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2010年11月18日 (木)

M野講師が質問に答えれば、容易に判る話です

M野講師は、ブログを使い分けての相変わらず論点ずらしです。M野講師の質問は、以前から私がしている以下の質問に正しく答えてもらえれば判る話です。大体、現代文も理解できない人が、古文を理解できる筈もないでしょう。

  1. 2chや講師部合宿でも問題として取り上げられた講師部員の犯罪行為については、往生の障りとならないと思ってしたのか、往生の障りにはなるが「宿善すきなきもの」「宿悪おもきもの」ゆえにしてしまったのか。
    あるいは、廃悪修善を実践する親鸞会講師部員にあっては、犯罪行為を行った講師部員は存在しないと全面否定をするのか。(ここではあえて具体的な内容は伏せておきますが、否定された場合には具体的なことを後ほどお尋ねします)
  2. 高森会長の盗作及び浄財の私的流用は、間違いのない事実として多くの人が確認できることではあるが、世間一般の人でもしないような犯罪行為を何十年もし続けている会長は、講師部員よりも更に「宿善すきなきもの」「宿悪おもきもの」といえる。しかし、そんな「宿善すきなきもの」「宿悪おもきもの」のままの会長が獲信したというのは親鸞会の宿善論と矛盾しないのか。 (盗作、浄財の私的流用を否定されるのであれば、また具体的なことをお尋ねします)
  3. 『観無量寿経』に説かれている下品上生・下品中生・下品下生について、法然上人は『選択本願念仏集』で仰っているように

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

と、下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことであるが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれたことは、親鸞会の善の勧め、宿善論、三願転入論を否定されていることになるのではないか。

判りやすい例をあげれば、常没の凡夫でも、親を殺すような酷い人物も入れば、一方で自分の夢を諦めて親の介護に専念する素晴らしい人もあります。
他人に善を勧めながら万引きをするような御粗末な人物もいるかと思えば、おつりを誤魔化さずに、正直にお金を支払う人も普通にいます。
質素な生活をしていると宣伝しながら、信者から集めたお金を自分の御殿に隠して流用し、優雅な生活をしている教祖もいれば、一方では、多くの人の為に私財を投げ出して自分は本当に質素な生活をしている立派な人もあります。

耳四郎の例も出して、過去のエントリーで何度も述べてきたことですので、当ブログの読者の方は、御理解頂けていると思います。

我指をもって月を指う、汝をしてこれを知らしむ、汝何ぞ指を看て月を視ざるや

これは、M野講師のことです。

さて、M野講師の論点ずらしに対して、手取り足取り解説するつもりはありませんので、M野講師の断章取義、珍説を勉強したい方は、『玄義分』の九品の解説をされたところを読んで下さい。M講師の嘘が簡単に判ります。ただ、かなり長いので、現代語訳だけを読まれても結構です。

第三にかさねて九品を挙げて返対して破すとは、諸師のいふ、「上品上生の人は、これ四地より七地に至るこのかたの菩薩なり」とならば、なんがゆゑぞ、『観経』(意)にのたまはく、「三種の衆生まさに往生を得べし。何者をか三となす。

一にはただよく戒を持ち慈を修す。二には戒を持ち慈を修することあたはざれども、ただよく大乗を読誦す。三には戒を持ち経を読むことあたはざれども、ただよく仏法僧等を念ず。

この三人おのおのおのが業をもつて専精に意を励まして、一日一夜、乃至七日七夜相続して断ぜず、おのおの所作の業を回して往生を求願す。命終らんと欲する時、阿弥陀仏および化仏・菩薩大衆と光を放ち手を授けて、弾指のあひだのごとくにすなはちかの国に生ず」と。

この文をもつて証するに、まさしくこれ仏世を去りたまひて後の大乗極善の上品の凡夫、日数少なしといへども、業をなす時は猛し、なんぞ判じて上聖に同ずることを得んや。しかるに四地より七地以来の菩薩は、その功用を論ずるに不可思議なり。あに一日七日の善によりて、華台に授手迎接せられて往生せんや。これすなはち上が上を返対しをはりぬ。次に上が中を対せば、諸師のいふ、「これ初地より四地以来の菩薩なり」とならば、なんがゆゑぞ、『観経』(意)にのたまはく、「必ずしも大乗を受持せず」と。

