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2010年11月 2日 (火)

M講師からの反論-三願転入の教え

M講師とやりとりされている方が、M講師に対して、回答を求めると共に、今回の法論を公開することをあらかじめ宣言してありました。それが最後に書かれてあります。

読む価値のないものとは、M講師の書かれたような断章取義のことをいうのではないでしょうか。もし反論があれば、私の挙げた根拠を1つ1つ解説された上で、論点をずらすことなく仰って下さい。H講師、O講師と相談されても結構です。できれば、高森先生とご相談くだった上で、仏弟子としての責任ある御回答をお待ちしています。

なお、これらのやりとりはすべて公開させていただく予定ですので、御了承下さい。

です。

M講師から、この後に質問書(回答が一切無い)が来ていますが、そこには法論公開について異義の言葉がありませんでしたので、同意したものと見做してM講師の書いた文章もそのまま公開いたします。

著作権侵害を今からでも主張されるのならば、M講師本人から申し出て下さい。

これまで伏せてきたM講師の反論文は以下の通りです。一応申し上げておきますと、M講師は手書きのものをある会員さんに渡されましたので、それを打ち直したものです。

読む価値のない、コソコソとネットにしか書けない内容のものばかりでしたが、仏弟子の一人として、答えておきます。

①三願転入の教えについて(①と②を含む)
(A)19願の対象は「大経」の異訳本では、菩薩になっている。
(答)親鸞聖人が、「夫れ真実の教を顕わさば、大無量寿経これなり」と仰言った意味も正しく知らず、教行信証の構成も判らぬ者の、とんでもない横車です。教行信証は「大経」の真実を、より鮮明にするために異訳本を次次と示されているのです。その逆に、異訳本に「こうあるから大経の意味はこうなのだ」まさに帽子にあわせて頭をケズル事をしようとしている者と判ります。逆さまです。
(B)善のすすめは聖道門の人を浄土門に誘引するためのもの
(答)王舎城の韋提希が「弥陀の救い」を求めた時、釈尊は韋提希に定善散善をすすめられたのはどうなるのか。
(C)三願転入は、化土巻にのみ書かれてあり、他では仰言っていない。
(答)「釈迦弥陀は種々に善巧方便し 我らが無上の信心を発起せしめたまいけり」この釈迦、弥陀、(諸仏)の善巧方便が明らかにされています。一ケ所だけなんて、どこみて言っているのでしょうか。六三法門、三三法門ともいわれています。
②化土往生について
(A)化土往生は机上の空論であると親鸞会は言っている。
(答)親鸞聖人は教行信証に、
  ・若しまた此の度、疑網に覆蔽せられなばかえりてまた昿劫を経歴せん。
  ・一たび人身を失いぬれば万劫にもかえらず。
  一息きれたら未来永劫苦しまねばならないと言われています。
  蓮如上人は
  ・後世とは永き世まで地獄におつることなれば
  ・信心を獲得せずば、極楽に往生せずして無間地獄に堕在すべし
  これらは間違いか。お尋ねします。
  化土往生には、願と行が必要です。願はあれども、行が出来る人があったら教えて下さい。
③十方衆生は逆謗(極重の悪人)ではない
(答)末灯鈔の「善知識をおろかに思う者」「親をそしる者」でない人を一人でもあげてみて下さい。

②と③についての回答は、これまでに紹介してきました。上記のM講師の文章と突き合わせて、再度確認されると良いと思います。

最初の「読む価値のない、コソコソとネットにしか書けない内容のものばかりでしたが」と、①の「帽子にあわせて頭をケズル事をしようとしている者と判ります。」に対しての反論が、以前にも紹介した

まず、こそこそとネットで書いたものと思われているようですが、大きな誤解です。これは、mixiでH講師と三願転入について法論して、H講師が法論を放棄した内容と、O講師のブログ「浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い」と法論して、やはりO講師が法論を放棄した内容を、主にまとめたものです。
従って、すでに両講師との法論で議論し尽された内容ばかりですが、M講師は御存知ないようです。その時の法論の内容に少し補足しながら説明させて頂きます。

