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2010年11月

2010年11月30日 (火)

世間・出世間の悪道を説いているのが親鸞会

以前に、『浄土論註』

もし諸仏・菩薩の、世間・出世間の善道を説きて衆生を教化するものなくは、あに仁・義・礼・智・信あることを知らんや。かくのごとき世間の一切の善法みな断じ、出世間の一切の賢聖みな滅しなん。なんぢただ五逆罪の重たることを知りて、五逆罪の正法なきより生ずることを知らず。このゆゑに正法を謗ずる人、その罪もつとも重し。

(現代語訳)

もし、世の中のことや仏法について、善い教えを説いて人々を導く仏や菩薩がたがおられなかったなら、どうして仁・義・礼・智・信という人の道があると知ることができようか。そうなると世の中のすべての善もたたれてしまい、仏道を歩むすべての尊い方々もいなくなってしまうであろう。あなたはただ、五逆の罪が重いということを知っているだけで、五逆の罪は正しい法がないことからおこるということを知らないのである。このようなわけで、正しい法を謗る人は罪がもっとも重いのである。

というお言葉を紹介しました。ここで曇鸞大師が仰っているのは、謗法罪が最も重い理由についてですが、親鸞会が悪道になっている理由にも言及されていると思います。

親鸞会が勧めている”善”の実態は強引な金集め、人集めです。会員であった人ならば、誰でも知っている事実です。もし、正しい仏法、正しい親鸞聖人の教えに基づいた団体であったならば、このようなことになる筈がありません。親鸞会は、明らかに仁・義・礼・智・信という人としての道を踏み外していることからも、そのことが判ります。

仁・義・礼・智・信という言葉は、大抵の人なら知っていると思います。元々は儒教の五常のことであり、意味は

仁・・・他人への思いやりや慈悲の心。

義・・・人としての正しい生き方、道。

礼・・・礼節を重んじること、謙虚、秩序、人を敬うこと。

智・・・知識をもって正邪を見極め判断する能力。

信・・・信頼、嘘をつかないこと、正直な生き方。

です。これは、前にも述べたとおり世俗の善として、善導大師は教えられています。また、仏教の五戒(不殺生・不酎盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)と共通するものと古来から考えられてきました。

『改邪鈔』にも

それ出世の法においては五戒と称し、世法にありては五常となづくる仁・義・礼・智・信をまもりて

とある通りです。

さて、高森会長や講師部員は、仁・義・礼・智・信とは程遠い人物です。
会員さんの後生1つを念じているといいながら、親鸞会にとって都合の悪い教義上の質問をしただけで、除名・除籍になることが最近多いのは、その典型でしょう。たとえば昨年と今年1人ずつ、特専部員がこの理由で除名になっています。高森会長が教義上の質問に答えられないから除名とは、仁・義・礼・智・信の全てが欠落した行為です。
それ以外にも盗作や窃盗、浄財の私的流用、不倫など、五戒そのものを平気で破っているのが、高森会長と講師部員です。

その根本が、教えの間違です。仏教、親鸞聖人の教えに明らかに相違した外道の教えですので、仁・義・礼・智・信がないのは当然です。

高森会長のことを直接知っている人は、講師部員でさえもごく僅かですから、捏造された高森会長の美談しか、皆さんは御存知ないでしょう。高森会長のことを直接知っている方が、「さよなら親鸞会」に投稿をされていますので、まだ読んだことのない方は、読まれるとよいでしょう。昨年の1月から9月にかけて多くあります。
その一部をまとめたものは、2ch上に掲載されていますので、紹介しておきます。

高森会長は、2009年3月の狂学抗議で
「御釈迦様、貴方どうかされたんじゃないですか? 頭、変になられたんじゃないですか?」
と思わないと始まりませんというとんでもないことを言っています。
ならば会員の皆さんは、以下のことを思わないと始まりません。支部長に善知識の深い御心を尋ねて下さい。

正本堂7階に会長及び家族用の巨大な部屋がいくつも必要と考えたのは、

正本堂4階に会長と家族のためだけに40帖と16帖の厨房を造ったのは、

会長専用の渡り廊下を正本堂の工事の途中に密かに追加で造らせたのは、

F館は5階建てと発表して、6階の会長御殿を隠して財施を募ったのは、

T社のスタジオを本来の目的で使わず、M野のネット対策室として転用していたのは、

阿弥陀仏、釈尊、親鸞聖人のお言葉を否定して、「若不生者」に当益の意味は全く無いと、断言したのは、

伊藤氏、大沼氏の著書を盗作して、しかも伊藤氏、大沼氏の著書を読んだら処分されるのは、

味覚障害の会長に味をあわせなかった祇園の板長を追放し、関係の無い職員までも即日解雇したのは、

「親鸞会教義の誤り」に対する反論を依頼した特専部員を除名にしたのは、

「高森先生、貴方どうかされたんじゃないですか? 頭、変になられたんじゃないですか?」

世福を、仏法の話ではない、などと外道の言葉を吐く講師部員もいるように、親鸞会は腐っています。
世間・出世間の悪道を説いているのが親鸞会です。高森会長と講師部員の実態を、現会員はもちろんですが、元会員もよく知っておいてください。

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2010年11月27日 (土)

M野氏ではないと否定される方が答えないので、替わりに答えておきました

M野氏ではないと否定されている方に、表現を変えて以下の質問をしていました。

窃盗という法律上の悪を犯した講師部員がいることは、誰も否定しませんのでこれを前提として話をします。

会員の模範であり、宿善が一般の人よりも遥かに厚い筈の講師部員が、一般の人がしない法律上の悪をどういう気持ちで犯したのかを尋ねたいのです。それと高森会長は、宿善が厚く宿善開発したと聞いていますが、盗作や浄財の私的流用も、窃盗の一種であり、宿善の意味を知りたいのです。

聖覚法印、覚如上人が仰っていることをそのまま当て填めれば、会長とその講師部員は「宿善すくなきもの」「宿悪おもきもの」であったということです。もしそうならば、会長は宿善開発していると言えないのではないでしょうか。
あるいは、会員には廃悪修善を勧めながら、往生の障りにならないから本当は善をしなくてもいし、悪をどれだけしても関係ないのだ、と思っているのでしょうか。だとすれば、完全に謗法罪です。

『選択本願念仏集』には

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

と、下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことでありますが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれたことは、親鸞会の善の勧め、宿善論、三願転入論を否定されていることになるのではないですか。

こんな簡単な質問に、全く答えられないとは、恐れ入ります。仕方がないので、替わりに答えておきましょう。

ある講師部員(仮にM氏としておきます)が窃盗という犯罪を行ったと”仮定”しておきます。M氏は、仏教は廃悪修善を教えたものであり、善をしなければ信仰は進まないと堅く信じている筈で、それを会員にも伝えていたのです。
ところが、窃盗という犯罪を行ってしまったのはなぜか。

これについては『歎異抄』第13章の中で、親鸞聖人のお言葉が紹介されています。

 よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆゑなり。故聖人(親鸞)の仰せには、「卯毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし」と候ひき。
 またあるとき、「唯円房はわがいふことをば信ずるか」と、仰せの候ひしあひだ、「さん候ふ」と、申し候ひしかば、「さらば、いはんことたがふまじきか」と、かさねて仰せの候ひしあひだ、つつしんで領状申して候ひしかば、「たとへば、ひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、仰せ候ひしとき、「仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼえず候ふ」と、申して候ひしかば、「さては、いかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞ」と。
 「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。

(現代語訳)

 善い心がおこるのも、 過去の世の善い行いがそうさせるからです。 悪いことを考え、 それをしてしまうのも、 過去の世の悪い行いがはたらきかけるからです。 今は亡き親鸞聖人は、 「うさぎや羊の毛の先についた塵ほどの小さな罪であっても、 過去の世における行いによらないものはないと知るべきである」 と仰せになりました。
 またあるとき聖人が、 「唯円房はわたしのいうことを信じるか」 と仰せになりました。 そこで、 「はい、 信じます」 と申しあげると、 「それでは、 わたしがいうことに背かないか」 と、 重ねて仰せになったので、 つつしんでお受けすることを申しあげました。 すると聖人は、 「まず、 人を千人殺してくれないか。 そうすれば往生はたしかなものになるだろう」 と仰せになったのです。 そのとき、 聖人の仰せではありますが、 わたしのようなものには一人として殺すことなどできるとは思えません」 と申しあげたところ、 「それでは、 どうしてこの親鸞のいうことに背かないなどといったのか」 と仰せになりました。
続けて、 「これでわかるであろう。 どんなことでも自分の思い通りになるのなら、 浄土に往生するために千人の人を殺せとわたしがいったときには、 *すぐに殺すことができるはずだ。 けれども、 思い通りに殺すことのできる縁がないから、 一人も殺さないだけなのである。 自分の心が善いから殺さないわけではない。 また、 殺すつもりがなくても、 百人あるいは千人の人を殺すこともあるだろう」 と仰せになったのです。 このことはわたしどもが、 自分の心が善いのは往生のためによいことであり、 自分の心が悪いのは往生のために悪いことであると勝手に考え、 本願の不思議なはたらきによってお救いいただくということを知らないでいることについて、 仰せになったのであります。

高森会長の『歎異抄をひらく』では、都合が悪いからこの部分の解説はしていませんが、このM氏の窃盗という犯罪は、宿業によるのであり、誰から窃盗をせよと言われても、そのような宿業のない人は窃盗をしません。逆に、窃盗は絶対にしてはいけないと教えられ、他人にまで偉そうに言っていてもしてしまう宿業をもっているM氏は、窃盗をしてしまったのです。
ですから、善をせよ、悪をするなと言われても、その通りにできる人もあれば、できない人もあるのです。

親鸞会の『教学聖典』にある


 宿善の厚き人と、薄き人との違いを教えられた『唯信鈔』の御文を示せ。


 宿善の厚きものは今生も善根を修し悪業をおそる。
 宿善少きものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。

に従うならば、このM氏は「宿善少きものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず」になります。親鸞会のいつもの言い方で言えば、宿善の薄い者ということです。つまり、講師部員でありながら、しかもかつて講師部員の最上位にいたとしても、宿善の薄い者です。親鸞会の会員が聞いたら驚くべきことです。これを知って、退会した人が実際にあるくらいです。

ところが、高森会長のことを見てみれば、もっと酷いものです。盗作は隠しようもなく、そればかりかこんなに苦労して書いたんだと、会員に恩の押し売りまでしていたり、あるいは、すべて会員のためと言いながら会館を建て続け、その裏では会員の浄財を使って隠して豪華な御殿を次々と建設していたりと、一般の人から見たら、なんと心の乏しい極悪人だと見下されるようなことを今でもし続けているのです。
高森会長は宿善の薄い者としかいえません。宿善が薄いままで高森会長が救われたというのは、宿善が厚くならなければ救われないという親鸞会の宿善論の破綻を意味しています。

しかし、阿弥陀仏の18願は、窃盗をしたM氏も、盗作や浄財の私的流用の常習犯の高森会長も、一般の人も、善凡夫も、聖者も関係なく、そのまま平等一味に救いたもうのです。
悪人に善人になれという条件は全く付けておられません。

『正信偈』

凡聖・逆謗斉しく回入すれば、衆水海に入りて一味なるがごとし。

とあり、蓮如上人は『正信偈大意』

「凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味」といふは、凡夫も聖人も五逆も謗法も、斉しく本願の大智海に回入すれば、もろもろの水の海に入りて一味なるがごとしといへるこころなり。

と解説しておられる通りです。

このように聞けば、悪人は悪に誇って善に努めようとしない高森会長やM氏のようになるから、九品の差別を設けて、できる範囲内で善に努めるように釈尊が説かれたのだと法然上人が仰ったのが、『西方指南抄』の

極楽の九品は弥陀の本願にあらず、四十八願の中になし、これは釈尊の巧言なり。善人・悪人一処にむまるといはば、悪業のものども慢心をおこすべきがゆへに、品位差別をあらせて、善人は上品にすすみ、悪人は下品にくだるなりと、ときたまふなり。

です。往生、獲信と善悪とは無関係ではありますが、人間として、仏法者として善に励むように心掛けなければなりません。
耳四郎は、獲信後も泥棒を止めることができなかったと以前にも書きましたが、亡くなるまでには止めることができたと伝えられています。耳四郎は耳四郎なりに努力したのです。

M氏も、窃盗はその後止めることができたのかどうか定かではありませんが、嘘や謗法罪は、いつまで経っても止めようとさえしないのは、何とも情けないことであり、仏法者以前に、一般人の中でも御粗末な部類にしか入りません。悪をやめようという気持ちさえ起こしていませんので、死ぬまで止められないでしょう。哀れなものです。

M野氏ではないと否定される方が答えないので、替わりに答えておきました。当ブログを読んでいるようですので、反論する気が起こるかどうかだけです。

答えるまで今後も、質問は続けていきますので、よろしくお願いします。

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2010年11月25日 (木)

高森会長を非難しているのですか、あるいは七高僧のことを異安心だと誹謗しているのですか?

「九品の実機は逆謗」だとM野氏でないと否定される方は、断言しています。「親鸞会ブログポータル・ナビ」のコメント欄でも書かれた方がありましたが、七高僧は我々の実機についてどう仰っているのか、親鸞会の『教学聖典』に問答があります。


 我々の実機を七高僧は何と言われているか示せ。

 龍樹菩薩──儜弱怯劣
 天親菩薩──普共諸衆生
 曇鸞大師──造罪の人
 道綽禅師──若し悪を造ることを論ずれば
          何ぞ暴風駛雨に異ならん
 善導大師──機の深信
 源信僧都──予が如き頑魯の者
 法然上人──愚痴の法然房・十悪の法然

どうでしょうか。これらが逆謗という意味なのでしょうか。

最初に判りやすい龍樹菩薩のお言葉を見てみましょう。
『十住毘婆沙論』易行品には、

問ひていはく、この阿惟越致の菩薩の初事は先に説くがごとし。阿惟越致地に至るには、もろもろの難行を行じ、久しくしてすなはち得べし。 あるいは声聞・辟支仏地に堕す。もししからばこれ大衰患なり。
(中略)
このゆゑに、もし諸仏の所説に、易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得る方便あらば、願はくはためにこれを説きたまへと。

答へていはく、なんぢが所説のごときは、これ儜弱怯劣にして大心あることなし。これ丈夫志幹の言にあらず。なにをもつてのゆゑに。もし人願を発して阿耨多羅三藐三菩提を求めんと欲して、いまだ阿惟越致を得ずは、その中間において身命を惜しまず、昼夜精進して頭燃を救ふがごとくすべし。
(中略)
大乗を行ずるものには、仏かくのごとく説きたまへり。「願を発して仏道を求むるは三千大千世界を挙ぐるよりも重し」と。なんぢ、阿惟越致地はこの法はなはだ難し。久しくしてすなはち得べし。もし易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得るありやといふは、これすなはち怯弱下劣の言なり。これ大人志幹の説にあらず。なんぢ、もしかならずこの方便を聞かんと欲せば、いままさにこれを説くべし。

(現代語訳)

問うていう。この不退の菩薩が初地に入るまでの修行のありさまは、さきに説いた通りである。不退の位に至るについては、多くの難行を行じ、久しい間かかってようやくこれを得ることができるので、あるいは声聞・縁覚の地位に退堕することがある。もしそうなれば、これは大きな損失であり、災患である。
(中略)
こういうわけであるから、もし諸仏の説きたもう中に、易行道ですみやかに不退の地位に至ることのできる方法があるならば、どうか、わたしのためにこれを説かれよ。

答えていう。そなたのいうようなことは、根機の劣った弱い者のいうことで大きな志ではなく、これは雄々しく堅固な志を持つ者のことばではない。なぜかというと、もし人が願いを起こし無上仏果を求めようと欲して、まだ不退の位を得ないならば、その間は身命を惜しまず昼夜精進して、頭に付いた火を払い消すようにせねばならぬ。
(中略)
大乗を行ずる者には、仏は次のように説かれてある。「発願して仏果を求めることは三千大千世界をもち挙げるよりも重い」と。そなたが不退の位を得る法は甚だむずかしく、久しい間かかってようやく得ることができる。もしすみやかに不退の位に至ることのできる易行の道があろうかというならば、これはすなわち根機の劣った弱い者の言葉で、すぐれた人、堅固な志を持つ者のいうことではない。
しかしながら、そなたが、もし必ずこの方法を聞きたいと思うならば、今まさにこれを説くであろう。

と仰っています。、「儜弱怯劣」とは、難行道(聖道門)の修行に堪えることのできない人に対して龍樹菩薩が仰ったものです。難行道の修行に堪えることのできる人が「丈夫志幹」「大人志幹」です。難行道の修行に堪えられない人が「儜弱怯劣」「怯弱下劣」です。それ以上の意味がここからは読み取れませんが、”文底秘沈の教え”では、

儜弱怯劣=逆謗

となるのでしょうか?

次にM野氏ではないと否定される方がお好きな善導大師を見てみましょう。
これまでに何度も紹介してきましたが、機の深信は2箇所で表現を変えられて仰っています。

『散善義』

一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。

と、もう一つ『往生礼讃』

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。

です。後者の方では、「善根薄少」となっており「無善根」ではありません。善根が少ないので、自分の力では出離できないということであって、悪しかできないということではありません。
一方、『散善義』の下品下生の解説では、

一には造悪の機を明かす。二には総じて不善の名を挙ぐることを明かす。

(現代語訳)

一つには、悪を造る機であることを明かす。二つには、総じて不善の名をあげることを明かす。

とあります。善導大師御自身のことを仰った「善根薄少」は、下品下生の「不善」 とは違います。”文底秘沈の教え”では、

善根薄少=不善

となるのでしょうか?

