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2010年10月15日 (金)

愚かで哀れな講師部員

善知識方のお言葉を断章取義して、故意に意味を変えているのは、教団と一族の名利のためと本当に無知なことによるものです。これはもちろん大問題ですが、下っ端の講師部員もそのことを知りながら、その手助けをしているのは、何とも哀れです。

読者の方からお叱りを受けるかも知れませんが、愚かな講師部員に騙される人があるかも知れませんので、くどいようですが、一応書いておきます。

悪人正機も理解できない親鸞会

のところで、「定散の機」についての説明をしました。『観無量寿経』『観無量寿経疏』を読まれれば、お判りいただけると思いますが、法然上人がまとめて下さっていますので、九品の解説を『選択本願念仏集』で見てみます。

次に九品とは、前の三福を開して九品の業となす。
いはく上品上生のなかに「慈心不殺」といふは、すなはち上の世福のなかの第三の句に当る。次に「具諸戒行」とは、すなはち上の戒福のなかの第二の句の「具足衆戒」に当る。次に「読誦大乗」とは、すなはち上の行福のなかの第三の句の「読誦大乗」に当る。次に「修行六念」とは、すなはち上の第三の福のなかの第三の句の意なり。
上品中生のなかに「善解義趣」等といふは、すなはちこれ上の第三福のなかの第二・第三の意なり。
上品下生のなかに「深信因果・発道心」等といふは、すなはちこれ上の第三の福の第一・第二の意なり。
中品上生のなかに「受持五戒」等といふは、すなはち上の第二の福のなかの第二の句の意なり。
中品中生のなかに「或一日一夜受持八戒斎」等といふは、また同じく上の第二の福の意なり。
中品下生のなかに「孝養父母・行世仁慈」等といふは、すなはち上の初めの福の第一・第二の句の意なり。
下品上生は、これ十悪の罪人なり。臨終の一念に罪滅して生ずることを得。
下品中生は、これ破戒の罪人なり。臨終に仏の依正の功徳を聞きて、罪滅して生ずることを得。
下品下生は、これ五逆の罪人なり。臨終の十念に罪滅して生ずることを得。
この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。もし上の三福に准ぜば、第三福の大乗の意なり。定善・散善大概かくのごとし。文(散善義)に、すなはち「上よりこのかた定散両門の益を説くといへども」といふこれなり。
次に念仏とは、もつぱら弥陀仏の名を称するこれなり。念仏の義常のごとし。しかるにいま、「正明付属弥陀名号流通於遐代」(同)といふは、おほよそこの『経』(観経)のなかに、すでに広く定散の諸行を説くといへども、すなはち定散をもつて阿難に付属し後世に流通せしめず。ただ念仏三昧の一行をもつてすなはち阿難に付属し遐代に流通せしむ。

(現代語訳)

次に九品というのは、前の世・戒・行の三福を開いて九品往生の行業とするのである。
すなわち上品上生の中に「慈心にして殺さず」というのは、上の世福の中の第三句に当たる。次に「諸の戒行を具す」というのは、上の戒福の中の第二句の「衆戒を具足する」に当たる。次に「大乗を読誦する」とは、上の第三の行福の中の第三句の「大乗を読誦する」に当たる。次に「六念を修行する」とは、上の第三の行福の中の第三句 (「読誦大乗」の大乗) の意味におさまる。
上品中生の中に「善く義趣を解さとる」などというのは、すなわち上の第三行福の中の第二句 (深信因果)、第三句 (読誦大乗) の意味である。
上品下生の中に「深く因果を神事道心を発おこす」などというのは、すなわち上の第三行福の第一句 (発菩提心)・第二句 (深信因果) の意味である。
中品上生の中に「五戒を受持し」などというのは、すなわち上の第二戒福の中の第二句 (具足衆戒) の意味である。
中品中生の中に「或いは一日一夜八戒斎を受持する」などというのは、また同じく上の第二戒福の意味である。
中品下生の中に「父母に孝養し、世の仁慈を行ずる」などというのは、すなわち上の第一世福の中の第一句 (孝養父母)、第二句 (奉事師長) の意味である。
下品上生とは、これは十悪の罪人である。臨終の一声の念仏で罪が滅して往生を得る。
下品中生とは、これは破戒の罪人である。臨終に阿弥陀仏やその浄土の功徳を聞いて、罪が滅して往生を得る。
下品下生とは、これは五逆の罪人である。臨終の十声の念仏で罪が滅して往生を得る。
この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。もしこれを上の三福に対照すれば、第三行福 (読誦大乗) の「大乗」の意味である。
定善・散善は、おおむねこのようである。文に、「これまで《観経》の始めから定善・散善の両門の利益を説いてきたけれども」というのがこれである。
次に念仏とは、専ら阿弥陀仏の名号を称えることがこれである。念仏の意味は常にいう通りである。しかるに、今「まさしく弥陀の名号を付属して末の世まで流通することを明かす」というのは、およそこの《観経》の中に、ひろく定散の諸行を説いたけれども、定善・散善をもって阿難に付属してはるか後の世まで流通させることをしないで、ただ念仏三昧の一行のみをもって阿難に付属して末の世まで流通させるのである。