いかんが「不必」と名づくる。あるいは読み読まず、ゆゑに不必と名づく。ただ善解といひていまだその行を論ぜず。またのたまはく(観経・意)、「深く因果を信じ大乗を謗らず、この善根をもつて回して往生を願ず。命終らんと欲する時、阿弥陀仏および化仏・菩薩大衆と一時に手を授けてすなはちかの国に生ず」と。この文をもつて証するに、またこれ仏世を去りたまひて後の大乗の凡夫、行業やや弱くして終時の迎候に異なることあらしむることを致す。

しかるに初地より四地以来の菩薩は、その功用を論ずるに、『華厳経』に説きたまふがごとし。すなはちこれ不可思議なり。あに韋提の請を致すによりて、まさに往生を得んや。上が中を返対しをはりぬ。

次に上が下を対せば、諸師のいふ、「これ種性以上初地に至るこのかたの菩薩なり」とならば、なんがゆゑぞ、『観経』にのたまはく、「亦因果を信ず」と。いかんが「亦信」なる。あるいは信じ信ぜず、ゆゑに名づけて亦となす。またのたまはく(同)、「大乗を謗らず、ただ無上道心を発す」と。ただこの一句、もつて正業となす。さらに余善なし。「この一行を回して往生を求願す。命終らんと欲する時、阿弥陀仏および化仏・菩薩大衆と一時に手を授けてすなはち往生を得」(同・意)と。この文をもつて証するに、ただこれ仏世を去りたまひて後の一切の大乗心を発せる衆生、行業強からずして去時の迎候に異なることあらしむることを致す。もしこの位のなかの菩薩の力勢を論ぜば、十方浄土に意に随ひて往生す。あに韋提それがために仏に請じて、勧めて西方極楽国に生ぜしむるによらんや。上が下を返対しをはりぬ。

すなはちこの三品は去時に異なることあり。いかんが異なる。上が上の去時は、仏、無数の化仏と一時に手を授く。上が中の去時は、仏、千の化仏と一時に手を授く。上が下の去時は、仏、五百の化仏と一時に手を授く。ただこれ業に強弱ありて、この差別あらしむることを致すのみ。

次に中輩の三人を対せば、諸師のいふ、「中が上とはこれ小乗の三果のひとなり」とならば、なんがゆゑぞ、『観経』(意)にのたまはく、「もし衆生ありて、五戒・八戒を受持し、もろもろの戒を修行して五逆を造らず、もろもろの過患なからんに、命終らんと欲する時、阿弥陀仏、比丘聖衆と光を放ち法を説きて、来りてその前に現じたまふ。この人見をはりてすなはち往生を得」と。この文をもつて証するに、またこれ仏世を去りたまひて後の小乗戒を持てる凡夫なり。なんぞ小聖ならんや。

中が中といふは、諸師のいふ、「見道以前の内凡なり」とならば、なんがゆゑぞ、『観経』(意)にのたまはく、「一日一夜の戒を受持して、回して往生を願ず。 命終らんと欲する時、仏を見たてまつりてすなはち往生を得」と。この文をもつて証するに、あにこれ内凡の人といふことを得んや。ただこれ仏世を去りたまひて後の無善の凡夫、命延ぶること日夜、小縁のその小戒を授くるに逢遇ひて、回して往生を願ず。仏の願力をもつてすなはち生ずることを得。もし小聖を論ぜば、去ることまた妨げなし。ただこの『観経』は、仏、凡のために説きたまへり、聖のためにせず。

中が下といふは、諸師のいふ、「小乗の内凡以前の世俗の凡夫、ただ世福を修して出離を求む」とならば、なんがゆゑぞ、『観経』(意)にのたまはく、「もし衆生ありて、父母に孝養し、世の仁慈を行ぜんに、命終らんと欲する時、善知識の、ためにかの仏の国土の楽事、四十八願等を説くに遇ふ。この人聞きをはりてすなはちかの国に生ず」と。

