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2010年11月 6日 (土)

「専雑執心判浅深、報化二土正弁立」も知らない親鸞会

親鸞会の会員にとりましては、高森会長から化土往生について何も教えられていませんので、何も知らない人ばかりです。M講師は最初の質問書で、

化土往生には、願と行が必要です。願はあれども、行が出来る人があったら教えて下さい。

と言っていましたし、2回目の質問書でも、

親鸞聖人の疑情をもったまま死んだら地獄に堕ちていたと仰言ったお言葉を、報土往生も化土往生もできなかったならば、と解釈する、根拠をあげよ。

と頓珍漢なことを言っていましたが、M講師は『正信偈』さえも読んだことがないのでしょうか。

『正信偈』源信章には

専雑の執心、浅深を判じて、報化二土まさしく弁立せり。

とあり、『正信偈大意』には、

「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」といふは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。これすなはち、専雑二修の浅深を判じたまへるこころなり。『和讃』(高僧和讃)にいはく、「報の浄土の往生は おほからずとぞあらはせる 化土に生るる衆生をば すくなからずとをしへたり」といへるはこのこころなりとしるべし。

と蓮如上人は解説しておられます。

雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり
専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり

簡潔明瞭に蓮如上人は仰っています。「雑行雑修」の人は、「かならず化土懈慢国」であり、「専修正行」の人は、「さだめて報土極楽国」です。親鸞会のお得意の「雑行雑修」ですが、親鸞聖人、蓮如上人は、「雑行雑修」をしている人に対して「雑行雑修」捨てよ、と仰っているのだ、と耳にタコができるほど連呼しています。それならば「雑行雑修」の人はいなかったのでしょうか。「雑行雑修」の人がいたというのならば、その人は、「かならず化土懈慢国」ではないのでしょうか。

親鸞会の講師部員ならば、一日二回『正信偈』を読んでいるはずですが、その意味については無知です。M講師の自信満々の反撃は、『正信偈』という基本中の基本中の基本の中の更に基本のお言葉で、簡単に撃破されました。
親鸞会と法論するのには、教学がいらないと以前にいいましたが、その良い例です。

さて、親鸞聖人は、源信僧都が報土と化土について明らかにされたことを、『正信偈』で褒め讃えておられるのですが、『高僧和讃』源信讃ではそれが顕著です。

源信和尚ののたまはく われこれ 故仏とあらはれて
 化縁すでにつきぬれば 本土にかへるとしめしけり

(現代語訳)
源信和尚が言われる。 「私はかつて仏として現れていた。
教化の縁がすでに尽きたので、 本国浄土へと帰ると示したのである」 と。

本師源信ねんごろに 一代仏教のそのなかに
 念仏一門ひらきてぞ 濁世末代をしへける

(現代語訳)
本師源信和尚はねんごろに、 (お釈迦さま) ご一代に説かれた教えの中から、
念仏の教えを聞いて、 濁りの世末法の時代ということを教えたのである。

霊山聴衆とおはしける 源信僧都のをしへには
 報化二土ををしへてぞ 専雑の得失さだめたる

(現代語訳)
霊鷲山で聴衆であった、 源信僧都の教えでは、
報土と化土とが説かれ、 (利益を) 専修で得るか雑修で失うかが定められた。

本師源信和尚は 懐感禅師の釈により
 『処胎経』をひらきてぞ 懈慢界をばあらはせる

(現代語訳)
本師源信和尚は、 懐感禅師の『釈浄土群疑論』 によって、
『菩薩処胎経』 を開き、 懈慢世界をあらわされた。

専修のひとをほむるには 千無一失とをしへたり
 雑修のひとをきらふには 万不一生とのべたまふ

(現代語訳)
専修念仏の人をほめるときは、 「千人の中に一人も失敗がない」 と教えられた。
雑修の人を嫌うときには、 「万人に一人も生まれることがない」 と述べられた。

報の浄土の往生は おほからずとぞあらはせる
 化土にうまるる衆生をば すくなからずとをしへたり

(現代語訳)
真実報土への往生は、 多くはないとあらわした。
方便化土へ生まれる人々は、 少なくはないと教えられた。

源信僧都を仏の化身と崇められて、報土往生の人と化土往生の人の違いについて明確に教えて下された方だ、と親鸞聖人は源信僧都の事を大変に尊敬しておられるのです。
化土往生できる人がいないなどという妄想をいうM講師は、源信僧都の教えられたことも知らなければ、親鸞聖人がなぜ源信僧都を讃えられているかも知らないのです。
つまり、日本浄土仏教について無知であることを暴露しているのです。

先日、会長と講師部員は、親鸞聖人の御著書の1%しか読んでいない、と書きまして、それに対して少し言い過ぎではないかと思われた方もあるようですが、もし、『教行信証』や『高僧和讃』で、源信僧都の教えられた内容を少しでも読んでいれば、誰も化土往生できないなどということは、言える筈もないことです。『正信偈』の意味さえ理解できていないほど、親鸞聖人の教えに疎いのです。

親鸞聖人が至る所で仰っている化土往生のことさえも、これですから、会長は伊藤康善師、大沼法竜師が引用した根拠以外は、殆ど知らないのが実態です。もちろん講師部員もです。

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コメント

化土往生の件は、最初は化土往生そのものを否定しているのに、
途中から「化土往生できるものがどこにいるだろうか」みたいな話にすり替えてくるんですよね、あるいはゴッチャにしたり…

最初の論点 → 化土往生そのものを否定した主張をする(真実信心を得られなければ地獄に堕ちる、という主張など)

変わったら → (化土往生そのものはあるとした上で)その化土往生が「可能な者」がいない、という論点に変わる(「行が出来る人があったら教えて下さい」など)

化土往生に関しても、「~~できた人は化土往生ができる」なんて説き方はされてない。(「雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり」)
だから「願はあれども、行が出来る人があったら教えて下さい。」なんて質問が出てくる事自体が「聖典をちゃんと読んでない人間の、意味のない質問」と言われても
しょうがないでしょうね

投稿: | 2010年11月 6日 (土) 19時14分

名無し 様

鋭い分析ありがとうございます。
ただし、正確に言えば

>聖典をちゃんと読んでない

ではなく、

聖典を読んでない

が正しいと思います。講師部員は『教学聖典』なるものしか読んでいませんので、質問も回答も共に的外れにしかなりません。

投稿: 飛雲 | 2010年11月 6日 (土) 22時04分

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