上品の三生と中品の三生は善人です。下品の三生は悪人です。九品に定善の機を併せて、すべての人ということになります。
ここで判りにくいところは、下品に説かれている念仏を、散善に入れる場合と非定非散として入れない場合があります。上の『選択本願念仏集』でもそこを配慮なされて書かれています。同様に、「定散の機」に悪人を含める場合と含めない場合があります。「宿善」についてもそうでしたが、文章によって違う意味で使われていることがあります。断章取義の輩には、理解できないことでしょうが、前後の文脈からどちらの意味であるかを判断しなければなりません。

判りやすい例を挙げれば、『正信偈』

善導独り仏の正意をあきらかにせり。定散と逆悪とを矜哀して

『正信偈大意』

「善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪」といふは、浄土門の祖師その数これおほしといへども、善導にかぎり独り仏証をこうて、あやまりなく仏の正意を明かしたまへり。されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり。

は明らかに後者です。
一方存覚上人の『浄土真要鈔』

『観経義』の第二に、「十三定善のほかに三福の諸善をとくことを釈す」として、「若依定行 即摂生不尽 是以如来方便 顕開三福 以応散動根機」(序分義)といえり。文のこころは「もし定行によれば、すなわち生を摂するにつきず、ここをもって、如来、方便して三福を開顕して散動の根機に応ず」となり。いうこころは「『観経』のなかに、定善ばかりをとかば、定機ばかりを摂すべきゆえに、散機の往生をすすめんがために散善をとく」となり。これになずらえてこころうるに、散機のなかに二種のしなあり。ひとつには善人、ふたつには悪人なり。その善人は三福を行ずべし。悪人はこれを行ずべからざるがゆえに、それがために十念の往生をとくとこころえられたり。

とあるのは、明らかに前者です。
いずれの場合でも、善人と悪人がいることにかわりはありません。

ところが親鸞会のように

十方衆生=下品下生、極重の悪人、逆悪の機

という結論ありきで考えると、破綻した論理にしかなりえません。

因果の道理を撥ねつける外道の信者

でも述べましたが、因果の道理を信じているならば、このようなことを言える訳がありません。初地まで到達された龍樹菩薩が、極重の悪人などという仏教徒はいないでしょう。法然上人、親鸞聖人が上品上生の人と仰った智覚禅師のことを、どうして下品下生と理解できるのでしょうか。御自身のことを「信外の軽毛」と仰った善導大師も、低いさとりではあっても、そこまでは自力で至られた方であり、機の深信を『往生礼讃』では、

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し

と表現なされています。当たり前のことですが、「善根薄少」ではあっても「善根皆無」ではありません。
底下の凡夫であっても、自分の都合で親を殺してマスコミに取り上げられるような人もいれば、結婚もせず、就きたい職業にも就かずに何十年も親の介護をしている立派な人もいます。
法然上人、聖覚法印は、「五逆をもつくらさるわれら」と仰っていますが、五逆罪を造っている人は少数なのです。
これはもちろん、信前信後変わるものではありません。信前は善人で、信後は悪人となることはありません。