さすがに法然上人の「愚痴の法然房」「十悪の法然」ならば、日本語の不自由な方でも判ると思います。それでも判らない困った人には、以前から紹介しています法然上人のお言葉、『往生大要鈔』

われら罪業重しと云へども、いまだ五逆をばつくらず。

『浄土宗大意』

五逆をもつくらさるわれらを、弥陀の名号を称念せむに往生うたかうへからず。

を読んで下さい。

説明が長くなるので省略しましたが、他の方も我々の実機が逆謗という意味で仰っていません。

結局のところ、高森会長が日本語が理解できずに間違えた問答を作ったと非難したいのか、あるいは七高僧の安心が高森会長と違う異安心と言いたいのでしょう。

高森会長とM野氏ではないと否定される方は、何様のつもりですか?

親鸞会は、仏教と無関係の新興宗教とはっきり言ったらどうでしょう。.

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2010年11月24日 (水)

大乗の五逆罪を知らない高森会長の無知を晒したいの?

M野氏ではないと否定されている方が、五逆罪についても、おもしろいことを言っているそうですので、少し解説しておきます。

五逆罪には、三乗の五逆罪と大乗の五逆罪のあることは、

「親鸞会教義の誤り」
一切衆生は必堕無間なのか6

で詳しく解説されています。
三乗の五逆罪とは、一般的に使われる五逆罪で、

 一.故意に父を殺す
 二.故意に母を殺す
 三.故意に阿羅漢を殺す
 四.間違った考えを起こして教団を乱す
 五.悪い心を抱いて仏身を傷つけて血を流す

ということです。この三乗の五逆罪を犯している人は極めて少ないのです。
無間業といわれるのは、三乗の五逆罪のことです。

一方で、大乗の五逆罪は、十悪と謗法罪を含んでいます。

 一. 仏塔を壊し、経典を焼き、三宝を盗む
 二.声聞・縁覚・菩薩の教えを謗って仏教でないといい、仏教の布教を妨げ、危難を加え、仏法の光を覆い隠し弘まらないようにする
 三.持戒・無戒・破戒にかかわらず、すべての出家した人に対して、罵り打って苦しめ、過失を並べ立てて閉じ込め、還俗させて、かりたてて使い、重税を課して命を絶つところまで追い込む
 四.父を殺し、母を害し、仏のからだを傷つけて血を流し、教団の和を乱し、阿羅漢を殺す
 五.因果の道理を否定して、常に十悪の罪を犯す

親鸞聖人は、大乗の五逆罪についての悪報には、触れておられません。なぜなら、十悪と謗法罪では、悪報がかなり違いますので一律には言えないからでしょう。大乗の五逆罪を一律に無間業というのは、珍しき教えです。

さて、『観無量寿経』の下品下生にある五逆罪とは、どちらか。
誰が読んでも、三乗の五逆罪の方です。

18願の五逆罪は、どちらか。
やっぱり三乗の五逆罪です。

曇鸞大師の『浄土論註』八番問答ではどうか。
もちろん三乗の五逆罪です。参考までに

問うていはく、なんらの相か、これ誹謗正法なるやと。

答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。

問ひていはく、かくのごとき等の計はただこれおのが事なり。衆生においてなんの苦悩ありてか五逆の重罪に踰えたるや。

答へていはく、もし諸仏・菩薩の、世間・出世間の善道を説きて衆生を教化するものなくは、あに仁・義・ 礼・智・信あることを知らんや。かくのごとき世間の一切の善法みな断じ、出世間の一切の賢聖みな滅しなん。なんぢただ五逆罪の重たることを知りて、五逆罪の正法なきより生ずることを知らず。このゆゑに正法を謗ずる人、その罪もつとも重し。

(現代語訳)

問うていう。正しい法を謗るとは、どのようなことをいうのか。

答えていう。仏もなく仏の教えもなく、菩薩もなく菩薩の教えもないというような考えを、自分自身でおこしたり、他の人に教えられて、その通りと心に定めることを、みな正しい法を謗るというのである。

問うていう。このように考えることは、ただ自分にだけ関わることである。他の人に対してどのような苦しみを与えることで、五逆の重罪より重い罪であるというのであろうか。

答えていう。もし、世の中のことや仏法について、善い教えを説いて人々を導く仏や菩薩がたがおられなかったなら、どうして仁・義・礼・智・信という人の道があると知ることができようか。そうなると世の中のすべての善もたたれてしまい、仏道を歩むすべての尊い方々もいなくなってしまうであろう。あなたはただ、五逆の罪が重いということを知っているだけで、五逆の罪は正しい法がないことからおこるということを知らないのである。このようなわけで、正しい法を謗る人は罪がもっとも重いのである。

と仰っています。謗法罪・五逆罪と「仁・義・ 礼・智・信」の関係について判りやすく教えてくださっています。M野氏ではないと否定される方は、「世俗の善」である「仁・義・ 礼・智・信」を出してほしくて、大乗の五逆罪のことを出したのでしょう。ご希望をかなえておきました。
世俗の善」は、仏法の上に成り立っているというのが、曇鸞大師の解釈です。「世俗の善」を

仏法の話ではない

など暴言を吐くのは、『浄土論註』も読んだこともなく、ここを引かれている『教行信証』信巻も読んだことがないということを全世界にアピールしたようなものです。実に恥ずかしいことです。

では次に、善導大師はどうか。
『散善義』では『観無量寿経』に従って下品下生の五逆罪を説明されていますので、もちろん三乗の五逆罪です。

親鸞聖人も、『教行信証』信巻以外では、三乗の五逆罪で説明されています。

親鸞会でも教えられたことのない大乗の五逆罪を、物知り顔をして場違いなところで使うのは、どういう意図があるのでしょうか。
大乗の五逆罪を知らない高森会長の無知を晒したいのか、それとも、会長や講師部員の犯罪・反社会的行為も大乗の五逆罪だと非難したかったのでしょうか。

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こちらの質問は無視し、せっかく善導大師のお言葉で説明したのにそれも無視ですか?

M野氏ではないと否定される方が、善導大師のお言葉で定散二善について書いてきていたので、論点ずらしといわれないように、善導大師のお言葉でこちらも説明してきたのです。ところが、こちらが出した根拠に対しては、解釈がどう違うのか全く説明しようとしないで、何やら喚いています。自分の言いたいことだけいうのは、卑怯な親鸞会のいつもの手段です。

くどいようですが、こちらの質問にまず答えてもらえますか。質問が理解できないようですので、少し表現を変えておきます。

窃盗という法律上の悪を犯した講師部員がいることは、誰も否定しませんのでこれを前提として話をします。

会員の模範であり、宿善が一般の人よりも遥かに厚い筈の講師部員が、一般の人がしない法律上の悪をどういう気持ちで犯したのかを尋ねたいのです。それと高森会長は、宿善が厚く宿善開発したと聞いていますが、盗作や浄財の私的流用も、窃盗の一種であり、宿善の意味を知りたいのです。

聖覚法印、覚如上人が仰っていることをそのまま当て填めれば、会長とその講師部員は「宿善すくなきもの」「宿悪おもきもの」であったということです。もしそうならば、会長は宿善開発していると言えないのではないでしょうか。
あるいは、会員には廃悪修善を勧めながら、往生の障りにならないから本当は善をしなくてもいし、悪をどれだけしても関係ないのだ、と思っているのでしょうか。だとすれば、完全に謗法罪です。

『選択本願念仏集』には

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

と、下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことでありますが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれたことは、親鸞会の善の勧め、宿善論、三願転入論を否定されていることになるのではないですか。

18願での救いに関する極めて重要な質問です。真面目にお答え下さい。

さて、親鸞聖人のお言葉を出しておきます。

『教行信証』信巻

律宗の元照師のいはく、「ああ教観にあきらかなること、たれか智者(智顗)にしかんや。終りに臨んで『観経』を挙し、浄土を讃じて長く逝きき。法界に達せること、たれか杜順にしかんや。四衆を勧め仏陀を念じて、勝相を感じて西に邁きき。禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。業儒、才ある、たれか劉・雷・柳子厚・白楽天にしかんや。しかるにみな筆を秉りて、誠を書して、かの土に生ぜんと願じき」と。

(現代語訳)

律宗の元照師がいっている。
「ああ、智者ほど教義と実践に通じていたものはいない。彼もまた臨終には『観無量寿経』を仰ぎ、阿弥陀仏の浄土をたたえてこの世を去った。杜順ほど法界の教理に達していたものはいない。彼もまた出家や在家の人々に勧めて念仏し、臨終に奇瑞を感得して、西方浄土に往生した。高玉や智覚ほど禅定に入って自己の本性を見たものはいない。彼らもまた仲間とともに念仏し、すぐれた往生をとげた。劉程之や雷次宗、柳子厚や白楽天ほど儒学者の中で学識のあったものはいない。ところが彼らもまた、誠実な心を文にあらわして、浄土に生れたいと願った」

高玉(?~742)、智覚(904~975)両禅師は、善導大師(613~681)よりも後の方です。聖者でないお二人は、上品上生の方であったと親鸞聖人は仰っています。
法然上人も『勅伝』で、

上人のたまはく、諸宗の祖師は、みな極楽に生じ給へり。所謂真言の祖師、竜樹菩薩、天台の祖師、南岳、智者、章安、妙楽等、三論の祖師、僧叡、華厳の祖師、智厳、法相宗には、懐感禅師、本宗をすてゝ、浄土宗に入る。天親菩薩は、法相宗の祖師なり。往生論を作て、極楽をすゝむ。達磨宗の祖師、智覚禅師は、上品上生の往生人なり。其他名僧の中に、往生人これ多し。あぐるに遑あらず。

と仰っています。
智覚禅師に関しては、以下のような解説がありましたので、紹介しておきます。

ノート:智覚

道元禅師の言行を記した『正法眼蔵随聞記』に、道元禅師が智覚禅師の出家のいわれについて話されたことが載っています。智覚禅師という方は親鸞聖人誕生の200年ほど前に亡くなった中国の方です。この方は、はじめ官吏でした。心の真直ぐな賢い人でしたが、或る時、役所のお金を盗んで、貧しい人々に施しました。それを他の役人が皇帝に訴えたので、その人柄をよく知っていた皇帝は不思議に思ったのですが、罪を軽くはできないので、死刑に決定しました。刑の執行のために差し向けられる勅使に皇帝は「彼は学問もあり、賢者でもある。それだのにわざわざこんな罪を犯すというには、何か深い考えがあるからであろう。もし首を斬る時に悲しみ嘆く様子があったら、さっさと斬るがよい。しかしもしそういう様子がなかったら、斬ってはならない」と命じました。予想通り悲しみ嘆く様子はなく、むしろ喜んでいるようであったので、その理由を尋ねました。それに対して「人間に生まれたこのたびの命はこの世の一切の生きとし生けるものにほどこすのです。私は官職をやめ、命を捨てて施しを行い、生きとし生けるものと仏縁を結び、次の世には菩薩に生まれて、ひたすら仏道を行じようと思います」という智覚禅師の答えに心打たれた皇帝は、罪を許し、智覚禅師を出家させたというのです。

自分が十悪・五逆・謗法の罪を平気で造り続けているからといって、他の人も全員同じだと考える愚かさを知るべきでしょう。
世の中には立派な方はおられるのです。善知識方の仰せの通りです。立派な方々と比べて、自分はなんと御粗末な者か、と恥じる気持ちがあってしかるべきです。それが

オレは逆謗の者だ

と威張り散らす言動をしていては、外道の者としか言い様がありません。

善知識方のお言葉を断章取義して、文底秘沈の教えにして、親鸞会だけが知っている秘密の法門と宣伝して、私利私欲のために利用している謗法の大罪を何と心得ているのか。

負け犬の遠吠えなど読む気にもなりません。こちらの質問に答えたら、暇な時に遠吠えでも読んでおきますよ。

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2010年11月23日 (火)

M野氏ではないと否定される方へ。質問に答えて下さい。それと世福を知っていますか?

何やら妄想を書いていますが、こちらからの質問に正しく答えてもらえれば判る話ですけど。極めて重要な内容ですので、M野講師ではないなら尚更答えて下さい。

  1. 2chや講師部合宿でも問題として取り上げられた講師部員の犯罪行為については、往生の障りとならないと思ってしたのか、往生の障りにはなるが「宿善すきなきもの」「宿悪おもきもの」ゆえにしてしまったのか。
    あるいは、廃悪修善を実践する親鸞会講師部員にあっては、犯罪行為を行った講師部員は存在しないと全面否定をするのか。(ここではあえて具体的な内容は伏せておきますが、否定された場合には具体的なことを後ほどお尋ねします)
  2. 高森会長の盗作及び浄財の私的流用は、間違いのない事実として多くの人が確認できることではあるが、世間一般の人でもしないような犯罪行為を何十年もし続けている会長は、講師部員よりも更に「宿善すきなきもの」「宿悪おもきもの」といえる。しかし、そんな「宿善すきなきもの」「宿悪おもきもの」のままの会長が獲信したというのは親鸞会の宿善論と矛盾しないのか。 (盗作、浄財の私的流用を否定されるのであれば、また具体的なことをお尋ねします)
  3. 『観無量寿経』に説かれている下品上生・下品中生・下品下生について、法然上人は『選択本願念仏集』で仰っているように

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

と、下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことであるが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれたことは、親鸞会の善の勧め、宿善論、三願転入論を否定されていることになるのではないか。

私は聖教上の根拠を挙げて、そのお言葉に添ってしか説明をしておりません。しかし、親鸞会では妄想が根拠であり、国語の能力にも大いに問題がありますので、真宗界では親鸞会のことを新興宗教くらいにしか見做されていないのです。

たとえば、

長い間親の介護をしても「いつまで続くのか」なんて思ったら五逆の下下品なんだが。

と言っていても、その聖教上の根拠はある筈もなく、追及すれば『末灯鈔』を断章取義するだけしか能がないでしょう。超低レベルです。

法然上人は『往生大要鈔』では

われら罪業重しと云へども、いまだ五逆をばつくらず。

と仰り、また『浄土宗大意』には、

五逆をもつくらさるわれらを、弥陀の名号を称念せむに往生うたかうへからず。

とも仰っています。
聖覚法印の『唯信鈔』には、

五逆の罪人すら、なほ十念のゆゑにふかく刹那のあひだに往生をとぐ。いはんや罪五逆にいたらず、功十念にすぎたらんをや。

とか、

われら、罪業おもしというとも、五逆をばつくらず。

とあることも、嘘を言われたのだと法然上人、聖覚法印を謗っている訳です。
しかし、それは親鸞会では謗法罪と教えてましたが、自分はどうせ逆謗の者だからいくら謗法罪をいくら造ってもいいと思っているのでしょうか。やっぱり造悪無碍ですね。

また、三福の中の世福とは、「世俗の善」、つまり世間の善のことです。言い換えれば、倫理道徳の善です。

『散善義』の最初

いま三福といふは、第一の福はすなはちこれ世俗の善根なり。曾よりこのかたいまだ仏法を聞かず、ただおのづから孝養・仁・義・礼・智・信を行ず。ゆゑに世俗の善と名づく。

(現代語訳)

今三福というのは、第一福は、世間の善根であり、いまだかって仏法を聞かない人が、その性質が善であるので、自然に孝養・仁・義・礼・智・信を行ずるから世間の善と名づける。

と善導大師は解説なされています。「仁・義・礼・智・信」は、儒教でいうところの五常です。

『散善義』の中品下生では

一に「中品下生」より以下は、まさしく総じて行の名を挙げて、その位を弁定することを明かす。すなはちこれ世善上福の凡夫人なり。
二に「若有善男子」より下「行世仁慈」に至るこのかたは、まさしく第五・第六門のなかの、簡機・受法の不同を明かす。すなはちその四あり。一には簡機を明かす。二には父母に孝養し、六親に奉順することを明かす。すなはち上の初福(世福)の第一・第二の句に合す。三にはこの人、性調ほり柔善にして自他を簡ばず、物の苦に遭へるを見て慈敬を起すことを明かす。四にはまさしくこの品の人かつて仏法を見聞せず、また悕求することを解らず、ただみづから孝養を行ずることを明かす、知るべし。
三に「此人命欲終時」より下「四十八願」に至るこのかたは、まさしく第八門のなかの、臨終に仏法に遇逢ふ時節の分斉を明かす。
四に「聞此事已」より下「極楽世界」に至るこのかたは、まさしく第九門のなかの、得生の益と去時の遅疾とを明かす。

(現代語訳)

一つに、「中品下生者」より以下は、まさしく総じて行の名をあげて、その位を定めることを明かす。すなわち、世善の上福を修める凡夫である。

二つに、「若し善男子有りて」より「世の仁慈を行ぜん」までは、まさしく第五・第六門の機類を区別することと、法を受ける不同とを明かす。その中に四つある。一つには、機類を区別することを明かす。二つには、父母に孝養をつくし、六親に親しむことを明かす。すなわち、序分の世福の第一・第二にあたる。三つには、この人は、性質がおだやかで善良であり、自他の区別を見ず、人の苦しみに逢うのを見れば、いつくしみの心を起こすことを明かす。四つには、まさしく中品下生の人は、いまだかって仏法をきかず、また浄土を願うことを知らない。ただ自然と孝養を行なうことを明かす。よく知るべきである。
三つに、「此の人命終わらんと欲する時」より「四十八願」までは、まさしく第八門の、臨終に仏法に逢う時節のありさまを明かす。
四つに、「此の事を聞き已って」より「極楽世界」までは、まさしく第九門の、往生の益と往生に要する時の遅速とを明かす。

とあります。
中品下生とは、倫理道徳的な善をしている人のことですが、もちろんそれだけでは往生はできませんので、その人が臨終に善知識から阿弥陀仏の本願を聞いて、浄土を願う人です。
この少し後に

『讃』にいはく、

「中輩は中行中根の人なり。一日の斎戒をもつて金蓮に処す。
父母に孝養せるを教へて回向せしめ、ために西方快楽の因と説く。
仏、声聞衆と来り取りて、ただちに弥陀の華座の辺に到る。
百宝の華に籠りて七日を経。三品の蓮開けて小真を証す」と。

(現代語訳)

讃嘆していう。

中輩は中行を修める中根の人である 一日の斎戒をもって金蓮華に乗る
父母に孝養する善を教えて回向させ 西方に往生する因と説く
仏が声聞衆とともに来たり迎え ただちに弥陀の蓮華座のほとりにいたる
百宝の華に包まれて七日を経る 三品ともに華が開けて小乗のさとりをひらく

と教えておられます。

高森会長も講師部員も、世福ができない者であることは十二分に判っていますし、会長や講師部員が中品下生だなどと誰も思っていませんから、心配御無用です。

会長も講師部員も、国語の能力に大きな問題のありますので、『観無量寿経疏』など難しい書物を読まないことです。
まずはお伽話を読んで国語と倫理道徳を勉強しましょう。

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2010年11月22日 (月)

八万四千の法門と機との関係が判りますか?