この文をもつて証するに、ただこれ仏法に遇はざる人、孝養を行ずといへども、またいまだ心に出離を希求することあらず。ただこれ臨終に善の勧めて往生せしむるに遇ふ。この人勧めによりて回心してすなはち往生を得。またこの人世にありて自然に孝を行ず、また出離のためのゆゑに孝道を行ぜず。

次に下輩の三人を対せば、諸師のいふ、「これらの人はすなはちこれ大乗始学の凡夫なり。過の軽重に随ひて分ちて三品となす。いまだ道位にあらず。 階降を弁ちがたし」とは、まさに謂ふにしからず。なんとなれば、この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。

なにをもつてか知ることを得る。下が上の文に説くがごとし。「ただ五逆と謗法とを作らず、自余の諸悪はことごとくみなつぶさに造りて、慚愧すなはち一念に至るまでもあることなし。命終らんと欲する時、善知識の、ために大乗を説き、教へて仏を称せしむるに遇ひて一声す。その時阿弥陀仏、すなはち化仏・菩薩を遣はしてこの人を来迎し、すなはち往生を得しめたまふ」(観経・意)と。ただかくのごとき悪人目に触るるにみなこれなり。もし善縁に遇へば、すなはち往生を得。もし善に遇はざれば、さだめて三塗に入りていまだ出づべからず。

下が中とは、「この人先に仏の戒を受く。受けをはりて持たずしてすなはち毀破す。また常住僧物・現前僧物を偸み、不浄説法して、乃至、一念慚愧の心あることなし。命終らんと欲する時、地獄の猛火一時にともに至りて、現じてその前にあり。火を見る時に当りて、すなはち善知識の、ためにかの仏国土の功徳を説きて、勧めて往生せしむるに遇ふ。この人聞きをはりてすなはち仏を見たてまつり、化に随ひて往生す」(観経・意)と。初め善に遇はざれば獄火来迎し、後に善に逢ふがゆゑに化仏来迎す。これすなはちみなこれ弥陀願力のゆゑなり。

下が下とは、「これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず」(同・意)と。この人もし善に遇はずは、必定して下沈すべし。終りに善に遇ふによりて七宝来迎す。またこの『観経』の定善および三輩上下の文の意を看るに、総じてこれ仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫なり。ただ縁に遇ふに異なることあるをもつて、九品をして差別せしむることを致す。

なんとなれば、上品の三人はこれ大に遇へる凡夫、中品の三人はこれ小に遇へる凡夫、下品の三人はこれ悪に遇へる凡夫なり。悪業をもつてのゆゑなり。終りに臨みて善によりて、仏の願力に乗じてすなはち往生を得。かしこに到りて華開けてまさにはじめて発心す。なんぞこれ始学大乗の人といふことを得んや。もしこの見をなさば、みづから失し他を誤りて害をなすことこれはなはだし。いまもつて一々に文を出し顕証して、いまの時の善悪の凡夫をして同じく九品に沾はしめんと欲す。信を生じて疑なければ、仏の願力に乗じてことごとく生ずることを得。

(現代語訳)

第三に、重ねて九品の経文を挙げて他師らの説を対破するとは、

他師らは「上品上生の人はこれは四地より七地に至るまでの菩薩である」というが、それならば、なぜ《観経》に、

三種の衆生がみな往生を得るであろう。その三種とは何であるかというと、一つには、ただよく戒をたもち慈悲を修める。二つには、戒をたもち慈悲を修めることはできないけれども、ただよく大乗の経典を読む。三つには、戒をたもち経を読むことはできないけれども、ただよく仏法僧の三宝などを念ずる。これらの三種の人がおのおの自分の行業を専心に励んで、一日一夜から七日七夜に至るまで断えず相続し、それぞれ自分の修めた行業を因として往生を願うと、命の終わろうとするときに阿弥陀仏が化仏・菩薩・大衆と共に光明を放ち、み手を授けて、指を弾くほどのわずかのあいだに、かの浄土に生まれる。

