟な人に合せて信心正因、称名報恩の教え以外の法門を説いて信心を得る方法には称名せよなどと教えればあたかも猫の手本を与えて虎をかく方法とするようなものである。故に教家は常に虎の説法をしなければならないのである。

とまで書いています。19願、20願を説く布教師のことを激しく非難しているのです。高森会長が親鸞会を作った時は、18願1つを説かなければならないと断言していたのです。
それが、会の運営資金にも苦労し、華光会、本願寺、創価学会に対抗するための組織拡大に心を奪われて、間もなく法を曲げ始めたのでしょう。

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2010年12月 2日 (木)

会員との問答(19願、諸善について)

親鸞会の会員からよく質問されることについて、回答例を簡単に作ってみました。

Q.19願をなぜ建てられたのか?

A.聖道門の人を浄土門に誘引するためです。
『教行信証』化土巻・要門釈の最初に

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

と仰っています。
前半は

外道の人が半字教(小乗仏教)、満字教(大乗仏教)、権教(四車家の立場から聖道門内の三乗)、実教(四車家の立場から聖道門内の一乗)、つまり聖道門に入るといえども、真実のものははなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多い。

です。外道から聖道門に入っても、聖道門の教えを実践していける者が甚だ少ないことを仰ったお言葉です。

それを承けられて釈尊は、福徳蔵(観経の定散二善)を説かれた、と仰っています。聖道門の修行に堪えれない人のために観経を説かれたということです。その御心は阿弥陀仏の19願にあったというのです。

その元は、法然上人の『西方指南抄』(親鸞聖人御真筆)に

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也。

とあることを受け継がれたものと言えるでしょう。
『浄土和讃』で19願の心を解説なされた

臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり

に仰っておられる通りです。「定散諸機」とは、親鸞会で教えているような「定散二善の意味ではありません。定善の機、散善の機ということです。
『正信偈』の「矜哀定散与逆悪」『正信偈大意』の「されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり。」とあるように、定散の機」と「五逆の機」は別であると仰っています。


Q.19願は十方衆生にとって必要か、必要でないか?

A.上記の通り、19願は善人にとっては必要な人もありますが、悪人には必要ありません。

『教行信証』行巻には『往生要集』をそのまま引用されて

『往生要集』にいはく、「『双巻経』の三輩の業、浅深ありといへども、しかるに通じてみな〈一向専念無量寿仏〉といへり。三つに四十八願のなかに、念仏門において別して一つの願を発してのたまはく、〈乃至十念 若不生者 不取正覚〉と。四つに『観経』には〈極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得〉」と。

と仰り、また『高僧和讃』源信讃にも

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と親鸞聖人は仰っています。

もちろん『正信偈』には、

極重悪人唯称仏

と書いておられます。

以上を承けられて蓮如上人は『正信偈大意』に

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり

と仰っています。「極重の悪人」には、他力念仏以外の方便はないのです。

逆の言い方をすれば、善人には他の方便があるのです。他の方便とは、聖道門、19願、20願になります。


Q.釈尊は韋提希に善を勧められたのではないのか?

A.勧められていません。
『観無量寿経』に

ときに韋提希、仏にまうしてまうさく、「世尊、わがごときは、いま仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る。もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」と。

とあり、『玄義分』にも

問ひていはく、定散二善はたれの致請による。
答へていはく、定善の一門は韋提の致請にして、散善の一門はこれ仏の自説なり。

とあります。韋提希夫人が、自分は釈尊のお力で浄土を見ることができたけれども、仏滅後の衆生はどうすれば極楽浄土を見ることができるのですか、と問われて釈尊が説かれたのが定善です。また釈尊が定善を韋提希夫人に説かれたことと、定善を韋提希夫人にすすめられたこととの違いは御理解いただけますか。実際に、韋提希夫人は定善を実践しようともしていません。

参考までに『観無量寿経』の下品下生を見ると

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。

とあります。下品上生、下品中生も含めて、下輩には善の勧めはありません。もし韋提希に善を勧められているとすれば、韋提希は定善の機か上輩か中輩ということになります。

先ほどの問答でも書きましたように、「他の方便なし」なのです。


Q.釈尊が善を教えられているのは、勧められるためではないのか?

A.基本は善のできる善人に説かれています。しかし、善のできない悪人には、往生のために善を勧められていません。できないことを勧められること自体が矛盾しています。
このことを法然上人は『選択本願念仏集』に

わたくしに問ひていはく、上輩の文のなかに、念仏のほかにまた捨家棄欲等の余行あり。中輩の文のなかに、また起立塔像等の余行あり。下輩の文のなかに、また菩提心等の余行あり。なんがゆゑぞただ念仏往生といふや。
答へていはく、善導和尚の『観念法門』にいはく、「またこの『経』(大経)の下巻の初めにのたまはく、〈仏(釈尊)、一切衆生の根性の不同を説きたまふに、上・中・下あり。
その根性に随ひて、仏、みなもつぱら無量寿仏の名を念ぜよと勧めたまふ。その人命終らんと欲する時、仏(阿弥陀仏)、聖衆とみづから来りて迎接したまひて、ことごとく往生を得しめたまふ〉」と。この釈の意によるに、三輩ともに念仏往生といふ。