親鸞会の教えていることは、根拠も解釈も理論も無茶苦茶ですから、間違っている部分を修正すれば何とかなるというレベルではありません。親鸞聖人の教えを正しく理解するには、一度頭の中を白紙に戻してから、学び直さなければならないでしょう。

前々回、前回も述べましたが、

十方衆生=悪凡夫=逆謗の機

という親鸞会の邪義がどうしても抜け切らないと、仏教全般を理解することも、浄土門を理解することも難しいでしょう。

会員の人からはよく

我々にとって19願が不要であるならば、なぜ阿弥陀仏は19願を建てられたのか

と質問を受けます。これは、聖道門に置き換えても同じことです。なぜ釈尊は聖道門を説かれたのか。
答えは、その教えが必要な機があるからです。

歴代の善知識方は、どなたも聖道門を否定されてはいません。当り前のことですが、聖道門の教えは正しいのです。ただ、悪凡夫にとっては不相応な教えであるから、18願1つを勧められたのです。

そのことを『観無量寿経疏』を断章取義して喜んでいる人のために、『観無量寿経疏』で説明します。
『玄義分』には、

心によりて勝行を起すに、門八万四千に余れり。漸頓すなはちおのおの所宜に称ふをもつて、縁に随ふもの、すなはちみな解脱を蒙る。

(現代語訳)

自分の心を元としていろいろの行を起こす法門は、八万四千に余っている。漸教・頓教おのおのその宜しきにかなって、自分に因縁のある法にしたがう者はみな解脱を被る。

とあります。釈尊がそれぞれの機に応じて教えを説かれたのですが、自分にあった教えに従ったならば、解脱ができるのです。
同様のことを『散善義』にも

諸仏の教行、数塵沙に越えたり。 稟識の機縁、情に随ひて一にあらず。たとへば世間の人の眼に見るべく信ずべきがごときは、明よく闇を破し、空よく有を含み、地よく載養し、水よく生潤し、火よく成壊するがごときなり。かくのごとき等の事をことごとく待対の法と名づく。すなはち目に見るべし、千差万別なり。いかにいはんや仏法不思議の力、あに種々の益なからんや。随ひて一門を出づれば、すなはち一煩悩の門を出づ。随ひて一門に入れば、すなはち一解脱智慧の門に入る。これがために縁に随ひて行を起して、おのおの解脱を求めよ。なんぢ、なにをもつてかすなはち有縁の要行にあらざるをもつてわれを障惑するや。しかるにわが所愛は、すなはちこれわが有縁の行なり。すなはちなんぢが所求にあらず。なんぢが所愛は、すなはちこれなんぢが有縁の行なり。またわが所求にあらず。このゆゑにおのおの所楽に随ひてその行を修すれば、かならず疾く解脱を得。
行者まさに知るべし。もし解を学せんと欲せば、凡より聖に至り、すなはち仏果に至るまで、一切礙なくみな学することを得ん。もし行を学せんと欲せば、かならず有縁の法によれ。少しき功労を用ゐるに多く益を得ればなり。

(現代語訳)

諸仏の教や修行の道は、その数が非常に多く、衆生の機縁もその根機にしたがってそれぞれ異なっている。たとえば、世間の人の眼に見て、すぐわかるようなものでいえば、明りはよく闇を破り、虚空はよくものをおさめ、地はよくものを載せ育て、水はよくものをうるおし成長させ、火はよくものを成熟させたり破壊したりするようなものである。これらのものごとをことごとく〈相い対する法〉と名づける。かようなものは、現に見られるとおりで千差万別である。まして仏法不思議の力が、どうして、さまざまの利益のないはずがあろうか。自分の機縁にしたがって、どれか一つの法門によって出ることは、それが迷いを出る一つの門であり、どれか一つの法門によって入ることは、それが一つのさとりの門に入ることである。これがために、機縁にしたがって行を修め、おのおのさとりを求めるべきである。そなたは、なぜ、わたしの根機に合う行でない法をもって、わたしを妨げ惑わそうとするのか。ところで、わたしの好むところは、わたしの根機に合う行であって、そなたの求めるものではなく、そなたの好むところは、そなたの根機に合う行であって、わたしの求めるものではない。こういうわけであるから、それぞれの好むところにしたがって行を修めるならば、かならず早くさとりをうるのである。

行者よ、よく知るべきである。もし学解をまなぼうと想うなら、凡夫から聖者、さらに仏果にいたるまで、すべての法をどれでも自由にまなぶことができる。しかし、実際に行を修めようと思うならば、かならず自分の根機に合う法によるべきである。根機に合う法によれば、わずかな苦労で多大な功徳をうるからである。

ところが、聖道門は凡夫の根機には合わないのです。それは同じく『散善義』

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)

わが身は、無始よりこのかた、他のものと同時に、発願し、悪を断ち、菩薩の道を行じたのに、他のものはことごとく身命を惜しまず、修行して位を進め、因が円満し、果が成就して、聖者の位を証した。その数は、大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、われら凡夫は過去より今日に至るまで、いたずらに流転して、煩悩の悪障が次第にますます多くなり、福徳智慧のきわめて少ないことは、重昏くらやみをもって明鏡に望むがようである。今このことを考えると、どうして心驚き悲しまずにおられようか。

とある通りです。
聖者の位まで到達することのできない人のために、定善が説かれています。
しかし、その定善も凡夫には難しいのです。『定善義』には

三業縁に随ひて転じ、定想波を逐ひて飛ぶ。たとひ千年の寿を尽せども、法眼いまだかつて開けず。

(現代語訳)

身口意業が所縁の境にしたがって移り禅定の想も波のように動いて、たとい千年の命をかけても智慧の眼は開けない。

とあるように、千年もの間、命懸けに定善に励んでも、定心を保つことは極めて難しいことなのです。
では散善ならどうか、ということですが、前々回にも紹介しましたように、善のできる善凡夫と、善のできない悪凡夫に分れるのです。

悪凡夫は善ができないのですから、悪凡夫には往生のために善を勧められていないのです。
それを善導大師のお弟子であった懐感禅師は『群疑論』に

『観経』の下品上生、下品中生、下品下生の三処の経文には、みなただ弥陀仏を念じて浄土に往生すと陳ぶ。

と書かれ、それを源信僧都が『往生要集』

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

と言い換えられているのです。それを親鸞聖人はそのまま承け継がれて『高僧和讃』

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と仰っておられます。浄土仏教の基本中の基本です。

ですから、我々は善ができない極重の悪人であると教えるならば、往生のため、獲信のために善を勧めることは理屈に合いません。他力念仏1つを勧めるのが善知識です。

努力すれば善ができるから善をせよ、と教えるならば、それは聖道門の教えです。悪凡夫は善凡夫になって、善凡夫は聖者になって、最後は成仏を目指す。理屈が通ります。当たり前のことですが、聖者も昔は凡夫であったのです。凡夫が善を積み重ねて聖者になるのです。誰も善ができなければ、聖者になる人もありません。

浄土門でも19願で往生を目指している人がいますが、それはもちろん定散二善ができるという前提です。

しかし親鸞会では、十方衆生は誰1人善のできる者はいないので、18願でしか往生はできないが、18願で救われるため、善を勧めます。支離滅裂です。

これだけ根拠を出して邪義の説明しても、思考がおかしい人は、親鸞会の支離滅裂な教えに筋が通っているようにしか思えず、『観無量寿経疏』を断章取義して、今後も自身満々に珍説を喚き続けるのでしょう。

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2010年11月20日 (土)

『玄義分』の「いまの時の善悪の凡夫」の意味は判りましたか?

前回『玄義分』を紹介しましたが、断章取義せずにそのまま読まれれば、親鸞会の誤りが誰でも判ります。
いまの時の善悪の凡夫」と『玄義分』にはありますが、上品と中品が善凡夫、下品が悪凡夫です。
『正信偈』等にも、「善悪の凡夫」とよく使われていますが、そのまま読めばいいのです。ところが親鸞会ではこれを珍解釈しているのです。

昭和52年1月20日号の『顕正新聞』に、高森会長の法話内容が載っていますが、そこには、

その煩悩で限りなく悪を造るからすべての人間は悪人ばかりです。ところが、その凡夫の中に善悪があると教えられておられるのですが、親鸞聖人が善人だと仰有ったのは自己の罪悪が分からず、自分を善人と自惚れている人、悪人とは自己の罪悪に気づいている人ですから一切善悪凡夫人で、すべての人々という意味になります。

と書かれてあります。同様のことを、高森会長は法話等でよく言ってきました。
しかしこれは、仏教のイロハも知らない外道の者の主張でしょう。

善導大師は、善凡夫・悪凡夫、善人・悪人をしっかり定義されて、『観念法門』で教えておられます。

凡夫の機性にその二種あり。一には善性人、二には悪性人なり。 その善性人とは、一には聞きてすなはち悪を捨てて善を行ずる善人、二には邪を捨てて正を行ずる善人、三には虚を捨てて実を行ずる善人、四には非を捨てて是を行ずる善人、五には偽を捨てて真を行ずる善人なり。この五種の人もしよく仏に帰すれば、すなはちよく自利利他す。家にありては孝を行じ、ほかにありてはまた他人を利し、望にありては信を行じ、朝にありては君子と名づけ、君に事へてはよく忠節を尽す。ゆゑに自性善人と名づくるなり。
悪性人といふは、一にはすなはち真を謗じて偽を行ずる悪人、二には正を謗じて邪を行ずる悪人、三には是を謗じて非を行ずる悪人、四には実を謗じて虚を行ずる悪人、五には善を謗じて悪を行ずる悪人なり。またこの五種の人もし願じて仏に帰せんと欲するも、自利することあたはず、また他人を利せず。また家にありては不孝、望にありては信なく、朝にありては小児と名づけ、君に事へてはすなはちつねに諂佞を懐く。これを不忠といふ。またこの人等、他の賢徳善人の身の上において、ただよく是を敗り非を成じ、ただ他の悪のみを見る。ゆゑに自性悪人と名づくるなり。また上は諸仏・賢聖より、人天・六道一切の良善に至るまで、これらの悪人をば譏りて恥辱するところなり、もろもろの有智のもの、 知るべし。

(本願寺派の現代語訳)

凡夫の機の性分に二種類があります。一つには善なる性分、二つには悪なる性分です。その善なる性分の人とは、一つには教えを聞けばすぐに悪を捨てて善を行う善人、二つには邪しまな見解を捨てて道理にかなった行いをする善人、三つには虚しい行を捨てて自他を充実させるような行いをする善人、四つには道理に背く非なる行いを捨てて是なる行いをする善人、五つには嘘偽りを捨てて真を実践する善人です。この五種の人は、もし仏に帰依するならば、自身を利益するばかりではなく、他の人々に大きな利益を与えていきます。もし世俗の生活を送るならば、家庭内では両親や親族を大切に護り、外では近隣の人々に尽します。在野の生活をすれば、社会のために尽くし、人々から信頼されるし、官職に仕えたならば、君子と称賛され、主君に仕えたならばよく忠節を尽くすから、自性の善人といいます。
悪なる性分の人というのは、一つには真を謗って虚を行う悪人、二つには正を謗って邪を行う悪人、三つには是を謗って非を行う悪人、四つには実を謗って虚を行う悪人、五つには善を謗って悪を行う悪人です。この五種の人は、たとえ仏に帰命しようとしても、さとりに向かうこともできず、他人に利益を与えることもできません。在家の生活を送っても両親や家族を不和にし、在野の生活をすれば社会を乱し信望を失い、官職に就けばつまらない人間と貶められ、主君に仕えれば、へつらい、おもねるだけの不忠者として排除されます。こういう悪性の人は、賢く勝れた人々を見ると、その欠点を探して針小棒大に悪評を流し、欠点がなければ作り上げて、賢者を貶めることばかりを考えています。こういう人を自性の悪人といいます。ですから上は諸仏や賢者、聖者より、下は天上界や人間の善良な人に至るまで、これらの悪人を恥ずべき者と厳しく批判されています。

高森会長は、『観念法門』という善導大師の御著書の存在すらも知らないかもしれません。もちろん内容など知る由もありません。悪人の具体的な説明を

在家の生活を送っても両親や家族を不和にし、在野の生活をすれば社会を乱し信望を失い、官職に就けばつまらない人間と貶められ、主君に仕えれば、へつらい、おもねるだけの不忠者として排除されます。こういう悪性の人は、賢く勝れた人々を見ると、その欠点を探して針小棒大に悪評を流し、欠点がなければ作り上げて、賢者を貶めることばかりを考えています。

となされていますが、高森会長や講師部員の言動を連想してしまうのは、私だけでしょうか。

また親鸞聖人が法然上人の法語を編纂された『西方指南抄』に

極楽の九品は弥陀の本願にあらず、四十八願の中になし、これは釈尊の巧言なり。善人・悪人一処にむまるといはば、悪業のものども慢心をおこすべきがゆへに、品位差別をあらせて、善人は上品にすすみ、悪人は下品にくだるなりと、ときたまふなり。

とありまして、善人と悪人とを善導大師の定義に基づいて分けておられます。「善人・悪人一処にむまるといはば、悪業のものども慢心をおこすべきがゆへに」とは、まさに親鸞会のためのお言葉でしょう。

余りにも珍説が多過ぎて、親鸞会の教義は何教に属するといえばいいのでしょうか。少なくとも仏教ではないでしょう。

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2010年11月18日 (木)

M野講師が質問に答えれば、容易に判る話です

M野講師は、ブログを使い分けての相変わらず論点ずらしです。M野講師の質問は、以前から私がしている以下の質問に正しく答えてもらえれば判る話です。大体、現代文も理解できない人が、古文を理解できる筈もないでしょう。

  1. 2chや講師部合宿でも問題として取り上げられた講師部員の犯罪行為については、往生の障りとならないと思ってしたのか、往生の障りにはなるが「宿善すきなきもの」「宿悪おもきもの」ゆえにしてしまったのか。
    あるいは、廃悪修善を実践する親鸞会講師部員にあっては、犯罪行為を行った講師部員は存在しないと全面否定をするのか。(ここではあえて具体的な内容は伏せておきますが、否定された場合には具体的なことを後ほどお尋ねします)
  2. 高森会長の盗作及び浄財の私的流用は、間違いのない事実として多くの人が確認できることではあるが、世間一般の人でもしないような犯罪行為を何十年もし続けている会長は、講師部員よりも更に「宿善すきなきもの」「宿悪おもきもの」といえる。しかし、そんな「宿善すきなきもの」「宿悪おもきもの」のままの会長が獲信したというのは親鸞会の宿善論と矛盾しないのか。 (盗作、浄財の私的流用を否定されるのであれば、また具体的なことをお尋ねします)
  3. 『観無量寿経』に説かれている下品上生・下品中生・下品下生について、法然上人は『選択本願念仏集』で仰っているように

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

と、下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことであるが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれたことは、親鸞会の善の勧め、宿善論、三願転入論を否定されていることになるのではないか。

判りやすい例をあげれば、常没の凡夫でも、親を殺すような酷い人物も入れば、一方で自分の夢を諦めて親の介護に専念する素晴らしい人もあります。
他人に善を勧めながら万引きをするような御粗末な人物もいるかと思えば、おつりを誤魔化さずに、正直にお金を支払う人も普通にいます。
質素な生活をしていると宣伝しながら、信者から集めたお金を自分の御殿に隠して流用し、優雅な生活をしている教祖もいれば、一方では、多くの人の為に私財を投げ出して自分は本当に質素な生活をしている立派な人もあります。

耳四郎の例も出して、過去のエントリーで何度も述べてきたことですので、当ブログの読者の方は、御理解頂けていると思います。

我指をもって月を指う、汝をしてこれを知らしむ、汝何ぞ指を看て月を視ざるや

これは、M野講師のことです。

さて、M野講師の論点ずらしに対して、手取り足取り解説するつもりはありませんので、M野講師の断章取義、珍説を勉強したい方は、『玄義分』の九品の解説をされたところを読んで下さい。M講師の嘘が簡単に判ります。ただ、かなり長いので、現代語訳だけを読まれても結構です。

第三にかさねて九品を挙げて返対して破すとは、諸師のいふ、「上品上生の人は、これ四地より七地に至るこのかたの菩薩なり」とならば、なんがゆゑぞ、『観経』(意)にのたまはく、「三種の衆生まさに往生を得べし。何者をか三となす。

一にはただよく戒を持ち慈を修す。二には戒を持ち慈を修することあたはざれども、ただよく大乗を読誦す。三には戒を持ち経を読むことあたはざれども、ただよく仏法僧等を念ず。

この三人おのおのおのが業をもつて専精に意を励まして、一日一夜、乃至七日七夜相続して断ぜず、おのおの所作の業を回して往生を求願す。命終らんと欲する時、阿弥陀仏および化仏・菩薩大衆と光を放ち手を授けて、弾指のあひだのごとくにすなはちかの国に生ず」と。

この文をもつて証するに、まさしくこれ仏世を去りたまひて後の大乗極善の上品の凡夫、日数少なしといへども、業をなす時は猛し、なんぞ判じて上聖に同ずることを得んや。しかるに四地より七地以来の菩薩は、その功用を論ずるに不可思議なり。あに一日七日の善によりて、華台に授手迎接せられて往生せんや。これすなはち上が上を返対しをはりぬ。次に上が中を対せば、諸師のいふ、「これ初地より四地以来の菩薩なり」とならば、なんがゆゑぞ、『観経』(意)にのたまはく、「必ずしも大乗を受持せず」と。