全般的なこととして、私は沢山の根拠を挙げました。経典、善知識方のお言葉で説明していますが、その根拠についてM講師が触れているのは、大経の異訳本についてのみです。他の根拠を無視されていることは、仏弟子として如何なものでしょうか。帽子に合わせて頭を削っているのはどちらかよくお考え下さい。

ここに当るのです。

さて、M講師の文章がないと説明がしにくかった①の三願転入の教えについての回答は、以下の通りでした。

①(A)について

『尊号真像銘文』には、

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

とあります。「唯除五逆誹謗正法」とあるから、「十方一切の衆生みなもれず」と親鸞聖人は仰っています。ならば、「唯除五逆誹謗正法」のない19願と20願は、もれている者があるということではないですか。この説明を補足する根拠の1つとして、異訳本を最初に出したのです。私は親鸞聖人のお言葉に添って説明したまでです。それを無視されるのですね。以下の項目も関連していますので、併せてよくお読み下さい。異訳本が、親鸞聖人の解釈と全く矛盾していないことがお分かりいただけるものと思います。

①(B)について

『教行信証』化土巻・要門釈の最初に

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

と仰っています。これを無視されていますが、よく意味がお分かりでないようですので、解説します。
前半は

外道の人が半字教(小乗仏教)、満字教(大乗仏教)、権教(四車家の立場から聖道門内の三乗)、実教(四車家の立場から聖道門内の一乗)、つまり聖道門に入るといえども、真実のものははなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多い。

です。外道から聖道門に入っても、聖道門の教えを実践していける者が甚だ少ないことを仰ったお言葉です。

それを承けられて釈尊は、福徳蔵(観経の定散二善)を説かれた、と仰っています。聖道門の修行に堪えれない人のために観経を説かれたということです。その御心は阿弥陀仏の19願にあったということです。
ここで、「群生海」「諸有海」とは、①(A)の意味であることは文章の繋がりからお分かりいただけると思っています。
法然上人の『西方指南抄』(親鸞聖人御真筆)には

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也。

とあることも、同様のことです。これらを否定されるということですか。
また『浄土和讃』

臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり

も無視ですか。「定散諸機」とは、親鸞会で教えているような「定散二善」の意味ではありません。定善の機、散善の機ということです。
『正信偈』の「矜哀定散与逆悪」『正信偈大意』の「されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり。」とあるように、「定散の機」と「五逆の機」は別であると仰っています。それも御理解いただけますか。

さて、釈尊が韋提希夫人に定散二善をすすめられたと思われているようですが、大きな勘違いです。

『観無量寿経』

ときに韋提希、仏にまうしてまうさく、「世尊、わがごときは、いま仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る。もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」と。

とあり、『玄義分』にも

問ひていはく、定散二善はたれの致請による。
答へていはく、定善の一門は韋提の致請にして、散善の一門はこれ仏の自説なり。

とあります。韋提希夫人が、自分は釈尊のお力で浄土を見ることができたけれども、仏滅後の衆生はどうすれば極楽浄土を見ることができるのですか、と問われて釈尊が説かれたのが定善です。また釈尊が定善を韋提希夫人に説かれたことと、定善を韋提希夫人にすすめられたこととの違いは御理解いただけますか。実際に、韋提希夫人は定善を実践しようともしていません。

『選択本願念仏集』

わたくしに問ひていはく、上輩の文のなかに、念仏のほかにまた捨家棄欲等の余行あり。中輩の文のなかに、また起立塔像等の余行あり。下輩の文のなかに、また菩提心等の余行あり。なんがゆゑぞただ念仏往生といふや。
答へていはく、善導和尚の『観念法門』にいはく、「またこの『経』(大経)の下巻の初めにのたまはく、〈仏(釈尊)、一切衆生の根性の不同を説きたまふに、上・中・下あり。
その根性に随ひて、仏、みなもつぱら無量寿仏の名を念ぜよと勧めたまふ。その人命終らんと欲する時、仏(阿弥陀仏)、聖衆とみづから来りて迎接したまひて、ことごとく往生を得しめたまふ〉」と。この釈の意によるに、三輩ともに念仏往生といふ。