問ひていはく、この釈いまだ前の難を遮せず。なんぞ余行を棄ててただ念仏といふや。
答へていはく、これに三の意あり。一には諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。

(中略)

一に、諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説くといふは、善導の『観経疏』(散善義)のなかに、「上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」といふ釈の意に准じて、しばらくこれを解せば、上輩のなかに菩提心等の余行を説くといへども、上の本願(第十八願)に望むるに、意ただ衆生をしてもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」といふ。

(現代語訳)

わたくしに問うていう。上輩の門の中に、念仏のほかにまた家を捨て欲を離れるなどの余行があり、中輩の文の中にもまた塔をたて仏像をつくるなどの余行があり、下輩の文の中にもまた菩提心などの余行がある。それにどういうわけでただ念仏往生というのか。
答えていう。善導和尚の《観念法門》に、
また、この経 (大経) の下巻の初めにいわれている。「釈迦仏が説かれる。『一切衆生の機根はまちまちで、上・中・下の三種がある。その機根に随って、わたしはみな無量寿仏のみ名をもっぱら称えることを勧める。その人が命終わろうとするときに、阿弥陀仏は聖衆と共にみずから来て迎えとり、ことごとく往生させてくださる。』」
といわれてある。この解釈の意によって三輩共に念仏往生というのである。

問うていう。この解釈ではまだ前の疑難をしりぞけていない。どうして余行を棄ててただ念仏というのか。
答えていう。これに三つの意がある。一つには諸行を廃して念仏に帰せしめるために諸行を説く。

(中略)

一つに、諸行を廃して念仏に帰せしめるために諸行を説くというのは、善導の《観経疏》の中に、
《観経》の初めから、定善・散善の両門の利益を説いてきたけれども、阿弥陀仏の本願に望めてみると、世尊の思し召しは、人々をして一向に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあるのである。
といわれた釈の意に準じて、しばらくこれを解釈すると、上輩の中に菩提心などの余行を説かれているけれども、上の本願に望めてみると、世尊の思し召しはただ衆生をして専ら阿弥陀仏の名号を称えさせるにある。ところが、本願の中に更に余行はない。三輩共に上の本願に依るから「一向に専ら無量寿仏を念ずる」と説かれているのである。

と仰り、また以下のことも仰っています。

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
例するに『法華』の三説の上に秀でたるがごとし。もし三説なくは、なんぞ『法華』第一を顕さん。ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。


(現代語訳)

また定・散の諸行を説くことは、念仏がその他の善に超え勝れていることを顕わすためである。もし定散の諸行がなかったならば、どうして念仏が特に秀でた行であることを顕わされようか。例えば《法華経》が、それ以前の説、同時の説、それ以後の説の三説の上に秀でているようなものである。もし三説がなかったならば、どうして《法華経》が第一に秀でていることを顕わされようか。ゆえに今、定散の諸行はこれを廃するために説き、念仏三昧はそれを立てるために説かれるのである。

このように法然上人は、念仏が諸善と比較して超え勝れていることを明らかにするために釈尊が諸善を説かれていて、結果として諸善を廃して、念仏を立てるために諸善を説かれているのだと仰っています。
また『教行信証』行巻に念仏諸善比校対論として

勧無勧対

(現代語訳)

念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない

と親鸞聖人は仰っています。諸仏は我々に往生のための諸善を勧められていないとまで仰っています。
それと先ほどの『往生要集』の

極重の悪人は、他の方便なし

が浄土仏教の大原則です。「極重の悪人」は善のできないものと見抜いて阿弥陀仏は18願を建てられたのに、「極重の悪人」に善を勧められる道理がありません。

今溺れて苦しんでいる人を救うのが、阿弥陀仏の本心です。

『玄義分』に

しかるに諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。 ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。
また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済ふを用ゐるをなさん。

とある通りです。溺れて苦しんでいる人に、あれをしろ、これをしろと指示することは意味がありません。そんな無慈悲なことをいうのは、仏様ではありません。善ができずに苦しんでいる人に、善をせよと勧めることは、溺れて苦しんでいる人に、泳げといっているようなものです。溺れ苦しんでいる人を助けるには、水からそのまま引き上げることです。善のできない人を助けるには、善と無関係な救いでなければなりません。

一方で、善のできる善人には、聖道門、19願、定散二善を説かれていますが、その善人も、18願によらなければ真実の報土に往生することができませんので、そのことを龍樹菩薩、天親菩薩を例にだされて『正像末和讃』に

像法のときの智人も
 自力の諸教をさしおきて
 時機相応の法なれば
 念仏門にぞいりたまふ

と仰っているのです。

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2010年12月 1日 (水)

なぜ、高森会長や講師部員はあんなに傲慢なのか?