いかんが「不必」と名づくる。あるいは読み読まず、ゆゑに不必と名づく。ただ善解といひていまだその行を論ぜず。またのたまはく(観経・意)、「深く因果を信じ大乗を謗らず、この善根をもつて回して往生を願ず。命終らんと欲する時、阿弥陀仏および化仏・菩薩大衆と一時に手を授けてすなはちかの国に生ず」と。この文をもつて証するに、またこれ仏世を去りたまひて後の大乗の凡夫、行業やや弱くして終時の迎候に異なることあらしむることを致す。

しかるに初地より四地以来の菩薩は、その功用を論ずるに、『華厳経』に説きたまふがごとし。すなはちこれ不可思議なり。あに韋提の請を致すによりて、まさに往生を得んや。上が中を返対しをはりぬ。

次に上が下を対せば、諸師のいふ、「これ種性以上初地に至るこのかたの菩薩なり」とならば、なんがゆゑぞ、『観経』にのたまはく、「亦因果を信ず」と。いかんが「亦信」なる。あるいは信じ信ぜず、ゆゑに名づけて亦となす。またのたまはく(同)、「大乗を謗らず、ただ無上道心を発す」と。ただこの一句、もつて正業となす。さらに余善なし。「この一行を回して往生を求願す。命終らんと欲する時、阿弥陀仏および化仏・菩薩大衆と一時に手を授けてすなはち往生を得」(同・意)と。この文をもつて証するに、ただこれ仏世を去りたまひて後の一切の大乗心を発せる衆生、行業強からずして去時の迎候に異なることあらしむることを致す。もしこの位のなかの菩薩の力勢を論ぜば、十方浄土に意に随ひて往生す。あに韋提それがために仏に請じて、勧めて西方極楽国に生ぜしむるによらんや。上が下を返対しをはりぬ。

すなはちこの三品は去時に異なることあり。いかんが異なる。上が上の去時は、仏、無数の化仏と一時に手を授く。上が中の去時は、仏、千の化仏と一時に手を授く。上が下の去時は、仏、五百の化仏と一時に手を授く。ただこれ業に強弱ありて、この差別あらしむることを致すのみ。

次に中輩の三人を対せば、諸師のいふ、「中が上とはこれ小乗の三果のひとなり」とならば、なんがゆゑぞ、『観経』(意)にのたまはく、「もし衆生ありて、五戒・八戒を受持し、もろもろの戒を修行して五逆を造らず、もろもろの過患なからんに、命終らんと欲する時、阿弥陀仏、比丘聖衆と光を放ち法を説きて、来りてその前に現じたまふ。この人見をはりてすなはち往生を得」と。この文をもつて証するに、またこれ仏世を去りたまひて後の小乗戒を持てる凡夫なり。なんぞ小聖ならんや。

中が中といふは、諸師のいふ、「見道以前の内凡なり」とならば、なんがゆゑぞ、『観経』(意)にのたまはく、「一日一夜の戒を受持して、回して往生を願ず。 命終らんと欲する時、仏を見たてまつりてすなはち往生を得」と。この文をもつて証するに、あにこれ内凡の人といふことを得んや。ただこれ仏世を去りたまひて後の無善の凡夫、命延ぶること日夜、小縁のその小戒を授くるに逢遇ひて、回して往生を願ず。仏の願力をもつてすなはち生ずることを得。もし小聖を論ぜば、去ることまた妨げなし。ただこの『観経』は、仏、凡のために説きたまへり、聖のためにせず。

中が下といふは、諸師のいふ、「小乗の内凡以前の世俗の凡夫、ただ世福を修して出離を求む」とならば、なんがゆゑぞ、『観経』(意)にのたまはく、「もし衆生ありて、父母に孝養し、世の仁慈を行ぜんに、命終らんと欲する時、善知識の、ためにかの仏の国土の楽事、四十八願等を説くに遇ふ。この人聞きをはりてすなはちかの国に生ず」と。

この文をもつて証するに、ただこれ仏法に遇はざる人、孝養を行ずといへども、またいまだ心に出離を希求することあらず。ただこれ臨終に善の勧めて往生せしむるに遇ふ。この人勧めによりて回心してすなはち往生を得。またこの人世にありて自然に孝を行ず、また出離のためのゆゑに孝道を行ぜず。

次に下輩の三人を対せば、諸師のいふ、「これらの人はすなはちこれ大乗始学の凡夫なり。過の軽重に随ひて分ちて三品となす。いまだ道位にあらず。 階降を弁ちがたし」とは、まさに謂ふにしからず。なんとなれば、この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。

なにをもつてか知ることを得る。下が上の文に説くがごとし。「ただ五逆と謗法とを作らず、自余の諸悪はことごとくみなつぶさに造りて、慚愧すなはち一念に至るまでもあることなし。命終らんと欲する時、善知識の、ために大乗を説き、教へて仏を称せしむるに遇ひて一声す。その時阿弥陀仏、すなはち化仏・菩薩を遣はしてこの人を来迎し、すなはち往生を得しめたまふ」(観経・意)と。ただかくのごとき悪人目に触るるにみなこれなり。もし善縁に遇へば、すなはち往生を得。もし善に遇はざれば、さだめて三塗に入りていまだ出づべからず。

下が中とは、「この人先に仏の戒を受く。受けをはりて持たずしてすなはち毀破す。また常住僧物・現前僧物を偸み、不浄説法して、乃至、一念慚愧の心あることなし。命終らんと欲する時、地獄の猛火一時にともに至りて、現じてその前にあり。火を見る時に当りて、すなはち善知識の、ためにかの仏国土の功徳を説きて、勧めて往生せしむるに遇ふ。この人聞きをはりてすなはち仏を見たてまつり、化に随ひて往生す」(観経・意)と。初め善に遇はざれば獄火来迎し、後に善に逢ふがゆゑに化仏来迎す。これすなはちみなこれ弥陀願力のゆゑなり。

下が下とは、「これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず」(同・意)と。この人もし善に遇はずは、必定して下沈すべし。終りに善に遇ふによりて七宝来迎す。またこの『観経』の定善および三輩上下の文の意を看るに、総じてこれ仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫なり。ただ縁に遇ふに異なることあるをもつて、九品をして差別せしむることを致す。

なんとなれば、上品の三人はこれ大に遇へる凡夫、中品の三人はこれ小に遇へる凡夫、下品の三人はこれ悪に遇へる凡夫なり。悪業をもつてのゆゑなり。終りに臨みて善によりて、仏の願力に乗じてすなはち往生を得。かしこに到りて華開けてまさにはじめて発心す。なんぞこれ始学大乗の人といふことを得んや。もしこの見をなさば、みづから失し他を誤りて害をなすことこれはなはだし。いまもつて一々に文を出し顕証して、いまの時の善悪の凡夫をして同じく九品に沾はしめんと欲す。信を生じて疑なければ、仏の願力に乗じてことごとく生ずることを得。

(現代語訳)

第三に、重ねて九品の経文を挙げて他師らの説を対破するとは、

他師らは「上品上生の人はこれは四地より七地に至るまでの菩薩である」というが、それならば、なぜ《観経》に、

三種の衆生がみな往生を得るであろう。その三種とは何であるかというと、一つには、ただよく戒をたもち慈悲を修める。二つには、戒をたもち慈悲を修めることはできないけれども、ただよく大乗の経典を読む。三つには、戒をたもち経を読むことはできないけれども、ただよく仏法僧の三宝などを念ずる。これらの三種の人がおのおの自分の行業を専心に励んで、一日一夜から七日七夜に至るまで断えず相続し、それぞれ自分の修めた行業を因として往生を願うと、命の終わろうとするときに阿弥陀仏が化仏・菩薩・大衆と共に光明を放ち、み手を授けて、指を弾くほどのわずかのあいだに、かの浄土に生まれる。

と説かれてあるのか。この文をもって証明すると、まさしくこれは仏が世を去られた後の、大乗の行を修める極めて善い上品の凡夫であって、日数は少ないけれども行業を修める時には非常に勇猛である。それをどうして大乗の上位の聖者と同じであるとすることができようか。ところで、四地より七地までの菩薩は、その修行したはたらきをいえば思いはかることができぬ。どうして一日から七日までのわずかな善根によって、華台や仏・菩薩が手を授けたもう来迎を受けて往生することがあろうか。これは上品上生について対破しおわった。

 つぎに上品上生について対破するならば、他師らはこれを初地より四地までの菩薩であるというが、そうならば、なぜ《観経》に「不必受持大乗」と説かれてあるのか。「不必」とはどういうことかというと、あるいは読む者もあり読まない者もあるから「不必」というのである。また、ただ「善解」というだけで、その行のことは論じてない。また「深く因果を信じて大乗の法を謗らず、これらの善根を因として往生を願えば、命の終わろうとするとき阿弥陀仏が化仏・菩薩の大衆と共に一時にみ手を授け、そこで浄土に往生する」と説かれている。この文をもって証明すると、またこれは釈迦仏が世を去られて後の、大乗の行を修める凡夫で、その修める行業が上品上生よりやや弱くて、臨終の時の来迎の相がちがうのである。ところで初地より四地までの菩薩は、その修行したはたらきをいえば、《華厳経》に説かれてある通りで、思いはかることができぬ。どうして韋提が請うたことによって、そこで往生を得るということがあろうか。上品中生について対破しおわった。

 つぎに上品下生について対破するならば、他師らは、これは種性住以上初地に至るまでの菩薩であるというが、そうならば、なぜ《観経》に「亦信因果」というのか、「亦信」とはどういうことかというと、あるいは信じ、あるいは信じないから「亦」というのである。また「大乗を謗らず、ただ無上菩提心をおこす」と説かれてある。ただこれのみをまさしい行業として、そのほかの善はない。「この一行を因として往生を願えば、命の終わろうとするとき阿弥陀仏が化仏・菩薩の大衆と共に一時にみ手を授けたもうて、そこで往生を得る」といわれてある。この文をもって証明すると、ただこれは釈迦仏が世を去られて後の、大乗心をおこすすべての人々であって、その行業が強くないから往生する時の来迎の相がちがうのである。もしこの位の中の菩薩のはたらきをいうならば、十方の浄土へ思いのままに往生できるのである。どうして、韋提がそういう人のために仏に請うて西方極楽国土に往生することを勧めるのによろうか。上品下生について対破しおわった。

 そこで、上輩の三種の人は往生の時のありさまがちがう。どうちがうかというと、上品上生の者が往生する時には仏が無数の化仏と共に一時にみ手を授け、上品中生の者が往生するときには仏が千の化仏と共に一時にみ手を授け、上品下生の者が往生する時には仏が五百の化仏と共に一時にみ手を授けてくださるのである。これはただ修めた行業に強弱があるから、このちがいができるのにすぎない。

 つぎに、中輩の三種の人について対破するならば、他師らが、中品上生はこれは小乗の前三果の人であるというが、そうならば、なぜ《観経》にもし衆生あって、五戒・八戒をたもち、またいろいろの戒を修行して、五逆を造らずいろいろの過ちがないであろう。そういう者が命終わろうとする時、阿弥陀仏が比丘の衆生と共に光明を放ち法を説いてその人の前に現われる。この人はそれを見おわって、そこで往生を得る」と説かれてあるのか。この文をもって証明すると、またこれは釈迦仏が世を去られて後の、小乗の戒をたもつ凡夫である。どうして小乗の聖者ということができようか

 中品中生については、他師らは「見道以前の内凡である」というが、そうならば、なぜ《観経》に「一日一夜の戒をたもって往生を願い、命終わろうとするとき仏を見たてまつって往生を得る」と説かれてあるのか。この文をもって証明すると、どうして内凡の人ということができようか。ただこれは釈迦仏が世を去られて後の、善根のない凡夫で、寿命があって一日一夜小乗の縁に遇うてその小乗の戒を授かり、それを因として往生を願い、弥陀の願力によって往生を得るのである。もし小乗の聖者についていうならば、その往生も妨げはない。ただこの《観経》は、仏が凡夫のために説きたもうたのであって、聖者のためではない。

 中品下生については、他師らは、小乗の内凡より前の世俗の凡夫で、ただ世間の善根を修めて出離を求める者であるというが、そうならば、なぜ《観経》に「もし衆生あって、父母に孝養をつくし、世間の慈しみを行う者が、命終わろうとする時、善知識がその人のためにかの浄土の楽しいありさまや四十八願などを説かれるのに遇い、この人はそれを聞きおわって、そこで浄土に往生する」と説かれてあるのか。この文をもって証明すると、これはまだ仏法に遇わない人であって、父母に孝養をつくすといっても、心に出離をめがい求めたことはない。ただこれは臨終に、はじめて善知識が往生を勧めてくださるのに遇い、この人はその勧めによって浄土に心を向けて、そこで往生を得るのである。またこの人は平生のとき自然に孝養を行ったのであって、出離のために孝養をつくしたのではない。

 つぎに下輩の三種の人を対破するならば、他師らは、これらの人は大乗を始めて学ぶ十信位の凡夫であって、罪の軽重にしたがって三品に分けるが、まだ修行をしていないから、その上下を区別しがたいといっているが、そうではなかろうと思う。何となれば、この三種の人は、仏法につけ、世間につけ、いずれの善根もなく、ただ悪を作ることだけを知っている。どうしてそれが知られるかというと、下品上生の文に説かれている通りである。

ただ五逆と謗法を作らないだけで、そのほかの悪は皆ことごとく造り、わずか一念も慚愧する心がない。そういう者が命終わろうとする時、善知識がその人のために大乗を説き、教えて念仏させるのに遇う。一声すると、そのとき阿弥陀仏は化仏・菩薩をつかわして、この人を来迎し、そこで往生を得る。

 このような悪人は、すべて人の常に見るところである。もし善知識の縁に遇えば往生を得るが、善知識の縁に遇わなければ必ず三途に沈んで出ることができない。

 下品中生とは、

この人は、さきに戒律を受けたけれども、受けおわってこれをたもたずにすぐ破り、また寺にいつも備え付けてある常住僧物や、時々に供養される現前僧物をぬすみ、名聞利養のための不浄説法などをして、わずか一念の慚愧心もない。命が終わろうとするとき地獄の猛火が一時に共に来てその人の前に現われ、その火を見る時にあたって、善知識がその人のために、かの仏国土の功徳を説いて往生を勧めてくださるのに遇う。この人はそれを聞きおわって、すぐに仏を見たてまつり、その化仏にしたがって往生する。

とある。初めには善知識に遇わないで地獄の火が迎え、後には善知識に遇ったから化仏の来迎にあずかる。これはすなわち弥陀の願力によるのである。

 下品下生とは、

これらの衆生は、善くない業おこないである五逆・十悪を造り、いろいろの悪を犯している。この人は悪業によるから必ず地獄に堕ちて多劫のあいだ窮まりない苦しみを受ける人であるが、命終わろうとするとき、善知識が南無阿弥陀仏と称えることを教え、往生を勧めてくださるのに遇う。この人はその教にしたがって念仏し、念仏によって往生する。

とある。この人がもし善知識に遇わなければ必ず地獄に堕ちるところであったが、臨終に善知識に遇うたことによって、七宝の蓮台に迎えられたのである。

 また、この《観経》の定善および三輩上下の文の意味をうかがうに、すべてこれは釈迦仏が世を去られてから後の五濁の凡夫である。ただ縁に遇うことがちがうから九品の別ができるのである。何となれば、上品の三種の人は、これは大乗の縁に遇うた凡夫であり、中品の三種の人は小乗の縁に遇うた凡夫である。下品の三種の人は悪縁に遇うた凡夫であって、悪業があるから、臨終に善知識により、弥陀の願力に乗託してすなわち往生することができ、かの国に至って華が開けて、そこで始めて菩提心をおこすのである。どうしてこれが大乗を始めて学ぶ十信位の人ということができようか。もし他師らのような考えをするならば、みずから利益を失い他をあやまらせて、害をなすことがいよいよ甚だしい。

 いま、一々経文を出して証拠を明らかにし、今の時の善悪すべての凡夫をして九品に利益にうるおわせたいと思う。信じて疑いなければ、仏願力によってことごとく往生を得るのである。

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2010年11月17日 (水)

誡疑讃を19願を勧められたお言葉と解釈して、真宗界から笑われていますよ

親鸞会では、『正像末和讃』誡疑讃

如来の諸智を疑惑して
 信ぜずながらなほもまた
 罪福ふかく信ぜしめ
 善本修習すぐれたり

を、親鸞聖人が19願を勧められた根拠として教えているので、M野講師もそれに倣っただけでしょう。過去のエントリーを読まれれば、その誤りはお判り頂けると思いますが、簡単にまとめておきます。

この御和讃は『大無量寿経』胎化段と呼ばれるところを仰ったものです。

そのときに慈氏菩薩(弥勒)、仏にまうしてまうさく、「世尊、なんの因、なんの縁ありてか、かの国の人民、胎生・化生なる」と。仏、慈氏に告げたまはく、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見たてまつらず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ。

(現代語訳)

そのとき弥勒菩薩がお尋ねした。
「世尊、いったいどういうわけで、その国の人々に胎生と化生の区別があるのでしょうか」
釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「さまざまな功徳を積んでその国に生れたいと願いながら疑いの心を持っているものがいて、無量寿仏の五種の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望んで善い行いをし、功徳を積んでその国に生れたいと願うのであれば、これらのものはその国に生れても宮殿の中にとどまり、五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。そのため、無量寿仏の国土ではこれをたとえて胎生というのである。