と説かれてあるのか。この文をもって証明すると、まさしくこれは仏が世を去られた後の、大乗の行を修める極めて善い上品の凡夫であって、日数は少ないけれども行業を修める時には非常に勇猛である。それをどうして大乗の上位の聖者と同じであるとすることができようか。ところで、四地より七地までの菩薩は、その修行したはたらきをいえば思いはかることができぬ。どうして一日から七日までのわずかな善根によって、華台や仏・菩薩が手を授けたもう来迎を受けて往生することがあろうか。これは上品上生について対破しおわった。

 つぎに上品上生について対破するならば、他師らはこれを初地より四地までの菩薩であるというが、そうならば、なぜ《観経》に「不必受持大乗」と説かれてあるのか。「不必」とはどういうことかというと、あるいは読む者もあり読まない者もあるから「不必」というのである。また、ただ「善解」というだけで、その行のことは論じてない。また「深く因果を信じて大乗の法を謗らず、これらの善根を因として往生を願えば、命の終わろうとするとき阿弥陀仏が化仏・菩薩の大衆と共に一時にみ手を授け、そこで浄土に往生する」と説かれている。この文をもって証明すると、またこれは釈迦仏が世を去られて後の、大乗の行を修める凡夫で、その修める行業が上品上生よりやや弱くて、臨終の時の来迎の相がちがうのである。ところで初地より四地までの菩薩は、その修行したはたらきをいえば、《華厳経》に説かれてある通りで、思いはかることができぬ。どうして韋提が請うたことによって、そこで往生を得るということがあろうか。上品中生について対破しおわった。

 つぎに上品下生について対破するならば、他師らは、これは種性住以上初地に至るまでの菩薩であるというが、そうならば、なぜ《観経》に「亦信因果」というのか、「亦信」とはどういうことかというと、あるいは信じ、あるいは信じないから「亦」というのである。また「大乗を謗らず、ただ無上菩提心をおこす」と説かれてある。ただこれのみをまさしい行業として、そのほかの善はない。「この一行を因として往生を願えば、命の終わろうとするとき阿弥陀仏が化仏・菩薩の大衆と共に一時にみ手を授けたもうて、そこで往生を得る」といわれてある。この文をもって証明すると、ただこれは釈迦仏が世を去られて後の、大乗心をおこすすべての人々であって、その行業が強くないから往生する時の来迎の相がちがうのである。もしこの位の中の菩薩のはたらきをいうならば、十方の浄土へ思いのままに往生できるのである。どうして、韋提がそういう人のために仏に請うて西方極楽国土に往生することを勧めるのによろうか。上品下生について対破しおわった。

 そこで、上輩の三種の人は往生の時のありさまがちがう。どうちがうかというと、上品上生の者が往生する時には仏が無数の化仏と共に一時にみ手を授け、上品中生の者が往生するときには仏が千の化仏と共に一時にみ手を授け、上品下生の者が往生する時には仏が五百の化仏と共に一時にみ手を授けてくださるのである。これはただ修めた行業に強弱があるから、このちがいができるのにすぎない。

 つぎに、中輩の三種の人について対破するならば、他師らが、中品上生はこれは小乗の前三果の人であるというが、そうならば、なぜ《観経》にもし衆生あって、五戒・八戒をたもち、またいろいろの戒を修行して、五逆を造らずいろいろの過ちがないであろう。そういう者が命終わろうとする時、阿弥陀仏が比丘の衆生と共に光明を放ち法を説いてその人の前に現われる。この人はそれを見おわって、そこで往生を得る」と説かれてあるのか。この文をもって証明すると、またこれは釈迦仏が世を去られて後の、小乗の戒をたもつ凡夫である。どうして小乗の聖者ということができようか

 中品中生については、他師らは「見道以前の内凡である」というが、そうならば、なぜ《観経》に「一日一夜の戒をたもって往生を願い、命終わろうとするとき仏を見たてまつって往生を得る」と説かれてあるのか。この文をもって証明すると、どうして内凡の人ということができようか。ただこれは釈迦仏が世を去られて後の、善根のない凡夫で、寿命があって一日一夜小乗の縁に遇うてその小乗の戒を授かり、それを因として往生を願い、弥陀の願力によって往生を得るのである。もし小乗の聖者についていうならば、その往生も妨げはない。ただこの《観経》は、仏が凡夫のために説きたもうたのであって、聖者のためではない。

