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2010年10月 5日 (火)

法に依りて人に依らざるべし

親鸞聖人は化土巻で、三願転入の文の後に、聖道門は時機不相応であり、浄土真宗は時機相応であると仰っていることは何度か紹介しました。
その次に浄土三部経は間違いのない仏説であることを仰った上で、四依を教えて下さっています。

『大論』(大智度論)に四依を釈して云わく、涅槃に入りなんとせし時、もろもろの比丘に語りたまわく、「今日より法に依りて人に依らざるべし、義に依りて語に依らざるべし、智に依りて識に依らざるべし、了義経に依りて不了義に依らざるべし」と。「法に依る」とは、法に十二部あり。この法に随うべし、人に随うべからず。「義に依る」とは、義の中に好悪・罪福・虚実を諍うことなし。かるがゆえに語はすでに義を得たり、義は語にあらざるなり。人、指をもって月を指う、もって我を示教す、指を看視して月を視ざるがごとし。人、語りて言わん、「我指をもって月を指う、汝をしてこれを知らしむ、汝何ぞ指を看て月を視ざるや」と。これまたかくのごとし。語は義の指とす、語は義にあらざるなり。これをもってのゆえに、語に依るべからず。「依智」とは、智はよく善悪を籌量し分別す。識は常に楽を求む、正要に入らず、このゆえに「不応依識」と言えり。「依了義経」とは、一切智人います、仏第一なり。一切諸経書の中に仏法第一なり。一切衆の中に比丘僧第一なり。無仏世の衆生を、仏、これを重罪としたまえり、見仏の善根を種えざる人なり、と。
 しかれば末代の道俗、善く四依を知りて法を修すべきなりと。

(現代語訳)

『大智度論』に、四つの依りどころについて次のようにいわれている。
 「釈尊がまさにこの世から去ろうとなされるとき、比丘たちに仰せになった。<今日からは、教えを依りどころとし、説く人に依ってはならない。教えの内容を依りどころとし、言葉に依ってはならない。真実の智慧を依りどころとし、人間の分別によってはならない。仏のおこころが完全に説き示された経典を依りどころとし、仏のおこころが十分に説き示されていない経典に依ってはならない。
 教えを依りどころとするとは、仏の説いた教えには十二部経があり、この教えにしたがうべきであって、説く人にしたがってはならないということである。教えの内容を依りどころとするとは、教えの内容に、よいと悪い、罪と功徳、嘘とまことなどの違いをいうことなく、だから言葉は教えの内容を表わしているものであって、教えの内容が言葉そのものなのではない。言葉に依って教えの内容に依らないのは、人が月を指さして教えようとするときに、指ばかりを見て月を見ないようなものである。その人は、《わたしは月を指さして、あなたに月を知ってもらおうとしたのに、あなたはどうして指を見て月を見ないのか》というであろう。これと同じである。言葉は教えの内容を指し示すものであって、言葉そのものが教えの内容であるわけではない。このようなわけで、言葉に依ってはならないのである。真実の智慧を依りどころとするとは、真実の智慧に依れば善と悪とをよく考えてその違いを知ることができるが、人間の分別は常に楽しみを求め、さとりへ向かう正しい道に入ることができないということである。だから、人間の分別に依ってはならないといったのである。真実を完全に説き示した経典を依りどころとするとは、智慧あるものすべての中で仏を第一とし、教えを受けるものすべての中で出家のものを第一とするということである>と。
 仏のおられない世の衆生を、仏は罪が重いとされた。これは仏を見たてまつる功徳を積まなかった人なのである」
 このようなわけであるから、末法の時代の出家のものも在家のものもこの四つの依りどころをよく知って仏法を修めなければならない。

釈尊が涅槃に入られた後、何に従っていくべきかを教えられたものです。最初に、「法に依りて人に依らざるべし」とあります。「「法に依る」とは、法に十二部あり。この法に随うべし、人に随うべからず。」です。仏の教えに従うのであって、教えを説く人に従ってはならない、ということです。たとえどんなに立派で優秀な知識であっても、仏ではありません。間違いを犯すことはあります。衆知の通り、親鸞聖人も間違いを犯されたことがあります。