化生」は報土往生、「胎生」は化土往生のことです。この

この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ善本を修習して

の部分を親鸞聖人は御和讃で言い換えられたものです。ですから、他力念仏と自力念仏、報土往生と化土往生を間違えている人がいることを嘆かれた御和讃なのです。

『大無量寿経』胎化段は、化土往生の根拠として、『往生要集』にも引用されていまして、これまでに化土往生について述べる時に何度か紹介してきました。

親鸞聖人は、『大無量寿経』胎化段を『教行信証』化土巻に引かれていますが、『三経往生門類』の方が明確に仰っています。

願(第二十願)成就の文、『経』(大経)にのたまはく、
(中略)
仏、慈氏に告げたまはく、〈もし衆生あつて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修し、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じて善本を修習して、その国に生れんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳ならん。つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞・聖衆を見ず、このゆゑにかの国土、これを胎生といふ。

親鸞聖人は、ここを20願成就文とされたのです。単に念仏を称えるというのではなく、「罪福を信じて善本を修習」することを20願の自力念仏となされたのです。
従って、御和讃の「罪福ふかく信ぜしめ」が19願を勧められたものという解釈は、実に頓珍漢な話です。
この御和讃の前後には、

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

罪福ふかく信じつつ
 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに
 方便化土にとまるなり

等の御和讃があり、同じ内容のことを何度も仰っています。親鸞聖人は、20願自力念仏の人を「疑心の善人」とされて、因果の道理を深く信じて自力念仏をたのみにしていては、化土往生に留って報土往生できないと、自力念仏を誡めておられるのです。

更には、誡疑讃の最後に親鸞聖人は以下のように付け加えておられます。

以上二十三首、仏不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせなり。

要するに、誡疑讃は19願自力修善も、20願自力念仏も勧めるどころか厳しく誡めておられるのです。常識中の常識です。
親鸞会は、たまたま見つけたお言葉を、前後も無視して、自分の都合のいいように解釈して使っているだけで、これも断章取義、珍解釈の代表例です。

これらの誡疑讃は、化土往生する人がいることを親鸞聖人がはっきり仰ったのと、”三願転入の教え”なるものをきっぱり否定されたという2つの意味で重要な根拠です。

真逆の解釈をして、真宗界から笑い物にされていることを親鸞会の会員は、知っておくべきでしょう。
そして、こんな超低レベルの理解で親鸞聖人の正しい教えを伝えていると大法螺を吹いている人物が、善知識なのかどうか、よくよく考えて下さい。

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2010年11月15日 (月)

恩徳讃の気持ちのない悪知識

昨日の続きです。M野講師は、高森会長を非難して、以下のようにも書いています。

弥陀の本願に救われ、信心獲得し、
信後報謝のお念仏をとなえている人には
必ず、知らされた弥陀の御恩を報謝する思いがある。

この恩徳讃については、以前に

典型的な断章取義教学

のところでも紹介しました存覚上人の『持名鈔』で説明されています。

ここに弥陀如来、無縁の慈悲にもよほされ、深重の弘願を発して、ことに罪悪生死の凡夫をたすけ、ねんごろに称名往生の易行を授けたまへり。
これを行じこれを信ずるものは、ながく六道生死の苦域を出でて、あまつさへ 無為無漏の報土に生れんことは、不可思議のさいはひなり。
しかるに弥陀如来超世の本願を発したまふとも、釈迦如来これを説きのべたまはずは、娑婆の衆生いかでか出離のみちをしらん。
されば『法事讃』(下)の釈に、 「不因釈迦仏開悟 弥陀名願何時聞」といへり。
こころは、「釈迦仏のをしへにあらずは、弥陀の名願いづれのときにかきかん」となり。
たとひまた、釈尊西天(印度)に出でて三部の妙典を説き、五祖東漢(中国)に生れて西方の往生ををしへたまふとも、源空・親鸞これをひろめたまふことなく、次第相承の善知識これを授けたまはずは、われらいかでか生死の根源をたたん。
まことに連劫累劫をふとも、その恩徳を報ひがたきものなり。
これによりて善導和尚の解釈(観念法門・意)をうかがふに、「身を粉にし骨を砕きても、仏法の恩をば報ずべし」とみえたり。
これすなはち、仏法のためには身命をもすて財宝をも惜しむべからざるこころなり。
このゆゑに『摩訶止観』(意)のなかには、「一日にみたび恒沙の身命を捨つとも、なほ一句の力を報ずることあたはじ。いはんや両肩に荷負して百千万劫すとも、むしろ仏法の恩を報ぜんや」といへり。
恒沙の身命を捨てても、なほ一句の法門をきける報ひにはおよばず。
まして順次往生の教をうけて、このたび生死をはなるべき身となりなば、一世の身命を捨てんはものの数なるべきにあらず。
身命なほ惜しむべからず。いはんや財宝をや。

阿弥陀仏の本願に救われて、出離させて頂いたのは、阿弥陀仏はもちろんですが、阿弥陀仏の本願を伝えて下された釈尊、次第相承の善知識方のお陰と感謝するのです。その御恩を知らされているならば、御恩に報いるには

身を粉にし骨を砕きても、仏法の恩をば報ずべし

仏法のためには身命をもすて財宝をも惜しむべからざるこころなり。

順次往生の教をうけて、このたび生死をはなるべき身となりなば、一世の身命を捨てんはものの数なるべきにあらず。身命なほ惜しむべからず。いはんや財宝をや。

と心得るべきであるといわれているのです。

これは信後のことでありますが、こんなに明らかなことさえも知らされておらず、これを信前のことと勘違いしているとんでもない悪知識がいるとM野講師は指摘している訳です。

実際に親鸞会発行の『教学聖典』の中には、このような問答があります。


 「後生の一大事は、どんな犠牲を払っても解決せね
 ばならぬものである」と教えられた、存覚上人の
 お言葉と、その根拠を示せ。


 ○仏法の為には身命をも捨て、財宝をも惜しむ
  べからず。
                        (持名鈔)

こんな理解をして、布教している者がいるとは、次第相承の善知識方も、これを書かれた存覚上人もひっくり返って驚かれると思います。信心が正しいかどうか以前に、日本語を理解する能力に問題があります。
この後には、

されば仏法を行ずるには、家をもすて欲をもすてて修行すべきに、世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて、ながく輪廻の故郷をはなれんことは、ひとへにはからざるさいはひなり。

とありまして、聖道門と浄土門の違いを明確にされています。
つまり、「どんな犠牲を払っても」というのは「家をもすて欲をもすてて修行すべき」聖道門のことです。浄土門では、「世をもそむかず名利にもまつはれながら」、世の中の倣いにしたがって名利に執着しながら、「無上の仏法をきをききて、ながく輪廻の故郷をはなれんこと」ができるのです。

M野講師の言われる通り、聖道門と浄土門の違い、真仮も判らず、恩徳讃の心も誤解しているような人物は、どこをどう贔屓目に見ても悪知識です。

そういえば、この

典型的な断章取義教学

エントリーで以下のようなコメントしたのが最初の議論の始まりでしたね、M野講師。

皆さん、お待たせしました。

如来の諸智を疑惑して
信ぜずながらなをもまた
罪福ふかく信ぜしめ
善本修習すぐれたり(正像末和讃)

この「罪福ふかく信ぜしめ」が19願を勧められた御言葉です。それは次の「善本修習」(20願)へ導くためです。

なお、私はM野支部長でも講師部員でもありません。世間の仕事に従事しながら聞法している単なる(お粗末で不真面目な)会員です。私を立派なM野支部長と間違えるのは、M野支部長に失礼ですよ。

投稿: | 2010年2月20日 (土) 18時49分

何も自ら過去の醜態を再度晒して下さいと催促しなくてもいいと思いますけど。

それと、罪福ふかく信ぜしめている筈の講師部員が、世間一般の人でもしないような法律に触れる悪を犯しているのは、どういうことでしょうか。

また、高森会長が、「罪福ふかく信ぜしめ」ることもなく、御恩報謝のために「財宝をも惜しむべからざるこころ」どころか、会員から財宝を絞り出させて、その浄財を会員に全く知らせずに私的に流用しているのですから、少しも恩徳讃の気持ちがないことを表わしています。
もしかして、高森会長は『持名鈔』の正しい意味を知りながら、断章取義して名利のために利用しているのでしょうか…。
もしそうだとすれば、仏法者ではありません。単なる外道の者です。

結局のところ、M野講師がいいたいことは、

高森会長も講師部員も皆、信心も教えていることもデタラメの悪知識、外道の者

ということですね。了解です。

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2010年11月14日 (日)

高森会長を痛烈に非難するM野講師

M野講師を見直しました。今回のブログの内容は、真仮を知らされていない高森会長に対する痛烈な非難です。

真実と権仮方便の違いも判らずに、権仮方便を勧める人物は、

真仮の違いも判っていない、
その主張は浄土真宗ではない。
悪知識である。
余りにも明らかなこと。

だそうです。
さて、権仮方便については、これまでに何十回も述べてきました。

『教行信証』真仏土巻の最後

しかるに願海について真あり仮あり。ここをもつてまた仏土について真あり仮あり。
 選択本願の正因によりて、真仏土を成就せり。
(中略)
 仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。これによりて、いま真仏・真土を顕す。

(現代語訳)
ところで、如来の願に真実と方便とがある。だから、成就された仏と浄土にも真実と方便とがある。
 第十八願を因として真実の仏と浄土が成就されたのである。
(中略)
 方便の仏と浄土のことは、次の「化身土文類」に示すので、そこで知るがよい。すでに述べてきたように、真実も方便も、どちらも如来の大いなる慈悲の願の果報として成就されたものであるから、報仏であり報土であると知ることができる。方便の浄土に往生する因は、人によってそれぞれにみな異なるから、往生する浄土もそれぞれに異なるのである。これを方便の化身・方便の化土という。如来の願に真実と方便とがあることを知らないから、如来の広大な恩徳を正しく受け取ることができないのである。このようなわけで、ここに真実の仏・真実の浄土について明らかにした。

と親鸞聖人は仰っています。真実については『教行信証』の教巻から真仏土巻までで明らかにされて、化土巻で権仮方便について明らかにするから、権仮方便に迷うなよ、と教えておられるのです。
さて、権仮方便とは具体的に何かということについて親鸞聖人は『浄土和讃』大経讃

念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門
 権実真仮をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ

(現代語訳)
本願を信じ、 念仏して成仏するということが、 お釈迦さまの本意にかなった真実の教えであり、 万行諸善によって仏となるという聖道門の教えは、 念仏に引き入れる方便として説かれた仮の教えである。
真実の教えと、 方便の教えとを区別しないで、 どうして阿弥陀如来の自然の浄土をよく知ることができようか。

聖道権仮の方便に 衆生ひさしくとどまりて
 諸有に流転の身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ

(現代語訳)
聖道門、 自力権仮方便の教えに、 衆生が久しい間止まっているため、 自力によっては迷いを出ることができない。
それで、 諸々の迷いの世界を生死流転する身となっている。 聖道自力を捨てて、 早く弥陀本願一乗に帰順したてまつれ。

とあり、『教行信証』化土巻

この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。

(現代語訳)
この第十九願の行と信とをよりどころとして、釈尊は『観無量寿経』に、浄土の要門すなわち方便である仮の教えを顕された。

と仰っています。聖道門と19願は権仮方便であるということです。つまり、権仮方便は捨てものであるから、それらを捨てて、早く真実18願に帰依せよと親鸞聖人は仰っているのです。これは、信心決定していなくても、親鸞聖人の教えを少しでも学んだ人ならば知っている、超常識です。この超常識さえも判っていない人は、信心がどうこういう以前の問題です。M野講師のいわれるように、そんな人は間違いなく悪知識です。

では、信心決定した人は、聖道門や19願についてどのように知らされるのか。
これも何度も何度も紹介してきましたが、善導大師は『散善義』深心釈に二種深信を含めた七深信を教えられてその第三深信に

また決定して深く、釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふと信ず。

(現代語訳)
また釈迦仏がこの《観経》に、阿弥陀仏の依正二報を讃嘆せられて、三福・九品・定散二善の行を説かれてあるのは、衆生を誘引したもう方便の善である、と決定して深く信ずる。

と教えられています。『教行信証』信巻にも引かれていますし、この内容は、化土巻の要門釈にも詳しく解説なされています。当ブログでも、何度も何度も述べてきました。19願は聖道門の人を浄土門に誘引する願であると深信するのです。

ところが、18願で救われるためには、まず19願から始めなければならないと教えている人物は、第三深信とも相違しています。真実信心とは違います。

そんな人物とは、高森会長のことです。そいうえば、M野講師もブログで18願で救われるために19願や諸善を勧めていましたけど、自分も異安心かつ悪知識と告白したということですね。

では、ネットで8年前から言われ続けている講師部員の犯罪行為は、18願で救われるためには、悪も障りにならないし、善も必要ないことを講師部員が身を以て示されるためであったということでしょうか。
しかしそれはそれで、造悪無碍といわれますけど…。

高森会長を非難するのは大いに賛成ですが、御自身のこともきちんと説明してもらえませんでしょうか。

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2010年11月13日 (土)

質問には答えず、論破されると逃亡し、悔し紛れに論点ずらしと断章取義を繰り返す哀れな人

こちらからの質問には答えられず、過去に何度も何度も逃走してきたM野講師は、親鸞会お得意の論点ずらし及び明確な断章取義を、必死に展開中です。恥の上塗りをしていることも判らず、実に哀れですが、過去の言動を知れば、同情する気にもなりません。こちらの質問に答えないような超低レベルの人物の相手をいつまでもするつもりはありません。ただし、おもしろいことを書いたら、思いっきりツッコミをいれるかもしれません。

一応お知らせしておきますと、信心決定しても知らされることは僅かという内容で、過去に書いたのは、以下のところです。

金剛心と暁
浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず

これまでM野講師が逃亡した内容は、多々ありますので、時間のある方は、当ブログを最初から読まれるとよく判られると思います。

代表的な珍説としては

  • 親鸞聖人が19願を勧められた根拠として誡疑讃を出したこと
  • それが論破されて一切衆生必堕無間に論点をずらす
  • 偽聖教の引用
  • 香樹院師の言葉のトンデモ解釈
  • 化土往生は誰もできない
  • 定散諸機=極重の悪人

などが挙げられます。

親鸞聖人会のやり方はいつも同じです。会長も、H講師も、O講師も、M野講師も逃亡しかできませんが、M講師(M野講師とは別人)も、あれから返答なしです。M講師はこれまでにも、同様のことを繰り返しており、親鸞会とは教義の質問に対しては、実に不誠実にしか対応しないことが判ります。

なぜ、そのような対応になるのか。それは、答えられないからです。聖教を読んでいませんので、断章取義と文底秘沈の教義になり、答えられないのです。

さて、過去のことは逃亡で決着していますが、最近の質問にだけ答えてもらえれば結構です。

  1. 2chや講師部合宿でも問題として取り上げられた講師部員の犯罪行為については、往生の障りとならないと思ってしたのか、往生の障りにはなるが「宿善すきなきもの」「宿悪おもきもの」ゆえにしてしまったのか。
    あるいは、廃悪修善を実践する親鸞会講師部員にあっては、犯罪行為を行った講師部員は存在しないと全面否定をするのか。(ここではあえて具体的な内容は伏せておきますが、否定された場合には具体的なことを後ほどお尋ねします)
  2. 高森会長の盗作及び浄財の私的流用は、間違いのない事実として多くの人が確認できることではあるが、世間一般の人でもしないような犯罪行為を何十年もし続けている会長は、講師部員よりも更に「宿善すきなきもの」「宿悪おもきもの」といえる。しかし、そんな「宿善すきなきもの」「宿悪おもきもの」のままの会長が獲信したというのは親鸞会の宿善論と矛盾しないのか。 (盗作、浄財の私的流用を否定されるのであれば、また具体的なことをお尋ねします)
  3. 『観無量寿経』に説かれている下品上生・下品中生・下品下生について、法然上人は『選択本願念仏集』で仰っているように

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

と、下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことであるが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれたことは、親鸞会の善の勧め、宿善論、三願転入論を否定されていることになるのではないか。

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2010年11月12日 (金)

親鸞会の教学は、仏教界・真宗界では通用しないことをよく知っておきましょう

親鸞会の教学は、仏教界でも真宗界でも通用しません。なぜなら高森会長は仏教学も真宗学もまともに学んだことがないからです。

たとえば、凡夫についてもそうです。以前にも述べましたが、さとりを開いていない人が凡夫ということではありません。

『教行信証』信巻の最初に

しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。 なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもつて極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。

とありますが、これを『浄土文類聚鈔』では、

しかるに薄地の凡夫、底下の群生、浄信獲がたく極果証しがたし。なにをもつてのゆゑに、往相の回向によらざるがゆゑに、疑網に纏縛せらるるによるがゆゑに。いまし如来の加威力によるがゆゑに、博く大悲広慧の力によるがゆゑに、清浄真実の信心を獲るなり。この心顛倒せず、この心虚偽ならず。まことに知んぬ、無上妙果の成じがたきにはあらず、真実の浄信まことに得ること難し。真実の浄信を獲れば大慶喜心を得るなり。

と言い換えておられます。「薄地の凡夫」とは、本願寺出版の注釈では、

聖者の域に達しない下劣な者。凡夫を三種に分け、三賢(十住・十行・十回向)を内凡、十信を外凡、それ以下を薄地とする。

とあります。「WikiDharma」でも

サンスクリット語の「prithag-jana」は「必栗託仡仡那」と音写され、「異生」と訳される。これは衆生の項に説明がある。玄応音義 には「凡夫というは義訳なり」といって、「婆羅必粟託仡那」(bala-prithag-jana)と解釈している。

一般的に凡夫とは「凡庸なる士夫」の意味で、十分に四諦の道理を知らない人をいう。「凡夫は身見をもって性となす」といわれて、我見にとらわれている人をいう。
自己に実の我があると考え、自と他とを区別し自分に執着して、その差別観の中に苦悩している者のことである。見道(けんどう)以前のものを凡夫という。

この凡夫を内凡(ないぼん)・外凡(げぼん)・底下(ていげ)の凡夫などと区別する。
内凡とは見道に直前する四善根の位にある人、外凡とはその前の三賢の位にある人、底下の凡夫とは外凡以前の人々をいうのである。六道に輪廻するものを声聞、縁覚、菩薩、仏の四聖に対して六凡という。