高森会長と講師部員の傲慢さは、目に余るものがあります。真実を知っている者は自分達以外にはいない、と他人を見下し扱き下ろしている態度は、カルトと呼ばれる宗教に共通するものです。

法然上人は「七箇條の起請文」で、次のように教えておられます。

 まことしく、念仏を行じて、げにげにしき、念仏者に、なりぬれば、よろずの人を見るに、皆、我が心には、おとりて、あさましく、わろければ、我が身の、良きままに、我はゆゆしき、念佛者にてあるものかな。誰々にも、優れたりと思うなり。此の心をば、よくよく、慎むべき事なり。
 世も広く、人も多ければ、山の奥林の中に籠もり居て、人にも知られぬ念仏者の、貴く目出度き、さすがに、多く有るを、我が聞かず知らぬにてこそあれ。
 されば、われ程の念仏者よもあらじと思う、假事なり。此の思いは、大驕慢にてあれば、即ち三心も、かくるなり。又其れを、頼りとして、魔縁の来たりて、往生を妨ぐるなり。
 これ我が身の、いみじくて、罪業をも滅し、極楽へも、まいることならばこそあらめ。偏に、阿弥陀仏の願力にて、煩悩をも、のぞき、罪業をも、消して、かたじけなく、手ずから自ら、極楽へ迎えとりて、帰らせましますす事也。
 我が力にて、往生することならばこそ、我賢しという、慢心をばおこさめ。
 驕慢の心だにも、起こりぬれば、心行必ず、誤る故に、たちどころに、阿弥陀仏の願に、背きぬる者にて、彌陀も諸佛も、護念し給はず。
 さるままには、悪鬼の、為にも、悩まさるる成り。返す返すも慎みて、驕慢の心を、興すべからず。あなかしこあなかしこ。

大意は、

もっともらしい念仏行者になると、他人を見て自分よりも劣った甚だ至らぬ人のように見下し、自分だけが真実に精進している立派な者であると自負して、誰よりも勝れていると思うようになる。このように慢心をおこすことを、よくよく慎まねばならない。
世間は広いし人も多いので、尊く立派な念仏者が実は多いことを知らないだけのことである。
従って自分程に勝れた念仏行者は他にいないと思うのは間違いである。このように自分だけが勝れていると思うのは大驕慢であって三心を欠いた真実信心ではない人である。
もし驕慢の心を起こすと、その人の往生妨げることになる。
それはわが身の勝れた修行によって罪業が滅せられ、極楽往生ができるのであると考えるからである。
そうではなくて阿弥陀仏のお力によって、煩悩を除いて罪業を消すことができ、私を極楽浄土に連れ帰って下さるのである。
自分の力によって往生できると思っているから、自分が勝れていると思う慢心を起こすのである。
もし驕慢の心を起こしたとすると行も信も全く違ったものになり、そのまま阿弥陀仏の本願に背くことになって阿弥陀仏も諸仏も護念して下さらないのである。
くれぐれも驕慢の心を起こしてはならない。

ということです。
まさに高森会長と講師部員に対して仰ったお言葉です。親鸞会では、阿弥陀仏に救われるのに自力一杯求めよと教えているのですから、そこまで求めた自分が偉いのだと錯覚するのは当然です。これは他力信心の何たるかも全く判っていない異安心者の思い上がりです。

ある会員が支部長に、「親鸞会に何十年もいるのに、どうして救わないのですか」と質問したところ、その支部長は鼻で笑いながら、「そんな求め方で、救われる訳がない」と言ったそうです。高森会長がいつもそのように言っていますし、この支部長からすれば、「自分でさえ救われていないのに、お前のような者が救われるか」というのが本心でしょう。こういう支部長のことを

邪見驕慢悪衆生

というのです。このように言えば、「邪見驕慢の悪衆生でない者がこの世のどこにいるのだ」と言い返してくるでしょうが、それを「邪見驕慢」といわれているのです。
阿弥陀仏のお力を疑っているから、他力の救いを知らないから、自力に拘って邪見になり驕りたかぶって他人のことを見下すのです。

逆謗にしてもそうですが、自分が逆謗だから、全人類が逆謗だと考えるのは、実に浅はかです。万引きで捕まったものが、「この店の客は全員万引きをしている」と喚いているようなものです。

では、親鸞会が自惚れることののできるような処が少しでもあるかと言えば、全くありません。

  • 最高の教学を備えている筈の高森会長に法論を申し込めば無視
  • こちらが挑発して講師部員に法論を仕掛けると会長が隠れて参加するも途中で逃走
  • 会員には誤解するからと聖教の拝読を禁止
  • 二種深信の解釈が間違っている高森会長は異安心といっても言い返すことすらできない

教義も安心も超低レベルの親鸞会が何を勘違いして高慢な態度をとっているのでしょうか。単に小さな公園にある遊具の山に登って大将を気取っているだけのことです。

偽りのある看板ではあっても、浄土真宗を名乗るのであれば、せめて世福の意味くらいは知っておいて欲しいものです。仁・義・礼・智・信に心掛けていれば、異安心団体であっても、高慢な態度を表面上は改めることができるのでしょうが、外道親鸞会には無理な注文です。

またせっかく遊具の山から降りた人でも、他の公園の山に登って他人を見下していては仕方がありませんので、仏法者であるならば、信前も信後も往生とは関係なく、世福に努めるべきです。
これが親鸞聖人の教えにおける本当の善の勧めです。

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