恩徳讃の気持ちのない悪知識
昨日の続きです。M野講師は、高森会長を非難して、以下のようにも書いています。
弥陀の本願に救われ、信心獲得し、
信後報謝のお念仏をとなえている人には
必ず、知らされた弥陀の御恩を報謝する思いがある。
この恩徳讃については、以前に
のところでも紹介しました存覚上人の『持名鈔』で説明されています。
ここに弥陀如来、無縁の慈悲にもよほされ、深重の弘願を発して、ことに罪悪生死の凡夫をたすけ、ねんごろに称名往生の易行を授けたまへり。
これを行じこれを信ずるものは、ながく六道生死の苦域を出でて、あまつさへ 無為無漏の報土に生れんことは、不可思議のさいはひなり。
しかるに弥陀如来超世の本願を発したまふとも、釈迦如来これを説きのべたまはずは、娑婆の衆生いかでか出離のみちをしらん。
されば『法事讃』(下)の釈に、 「不因釈迦仏開悟 弥陀名願何時聞」といへり。
こころは、「釈迦仏のをしへにあらずは、弥陀の名願いづれのときにかきかん」となり。
たとひまた、釈尊西天(印度)に出でて三部の妙典を説き、五祖東漢(中国)に生れて西方の往生ををしへたまふとも、源空・親鸞これをひろめたまふことなく、次第相承の善知識これを授けたまはずは、われらいかでか生死の根源をたたん。
まことに連劫累劫をふとも、その恩徳を報ひがたきものなり。
これによりて善導和尚の解釈(観念法門・意)をうかがふに、「身を粉にし骨を砕きても、仏法の恩をば報ずべし」とみえたり。
これすなはち、仏法のためには身命をもすて財宝をも惜しむべからざるこころなり。
このゆゑに『摩訶止観』(意)のなかには、「一日にみたび恒沙の身命を捨つとも、なほ一句の力を報ずることあたはじ。いはんや両肩に荷負して百千万劫すとも、むしろ仏法の恩を報ぜんや」といへり。
恒沙の身命を捨てても、なほ一句の法門をきける報ひにはおよばず。
まして順次往生の教をうけて、このたび生死をはなるべき身となりなば、一世の身命を捨てんはものの数なるべきにあらず。
身命なほ惜しむべからず。いはんや財宝をや。
阿弥陀仏の本願に救われて、出離させて頂いたのは、阿弥陀仏はもちろんですが、阿弥陀仏の本願を伝えて下された釈尊、次第相承の善知識方のお陰と感謝するのです。その御恩を知らされているならば、御恩に報いるには
身を粉にし骨を砕きても、仏法の恩をば報ずべし
仏法のためには身命をもすて財宝をも惜しむべからざるこころなり。
順次往生の教をうけて、このたび生死をはなるべき身となりなば、一世の身命を捨てんはものの数なるべきにあらず。身命なほ惜しむべからず。いはんや財宝をや。
と心得るべきであるといわれているのです。
これは信後のことでありますが、こんなに明らかなことさえも知らされておらず、これを信前のことと勘違いしているとんでもない悪知識がいるとM野講師は指摘している訳です。
実際に親鸞会発行の『教学聖典』の中には、このような問答があります。
問
「後生の一大事は、どんな犠牲を払っても解決せね
ばならぬものである」と教えられた、存覚上人の
お言葉と、その根拠を示せ。答
○仏法の為には身命をも捨て、財宝をも惜しむ
べからず。
(持名鈔)
こんな理解をして、布教している者がいるとは、次第相承の善知識方も、これを書かれた存覚上人もひっくり返って驚かれると思います。信心が正しいかどうか以前に、日本語を理解する能力に問題があります。
この後には、
されば仏法を行ずるには、家をもすて欲をもすてて修行すべきに、世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて、ながく輪廻の故郷をはなれんことは、ひとへにはからざるさいはひなり。
とありまして、聖道門と浄土門の違いを明確にされています。
つまり、「どんな犠牲を払っても」というのは「家をもすて欲をもすてて修行すべき」聖道門のことです。浄土門では、「世をもそむかず名利にもまつはれながら」、世の中の倣いにしたがって名利に執着しながら、「無上の仏法をきをききて、ながく輪廻の故郷をはなれんこと」ができるのです。
M野講師の言われる通り、聖道門と浄土門の違い、真仮も判らず、恩徳讃の心も誤解しているような人物は、どこをどう贔屓目に見ても悪知識です。
そういえば、この
エントリーで以下のようなコメントしたのが最初の議論の始まりでしたね、M野講師。
皆さん、お待たせしました。
如来の諸智を疑惑して
信ぜずながらなをもまた
罪福ふかく信ぜしめ
善本修習すぐれたり(正像末和讃)この「罪福ふかく信ぜしめ」が19願を勧められた御言葉です。それは次の「善本修習」(20願)へ導くためです。
なお、私はM野支部長でも講師部員でもありません。世間の仕事に従事しながら聞法している単なる(お粗末で不真面目な)会員です。私を立派なM野支部長と間違えるのは、M野支部長に失礼ですよ。
投稿: | 2010年2月20日 (土) 18時49分
何も自ら過去の醜態を再度晒して下さいと催促しなくてもいいと思いますけど。
それと、「罪福ふかく信ぜしめ」ている筈の講師部員が、世間一般の人でもしないような法律に触れる悪を犯しているのは、どういうことでしょうか。
また、高森会長が、「罪福ふかく信ぜしめ」ることもなく、御恩報謝のために「財宝をも惜しむべからざるこころ」どころか、会員から財宝を絞り出させて、その浄財を会員に全く知らせずに私的に流用しているのですから、少しも恩徳讃の気持ちがないことを表わしています。
もしかして、高森会長は『持名鈔』の正しい意味を知りながら、断章取義して名利のために利用しているのでしょうか…。
もしそうだとすれば、仏法者ではありません。単なる外道の者です。
結局のところ、M野講師がいいたいことは、
高森会長も講師部員も皆、信心も教えていることもデタラメの悪知識、外道の者
ということですね。了解です。
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