とあります。意味は少し違いますが、善のできる凡夫もいれば、善のできない凡夫もいるのです。

十方衆生=凡夫=下品下生=逆謗の機

という迷信が親鸞会で蔓延っています。その誤りは、何度も何度も述べてきました。
親鸞会で教えられたことを一度リセットしないと、聖教は正しく読めませんし、親鸞会以外のところで話を聞くと、その話が理解できないことも多々あります。
長年染み込んだ間違った知識は、簡単には抜けず、非常に根深いものがありますので、時間を掛けて修正していくより仕方がないと思います。ただし、現在の講師部員については、更正が極めて難しい状態です。

常識も知らずに親鸞会教学という害毒をサイトやブログでまき散らしていますが、実に恥ずかしいことです。笑われていることも知らずに、三界の大導師を気取っている講師部員は滑稽です。

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2010年11月10日 (水)

M野講師のお陰で、また退会者が現われました

親鸞会と議論するのに教学は不要、と何度か言いましたが、M野講師の場合は、断章取義で成り立っている主張ですので、引用された原文を前後を併せて読めばそれで終りです。ですから教学的な解説をする必要もありません。
私はもちろん現代文を書いていますが、それも理解できないような人物が、古文を理解できる筈も無く、M野講師の下らない文章などまともに読む気にもなりません。

ところで、現役の会員さんからコメントを頂きました。

現役の会員ですが、●●講師の窃盗という犯罪行為については、2ch等で書かれていまして、信じがたいものがあります。本人が否定されませんし、元講師部員の証言もありますので、本当のことだと思います。
また、他人の主張をネジ曲げて、自分の都合の良いようにブログで書いていることも、悪を好んでいるとしか思えません。
しかし、善を会員にすすめ、宿善の厚い人はこの世で善を好んで、悪を嫌うと教えられてきましたので、上部講師であった●●講師がそんなことをしていたとは、どういうことなのでしょうか。上部講師であっても、世間一般の人よりも宿善が薄かったということになります。
元を辿れば、高森先生も盗作をしていた事実は疑いようがありませんので、高森先生も世間一般の人よりも悪を好んでいる人としか言い様がありません。
親鸞会で教えてきた宿善とは、やはり金集め人集めの手段に過ぎなかったということですよね。

真剣に退会を考えます。有難うございました。

正直な気持ちを書かれたと思います。2chにどんなことが書かれてあったかは、その後のコメントを読まれればお判りいただけると思います。

以前に、耳四郎の例も出して、一般の人がしないような悪さえも止められない人でも救いたもうのが、阿弥陀仏の18願であることを諄いほど、多くの根拠を挙げて説明をしてきました。犯罪も止められないような人に善を勧めても、一般の人が普通にしている程度の低い善さえもできないのですから、そんな人をも洩らさずに救うには、善の勧めという条件を付けてはいけないのです。

従って、犯罪をしているような講師部員でも、世間一般の人以上に善に励まなくても、18願で救われるのです。

ところが、これを善悪関係ないならば、悪をどれだけしてもいいと考える邪義が出てくるから、その間違いを正されるのに、法然上人も親鸞聖人も御苦労なされているのです。

親鸞会の場合は、会員には善を勧めながら、会長や講師部員は悪を造りまくるという御粗末さです。 M野講師のいわれるように、仏智疑惑と謗法の違い目がわからないから会長と講師部員は、造悪無碍になるのでしょう。
何のため、誰の為に、親鸞会は善を勧めているのかを、会員さんはよくよく考えるべきでしょう。

それにしましても、M野講師のお陰で、また退会者が現われました。喜ばしいことです。より多くの退会者が出るよう、M野講師は断章取義も程々にして、以下の質問に答えて協力して下さい。

  1. 2chや講師部合宿でも問題として取り上げられた講師部員の犯罪行為については、往生の障りとならないと思ってしたのか、往生の障りにはなるが「宿善すきなきもの」「宿悪おもきもの」ゆえにしてしまったのか。
    あるいは、廃悪修善を実践する親鸞会講師部員にあっては、犯罪行為を行った講師部員は存在しないと全面否定をするのか。(ここではあえて具体的な内容は伏せておきますが、否定された場合には具体的なことを後ほどお尋ねします)
  2. 高森会長の盗作及び浄財の私的流用は、間違いのない事実として多くの人が確認できることではあるが、世間一般の人でもしないような犯罪行為を何十年もし続けている会長は、講師部員よりも更に「宿善すきなきもの」「宿悪おもきもの」といえる。しかし、そんな「宿善すきなきもの」「宿悪おもきもの」のままの会長が獲信したというのは親鸞会の宿善論と矛盾しないのか。 (盗作、浄財の私的流用を否定されるのであれば、また具体的なことをお尋ねします)
  3. 『観無量寿経』に説かれている下品上生・下品中生・下品下生について、法然上人は『選択本願念仏集』で仰っているように

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

と、下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことであるが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれたことは、親鸞会の善の勧め、宿善論、三願転入論を否定されていることになるのではないか。

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2010年11月 9日 (火)

無解の一道の人には、無碍の一道の境地は判りませんよ

過去に何度も論争に破れて逃走したM野講師が、上からネット対策をしろと叱られたのか、同僚の負けを誤魔化したいだけなのか、あるいは前々回にM野講師のことを、「もう一人のM講師は、一人で四役こなして四回共逃亡していますが」と書いたことが気にさわったのか、いずれにしても、過去の議論について何も答えずに,、過去のことを無いものとしてブログを書いてくるとは、大した厚顔無恥です。

当ブログで、何度も高森会長の二種深信の解釈がおかしいことを指摘し、M野講師自身も無碍の一道に出たといいながらも、「無他方便」の意味も何も解っていないから無解の一道でしょうと言っても反論できませんでした。それでいて、救われた後のことを判ったような顔をして書いているのですから、お目出たい限りです。詳しく知りたい方は

無解の一道? 無下の一道?

の前後を読んで下さい。

当ブログは200を越えるエントリーがありますが、その中で、2回程しか書いていない「信心決定しても知らされることは僅か」ということについて、わざわざ取り上げているところが微笑ましいです。大半を費やしている三願転入の教えの間違いについて反論することを諦めたのでしょう。

M野講師の御粗末な内容は、一々反論する程の内容ではありませんし、高森会長流の答え方をすれば、

信心決定すれば判る

ということで終りです。無解の一道で喜んでいる人物には判らないことです。

高森先生がおっしゃるほどのスゴイことが
自分には知らされないこと

などと書いていますので、その高森先生の編集した本に書かれてあるスゴイことを知らされて下さい。

『獲信の記録』(高森顕徹編)

一体これはどうした事か
手に持っていた『華光誌』を苦し紛れに放りつけた。
トタンにこの苦しみは、スーッとはがれた様に引いて行った。
ボーッとなって暫くは考える力もない。
正気の沙汰ではない。
夢か、うつつかの判断もつきかねていると、高森さん一家が帰って来られた。
挨拶も忘れて、今あった不思議な出来事を、ありのまま顕徹君に語った。
一同は我が事の様に 喜んでくださる。

だが私自身は、何が何だかさっぱり分からぬ。本当だろうか。
これが獲信したというものであろうか?
 
まだまだ疑いの晴れぬまま、種々ご馳走に預かる。
こんな、うまく食事したことが近頃にあったろうか。
やがて、顕徹君の話に薄紙を、はぐ如く、光明は輝きを増し、歓喜は胸に張り裂けるのであった。
「如来を求めて、いくら追っかけても、人間は到底追いつけるものではない。
また自分でとらえられる位なら、他力信心なんか必要もない。
弥陀は十万億土の彼方におられるものだと思っていられたか知らぬが、何のことは無い、アンタの腹の中にいて、しかもこの宇宙を包んでいる絶対者なんだ。
その懐に入っていながら、それを追っかけ、とらえようなんて、問題ではない。
追いつけないことが分かって初めて振り返ってみると、何のことは無い。
総てが包まれていたことに気がつくのだ。この様に包まれていながら、何を悩みますかね?」
不思議だ!そう聞けば悩もうにも悩む種が無いではないか。
そして顕徹君の語るどの話も皆、素直に肯定出来るからおかしい。

弥陀が智慧や才覚で分からんでもよいのだ。このままでよいんだなあ
ああ、このままだった、このままだった。

こんなスゴイことが知らされたと、高森先生は60年前に教えて下さっていますよ。

1つだけアドバイスをするならば、救われた後に何が知らされるかは、念仏誹謗のM野講師には関係のないことですから、M野講師の後生のことが書かれた『往生要集』の阿鼻地獄のところをよく読んで予習しておくべきでしょう。

それと、以前に質問したことにだけ答えてもらえませんでしょうか、M野講師。M野講師でないと否定するのであれば、尚更答えて下さい。

  1. 2chや講師部合宿でも問題として取り上げられた講師部員の犯罪行為については、往生の障りとならないと思ってしたのか、往生の障りにはなるが「宿善すきなきもの」「宿悪おもきもの」ゆえにしてしまったのか。
    あるいは、廃悪修善を実践する親鸞会講師部員にあっては、犯罪行為を行った講師部員は存在しないと全面否定をするのか。(ここではあえて具体的な内容は伏せておきますが、否定された場合には具体的なことを後ほどお尋ねします)
  2. 高森会長の盗作及び浄財の私的流用は、間違いのない事実として多くの人が確認できることではあるが、世間一般の人でもしないような犯罪行為を何十年もし続けている会長は、講師部員よりも更に「宿善すきなきもの」「宿悪おもきもの」といえる。しかし、そんな「宿善すきなきもの」「宿悪おもきもの」のままの会長が獲信したというのは親鸞会の宿善論と矛盾しないのか。 (盗作、浄財の私的流用を否定されるのであれば、また具体的なことをお尋ねします)
  3. 『観無量寿経』に説かれている下品上生・下品中生・下品下生について、法然上人は『選択本願念仏集』で仰っているように

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

と、下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことであるが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれたことは、親鸞会の善の勧め、宿善論、三願転入論を否定されていることになるのではないか。

1は必須項目ですので、はっきり答えてください。

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ご案内-紅楳英顕師の法話が公開されています

当ブログの読者の皆さんならば、高森会長の説く教義がデタラメであることは御理解いただけていると思います。しかし、高森会長以外の誰から親鸞聖人の教えについて話を聞けばいいのか判らない、という理由で親鸞会に留っている人もいると聞きます。

そんな人の為に、紅楳英顕師の法話を録音したものが、ネット上で公開されており、以下のところで誰でも法話が聞けるようになっています。

「紅楳英顕先生の法話」

紅楳英顕師といえば、高森会長と宿善論争で議論を交わした際の、本願寺の担当者でした。当時は、高森会長の詭弁と法話妨害等の嫌がらせに堪り兼ねた本願寺が、親鸞会を無視したことで論争は決着したのですが、それは本願寺が論争に破れたということでないことは、当時の紅楳英顕師の論文を読まれれば明らかです。
紅楳英顕師の最近の論文も含めて、以下のサイトで読めます。

「紅楳英顕の真宗教室」

「本願力回向」
真宗教義の研究-紅楳英顕和上の論文

高森会長の法話を録音したり、ましてやネット上に公開することは厳禁となっていますが、それを秘事法門というのです。
何から何まで隠し事ばかりで、肝心な教義の根拠も外には出していません。というよりも、元々根拠が無いから出せないのでしたね。

紅楳英顕師の法話を録音したものは、今後も順次公開されていくと聞いています。

未だに残っている会員は、最初は高森会長の教えと比較するつもりでも結構ですから、親鸞会を一歩出て、親鸞会の外で親鸞聖人の教えを聞いてみられることを強くお勧めします。

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2010年11月 7日 (日)

またまた逃亡のようですが、聖教を読んでいないので当然の結果です。

M講師は、この法論を仲介していた会員に先日会ったものの、回答を避けました。「文章では自分の意図が伝わらない」、と語ったそうですが、M講師の意図は十二分に伝わっています。その会員を報恩講に誘うために、親鸞会の正しさを演出したかったのです。その証拠に、M講師の反論(正確には一方的な質問書)は、その会員だけにしか渡していません。法論の相手には、何も送ってきていません。

しかし、その会員を報恩講に誘えませんでしたので、最早これ以上見苦しい詭弁を弄する理由が無くなってしまいました。従って、H講師、O講師、もう一人のM講師に続いての逃亡となるでしょう。尤も、もう一人のM講師は、一人で四役こなして四回共逃亡していますが。
会長も講師部員も、『教学聖典』以外の根拠は読んだことがないと言っても過言ではありません。一通り読んだことがあるのは、『御文章』だけでしょう。
もちろん『往生要集』は、高森会長も講師部員も読んだことがないでしょうが、日本浄土仏教において知らずに済ますことのできない必読の聖教です。

読む価値のない、コソコソとネットにしか書けない内容のものばかりでしたが、仏弟子の一人として、答えておきます。

とM講師は一番最初に上から目線で言っていましたが、親鸞会という井の中でコソコソと悪口しか言えず、『往生要集』を読んだことのない会長とM講師のために、私も仏弟子の一人として先の回答を解説しておきます。

『往生要集』信毀因縁に、

問ふ。 不信のもの、なんの罪報をか得る。
答ふ。
『称揚諸仏功徳経』の下巻にのたまはく、「それ、阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するものは、五劫のうちに、まさに地獄に堕して、つぶさにもろもろの苦を受くべし」と。

問ふ。 もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。
答ふ。
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。 もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。 『双巻経』(大経)にのたまふがごとし、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。 このもろもろの衆生は、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の衆を見たてまつらず、このゆゑにかの国土においては、これを胎生といふ」と。 {以上}
仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。 しかも願に随ひて往生するは、これ仏の悲願の力なり。 『清浄覚経』(平等覚経)に、この胎生をもつて中輩・下輩の人となせり。

(現代語訳)

問う。信じない者は、どのような罪の報を得るのであるか。
答える。『称揚諸仏功徳経』の下巻に説かれている。

もし、阿弥陀仏の名号の功徳を讃めたたえることを信じないで、謗り毀つ者があるならば、五劫のあいだ地獄に堕ちて、つぶさにもろもろの苦を受けねばならぬ。

問う。もし深心がなくて、疑念を生ずる者は、結局往生できないのであるか。
答える。もし、全く信ぜず、往生の業を修めず、浄土を願い求めない者は、道理として往生するはずがない。しかしながら、もし仏智を疑うけれども、それでもやはり、かの浄土に生まれたいと願い、往生の業を修める者は、これもまた往生することができるのである。
『無量寿経』に説かれているとおりである。

もし、人々の中で、疑いの心を持ちながら、いろいろの功徳を修めて、かの国に生まれたいと願い、仏智、思いもおよばぬ智慧 (不思議智)、はかり知られぬ智慧、すべての者を救う智慧、ならびなくすぐれた智慧を知らず、いろいろの仏の智慧を疑って信ぜず、しかもなお罪の報を恐れ、おのが善根をたのむ心をもって善の本を修め、それによってかの国に生まれたいと願うものがあれば、これらの人は、かの国に生まれても宮殿の中にとどまり、五百年のあいだ、少しも仏を拝むことができず、教法を聞くことができず、菩薩・声聞などの聖衆を見ることもできない。それゆえ、これをたとえて胎生というのである。

仏の智慧を疑うのは、悪道に堕ちる罪に相当する。けれども、その願いにしたがって往生するというのは、仏の大悲の願力によるのである。『平等覚経』には、この胎生を中輩や下輩の人としている。

とあります。現代語訳を読まれれば概ね御理解いただけると思いますが、簡単にまとめれば、

阿弥陀仏の名号功徳」を「謗毀するもの」⇒「五劫のうちに、まさに地獄に堕」す
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるもの」⇒「理として生るべからず
仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するもの」⇒「(化土に)往生する

です。判りやすくいえば、

念仏誹謗の人⇒阿鼻地獄
浄土を信じない、浄土を願求しない人⇒往生できない
疑情をもってはいるが、浄土を願求する人⇒化土往生

ということになります。その根拠が『大無量寿経』胎化段にあることは、『往生要集』に書かれてある通りです。
もちろん同様のことを、親鸞聖人は御著書の中で度々仰っていますので、源信僧都の説明されたことを親鸞聖人がそのまま承け継がれているのです。

M講師の妄想による珍問などは、聖教を読んでいないことを証明するだけです。かつて教学課だったM講師のレベルを知れば、会長の教学レベルも自ずと判ります。

ただし、これまでに何度も述べている通り、化土往生を願うことを親鸞聖人は厳しく誡めておられますので、そこを間違えてはいけません。
信心決定できなければ必堕無間という完璧な邪義に惑わされること無く、信前の人が考えるべきことは報土往生だけです。

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2010年11月 6日 (土)

「専雑執心判浅深、報化二土正弁立」も知らない親鸞会

親鸞会の会員にとりましては、高森会長から化土往生について何も教えられていませんので、何も知らない人ばかりです。M講師は最初の質問書で、

化土往生には、願と行が必要です。願はあれども、行が出来る人があったら教えて下さい。

と言っていましたし、2回目の質問書でも、

親鸞聖人の疑情をもったまま死んだら地獄に堕ちていたと仰言ったお言葉を、報土往生も化土往生もできなかったならば、と解釈する、根拠をあげよ。

と頓珍漢なことを言っていましたが、M講師は『正信偈』さえも読んだことがないのでしょうか。

『正信偈』源信章には

専雑の執心、浅深を判じて、報化二土まさしく弁立せり。

とあり、『正信偈大意』には、

「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」といふは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。これすなはち、専雑二修の浅深を判じたまへるこころなり。『和讃』(高僧和讃)にいはく、「報の浄土の往生は おほからずとぞあらはせる 化土に生るる衆生をば すくなからずとをしへたり」といへるはこのこころなりとしるべし。

と蓮如上人は解説しておられます。

雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり
専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり

