« M講師からの2回目の質問書(回答が一切無いもの) | トップページ | 「専雑執心判浅深、報化二土正弁立」も知らない親鸞会 »

2010年11月 4日 (木)

「指を看て月を視ざるや」のM講師

M講師は不本意ながら、「十方衆生」≠「逆謗の機」は否定できませんでした。従って、「十方衆生」の中に、「逆謗の機」とそれ以外の機があることで決着したと判断しておきます。
これは19願の「十方衆生」を解釈する上で大きな意味を持ちます。

十方衆生」という言葉に拘るM講師と親鸞会会員のために、19願の「十方衆生」について異訳本、お聖教でどのように表現、解釈されているかを判りやすく表にしてみました。

  大無量寿経19願の十方衆生
平等覚経 諸佛國人民有作菩薩道者(諸々の仏国の菩薩道をなす者)
大阿弥陀経 八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道(諸々の仏国の菩薩道をなす善男人善女人)
尊号真像銘文 「唯除五逆誹謗正法」がないから、五逆・謗法の者は除かれている
化土巻・要門釈 半満・権実の法門(聖道門)を断念した人
西方指南抄 諸行の人
浄土和讃 定散諸機

明らかに、19願の「十方衆生」から「逆謗の機」は除かれています。M講師のいうような、どれが優先とかいう話ではなく、19願の「十方衆生」も含めてすべて同じ意味と考えるのが、通常の思考です。
このように見れば、

19願の「十方衆生」=善人

と言い換えてもよいと思います。つまり

18願は悪人正機
19願は善人正機

ということです。悪人が善人正機の19願を一端通って18願に入る、という発想がおかしいと思わないところがおかしいでしょう。

これを源信僧都は『往生要集』

『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。

と仰ったのです。そうしますと、善人は19願で報土往生しようと考えますので、親鸞聖人は要門釈で、19願は方便であるから方便化土にしか往けないことを仰った上で、『往生要集』のお言葉に「定散の諸機」を加えられ、要門釈の結論として

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

とされたのです。善人も自力では報土往生はできないのだから、自分の能力をよく知って、極重の悪人同様に他力念仏の18願に帰依せよ、と親鸞聖人は仰っているのです。

親鸞会の思考を離れれば、実に単純なことですが、親鸞会の思考に染まっていると、単純なことも複雑怪奇な教えにしてしまうのです。

以前にも紹介しましたが、四依の中で、

義に依りて語に依らざるべし、
(中略)
「義に依る」とは、義の中に好悪・罪福・虚実を諍うことなし。かるがゆえに語はすでに義を得たり、義は語にあらざるなり。人、指をもって月を指う、もって我を示教す、指を看視して月を視ざるがごとし。人、語りて言わん、「我指をもって月を指う、汝をしてこれを知らしむ、汝何ぞ指を看て月を視ざるや」と。これまたかくのごとし。語は義の指とす、語は義にあらざるなり。これをもってのゆえに、語に依るべからず。

(現代語訳)

教えの内容を依りどころとし、言葉に依ってはならない。
(中略)

教えの内容を依りどころとするとは、教えの内容に、よいと悪い、罪と功徳、嘘とまことなどの違いをいうことなく、だから言葉は教えの内容を表わしているものであって、教えの内容が言葉そのものなのではない。言葉に依って教えの内容に依らないのは、人が月を指さして教えようとするときに、指ばかりを見て月を見ないようなものである。その人は、《わたしは月を指さして、あなたに月を知ってもらおうとしたのに、あなたはどうして指を見て月を見ないのか》というであろう。これと同じである。言葉は教えの内容を指し示すものであって、言葉そのものが教えの内容であるわけではない。このようなわけで、言葉に依ってはならないのである。

と教えられていますが、まさにM講師や会員のためのお言葉です。

|

« M講師からの2回目の質問書(回答が一切無いもの) | トップページ | 「専雑執心判浅深、報化二土正弁立」も知らない親鸞会 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« M講師からの2回目の質問書(回答が一切無いもの) | トップページ | 「専雑執心判浅深、報化二土正弁立」も知らない親鸞会 »