以前に何度か紹介しています七深信の中、第五深信を『教行信証』信巻・深心釈

また一切の行者、ただよくこの『経』(観経)によりて行を深信するは、かならず衆生を誤らざるなり。なにをもつてのゆゑに、仏はこれ満足大悲の人なるがゆゑに、実語なるがゆゑに。仏を除きて以還は、智行いまだ満たず。それ学地にありて、正習の二障ありていまだ除こらざるによつて、果願いまだ円かならず。これらの凡聖は、たとひ諸仏の教意を測量すれども、いまだ決了することあたはず。平章することありといへども、かならずすべからく仏証を請うて定とすべきなり。もし仏意に称へば、すなはち印可して〈如是如是〉とのたまふ。もし仏意に可はざれば、すなはち〈なんだちが所説この義不如是〉とのたまふ。印せざるはすなはち無記・無利・無益の語に同じ。仏の印可したまふは、すなはち仏の正教に随順す。もし仏の所有の言説は、すなはちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多もしは少、すべて菩薩・人・天等を問はず、その是非を定めんや。もし仏の所説は、すなはちこれ了教なり。菩薩等の説は、ことごとく不了教と名づくるなり、知るべし。このゆゑに今の時、仰いで一切有縁の往生人等を勧む。ただ仏語を深信して専注奉行すべし。菩薩等の不相応の教を信用して、もつて疑碍をなし、惑ひを抱いて、みづから迷ひて往生の大益を廃失すべからざれと。

(現代語訳)

また、すべての行者たちよ、ただこの『観無量寿教』に示される行を深く信じることだけが、決して人々を誤らせないのである。なぜなら、仏は大いなる慈悲をまどかにそなえた方だからであり、その説かれた言葉はまことだからである。仏以外のものは、智慧も行もまだ十分でなく、それを学ぶ位にあり、煩悩もその習気もまだすべては除かれていないので、さとりを求める願いも、まだまどかに成就していない。したがって、これらのものは、たとえ仏のおこころを推しはかっても、確かに知ることはまだできないのである。ものごとの道理を正しく明らかに理解することがあったとしても、必ず仏にその証明をお願いして、当否を定めるべきである。もし、仏のおこころにかなえば、仏はこれを認められて<その通り>といわれる。もし、仏のおこころにかなわなければ、<あなたがたのいうこの理解は正しくない>といわれるのである。仏がお認めにならない説は、無意味で利益のない言葉と同じである。仏がお認めになる説は、仏の正しい教えにかなうものなのである。仏のお言葉はすべて、正しい教であり、正しい義であり、正しい行であり、正しい領解であり、正しい行業であり、正しい智慧なのである。多数のものでも少数のものでも、菩薩であっても人間であっても神々であっても、その説の善し悪しを定めることなどできない。仏の説かれた教えは、完全な教えであり、菩薩などの説は、すべてみな不完全な教えというのである。よく知るがよい。だから、今この時、往生を願うすべての人々に勧める。ただ深く仏のお言葉を信じて、ひとすじに行を修めるがよい。菩薩などの説く、仏のお心にかなっていない教えを信じて、疑いをおこし、惑いをいだいて、自ら往生という大いなる利益を失ってはならない。

と『散善義』から引かれています。
高い位にいる菩薩でさえも、完全な教えは説けません。ましてや底下の凡夫は、間違いばかりです。ですから、人に従ってはならない、仏の説かれた教えに従うのだということです。また言葉に囚われたり、凡夫の分別によることも誡められています。
断章取義は、まさに言葉に依るの典型です。会長の理解不能な指示は、凡夫の分別に間違いありません。聖教を読むことを禁じて、会長の著書のみを読ませることは、「不了義経に依る」です。

ですから、”善知識だのみ”は異安心に陥る可能性が非常に高いのです。

親鸞会の場合は、

人に依りて法に依らざるべし、語に依りて義に依らざるべし、識に依りて智に依らざるべし、不了義経に依りて了義経に依らざるべし

と四依と正反対のことを強要しているのです。

会長の説く教えが、了義経やその解説書である歴代の善知識方の御著書と、全く別物となっていることは、これまで述べてきた通りですし、他のブログでも激しく非難されています。

仏から直接教えを受けることのできない我々は、この四依に心掛けていかなければなりません。知識を尊敬することと、無条件服従することは違います。尊敬できる知識であれば、大いに尊敬すればいいのですが、阿弥陀仏と私との間に知識を入れてはいけません。知識は、間ではなく、横です。間に入れると阿弥陀仏に一心一向にはなりません。

以上のことを踏まえた上で、まずは知識が正しい法を説いているかどうかを自分で判断する必要があります。それを怠っているのが、親鸞会の会員なのです。

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