簡潔明瞭に蓮如上人は仰っています。「雑行雑修」の人は、「かならず化土懈慢国」であり、「専修正行」の人は、「さだめて報土極楽国」です。親鸞会のお得意の「雑行雑修」ですが、親鸞聖人、蓮如上人は、「雑行雑修」をしている人に対して「雑行雑修」捨てよ、と仰っているのだ、と耳にタコができるほど連呼しています。それならば「雑行雑修」の人はいなかったのでしょうか。「雑行雑修」の人がいたというのならば、その人は、「かならず化土懈慢国」ではないのでしょうか。

親鸞会の講師部員ならば、一日二回『正信偈』を読んでいるはずですが、その意味については無知です。M講師の自信満々の反撃は、『正信偈』という基本中の基本中の基本の中の更に基本のお言葉で、簡単に撃破されました。
親鸞会と法論するのには、教学がいらないと以前にいいましたが、その良い例です。

さて、親鸞聖人は、源信僧都が報土と化土について明らかにされたことを、『正信偈』で褒め讃えておられるのですが、『高僧和讃』源信讃ではそれが顕著です。

源信和尚ののたまはく われこれ 故仏とあらはれて
 化縁すでにつきぬれば 本土にかへるとしめしけり

(現代語訳)
源信和尚が言われる。 「私はかつて仏として現れていた。
教化の縁がすでに尽きたので、 本国浄土へと帰ると示したのである」 と。

本師源信ねんごろに 一代仏教のそのなかに
 念仏一門ひらきてぞ 濁世末代をしへける

(現代語訳)
本師源信和尚はねんごろに、 (お釈迦さま) ご一代に説かれた教えの中から、
念仏の教えを聞いて、 濁りの世末法の時代ということを教えたのである。

霊山聴衆とおはしける 源信僧都のをしへには
 報化二土ををしへてぞ 専雑の得失さだめたる

(現代語訳)
霊鷲山で聴衆であった、 源信僧都の教えでは、
報土と化土とが説かれ、 (利益を) 専修で得るか雑修で失うかが定められた。

本師源信和尚は 懐感禅師の釈により
 『処胎経』をひらきてぞ 懈慢界をばあらはせる

(現代語訳)
本師源信和尚は、 懐感禅師の『釈浄土群疑論』 によって、
『菩薩処胎経』 を開き、 懈慢世界をあらわされた。

専修のひとをほむるには 千無一失とをしへたり
 雑修のひとをきらふには 万不一生とのべたまふ

(現代語訳)
専修念仏の人をほめるときは、 「千人の中に一人も失敗がない」 と教えられた。
雑修の人を嫌うときには、 「万人に一人も生まれることがない」 と述べられた。

報の浄土の往生は おほからずとぞあらはせる
 化土にうまるる衆生をば すくなからずとをしへたり

(現代語訳)
真実報土への往生は、 多くはないとあらわした。
方便化土へ生まれる人々は、 少なくはないと教えられた。

源信僧都を仏の化身と崇められて、報土往生の人と化土往生の人の違いについて明確に教えて下された方だ、と親鸞聖人は源信僧都の事を大変に尊敬しておられるのです。
化土往生できる人がいないなどという妄想をいうM講師は、源信僧都の教えられたことも知らなければ、親鸞聖人がなぜ源信僧都を讃えられているかも知らないのです。
つまり、日本浄土仏教について無知であることを暴露しているのです。

先日、会長と講師部員は、親鸞聖人の御著書の1%しか読んでいない、と書きまして、それに対して少し言い過ぎではないかと思われた方もあるようですが、もし、『教行信証』や『高僧和讃』で、源信僧都の教えられた内容を少しでも読んでいれば、誰も化土往生できないなどということは、言える筈もないことです。『正信偈』の意味さえ理解できていないほど、親鸞聖人の教えに疎いのです。

親鸞聖人が至る所で仰っている化土往生のことさえも、これですから、会長は伊藤康善師、大沼法竜師が引用した根拠以外は、殆ど知らないのが実態です。もちろん講師部員もです。

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2010年11月 4日 (木)

「指を看て月を視ざるや」のM講師

M講師は不本意ながら、「十方衆生」≠「逆謗の機」は否定できませんでした。従って、「十方衆生」の中に、「逆謗の機」とそれ以外の機があることで決着したと判断しておきます。
これは19願の「十方衆生」を解釈する上で大きな意味を持ちます。

十方衆生」という言葉に拘るM講師と親鸞会会員のために、19願の「十方衆生」について異訳本、お聖教でどのように表現、解釈されているかを判りやすく表にしてみました。

  大無量寿経19願の十方衆生
平等覚経 諸佛國人民有作菩薩道者(諸々の仏国の菩薩道をなす者)
大阿弥陀経 八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道(諸々の仏国の菩薩道をなす善男人善女人)
尊号真像銘文 「唯除五逆誹謗正法」がないから、五逆・謗法の者は除かれている
化土巻・要門釈 半満・権実の法門(聖道門)を断念した人
西方指南抄 諸行の人
浄土和讃 定散諸機

明らかに、19願の「十方衆生」から「逆謗の機」は除かれています。M講師のいうような、どれが優先とかいう話ではなく、19願の「十方衆生」も含めてすべて同じ意味と考えるのが、通常の思考です。
このように見れば、

19願の「十方衆生」=善人

と言い換えてもよいと思います。つまり

18願は悪人正機
19願は善人正機

ということです。悪人が善人正機の19願を一端通って18願に入る、という発想がおかしいと思わないところがおかしいでしょう。

これを源信僧都は『往生要集』

『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。

と仰ったのです。そうしますと、善人は19願で報土往生しようと考えますので、親鸞聖人は要門釈で、19願は方便であるから方便化土にしか往けないことを仰った上で、『往生要集』のお言葉に「定散の諸機」を加えられ、要門釈の結論として

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

とされたのです。善人も自力では報土往生はできないのだから、自分の能力をよく知って、極重の悪人同様に他力念仏の18願に帰依せよ、と親鸞聖人は仰っているのです。

親鸞会の思考を離れれば、実に単純なことですが、親鸞会の思考に染まっていると、単純なことも複雑怪奇な教えにしてしまうのです。

以前にも紹介しましたが、四依の中で、

義に依りて語に依らざるべし、
(中略)
「義に依る」とは、義の中に好悪・罪福・虚実を諍うことなし。かるがゆえに語はすでに義を得たり、義は語にあらざるなり。人、指をもって月を指う、もって我を示教す、指を看視して月を視ざるがごとし。人、語りて言わん、「我指をもって月を指う、汝をしてこれを知らしむ、汝何ぞ指を看て月を視ざるや」と。これまたかくのごとし。語は義の指とす、語は義にあらざるなり。これをもってのゆえに、語に依るべからず。

(現代語訳)

教えの内容を依りどころとし、言葉に依ってはならない。
(中略)

教えの内容を依りどころとするとは、教えの内容に、よいと悪い、罪と功徳、嘘とまことなどの違いをいうことなく、だから言葉は教えの内容を表わしているものであって、教えの内容が言葉そのものなのではない。言葉に依って教えの内容に依らないのは、人が月を指さして教えようとするときに、指ばかりを見て月を見ないようなものである。その人は、《わたしは月を指さして、あなたに月を知ってもらおうとしたのに、あなたはどうして指を見て月を見ないのか》というであろう。これと同じである。言葉は教えの内容を指し示すものであって、言葉そのものが教えの内容であるわけではない。このようなわけで、言葉に依ってはならないのである。

と教えられていますが、まさにM講師や会員のためのお言葉です。

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2010年11月 3日 (水)

M講師からの2回目の質問書(回答が一切無いもの)

M講師からの2回目の質問書(回答が一切無いもの)と、それに対する反論文を紹介します。M講師は、ある会員を通して、手書きのものを手渡ししていますので、反論文には、M講師の書いた内容の確認が最初にあります。それでM講師の書いた文章も判りますので、反論文だけ、全文紹介しておきます。

本日、●さんを通じて、M講師からの回答の一切無い、一方的な質問状を受け取りました。かっこの位置が不適切なところもありますが、そのまま書きましたので、以下御確認下さい。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(A)大経の御文と異訳本とどちらが優先さるべきか。これは全くこたえてありません。
重ねて尋ねる。
親鸞聖人は、「至心発願欲生と 十方衆生を方便し」といわれている。19願は「十方衆生」が相手ではないのか。
(B)釈尊は韋提希に定散二善をすすめられたことは無いと断言されるのか。確認します。
(C)釈尊と弥陀の種々の善巧方便について、いろいろ長々と書いていますが、「19願は十方衆生に対する方便」と(A)に追加した質問にこたえてからにしたらどうですか。
②化土往生の根拠、長々とあげなくても、聖典にあるので二、三で充分。核心の抜けた文章に、ファックス(相手の都合も)聞かずに突然送りつける失礼な言動、とても仏法者といえるものとは思えません)
・親鸞聖人の疑情をもったまま死んだら地獄に堕ちていたと仰言ったお言葉を、報土往生も化土往生もできなかったならば、と解釈する、根拠をあげよ。
・教行信証行巻のご文にはふれないのは何故か。
・蓮如上人のご文には、他のご文章をあげているのは何故か。何か都合が悪いのか。
③外にしか眼のむかない者とは、こういう者を言うのかと、情けなくなります。仏法は、すべて心を最も大切にするといつも聞かせて頂いたことを今一度、思い出されては如何でしょうか。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

最初に何点か確認します。

この法論を公開すると申しましたが、異論がないということで宜しいですね。
異論がないようですので、近日中にM講師の書かれたものも含めて公開させていただきます。

それと、仏法者としての姿勢も問題にされていますので、それについても私の意見を述べさせて頂きます。

M講師は布教に命をかけておられると●さんに言われたそうですが、教義という最も重要な問題についても命をかけて回答して下されるものと思っておりました。しかし、その最重要の教義についてファックスで送ったことに対し、都合も考えずに突然送りつけたと言われて、心底驚いております。24時間いつでも送って下さい、と言われるのが仏法に命をかけられる者かと思っておりましたし、しかもファックスならば、普通は突然送ると思いますが、如何でしょうか。
それに、突然本願寺に押し掛けて、長時間居座ったことは、失礼な言動ではないし、仏法者に相応しいと言われるのでしょうか。その考え方は、甚だ疑問です。

もう一つ重要なことですが、私は多くの根拠を挙げて、根拠に添ってしか解釈をしておりません。前回以下のように書いておきました。

------------------------------------
全般的なこととして、私は沢山の根拠を挙げました。経典、善知識方のお言葉で説明していますが、その根拠についてM講師が触れているのは、大経の異訳本についてのみです。他の根拠を無視されていることは、仏弟子として如何なものでしょうか。帽子に合わせて頭を削っているのはどちらかよくお考え下さい。

読む価値のないものとは、M講師の書かれたような断章取義のことをいうのではないでしょうか。もし反論があれば、私の挙げた根拠を1つ1つ解説された上で、論点をずらすことなく仰って下さい。
------------------------------------

それにも関わらず、私が挙げた根拠については一切無視されているとは、都合が悪いととか思えません。根拠を粗末に扱っていて、それで親鸞聖人の教えの布教に命をかけていると言えるのでしょうか。はっきり申しまして、親鸞会の教えを守ることに命をかけているであって、親鸞聖人の教えには命をかけておられないことがこれでよく判ります。

もし否定されるのであれば、先に私が出した多くの根拠について、私の解釈のどこが間違いかを明確に指摘して下さい。

それと、こちらからの質問には一切答えず、質問を質問で返すのは、答えられないもののすることです。今後そのようなことがあれば、答えられなかったもの看做します。

以上を踏まえた上で、M講師の質問に答えます。

①(A)については、前回
------------------------------------
この(『尊号真像銘文』のお言葉の)説明を補足する根拠の1つとして、異訳本を最初に出したのです。私は親鸞聖人のお言葉に添って説明したまでです。それを無視されるのですね。以下の項目も関連していますので、併せてよくお読み下さい。異訳本が、親鸞聖人の解釈と全く矛盾していないことがお分かりいただけるものと思います。
------------------------------------
と書きましたが、理解できないのでしょうか。大経の十方衆生の解釈について説明するために、異訳本、『観無量寿経』、『玄義分』、『選択本願念仏集』、『西方指南抄』、『尊号真像銘文』、『教行信証』行巻、『教行信証』化土巻、『浄土和讃』を挙げました。その中の1つが異訳本ということです。理解できないと言われるかもりれませんので、もう一度申しますと、大経の説明のために異訳本も含めた聖教上の根拠を出したのです。どちらが優先とか、的外れな質問をしないで下さい。

M講師の論理は、

大経19願に「十方衆生」とあるから「十方衆生」だ

ということですが、その「十方衆生」の意味について、経典、善知識方のお聖教の中でどのように仰っているかを問題にしているのに、それを一切無視するのは、都合が悪いということですね。

(B)について

前回書いたものを読まれれば、お判りになると思いますが、釈尊は韋提希に定散二善を勧められたという根拠はありません。歴代の善知識方も韋提希に定散二善を勧められたなどと全く仰っていません。それも理解できないのでしょうか。これはO講師に質問して答えられなかったことですが、勧められたと仰った根拠を示さなければ、単なる親鸞会の珍説です。親鸞会の珍説を証明するのは、私ではなく、珍説を主張した方ですが、それ位のことは御理解いただけますか。御理解いただけるならば、根拠を示して下さい。

(C)について

善巧方便と権仮方便について、詳しく説明しましたが、全く理解する気がないものと判断しています。19願は、善巧方便ではなく、権仮方便です。「十方衆生」の意味は(A)の通りです。そんなことも理解できないならば、教義について語る資格がありません。

②について

これも、私の書いたものを理解する気がないとしか言いようがありません。M講師の言われる

親鸞聖人の疑情をもったまま死んだら地獄に堕ちていたと仰言ったお言葉

がどこにありますか。そんなお言葉かあれば示して下さい。もし、「昿劫を経歴せん」が地獄に堕ちることだと言われるのであれば、その根拠を示して下さい。日本語として、そんな意味にはなりません。
それと、私が挙げた『往生要集』を読んだのですか。

まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。

意味がお判りですか。
それと『教行信証』行巻についても、前回の
------------------------------------
ちなみにM講師の出された親鸞聖人のお言葉は、阿弥陀仏の本願も知らずに、報土往生も化土往生もできないならば、ということであって、化土往生できない根拠ではありません。
------------------------------------
に含まれていますが、御理解いただけませんでしたか。
あと、蓮如上人の他の御文章を挙げたのは、親鸞会の基本的な間違いから御理解いただくためです。下らないことを書かれる余裕があれば、私の質問の1つにでも答えて下さい。下衆の勘繰りと思われても仕方がありませんよ。

③について

法然上人、聖覚法印は、外にしか眼が向かない者、と非難されているのですか。

以上、M講師の質問は、全く的外れのものばかりですが、答えました。次は、M講師がはっきりお答え頂く番です。

M講師の答えようという意欲の無さ、及び日本語能力の欠落の問題であって、教義を語る以前の話です。

M講師といえば、高齢の退会希望会員のところに、突然押し掛けて恫喝をしたり、会費を払わない会員の職場に突然押し掛けて、帰って欲しいというその会員の言うことを無視し続けて職場に多大なる迷惑をかけたりと、以前にネット上で話題になりましたが、FAXを突然送ったことは失礼な言動であり、M講師のこれら犯罪レベルの言動は、親鸞会的には仏法者の鏡なのでしょうか。
M講師は自分のことが全く判らない程錯乱しているのか、あるいは相手を貶めたいだけなのか、いずれにしても書いている内容がすべておかしいです。

十方衆生が逆謗ではないことだけは反論できず、”高森会長の教え”で悪口を言うしかないのですが、その言葉は法然上人、聖覚法印、もっといえば親鸞聖人をも謗っていることに気が付いていないのです。

私は親鸞会の会員であった時に、M講師のことを人間的にも教学的にも勝れた人と思い込んでいました。しかし、それは大変な誤解でした。

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2010年11月 2日 (火)

M講師からの反論-三願転入の教え

M講師とやりとりされている方が、M講師に対して、回答を求めると共に、今回の法論を公開することをあらかじめ宣言してありました。それが最後に書かれてあります。

読む価値のないものとは、M講師の書かれたような断章取義のことをいうのではないでしょうか。もし反論があれば、私の挙げた根拠を1つ1つ解説された上で、論点をずらすことなく仰って下さい。H講師、O講師と相談されても結構です。できれば、高森先生とご相談くだった上で、仏弟子としての責任ある御回答をお待ちしています。

なお、これらのやりとりはすべて公開させていただく予定ですので、御了承下さい。

です。

M講師から、この後に質問書(回答が一切無い)が来ていますが、そこには法論公開について異義の言葉がありませんでしたので、同意したものと見做してM講師の書いた文章もそのまま公開いたします。

