« M野講師が質問に答えれば、容易に判る話です | トップページ | 八万四千の法門と機との関係が判りますか? »

2010年11月20日 (土)

『玄義分』の「いまの時の善悪の凡夫」の意味は判りましたか?

前回『玄義分』を紹介しましたが、断章取義せずにそのまま読まれれば、親鸞会の誤りが誰でも判ります。
いまの時の善悪の凡夫」と『玄義分』にはありますが、上品と中品が善凡夫、下品が悪凡夫です。
『正信偈』等にも、「善悪の凡夫」とよく使われていますが、そのまま読めばいいのです。ところが親鸞会ではこれを珍解釈しているのです。

昭和52年1月20日号の『顕正新聞』に、高森会長の法話内容が載っていますが、そこには、

その煩悩で限りなく悪を造るからすべての人間は悪人ばかりです。ところが、その凡夫の中に善悪があると教えられておられるのですが、親鸞聖人が善人だと仰有ったのは自己の罪悪が分からず、自分を善人と自惚れている人、悪人とは自己の罪悪に気づいている人ですから一切善悪凡夫人で、すべての人々という意味になります。

と書かれてあります。同様のことを、高森会長は法話等でよく言ってきました。
しかしこれは、仏教のイロハも知らない外道の者の主張でしょう。

善導大師は、善凡夫・悪凡夫、善人・悪人をしっかり定義されて、『観念法門』で教えておられます。

凡夫の機性にその二種あり。一には善性人、二には悪性人なり。 その善性人とは、一には聞きてすなはち悪を捨てて善を行ずる善人、二には邪を捨てて正を行ずる善人、三には虚を捨てて実を行ずる善人、四には非を捨てて是を行ずる善人、五には偽を捨てて真を行ずる善人なり。この五種の人もしよく仏に帰すれば、すなはちよく自利利他す。家にありては孝を行じ、ほかにありてはまた他人を利し、望にありては信を行じ、朝にありては君子と名づけ、君に事へてはよく忠節を尽す。ゆゑに自性善人と名づくるなり。
悪性人といふは、一にはすなはち真を謗じて偽を行ずる悪人、二には正を謗じて邪を行ずる悪人、三には是を謗じて非を行ずる悪人、四には実を謗じて虚を行ずる悪人、五には善を謗じて悪を行ずる悪人なり。またこの五種の人もし願じて仏に帰せんと欲するも、自利することあたはず、また他人を利せず。また家にありては不孝、望にありては信なく、朝にありては小児と名づけ、君に事へてはすなはちつねに諂佞を懐く。これを不忠といふ。またこの人等、他の賢徳善人の身の上において、ただよく是を敗り非を成じ、ただ他の悪のみを見る。ゆゑに自性悪人と名づくるなり。また上は諸仏・賢聖より、人天・六道一切の良善に至るまで、これらの悪人をば譏りて恥辱するところなり、もろもろの有智のもの、 知るべし。

(本願寺派の現代語訳)

凡夫の機の性分に二種類があります。一つには善なる性分、二つには悪なる性分です。その善なる性分の人とは、一つには教えを聞けばすぐに悪を捨てて善を行う善人、二つには邪しまな見解を捨てて道理にかなった行いをする善人、三つには虚しい行を捨てて自他を充実させるような行いをする善人、四つには道理に背く非なる行いを捨てて是なる行いをする善人、五つには嘘偽りを捨てて真を実践する善人です。この五種の人は、もし仏に帰依するならば、自身を利益するばかりではなく、他の人々に大きな利益を与えていきます。もし世俗の生活を送るならば、家庭内では両親や親族を大切に護り、外では近隣の人々に尽します。在野の生活をすれば、社会のために尽くし、人々から信頼されるし、官職に仕えたならば、君子と称賛され、主君に仕えたならばよく忠節を尽くすから、自性の善人といいます。
悪なる性分の人というのは、一つには真を謗って虚を行う悪人、二つには正を謗って邪を行う悪人、三つには是を謗って非を行う悪人、四つには実を謗って虚を行う悪人、五つには善を謗って悪を行う悪人です。この五種の人は、たとえ仏に帰命しようとしても、さとりに向かうこともできず、他人に利益を与えることもできません。在家の生活を送っても両親や家族を不和にし、在野の生活をすれば社会を乱し信望を失い、官職に就けばつまらない人間と貶められ、主君に仕えれば、へつらい、おもねるだけの不忠者として排除されます。こういう悪性の人は、賢く勝れた人々を見ると、その欠点を探して針小棒大に悪評を流し、欠点がなければ作り上げて、賢者を貶めることばかりを考えています。こういう人を自性の悪人といいます。ですから上は諸仏や賢者、聖者より、下は天上界や人間の善良な人に至るまで、これらの悪人を恥ずべき者と厳しく批判されています。

高森会長は、『観念法門』という善導大師の御著書の存在すらも知らないかもしれません。もちろん内容など知る由もありません。悪人の具体的な説明を

在家の生活を送っても両親や家族を不和にし、在野の生活をすれば社会を乱し信望を失い、官職に就けばつまらない人間と貶められ、主君に仕えれば、へつらい、おもねるだけの不忠者として排除されます。こういう悪性の人は、賢く勝れた人々を見ると、その欠点を探して針小棒大に悪評を流し、欠点がなければ作り上げて、賢者を貶めることばかりを考えています。

となされていますが、高森会長や講師部員の言動を連想してしまうのは、私だけでしょうか。

また親鸞聖人が法然上人の法語を編纂された『西方指南抄』に

極楽の九品は弥陀の本願にあらず、四十八願の中になし、これは釈尊の巧言なり。善人・悪人一処にむまるといはば、悪業のものども慢心をおこすべきがゆへに、品位差別をあらせて、善人は上品にすすみ、悪人は下品にくだるなりと、ときたまふなり。

とありまして、善人と悪人とを善導大師の定義に基づいて分けておられます。「善人・悪人一処にむまるといはば、悪業のものども慢心をおこすべきがゆへに」とは、まさに親鸞会のためのお言葉でしょう。

余りにも珍説が多過ぎて、親鸞会の教義は何教に属するといえばいいのでしょうか。少なくとも仏教ではないでしょう。

|

« M野講師が質問に答えれば、容易に判る話です | トップページ | 八万四千の法門と機との関係が判りますか? »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« M野講師が質問に答えれば、容易に判る話です | トップページ | 八万四千の法門と機との関係が判りますか? »