問ひていはく、この釈いまだ前の難を遮せず。なんぞ余行を棄ててただ念仏といふや。
答へていはく、これに三の意あり。一には諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。

(中略)

一に、諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説くといふは、善導の『観経疏』(散善義)のなかに、「上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」といふ釈の意に准じて、しばらくこれを解せば、上輩のなかに菩提心等の余行を説くといへども、上の本願(第十八願)に望むるに、意ただ衆生をしてもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」といふ。

現代語訳も付けておきます。

わたくしに問うていう。上輩の門の中に、念仏のほかにまた家を捨て欲を離れるなどの余行があり、中輩の文の中にもまた塔をたて仏像をつくるなどの余行があり、下輩の文の中にもまた菩提心などの余行がある。それにどういうわけでただ念仏往生というのか。
答えていう。善導和尚の《観念法門》に、
また、この経 (大経) の下巻の初めにいわれている。「釈迦仏が説かれる。『一切衆生の機根はまちまちで、上・中・下の三種がある。その機根に随って、わたしはみな無量寿仏のみ名をもっぱら称えることを勧める。その人が命終わろうとするときに、阿弥陀仏は聖衆と共にみずから来て迎えとり、ことごとく往生させてくださる。』」
といわれてある。この解釈の意によって三輩共に念仏往生というのである。

問うていう。この解釈ではまだ前の疑難をしりぞけていない。どうして余行を棄ててただ念仏というのか。
答えていう。これに三つの意がある。一つには諸行を廃して念仏に帰せしめるために諸行を説く。

(中略)

一つに、諸行を廃して念仏に帰せしめるために諸行を説くというのは、善導の《観経疏》の中に、
《観経》の初めから、定善・散善の両門の利益を説いてきたけれども、阿弥陀仏の本願に望めてみると、世尊の思し召しは、人々をして一向に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあるのである。
といわれた釈の意に準じて、しばらくこれを解釈すると、上輩の中に菩提心などの余行を説かれているけれども、上の本願に望めてみると、世尊の思し召しはただ衆生をして専ら阿弥陀仏の名号を称えさせるにある。ところが、本願の中に更に余行はない。三輩共に上の本願に依るから「一向に専ら無量寿仏を念ずる」と説かれているのである。

また以下のことも仰っています。

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
例するに『法華』の三説の上に秀でたるがごとし。もし三説なくは、なんぞ『法華』第一を顕さん。ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

(現代語訳)

また定・散の諸行を説くことは、念仏がその他の善に超え勝れていることを顕わすためである。もし定散の諸行がなかったならば、どうして念仏が特に秀でた行であることを顕わされようか。例えば《法華経》が、それ以前の説、同時の説、それ以後の説の三説の上に秀でているようなものである。もし三説がなかったならば、どうして《法華経》が第一に秀でていることを顕わされようか。ゆえに今、定散の諸行はこれを廃するために説き、念仏三昧はそれを立てるために説かれるのである。

