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2010年10月31日 (日)

M講師からの反論-化土往生1

M講師とは誰か、と疑問に思われる方も多いようですが、初期の教学課に属していた古参の講師です。

化土往生についてのM講師の反論は、以下のようなものでした。

親鸞聖人は

もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。教行信証総序

ひとたび人身を失ひつれば万劫にも復せず。教行信証行巻

と仰り、蓮如上人は

後世とは永き世まで地獄におつることなれば(帖外御文)

この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。御文章2帖目第2通

と仰っておられるが、これらが間違いであるのか、と問い、また化土往生の行ができる人を教えよ、というものでした。

これは、O講師とのやりとりででてきた内容ですので、覚えておられる方も多いと思います。
これは、元々の

「親鸞会の邪義を正す」
化土往生について1

をそのまま読まれればお終いの話を、それを断章取義した根拠で全否定するいつものパターンです。

源信僧都は、信心がなくても浄土を願って行を行えば、阿弥陀仏の願力によって化土往生できるし、化土往生している人は少なくないと仰っています。
親鸞聖人も源信僧都の教えを受け継がれて、19願、20願は方便の行信であるから、方便の行信では方便の利益(化土往生)しか得られないことを繰り返し仰っています。化土にしか往けないから、19願、20願を願うなと厳しく誡めておられますが、誰も化土往生できないのに、このようなことを仰る道理がありません。
19願、20願を願って行じている人は必堕無間だ、という教えなどあろう筈がないです。

親鸞会のこのような御粗末な思考に対しては、根拠の羅列が一番でしょうから、以下のように返答されました。

これも多くの根拠を出しましたが、悉く無視ですか。再度根拠を挙げておきます。

『往生要集』信毀因縁には、

問ふ。もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。

答ふ。
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。『双巻経』(大経・下)にのたまふがごとし、
「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生は、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の衆を見たてまつらず、このゆゑにかの国土においては、これを胎生といふ」と。
仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。しかも願に随ひて往生するは、これ仏の悲願の力なり。『清浄覚経』(平等覚経・三)に、この胎生をもつて中輩・下輩の人となせり。

『往生要集』報化得失

雑修のものは執心不牢の人となすなり。ゆゑに懈慢国に生ず。もし雑修せずして、もつぱらにしてこの業を行ぜば、これすなはち執心牢固にして、さだめて極楽国に生ぜん。{乃至}また報の浄土に生るるものはきはめて少なし。化の浄土のなかに生るるもの少なからず。ゆゑに経に別に説けり。実には相違せず。

『高僧和讃』源信讃

報の浄土の往生は おほからずとぞあらはせる
 化土にうまるる衆生をば すくなからずとをしへたり

『末灯鈔』

念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

『正信偈大意』

「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」といふは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。これすなはち、専雑二修の浅深を判じたまへるこころなり。『和讃』にいはく、「報の浄土の往生は おほからずとぞあらはせる 化土に生るる衆生をば すくなからずとをしへたり」といへるはこのこころなりとしるべし。

『三経往生文類』

弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願(第二十願)によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。しかりといへども定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に回向して果遂のちかひをたのむ。不可思議の名号を称念しながら、不可称不可説不可思議の大悲の誓願を疑ふ。その罪ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあひだ自在なることあたはず、三宝をみたてまつらず、つかへたてまつることなしと、如来は説きたまへり。しかれども如来の尊号を称念するゆゑに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆゑに難思往生と申すなり。不可思議の誓願、疑惑する罪によりて難思議往生とは申さずと知るべきなり。

『正像末和讃』誡疑讃

不了仏智のしるしには 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を たのめば辺地にとまるなり

仏智の不思議をうたがひて 自力の称念このむゆゑ
 辺地懈慢にとどまりて 仏恩報ずるこころなし

罪福信ずる行者は 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば 三宝にはなれたてまつる

仏智疑惑のつみにより 懈慢辺地にとまるなり
 疑惑のつみのふかきゆゑ 年歳劫数をふるととく

転輪皇の王子の 皇につみをうるゆゑに
 金鎖をもちてつなぎつつ 牢獄にいるがごとくなり

自力称名のひとはみな 如来の本願信ぜねば
 うたがふつみのふかきゆゑ 七宝の獄にぞいましむる

信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も
 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし

自力諸善のひとはみな 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて 七宝の獄にぞいりにける

仏智不思議をうたがひて 善本・徳本たのむひと
 辺地懈慢にうまるれば 大慈大悲はえざりけり

本願疑惑の行者には 含花未出のひともあり
 或生辺地ときらひつつ 或堕宮胎とすてらるる

如来の諸智を疑惑して 信ぜずながらなほもまた
 罪福ふかく信ぜしめ 善本修習すぐれたり

仏智を疑惑するゆゑに 胎生のものは智慧もなし
 胎宮にかならずうまるるを 牢獄にいるとたとへたり

七宝の宮殿にうまれては 五百歳のとしをへて
 三宝を見聞せざるゆゑ 有情利益はさらになし

辺地七宝の宮殿に 五百歳までいでずして
 みづから過咎をなさしめて もろもろの厄をうくるなり

罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに 方便化土にとまるなり

弥陀の本願信ぜねば 疑惑を帯してうまれつつ
 はなはすなはちひらけねば 胎に処するにたとへたり

ときに慈氏菩薩の 世尊にまうしたまひけり
 何因何縁いかなれば 胎生・化生となづけたる

如来慈氏にのたまはく 疑惑の心をもちながら
 善本修するをたのみにて 胎生辺地にとどまれり

仏智疑惑のつみゆゑに 五百歳まで牢獄に
 かたくいましめおはします これを胎生とときたまふ

仏智不思議をうたがひて 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば 胎生のものとときたまふ

自力の心をむねとして 不思議の仏智をたのまねば
 胎宮にうまれて五百歳 三宝の慈悲にはなれたり

仏智の不思議を疑惑して 罪福信じ善本を
 修して浄土をねがふをば 胎生といふとときたまふ

これらの多くの根拠をすべて嘘と断言なされる訳ですか。

親鸞聖人が化土往生について仰っているのは、殆どが20願自力念仏についてです。自力念仏の行が誰にもできないなんて、まさか仰らないと思いますが、O講師は念仏さえ称えられないのが私たちだと主張して墓穴を掘っています。

『教行信証』化土巻・真門釈

元照律師の『弥陀経の義疏』にいはく、「如来、持名の功勝れたることを明かさんと欲す。まづ余善を貶して少善根とす。いはゆる布施・持戒・立寺・造像・礼誦・座禅・懺念・苦行、一切福業、もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経によりて名号を執持せば、決定して往生せん。すなはち知ん、称名はこれ多善根・多福徳なりと。
むかしこの解をなしし、人なほ遅疑しき。近く襄陽の石碑の経の本文を得て、理冥符せり。はじめて深信を懐く。かれにいはく、〈善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。称名をもつてのゆゑに、諸罪消滅す。すなはちこれ多功徳・多善根・多福徳因縁なり〉」と。

と仰っています。真門釈ですから、20願自力念仏についてですが、親鸞聖人は自力念仏を「多功徳・多善根・多福徳因縁」と仰っています。因果の道理を信じておられるならば、

他力念仏⇒報土往生
自力念仏⇒必堕無間
念仏誹謗⇒必堕無間

に矛盾を感じられないとおかしいと思いますが、如何でしょうか。自力念仏に大した功徳がないと仰るならば、最早、浄土門ではありません。

ちなみにM講師の出された親鸞聖人のお言葉は、阿弥陀仏の本願も知らずに、報土往生も化土往生もできないならば、ということであって、化土往生できない根拠ではありません。
蓮如上人のお言葉も、都合のいいところだけと断章取義されていますが、他の御文章では、地獄に堕ちると仰っているのは、異安心、邪義の者に対してです。

これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もってのほか相違す。そのゆえは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といい、これを信心のひとといえり。これおおきなるあやまりなり。また弟子は、坊主にものをだにもおおくまいらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきようにおもえり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあいだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに、極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことはうたがいなし。1帖目第11通

それ越前の国にひろまるところの秘事法門といえることは、さらに仏法にてはなし。あさましき外道の法なりこれを信ずるものは、ながく無間地獄にしずむべき業にて、いたずらごとなり。2帖目第14通

もし、信心決定できなければ、死後は必ず無間地獄に堕ちるのであれば、このようなことを仰ったことは無意味なことになります。異安心も、邪義も関係なく必堕無間なのですから。
従ってM講師の挙げられた2つも、それらの者に対して仰ったと考えるべきではありませんか。
参考までに後生の一大事について、他の御文章は読まれたことはありませんか。

もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。1帖目第11通

ただし人界の生はわづかに一旦の浮生なり、後生は永生の楽果なり。たとひまた栄華にほこり栄耀にあまるといふとも、盛者必衰会者定離のならひなれば、ひさしくたもつべきにあらず。ただ五十年・百年のあひだのことなり。それも老少不定ときくときは、まことにもつてたのみすくなし。これによりて、今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。2帖目第7通

この他力の信心ということをくはしくしらずば、今度の一大事の往生極楽はまことにもてかなふべからず。2帖目第10通

いそぎてもいそぎてもねがうべきものは後生善所の一大事にすぎたるはなし。(帖外御文)

以上のことから、後生の一大事とは、死んで必ず無間地獄に堕ちる一大事という意味ではありません。親鸞会は、都合の悪い根拠は無視することしかしませんが、それで正しい解釈ができる訳がないです。

かつて教学課だったM講師ですが、親鸞聖人の御著書の1%くらいしか読んだことがないと思います。本当に何も知りません。親鸞会は、自分の知識外のことを言われると、自分の極めて狭い知識内での話に引き摺り込もうとしますが、そんな状態で親鸞聖人の教えがすべて判っているような顔をするな、と言いたいです。

断章取義して意味を取り違えた1%の根拠で、真宗学が完璧に理解できていると思っている愚かさに、早く気付いて欲しいものですが、あの傲慢さをなんとかしない限りそれは無理でしょうね。

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