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2010年11月 7日 (日)

またまた逃亡のようですが、聖教を読んでいないので当然の結果です。

M講師は、この法論を仲介していた会員に先日会ったものの、回答を避けました。「文章では自分の意図が伝わらない」、と語ったそうですが、M講師の意図は十二分に伝わっています。その会員を報恩講に誘うために、親鸞会の正しさを演出したかったのです。その証拠に、M講師の反論(正確には一方的な質問書)は、その会員だけにしか渡していません。法論の相手には、何も送ってきていません。

しかし、その会員を報恩講に誘えませんでしたので、最早これ以上見苦しい詭弁を弄する理由が無くなってしまいました。従って、H講師、O講師、もう一人のM講師に続いての逃亡となるでしょう。尤も、もう一人のM講師は、一人で四役こなして四回共逃亡していますが。
会長も講師部員も、『教学聖典』以外の根拠は読んだことがないと言っても過言ではありません。一通り読んだことがあるのは、『御文章』だけでしょう。
もちろん『往生要集』は、高森会長も講師部員も読んだことがないでしょうが、日本浄土仏教において知らずに済ますことのできない必読の聖教です。

読む価値のない、コソコソとネットにしか書けない内容のものばかりでしたが、仏弟子の一人として、答えておきます。

とM講師は一番最初に上から目線で言っていましたが、親鸞会という井の中でコソコソと悪口しか言えず、『往生要集』を読んだことのない会長とM講師のために、私も仏弟子の一人として先の回答を解説しておきます。

『往生要集』信毀因縁に、

問ふ。 不信のもの、なんの罪報をか得る。
答ふ。
『称揚諸仏功徳経』の下巻にのたまはく、「それ、阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するものは、五劫のうちに、まさに地獄に堕して、つぶさにもろもろの苦を受くべし」と。

問ふ。 もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。
答ふ。
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。 もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。 『双巻経』(大経)にのたまふがごとし、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。 このもろもろの衆生は、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の衆を見たてまつらず、このゆゑにかの国土においては、これを胎生といふ」と。 {以上}
仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。 しかも願に随ひて往生するは、これ仏の悲願の力なり。 『清浄覚経』(平等覚経)に、この胎生をもつて中輩・下輩の人となせり。

(現代語訳)

問う。信じない者は、どのような罪の報を得るのであるか。
答える。『称揚諸仏功徳経』の下巻に説かれている。

もし、阿弥陀仏の名号の功徳を讃めたたえることを信じないで、謗り毀つ者があるならば、五劫のあいだ地獄に堕ちて、つぶさにもろもろの苦を受けねばならぬ。

問う。もし深心がなくて、疑念を生ずる者は、結局往生できないのであるか。
答える。もし、全く信ぜず、往生の業を修めず、浄土を願い求めない者は、道理として往生するはずがない。しかしながら、もし仏智を疑うけれども、それでもやはり、かの浄土に生まれたいと願い、往生の業を修める者は、これもまた往生することができるのである。
『無量寿経』に説かれているとおりである。

もし、人々の中で、疑いの心を持ちながら、いろいろの功徳を修めて、かの国に生まれたいと願い、仏智、思いもおよばぬ智慧 (不思議智)、はかり知られぬ智慧、すべての者を救う智慧、ならびなくすぐれた智慧を知らず、いろいろの仏の智慧を疑って信ぜず、しかもなお罪の報を恐れ、おのが善根をたのむ心をもって善の本を修め、それによってかの国に生まれたいと願うものがあれば、これらの人は、かの国に生まれても宮殿の中にとどまり、五百年のあいだ、少しも仏を拝むことができず、教法を聞くことができず、菩薩・声聞などの聖衆を見ることもできない。それゆえ、これをたとえて胎生というのである。

仏の智慧を疑うのは、悪道に堕ちる罪に相当する。けれども、その願いにしたがって往生するというのは、仏の大悲の願力によるのである。『平等覚経』には、この胎生を中輩や下輩の人としている。

とあります。現代語訳を読まれれば概ね御理解いただけると思いますが、簡単にまとめれば、

阿弥陀仏の名号功徳」を「謗毀するもの」⇒「五劫のうちに、まさに地獄に堕」す
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるもの」⇒「理として生るべからず
仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するもの」⇒「(化土に)往生する

です。判りやすくいえば、

念仏誹謗の人⇒阿鼻地獄
浄土を信じない、浄土を願求しない人⇒往生できない
疑情をもってはいるが、浄土を願求する人⇒化土往生

ということになります。その根拠が『大無量寿経』胎化段にあることは、『往生要集』に書かれてある通りです。
もちろん同様のことを、親鸞聖人は御著書の中で度々仰っていますので、源信僧都の説明されたことを親鸞聖人がそのまま承け継がれているのです。

M講師の妄想による珍問などは、聖教を読んでいないことを証明するだけです。かつて教学課だったM講師のレベルを知れば、会長の教学レベルも自ずと判ります。

ただし、これまでに何度も述べている通り、化土往生を願うことを親鸞聖人は厳しく誡めておられますので、そこを間違えてはいけません。
信心決定できなければ必堕無間という完璧な邪義に惑わされること無く、信前の人が考えるべきことは報土往生だけです。

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