著作権侵害を今からでも主張されるのならば、M講師本人から申し出て下さい。

これまで伏せてきたM講師の反論文は以下の通りです。一応申し上げておきますと、M講師は手書きのものをある会員さんに渡されましたので、それを打ち直したものです。

読む価値のない、コソコソとネットにしか書けない内容のものばかりでしたが、仏弟子の一人として、答えておきます。

①三願転入の教えについて(①と②を含む)
(A)19願の対象は「大経」の異訳本では、菩薩になっている。
(答)親鸞聖人が、「夫れ真実の教を顕わさば、大無量寿経これなり」と仰言った意味も正しく知らず、教行信証の構成も判らぬ者の、とんでもない横車です。教行信証は「大経」の真実を、より鮮明にするために異訳本を次次と示されているのです。その逆に、異訳本に「こうあるから大経の意味はこうなのだ」まさに帽子にあわせて頭をケズル事をしようとしている者と判ります。逆さまです。
(B)善のすすめは聖道門の人を浄土門に誘引するためのもの
(答)王舎城の韋提希が「弥陀の救い」を求めた時、釈尊は韋提希に定善散善をすすめられたのはどうなるのか。
(C)三願転入は、化土巻にのみ書かれてあり、他では仰言っていない。
(答)「釈迦弥陀は種々に善巧方便し 我らが無上の信心を発起せしめたまいけり」この釈迦、弥陀、(諸仏)の善巧方便が明らかにされています。一ケ所だけなんて、どこみて言っているのでしょうか。六三法門、三三法門ともいわれています。
②化土往生について
(A)化土往生は机上の空論であると親鸞会は言っている。
(答)親鸞聖人は教行信証に、
  ・若しまた此の度、疑網に覆蔽せられなばかえりてまた昿劫を経歴せん。
  ・一たび人身を失いぬれば万劫にもかえらず。
  一息きれたら未来永劫苦しまねばならないと言われています。
  蓮如上人は
  ・後世とは永き世まで地獄におつることなれば
  ・信心を獲得せずば、極楽に往生せずして無間地獄に堕在すべし
  これらは間違いか。お尋ねします。
  化土往生には、願と行が必要です。願はあれども、行が出来る人があったら教えて下さい。
③十方衆生は逆謗(極重の悪人)ではない
(答)末灯鈔の「善知識をおろかに思う者」「親をそしる者」でない人を一人でもあげてみて下さい。

②と③についての回答は、これまでに紹介してきました。上記のM講師の文章と突き合わせて、再度確認されると良いと思います。

最初の「読む価値のない、コソコソとネットにしか書けない内容のものばかりでしたが」と、①の「帽子にあわせて頭をケズル事をしようとしている者と判ります。」に対しての反論が、以前にも紹介した

まず、こそこそとネットで書いたものと思われているようですが、大きな誤解です。これは、mixiでH講師と三願転入について法論して、H講師が法論を放棄した内容と、O講師のブログ「浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い」と法論して、やはりO講師が法論を放棄した内容を、主にまとめたものです。
従って、すでに両講師との法論で議論し尽された内容ばかりですが、M講師は御存知ないようです。その時の法論の内容に少し補足しながら説明させて頂きます。

全般的なこととして、私は沢山の根拠を挙げました。経典、善知識方のお言葉で説明していますが、その根拠についてM講師が触れているのは、大経の異訳本についてのみです。他の根拠を無視されていることは、仏弟子として如何なものでしょうか。帽子に合わせて頭を削っているのはどちらかよくお考え下さい。

ここに当るのです。

さて、M講師の文章がないと説明がしにくかった①の三願転入の教えについての回答は、以下の通りでした。

①(A)について

『尊号真像銘文』には、

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

とあります。「唯除五逆誹謗正法」とあるから、「十方一切の衆生みなもれず」と親鸞聖人は仰っています。ならば、「唯除五逆誹謗正法」のない19願と20願は、もれている者があるということではないですか。この説明を補足する根拠の1つとして、異訳本を最初に出したのです。私は親鸞聖人のお言葉に添って説明したまでです。それを無視されるのですね。以下の項目も関連していますので、併せてよくお読み下さい。異訳本が、親鸞聖人の解釈と全く矛盾していないことがお分かりいただけるものと思います。

①(B)について

『教行信証』化土巻・要門釈の最初に

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

と仰っています。これを無視されていますが、よく意味がお分かりでないようですので、解説します。
前半は

外道の人が半字教(小乗仏教)、満字教(大乗仏教)、権教(四車家の立場から聖道門内の三乗)、実教(四車家の立場から聖道門内の一乗)、つまり聖道門に入るといえども、真実のものははなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多い。

です。外道から聖道門に入っても、聖道門の教えを実践していける者が甚だ少ないことを仰ったお言葉です。

それを承けられて釈尊は、福徳蔵(観経の定散二善)を説かれた、と仰っています。聖道門の修行に堪えれない人のために観経を説かれたということです。その御心は阿弥陀仏の19願にあったということです。
ここで、「群生海」「諸有海」とは、①(A)の意味であることは文章の繋がりからお分かりいただけると思っています。
法然上人の『西方指南抄』(親鸞聖人御真筆)には

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也。

とあることも、同様のことです。これらを否定されるということですか。
また『浄土和讃』

臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり

も無視ですか。「定散諸機」とは、親鸞会で教えているような「定散二善」の意味ではありません。定善の機、散善の機ということです。
『正信偈』の「矜哀定散与逆悪」『正信偈大意』の「されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり。」とあるように、「定散の機」と「五逆の機」は別であると仰っています。それも御理解いただけますか。

さて、釈尊が韋提希夫人に定散二善をすすめられたと思われているようですが、大きな勘違いです。

『観無量寿経』

ときに韋提希、仏にまうしてまうさく、「世尊、わがごときは、いま仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る。もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」と。

とあり、『玄義分』にも

問ひていはく、定散二善はたれの致請による。
答へていはく、定善の一門は韋提の致請にして、散善の一門はこれ仏の自説なり。

とあります。韋提希夫人が、自分は釈尊のお力で浄土を見ることができたけれども、仏滅後の衆生はどうすれば極楽浄土を見ることができるのですか、と問われて釈尊が説かれたのが定善です。また釈尊が定善を韋提希夫人に説かれたことと、定善を韋提希夫人にすすめられたこととの違いは御理解いただけますか。実際に、韋提希夫人は定善を実践しようともしていません。

『選択本願念仏集』

わたくしに問ひていはく、上輩の文のなかに、念仏のほかにまた捨家棄欲等の余行あり。中輩の文のなかに、また起立塔像等の余行あり。下輩の文のなかに、また菩提心等の余行あり。なんがゆゑぞただ念仏往生といふや。
答へていはく、善導和尚の『観念法門』にいはく、「またこの『経』(大経)の下巻の初めにのたまはく、〈仏(釈尊)、一切衆生の根性の不同を説きたまふに、上・中・下あり。
その根性に随ひて、仏、みなもつぱら無量寿仏の名を念ぜよと勧めたまふ。その人命終らんと欲する時、仏(阿弥陀仏)、聖衆とみづから来りて迎接したまひて、ことごとく往生を得しめたまふ〉」と。この釈の意によるに、三輩ともに念仏往生といふ。

問ひていはく、この釈いまだ前の難を遮せず。なんぞ余行を棄ててただ念仏といふや。
答へていはく、これに三の意あり。一には諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。

(中略)

一に、諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説くといふは、善導の『観経疏』(散善義)のなかに、「上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」といふ釈の意に准じて、しばらくこれを解せば、上輩のなかに菩提心等の余行を説くといへども、上の本願(第十八願)に望むるに、意ただ衆生をしてもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」といふ。

現代語訳も付けておきます。

わたくしに問うていう。上輩の門の中に、念仏のほかにまた家を捨て欲を離れるなどの余行があり、中輩の文の中にもまた塔をたて仏像をつくるなどの余行があり、下輩の文の中にもまた菩提心などの余行がある。それにどういうわけでただ念仏往生というのか。
答えていう。善導和尚の《観念法門》に、
また、この経 (大経) の下巻の初めにいわれている。「釈迦仏が説かれる。『一切衆生の機根はまちまちで、上・中・下の三種がある。その機根に随って、わたしはみな無量寿仏のみ名をもっぱら称えることを勧める。その人が命終わろうとするときに、阿弥陀仏は聖衆と共にみずから来て迎えとり、ことごとく往生させてくださる。』」
といわれてある。この解釈の意によって三輩共に念仏往生というのである。

問うていう。この解釈ではまだ前の疑難をしりぞけていない。どうして余行を棄ててただ念仏というのか。
答えていう。これに三つの意がある。一つには諸行を廃して念仏に帰せしめるために諸行を説く。

(中略)

一つに、諸行を廃して念仏に帰せしめるために諸行を説くというのは、善導の《観経疏》の中に、
《観経》の初めから、定善・散善の両門の利益を説いてきたけれども、阿弥陀仏の本願に望めてみると、世尊の思し召しは、人々をして一向に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあるのである。
といわれた釈の意に準じて、しばらくこれを解釈すると、上輩の中に菩提心などの余行を説かれているけれども、上の本願に望めてみると、世尊の思し召しはただ衆生をして専ら阿弥陀仏の名号を称えさせるにある。ところが、本願の中に更に余行はない。三輩共に上の本願に依るから「一向に専ら無量寿仏を念ずる」と説かれているのである。

また以下のことも仰っています。

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
例するに『法華』の三説の上に秀でたるがごとし。もし三説なくは、なんぞ『法華』第一を顕さん。ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

(現代語訳)

また定・散の諸行を説くことは、念仏がその他の善に超え勝れていることを顕わすためである。もし定散の諸行がなかったならば、どうして念仏が特に秀でた行であることを顕わされようか。例えば《法華経》が、それ以前の説、同時の説、それ以後の説の三説の上に秀でているようなものである。もし三説がなかったならば、どうして《法華経》が第一に秀でていることを顕わされようか。ゆえに今、定散の諸行はこれを廃するために説き、念仏三昧はそれを立てるために説かれるのである。

と法然上人ははっきりと教えられていますが、御存知ないのですか。
また『教行信証』行巻に念仏諸善比校対論として

勧無勧対念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない

と仰っていますが、諸仏が諸善を勧められていないと仰っていますが、親鸞聖人は嘘を仰ったのでしょうか。
参考までに『観無量寿経』の下品下生を見ると

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。

とあります。下品上生、下品中生も含めて、下輩には善の勧めはありません。韋提希夫人は上輩か中輩ということでしょうか。

①(C)について

善巧方便と権仮方便の意味を御存知ないようですので、解説を紹介しておきます。

教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)』の補註

 方便とは、仏が衆生を救済するときに用いられるたくみな方法をいう。その中に真実と権仮とがある。真実の方便とは、仏の本意にかなって用いられる教化の方法で、随自意の法門をいう。それは、大智を全うじた大悲が巧みな方法便宜をもって衆生を済度されるというので、善巧方便ともいう。阿弥陀仏を方便法身というときの方便がそれである。
 権仮方便とは、未熟な機は直ちに仏の随自意真実の法門を受けとれないから、その機に応じて、仮に暫く誘引のために用いられる程度の低い教えをいう。機が熟すれば真実の法門に入らしめて、権仮の法門は還って廃せられる。このように暫く用いるが、後には還って廃するような随他意の法門を権仮方便という。「方便化身土」といわれるときの方便がそれである。
 親鸞聖人は四十八願の中で、往生の因を誓われた第十八願、第十九願、第二十願のうち第十八願のみが真実願であり、第十九願、第二十願は方便願であるとされた。第十八願は、他力回向の行信によって、真実報土の果を得しめられる真実願であり、第十九願は、自力諸行によって往生を願うものを、臨終に来迎して方便化土に往生せしめることを誓われたものであり、第二十願は、自力念仏によって往生を願うものを、方便化土に往生せしめることを誓われた方便願であるといわれるのである。そしてこの三願は、聖道門の機を浄土門に誘うために第十九願が、自力諸行の機を念仏の法門に導き、さらにその自力心を捨てしめて第十八願の他力念仏往生の法門に引き入れるために第二十願が誓われたとされている。

この程度の知識を最低限持っていなければ、親鸞聖人の御著書を読んでも全く理解できません。

『教行信証』信巻・別序

真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり。

のお言葉は、まさに親鸞会の基本的な誤りを正されたものです。釈尊は善巧方便をもって真実信心を明らかにされたのであって、権仮方便をもってではありません。

『高僧和讃』善導讃

釈迦・弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し
 われらが無上の信心を 発起せしめたまひけり

も、同様のことを仰っています。
『蓮如上人御一代記聞書』にも、

一 蓮如上人仰せられ候ふ。方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふと[云々]。

とあります。「方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし」の「方便」は「廃立の義」ですから、捨てるべき権仮方便のことです。最後の文は文字通り、「善巧方便」のことです。「真実の信」は、「善巧方便によりて」うるのであって、「権仮方便によりて」ではありません。

以上のことをまとめて判りやすく言えば、親鸞聖人は18願1つで救われるのだと、繰り返し繰り返し教えられているのですが、絶対他力18願での往生をとても信じられない無宿善の機(未熟の機)がいますので、そんな機に対しては、権仮方便をもって18願での往生を願わせるところまで導かれるのです。親鸞聖人の教えを信じて、18願での往生を願う宿善の機に対しては、善巧方便をもって済度されるのです。

この善巧方便を具体的に描かれたのが、『教行信証』信巻末にある阿闍世の物語です。一見すれば、略されてもよいように思われる部分までも、事細かに引文されています。実に『教行信証』全体の1割も費やされて、親鸞聖人は何を教えられたかったのでしょうか。それは衆生が善巧方便によって導かれることを示されると共に、五逆罪を犯した極悪人をも洩らさず、普く救いたもう本願であることを親鸞聖人が明らかにされるためであったのです。

釈尊は阿闍世に対して、権仮方便をもって導かれたのではありません。『教行信証』を読まれたことがないから、内容を御存知ないのでしょうか。

権仮方便については『浄土和讃』「大経讃」に、

聖道権仮の方便に 衆生ひさしくとどまりて
 諸有に流転の身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ

とあります。親鸞会の説によれば、方便である聖道仏教もしなければなりません。
善巧方便と権仮方便の意味が分かれば、三願転入は化土巻でしか仰っていないことが御理解いただけるのではないでしょうか。

親鸞会の講師部員は、思考力が極端に低下していますので、長文が読めません。従って、今回せっかく書かれた解説もほとんど読まず、そして全くと言っていいほどに理解できずに、この後、また一方的に質問をし続けていきす。講師部員は、国語力が小学生並みであることが、次に出てきたM講師の質問書(回答の一切無い)により判ります。次回それを紹介します。

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2010年11月 1日 (月)

M講師からの反論-化土往生2

親鸞会の化土往生に対する知識の乏しさには、本当に呆れ果てます。化土往生は経典でも説かれていますし、善知識方は化土往生について度々仰っています。特に親鸞聖人は化土往生について、多くの御著書の中で、かなり詳しく教えられた上で、化土往生を願うことを厳しく誡められています。

前回、その根拠を列記しましたが、あの多くの根拠を見るだけでも、化土往生が机上の空論ではないことは誰にでも判ると思います。

以前に

本当は必ず無間地獄に堕ちるのに故意に化土に往生できるぞと我々を騙されたのであろうか

でも紹介しましたが、高森会長は『会報』第5集に、化土往生を説く大沼法竜師を非難して以下のように書いています。

 ここで特に注意しておかねばならぬことは真宗の道俗の中に、未だ大信海に入らずとも求めている者が死ねば、みんな間違いなく化土往生出来ると主張し同行の求道心をさまたげている人がいるということである。これは許すことの出来ない正法の怨敵である。三機のところでも述べたように十九願の邪定聚の機ならば化土へも行けるであろうが、真宗の道俗の中に、そのような者は見当らないから化土往生どころか必堕無間こそ間違いのない後生である。
 若し、信前の者も、求めてさえいれば化土往生が出来、やがて報土往生、弥陀同体成仏出来るのなら後生の一大事は立たない。後生の一大事生死の一大事の立たないところに仏法、また成立しないのである。
 若し、信前の者が、みんな化土往生出来るのなら、親鸞聖人は、なぜに「たとえ、大千世界に、みてらん火をもすぎゆきて、仏の御名をきけ」と仰言ったか。又『教行信証』総序に「もしまたこのたび疑網に覆蔽せられなば、更りてまた昿劫を経歴せん」と悲嘆なされたか。化土往生してやがて必然的に報土往生が出来れば昿劫を経歴する心配がある筈がないではないか。
 蓮如上人も『御文章』の各処に「この信、決定されずんば極楽には往生せずして化土にまいるべきなり」とはいわれずに「無間地獄に堕在すべし」と教えられ、故に「一日も片時も急いで信心決定せよ」「命のうちに不審もとくとくはれられ候わでは、さだめて後悔のみにて候わんずれ、おん心得あるべく候」と手に汗握って御勧化になっていられる。本当は化土往生出来るのに故意に無間地獄に堕ちるぞと我々をおどろかされたのであろうか。そんなことがあり得る筈がない。
 これらの善知識の仰せの通り信前の者には必堕無間の後生の一大事があればこそではないか。信心決定という難関を突破させて貰わない限り誰人と雖も、化土どころか無間地獄に堕在するという後生の一大事は、まぬがれないことを深く牢記すべきである。

これは、化土往生についての親鸞聖人のお言葉を知らない者の妄想です。親鸞聖人が化土往生に関して多くのお言葉を残されていることを知れば、以下のように言い換えなければなりません。

本当は必ず無間地獄に堕ちるのに故意に化土に往生できるぞと我々を騙されたのであろうか。そんなことがあり得る筈がない。
 これらの善知識の仰せの通り信前の者には化土往生があればこそではないか。自力に拘って、信心決定という難関を突破させて貰わない限り誰人と雖も、化土往生にしかならず、報土往生という後生の一大事を遂げることのできないことを深く牢記すべきである。

実に単純な話です。何度も言いますが、ほんの一部の根拠に対して、その根拠を否定する他の膨大な根拠があるとしたならば、そのほんの一部の根拠の解釈が間違っていると考えるのが普通です。それが理解できない親鸞会は、1%の間違った解釈の根拠で99%の根拠を否定するから簡単に突っ込まれるのです。

こういえば、一切経の99%は善の勧めだ、と親鸞会はお目出たい反論をするでしょうが、歴代善知識方の御著書を読めば、その考え方が浄土門の教えではないのです。親鸞聖人の御著書でいえば、往生のために善を勧められた箇所は、0%です。

高森会長は昔、法話でよく言っていました。

七千余巻に及ぶ一切経の中でわずか一巻でも読まないものがあれば、それで一切経に何が書かれてあるかを理解することができない。

それならば、

親鸞聖人の御著書の中で一冊でも読まないものがあれば、それで親鸞聖人の教えを理解することができない。

になりますが、親鸞会の場合は、親鸞聖人の御著書の1%しか読んでいないのです。それで何が理解できると言うのでしょうか。実にふざけた教義と言わざるを得ません。

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