参考までに

「親鸞会の邪義を正す」
十方衆生≠極重の悪人

も読んでおかれるとよいでしょう。

こんな基本中の基本さえも理解できずに、

十方衆生の真実の相は、極重の悪人で善人は一人もいない

と悪に誇るから、世間一般の人がしないような”法律上の悪”までも平気で行うことになるのです。会長や講師部員が造悪無碍になるのも、因果の道理を信じていない外道の信者であるからです。
外道の信者が鬼の首を取ったように超低レベルのことをブログで書いて騒いでいますが、論破されても論破されても、また他人に成りすまして別のブログで同じことを書いて、どこまで愚かなことをすれば気が済むのでしょうか。プライドが高く、論破された悔しさを少しでも誤魔化したいのと、ネット対策に勤しんでいます、と上司に報告したいだけでしょうから、相手にする価値はありません。

お暇な方は、相手になって適当に遊んであげて下さい。

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コメント

M野さんは、どこどこまでもピエロですね。
書けば書くほど、評価が下がって行くのに、いつか評価が上がると本気で思っているのでしょうかね。
2ちゃんでは、かつての法律上の悪行が晒されて、トンズラしたかと思えば、またブログに籠もって訳のわからないことを書くのですね。
夢幻界裡の方は、もう諦めたのでしょうかね。

悪が止められないのは、過去世からの宿悪おもきことが理由なのでしょうね。

早く親鸞会を飛び出せばいいのに。でも、東本願寺派へ移っても同じですかね。

どうしようもない人です。

投稿: 不良学徒 | 2010年10月15日 (金) 08時12分

たぶん、本人も理屈ではS会の教義が間違ってる事を理解してると思います。
心の奥底では「組織もイヤだし、教えも間違ってるようだし、辞めたい…」とは思いながらも、連れ合いがMCバリバリの講師部員なのと、もう再就職が望めない年齢という事があって、辞めるに辞めれないんでしょうね。
だから、その本音を押し殺すために無理矢理にS会教義を正当化するblogを書いて、自分で自分を一生懸命MCしてるんでしょう。
で、それを飛雲さんはじめ皆に否定されて、壊れかけたMCを上塗りするために、また新たなblogを書く…(以下、会長の死亡・S会の崩壊まで繰り返し)。
そしてやればやるだけ謗法罪をつくり続け、この世も後生も苦しむ。まさに「S会の修行は狂人と化して無間の火城に沈む」を体現してる人物ですね。
東本願寺派さんに受け入れを打診してるのは、「宗教の道なら再就職できるかも…」と考えてのことでしょうけど、
いまの彼に必要なのは、もはや「次の就職先」ではなく、「医師の処方箋」でしょうな。

投稿: がすしつがかり | 2010年10月15日 (金) 09時33分

M野さん、いい加減に下らないブログをやめられては如何でしょう。
某巨大掲示板では、自ら正体を明かしてしまい、このブログの管理人がM野さんと皆知っているのですよ。
勝てる見込みがゼロでも仕方なく書いているのか、勝てると錯覚して書いているのか定かではありませんが、どちらであってもこれ以上恥の上塗りをしてどうしたいのでしょうか。
某巨大掲示板に以下のように書かれていましたが、答えてもらえますかM野さん。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
1.彦根の平和堂での万引きは本当か?

これは間違いなしということだね。否定するなら、今の内に。

2.万引きは往生の障りとならないと思ってしたのか、往生の障りにはなるが宿悪おもきゆえ、
してしまったのか。

宿善の問題に関わるので、はっきり答えたまえ。

3.万引き、盗作、不倫は、一般人でもしている人は少ないから、M野、会長、M晴は宿悪おもきものでいいか。
会長は、息子の不倫を不問にした挙げ句、M野らを執行猶予つき除名処分にした。
また会長は、会員から集めたお金を自分と家族のために、私的流用し続けている。
宿善あつきものとは程遠い会長が、救われたのは宿善論と矛盾しないのか。

投稿: どんちゃん | 2010年10月15日 (金) 12時59分

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