と法然上人ははっきりと教えられていますが、御存知ないのですか。
また『教行信証』行巻に念仏諸善比校対論として

勧無勧対念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない

と仰っていますが、諸仏が諸善を勧められていないと仰っていますが、親鸞聖人は嘘を仰ったのでしょうか。
参考までに『観無量寿経』の下品下生を見ると

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。

とあります。下品上生、下品中生も含めて、下輩には善の勧めはありません。韋提希夫人は上輩か中輩ということでしょうか。

①(C)について

善巧方便と権仮方便の意味を御存知ないようですので、解説を紹介しておきます。

教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)』の補註

 方便とは、仏が衆生を救済するときに用いられるたくみな方法をいう。その中に真実と権仮とがある。真実の方便とは、仏の本意にかなって用いられる教化の方法で、随自意の法門をいう。それは、大智を全うじた大悲が巧みな方法便宜をもって衆生を済度されるというので、善巧方便ともいう。阿弥陀仏を方便法身というときの方便がそれである。
 権仮方便とは、未熟な機は直ちに仏の随自意真実の法門を受けとれないから、その機に応じて、仮に暫く誘引のために用いられる程度の低い教えをいう。機が熟すれば真実の法門に入らしめて、権仮の法門は還って廃せられる。このように暫く用いるが、後には還って廃するような随他意の法門を権仮方便という。「方便化身土」といわれるときの方便がそれである。
 親鸞聖人は四十八願の中で、往生の因を誓われた第十八願、第十九願、第二十願のうち第十八願のみが真実願であり、第十九願、第二十願は方便願であるとされた。第十八願は、他力回向の行信によって、真実報土の果を得しめられる真実願であり、第十九願は、自力諸行によって往生を願うものを、臨終に来迎して方便化土に往生せしめることを誓われたものであり、第二十願は、自力念仏によって往生を願うものを、方便化土に往生せしめることを誓われた方便願であるといわれるのである。そしてこの三願は、聖道門の機を浄土門に誘うために第十九願が、自力諸行の機を念仏の法門に導き、さらにその自力心を捨てしめて第十八願の他力念仏往生の法門に引き入れるために第二十願が誓われたとされている。

この程度の知識を最低限持っていなければ、親鸞聖人の御著書を読んでも全く理解できません。

『教行信証』信巻・別序

真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり。

のお言葉は、まさに親鸞会の基本的な誤りを正されたものです。釈尊は善巧方便をもって真実信心を明らかにされたのであって、権仮方便をもってではありません。

『高僧和讃』善導讃

釈迦・弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し
 われらが無上の信心を 発起せしめたまひけり

も、同様のことを仰っています。
『蓮如上人御一代記聞書』にも、

一 蓮如上人仰せられ候ふ。方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふと[云々]。

とあります。「方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし」の「方便」は「廃立の義」ですから、捨てるべき権仮方便のことです。最後の文は文字通り、「善巧方便」のことです。「真実の信」は、「善巧方便によりて」うるのであって、「権仮方便によりて」ではありません。

以上のことをまとめて判りやすく言えば、親鸞聖人は18願1つで救われるのだと、繰り返し繰り返し教えられているのですが、絶対他力18願での往生をとても信じられない無宿善の機(未熟の機)がいますので、そんな機に対しては、権仮方便をもって18願での往生を願わせるところまで導かれるのです。親鸞聖人の教えを信じて、18願での往生を願う宿善の機に対しては、善巧方便をもって済度されるのです。

この善巧方便を具体的に描かれたのが、『教行信証』信巻末にある阿闍世の物語です。一見すれば、略されてもよいように思われる部分までも、事細かに引文されています。実に『教行信証』全体の1割も費やされて、親鸞聖人は何を教えられたかったのでしょうか。それは衆生が善巧方便によって導かれることを示されると共に、五逆罪を犯した極悪人をも洩らさず、普く救いたもう本願であることを親鸞聖人が明らかにされるためであったのです。

釈尊は阿闍世に対して、権仮方便をもって導かれたのではありません。『教行信証』を読まれたことがないから、内容を御存知ないのでしょうか。

権仮方便については『浄土和讃』「大経讃」に、

聖道権仮の方便に 衆生ひさしくとどまりて
 諸有に流転の身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ

とあります。親鸞会の説によれば、方便である聖道仏教もしなければなりません。
善巧方便と権仮方便の意味が分かれば、三願転入は化土巻でしか仰っていないことが御理解いただけるのではないでしょうか。

親鸞会の講師部員は、思考力が極端に低下していますので、長文が読めません。従って、今回せっかく書かれた解説もほとんど読まず、そして全くと言っていいほどに理解できずに、この後、また一方的に質問をし続けていきす。講師部員は、国語力が小学生並みであることが、次に出てきたM講師の質問書(回答の一切無い)により判ります。次回それを紹介します。

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コメント

これ、M浦J一講師にメールで送っちゃだめですか。

投稿: 元講師部 | 2010年11月 2日 (火) 22時00分

元講師部 様

構いません。内容が全く理解できていませんので、解説して上げてください。

投稿: 飛雲 | 2010年11月 2日 (火) 22時26分

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