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2010年10月30日 (土)

M講師からの反論-逆謗2

M講師との法論の発端は、ある会員さんがM講師に「親鸞会の邪義を正す」を見せて、反論を依頼したことです。前回書いたM講師の逆謗についての反論は、

「親鸞会の邪義を正す」
十方衆生≠極重の悪人

の部分に対してです。「親鸞会の邪義を正す」では、善導大師、法然上人、親鸞聖人のお言葉を挙げて説明しているのですが、M講師はそれらをすべて無視した上で、断章取義したたった1つの根拠で、これこそが秘中の秘の教えとでも考えていて、金科玉条のように『末灯鈔』のお言葉を出しています。

しかし、この考え方こそが、カルト的な危険な思考です。

1つの根拠がそれに反する他の多くの根拠を否定しうる訳がないことは、論理的な思考ができる人ならばごく当たり前のことです。それぞれの根拠には、それぞれ関連があると考えていくのが普通です。親鸞会は、物事を総合的に考えることが全くできないのです。ここにこう書いてあるから、他は無視するなどという発想は、まさに行き当たりばったりの会長らしい思考です。

ですから、親鸞会が出してくる、他の根拠を根本から否定する根拠というのは、その解釈が元々間違っていると考えていいでしょう。親鸞会教義の間違いを指摘するには、その前後を読めばいいです。
従って、親鸞会との法論して勝つには、教学がなくてもちょっとした国語力があればいいのです。中には小学生レベルの国語力でも勝てる内容もあります。親鸞会の教義など、その程度のものです。

さて、親鸞会は会長をはじめ、講師部員も皆、傲慢で、他人を徹底的に見下す態度をとります。M講師も傲慢そのものの文章を書いています。その原因の1つが、

十方衆生=逆謗の機

という間違った理解にあると私は考えています。
つまり、すべての人は自分と同じ無間業ばかり造っているどうしようもない者しかいないが、その中で自分たちは”真実”を知っているエリートだ、と思い込んでいるのです。龍樹菩薩も、天親菩薩も、善導大師も、親鸞聖人も自分と同じだ、くらいにしか思えないのでしょう。

試験にたとえて言えば、十方衆生は皆、0点しかとれない、龍樹菩薩も天親菩薩も、善導大師も、親鸞聖人も皆自分と同じ0点だった、と考えているのでしょうが、そこがとんでもない”自惚れ”なのです。100点は取れなくても、80点、70点を取っているエリート方は沢山おられるのです。それが『散善義』

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)

わが身は、無始よりこのかた、他のものと同時に、発願し、悪を断ち、菩薩の道を行じたのに、他のものはことごとく身命を惜しまず、修行して位を進め、因が円満し、果が成就して、聖者の位を証した。その数は、大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、われら凡夫は過去より今日に至るまで、いたずらに流転して、煩悩の悪障が次第にますます多くなり、福徳智慧のきわめて少ないことは、重昏くらやみをもって明鏡に望むがようである。今このことを考えると、どうして心驚き悲しまずにおられようか。

です。龍樹菩薩もよい点を取られていますし、善導大師も低い点数ではあっても点数はあります。しかし、我々は0点なのです。
0点の中でも、もう少しで点が取れる人もあれば、白紙の人もあるのです。逆謗の機とは、いわば全くの白紙で0点の人のようなものです。

この事実を知れば、傲慢な態度にはなれない筈です。点数のある善導大師でさえ嘆かれたのです。ましてや0点の我々は、大いに恥じるべきでしょう。

そんな0点の我々が阿弥陀仏のお力によって、100点を取らせて頂けるのですから、自己のとんでもない落ちこぼれを深く懺悔して素直に阿弥陀仏に感謝することができるのです。

ところが親鸞会のように十方衆生は皆、白紙で0点、つまりは

十方衆生=逆謗の機

と言っているは、仏教のイロハも知らないからで、自分たちは十方衆生の中でのエリートと本気で思い込んでいます。言葉にこそ出しませんが、龍樹菩薩も白紙で、同じ落ちこぼれ同志程度にしか思っていないのは、仏弟子としては根本的に感覚が狂っています。

親鸞聖人は御自身のことを無慚無愧と仰っていますが、親鸞聖人は無慚無愧の自分と恥じておられるのです。無慚無愧と胸を張っている会長や講師部員とは雲泥の差です。

これだけ説明しても、文章をまともに読む気のない、読む能力のない会長と講師部員、そして幹部会員には、このエントリーも理解不能なのでしょうけど。

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コメント

>M講師の主張は、『末灯鈔』の「善知識をおろかにおもい、師をそしるものをば、謗法のものともうすなり。親をそしるものをば、五逆のものともうすなり。」を出してきて、謗法、五逆の者でない人を示せ、という内容でした。

M講師はこのお言葉が「全人類は謗法、五逆の者である」と教えられたお言葉だと思っているのでしょうか。だからこそ、このお言葉を受けて上記のようなことを尋ねてくるのですよね。

しかし、そもそもこのお言葉が「全人類は謗法、五逆の者である」と教えられたお言葉だと何故いえるのか、理解に苦しみます。

会員は何も思わないのでしょうか。

投稿: | 2010年10月30日 (土) 21時41分

会員さんが親鸞会教義に固執するのは、「高森先生の仰ることに間違いない」信心があることと、自分の心を見れば親を殺し、法を否定するような思いが確かにあるからでしょう。
自己を内省する上で「自分は必堕無間の者だ」と言うことはあるでしょうが、他人や、まして全人類は逆謗の者だと言うことは仏説でも次第相承の善知識方の教えでもありません。それは管理人さんがこれまで挙げてこられた幾つもの根拠により明らかです。
それを無視して珍しい教えに固執し続ける者こそ謗法の輩ですから、会員の皆さんには親鸞聖人の仰せの通りそのような謗法の者となれ睦ばず、一刻も早く離れて頂きたいばかりです。

投稿: 淳心房 | 2010年10月31日 (日) 09時49分

名無し 様
淳心房 様

「高森先生の仰ることに間違いない」信心に極まると言ってもいいでしょう。自分で考えない、自分で聖教を読もうとしないのが、親鸞会の会員です。
結局のところ、信心決定したいと思っていない人が、未だに親鸞会に残っているのです。

投稿: 飛雲 | 2010年11月 1日 (月) 18時43分

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