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2010年11月22日 (月)

八万四千の法門と機との関係が判りますか?

親鸞会の教えていることは、根拠も解釈も理論も無茶苦茶ですから、間違っている部分を修正すれば何とかなるというレベルではありません。親鸞聖人の教えを正しく理解するには、一度頭の中を白紙に戻してから、学び直さなければならないでしょう。

前々回、前回も述べましたが、

十方衆生=悪凡夫=逆謗の機

という親鸞会の邪義がどうしても抜け切らないと、仏教全般を理解することも、浄土門を理解することも難しいでしょう。

会員の人からはよく

我々にとって19願が不要であるならば、なぜ阿弥陀仏は19願を建てられたのか

と質問を受けます。これは、聖道門に置き換えても同じことです。なぜ釈尊は聖道門を説かれたのか。
答えは、その教えが必要な機があるからです。

歴代の善知識方は、どなたも聖道門を否定されてはいません。当り前のことですが、聖道門の教えは正しいのです。ただ、悪凡夫にとっては不相応な教えであるから、18願1つを勧められたのです。

そのことを『観無量寿経疏』を断章取義して喜んでいる人のために、『観無量寿経疏』で説明します。
『玄義分』には、

心によりて勝行を起すに、門八万四千に余れり。漸頓すなはちおのおの所宜に称ふをもつて、縁に随ふもの、すなはちみな解脱を蒙る。

(現代語訳)

自分の心を元としていろいろの行を起こす法門は、八万四千に余っている。漸教・頓教おのおのその宜しきにかなって、自分に因縁のある法にしたがう者はみな解脱を被る。

とあります。釈尊がそれぞれの機に応じて教えを説かれたのですが、自分にあった教えに従ったならば、解脱ができるのです。
同様のことを『散善義』にも

諸仏の教行、数塵沙に越えたり。 稟識の機縁、情に随ひて一にあらず。たとへば世間の人の眼に見るべく信ずべきがごときは、明よく闇を破し、空よく有を含み、地よく載養し、水よく生潤し、火よく成壊するがごときなり。かくのごとき等の事をことごとく待対の法と名づく。すなはち目に見るべし、千差万別なり。いかにいはんや仏法不思議の力、あに種々の益なからんや。随ひて一門を出づれば、すなはち一煩悩の門を出づ。随ひて一門に入れば、すなはち一解脱智慧の門に入る。これがために縁に随ひて行を起して、おのおの解脱を求めよ。なんぢ、なにをもつてかすなはち有縁の要行にあらざるをもつてわれを障惑するや。しかるにわが所愛は、すなはちこれわが有縁の行なり。すなはちなんぢが所求にあらず。なんぢが所愛は、すなはちこれなんぢが有縁の行なり。またわが所求にあらず。このゆゑにおのおの所楽に随ひてその行を修すれば、かならず疾く解脱を得。
行者まさに知るべし。もし解を学せんと欲せば、凡より聖に至り、すなはち仏果に至るまで、一切礙なくみな学することを得ん。もし行を学せんと欲せば、かならず有縁の法によれ。少しき功労を用ゐるに多く益を得ればなり。

(現代語訳)

諸仏の教や修行の道は、その数が非常に多く、衆生の機縁もその根機にしたがってそれぞれ異なっている。たとえば、世間の人の眼に見て、すぐわかるようなものでいえば、明りはよく闇を破り、虚空はよくものをおさめ、地はよくものを載せ育て、水はよくものをうるおし成長させ、火はよくものを成熟させたり破壊したりするようなものである。これらのものごとをことごとく〈相い対する法〉と名づける。かようなものは、現に見られるとおりで千差万別である。まして仏法不思議の力が、どうして、さまざまの利益のないはずがあろうか。自分の機縁にしたがって、どれか一つの法門によって出ることは、それが迷いを出る一つの門であり、どれか一つの法門によって入ることは、それが一つのさとりの門に入ることである。これがために、機縁にしたがって行を修め、おのおのさとりを求めるべきである。そなたは、なぜ、わたしの根機に合う行でない法をもって、わたしを妨げ惑わそうとするのか。ところで、わたしの好むところは、わたしの根機に合う行であって、そなたの求めるものではなく、そなたの好むところは、そなたの根機に合う行であって、わたしの求めるものではない。こういうわけであるから、それぞれの好むところにしたがって行を修めるならば、かならず早くさとりをうるのである。

行者よ、よく知るべきである。もし学解をまなぼうと想うなら、凡夫から聖者、さらに仏果にいたるまで、すべての法をどれでも自由にまなぶことができる。しかし、実際に行を修めようと思うならば、かならず自分の根機に合う法によるべきである。根機に合う法によれば、わずかな苦労で多大な功徳をうるからである。

ところが、聖道門は凡夫の根機には合わないのです。それは同じく『散善義』

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)

わが身は、無始よりこのかた、他のものと同時に、発願し、悪を断ち、菩薩の道を行じたのに、他のものはことごとく身命を惜しまず、修行して位を進め、因が円満し、果が成就して、聖者の位を証した。その数は、大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、われら凡夫は過去より今日に至るまで、いたずらに流転して、煩悩の悪障が次第にますます多くなり、福徳智慧のきわめて少ないことは、重昏くらやみをもって明鏡に望むがようである。今このことを考えると、どうして心驚き悲しまずにおられようか。

とある通りです。
聖者の位まで到達することのできない人のために、定善が説かれています。
しかし、その定善も凡夫には難しいのです。『定善義』には

三業縁に随ひて転じ、定想波を逐ひて飛ぶ。たとひ千年の寿を尽せども、法眼いまだかつて開けず。

(現代語訳)

身口意業が所縁の境にしたがって移り禅定の想も波のように動いて、たとい千年の命をかけても智慧の眼は開けない。

とあるように、千年もの間、命懸けに定善に励んでも、定心を保つことは極めて難しいことなのです。
では散善ならどうか、ということですが、前々回にも紹介しましたように、善のできる善凡夫と、善のできない悪凡夫に分れるのです。

悪凡夫は善ができないのですから、悪凡夫には往生のために善を勧められていないのです。
それを善導大師のお弟子であった懐感禅師は『群疑論』に

『観経』の下品上生、下品中生、下品下生の三処の経文には、みなただ弥陀仏を念じて浄土に往生すと陳ぶ。

と書かれ、それを源信僧都が『往生要集』

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

と言い換えられているのです。それを親鸞聖人はそのまま承け継がれて『高僧和讃』

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と仰っておられます。浄土仏教の基本中の基本です。

ですから、我々は善ができない極重の悪人であると教えるならば、往生のため、獲信のために善を勧めることは理屈に合いません。他力念仏1つを勧めるのが善知識です。

努力すれば善ができるから善をせよ、と教えるならば、それは聖道門の教えです。悪凡夫は善凡夫になって、善凡夫は聖者になって、最後は成仏を目指す。理屈が通ります。当たり前のことですが、聖者も昔は凡夫であったのです。凡夫が善を積み重ねて聖者になるのです。誰も善ができなければ、聖者になる人もありません。

浄土門でも19願で往生を目指している人がいますが、それはもちろん定散二善ができるという前提です。

しかし親鸞会では、十方衆生は誰1人善のできる者はいないので、18願でしか往生はできないが、18願で救われるため、善を勧めます。支離滅裂です。

これだけ根拠を出して邪義の説明しても、思考がおかしい人は、親鸞会の支離滅裂な教えに筋が通っているようにしか思えず、『観無量寿経疏』を断章取義して、今後も自身満々に珍説を喚き続けるのでしょう。

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