 中品下生については、他師らは、小乗の内凡より前の世俗の凡夫で、ただ世間の善根を修めて出離を求める者であるというが、そうならば、なぜ《観経》に「もし衆生あって、父母に孝養をつくし、世間の慈しみを行う者が、命終わろうとする時、善知識がその人のためにかの浄土の楽しいありさまや四十八願などを説かれるのに遇い、この人はそれを聞きおわって、そこで浄土に往生する」と説かれてあるのか。この文をもって証明すると、これはまだ仏法に遇わない人であって、父母に孝養をつくすといっても、心に出離をめがい求めたことはない。ただこれは臨終に、はじめて善知識が往生を勧めてくださるのに遇い、この人はその勧めによって浄土に心を向けて、そこで往生を得るのである。またこの人は平生のとき自然に孝養を行ったのであって、出離のために孝養をつくしたのではない。

 つぎに下輩の三種の人を対破するならば、他師らは、これらの人は大乗を始めて学ぶ十信位の凡夫であって、罪の軽重にしたがって三品に分けるが、まだ修行をしていないから、その上下を区別しがたいといっているが、そうではなかろうと思う。何となれば、この三種の人は、仏法につけ、世間につけ、いずれの善根もなく、ただ悪を作ることだけを知っている。どうしてそれが知られるかというと、下品上生の文に説かれている通りである。

ただ五逆と謗法を作らないだけで、そのほかの悪は皆ことごとく造り、わずか一念も慚愧する心がない。そういう者が命終わろうとする時、善知識がその人のために大乗を説き、教えて念仏させるのに遇う。一声すると、そのとき阿弥陀仏は化仏・菩薩をつかわして、この人を来迎し、そこで往生を得る。

 このような悪人は、すべて人の常に見るところである。もし善知識の縁に遇えば往生を得るが、善知識の縁に遇わなければ必ず三途に沈んで出ることができない。

 下品中生とは、

この人は、さきに戒律を受けたけれども、受けおわってこれをたもたずにすぐ破り、また寺にいつも備え付けてある常住僧物や、時々に供養される現前僧物をぬすみ、名聞利養のための不浄説法などをして、わずか一念の慚愧心もない。命が終わろうとするとき地獄の猛火が一時に共に来てその人の前に現われ、その火を見る時にあたって、善知識がその人のために、かの仏国土の功徳を説いて往生を勧めてくださるのに遇う。この人はそれを聞きおわって、すぐに仏を見たてまつり、その化仏にしたがって往生する。

とある。初めには善知識に遇わないで地獄の火が迎え、後には善知識に遇ったから化仏の来迎にあずかる。これはすなわち弥陀の願力によるのである。

 下品下生とは、

これらの衆生は、善くない業おこないである五逆・十悪を造り、いろいろの悪を犯している。この人は悪業によるから必ず地獄に堕ちて多劫のあいだ窮まりない苦しみを受ける人であるが、命終わろうとするとき、善知識が南無阿弥陀仏と称えることを教え、往生を勧めてくださるのに遇う。この人はその教にしたがって念仏し、念仏によって往生する。

とある。この人がもし善知識に遇わなければ必ず地獄に堕ちるところであったが、臨終に善知識に遇うたことによって、七宝の蓮台に迎えられたのである。

 また、この《観経》の定善および三輩上下の文の意味をうかがうに、すべてこれは釈迦仏が世を去られてから後の五濁の凡夫である。ただ縁に遇うことがちがうから九品の別ができるのである。何となれば、上品の三種の人は、これは大乗の縁に遇うた凡夫であり、中品の三種の人は小乗の縁に遇うた凡夫である。下品の三種の人は悪縁に遇うた凡夫であって、悪業があるから、臨終に善知識により、弥陀の願力に乗託してすなわち往生することができ、かの国に至って華が開けて、そこで始めて菩提心をおこすのである。どうしてこれが大乗を始めて学ぶ十信位の人ということができようか。もし他師らのような考えをするならば、みずから利益を失い他をあやまらせて、害をなすことがいよいよ甚だしい。

 いま、一々経文を出して証拠を明らかにし、今の時の善悪すべての凡夫をして九品に利益にうるおわせたいと思う。信じて疑いなければ、仏願力によってことごとく往生を得るのである。

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コメント

観経疏を読めば、善のできる善凡夫と、悪しかできない悪凡夫に分けて教えられていることがわかります。
M野さん、そこまでピエロを演じることはないでしょうに。

かわいそう。

投稿: M野さんへ | 2010年11月18日 (木) 12時43分

M野の考えは、

上品上生=上品中生=‥‥‥=下品中生=下品下生

なのだろう。単なるアホだ。
誰が読んでも、

上品上生>上品中生>‥‥‥>下品中生>下品下生

たとえば、行福をしている凡夫を上品三生とされているのであって、行福ができない凡夫ではない。
日本語が理解できないM野には難しい話だろうが。


投稿: カルト教義反対 | 2010年11月18日 (木) 20時28分

教えてください!親鸞会の聴聞に通い6月です。このインターネットのおかげで会員にはならないつもりです。が、いったい、①浄土真宗本当の善知識はどこにおられるのですか?教えてください。②親鸞会以外に定期的に仏法を聞かせてくださるところはないのですか?先日のインターネットの聴聞きかせていただきましたがもっともっともっと聞きたいのです。それができれば親鸞会の聴聞には行きません。切実なのです教えてください!

投稿: 雪の精 | 2010年11月19日 (金) 22時07分

先ほどのメルアド間違えたかもしれませんすみません

投稿: 雪の精 | 2010年11月20日 (土) 00時02分

雪の精 様

コメント欄にも書いておきます。

本当の善知識と仰っていますが、親鸞会のように、絶対的な指導者というイメージをお持ちかも知れません。もしそうであるなら、その考え方を捨てましょう。
七高僧、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人のような方は、おられませんし、そのような方がおられない時代でも、多くの獲信者が出ています。有名な妙好人には、そのような方はありませんでした。
以上を踏まえて、親鸞聖人の教えを正しく伝えてくだされている方は何人もいらっしゃいます。ここで、”正しく”というのは教学的に正しくではなく、正しい信心を正しく、ということです。しかも、もっと身近な方です。

過日紹介した紅楳英顕師は、信心も教学もある方です。
「紅楳英顕の真宗教室」http://www12.ocn.ne.jp/~kobai/
に、メールアドレスも載っていますので、直接連絡されては如何でしょうか。法話や勉強会も、定期的になされています。

本願寺派勧学の梯實圓師は、教学的にも素晴らしい方です。芦屋仏教会館http://www.k5.dion.ne.jp/~ashiyabk/bukkyoukouza.html
等で、法話も定期的になされています。

高森会長の出身母体である華光会は、教学的には問題があるところもありますが、増井悟朗師、増井信師は、正しく信心を説いて導いて下される方です。全国で法話があります。ただし、座談会は華光会の会員が中心になって行いますので、問題も指摘されており、参加は慎重にされた方が宜しいかと思います。

獲信後、親鸞会を除名になった元講師の方も何人か布教されています。
「21世紀浄土真宗を考える会」http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/
「安心問答」http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/
に連絡先が書かれてありますので、直接問合せをされては如何でしょうか。

他にもおられますし、書籍やブログでも善知識といえます。

もし、他に御質問があれば、いつでも仰って下さい。

投稿: 飛雲 | 2010年11月20日 (土) 07時31分

雪の精さんってせっかく飛雲さんが丁寧にリンク先まで教えてくれてるのに、返事なしですか?失礼じゃないですか?一言あっていいと思うけどね。
ネット対策員による釣りと思われちゃいますよ。
個人的には飛雲さんと近い意見を私は持っております。

投稿: | 2010年12月 7日 (火) 11時58分

名無し 様

メールでお返事を頂いておりますので、ここでは公にしていませんが、御了承下さい。

投稿: 飛雲 | 2010年12月 7日 (火) 21時05分

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