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2010年10月 3日 (日)

弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、機よりいささかも添ふることはなきなり

『御一代記聞書』294

前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。『安心決定鈔』のこと、四十余年があひだ御覧候へども、御覧じあかぬと仰せられ候ふ。また、金をほりいだすやうなる聖教なりと仰せられ候ふ。

とありますように、蓮如上人が『安心決定鈔』から多大なる影響を受けられたのは、先哲方の指摘されているところです。

『安心決定鈔』は最初に、衆生の往生と阿弥陀仏の正覚の機法一体について説示され、

かるがゆゑに仏の正覚のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚を成るゆゑに、仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり。
(中略)
仏体よりはすでに成じたまひたりける往生を、つたなく今日までしらずしてむなしく流転しけるなり。

と述べられています。
ここで、「衆生がこのことわりをしること」は、「仏体よりはすでに成じたまひたりける往生を、つたなく今日までしらずしてむなしく流転しけるなり」と対応していますので、「衆生がこのことわりをしること」が信心ということです。親鸞会ならば、十劫安心と貶すところでしょう。
この信心については、この後様々な表現がされています。

下品下生の失念の称念に願行具足することは、さらに機の願行にあらずとしるべし。法蔵菩薩の五劫兆載の願行の、凡夫の願行を成ずるゆゑなり。阿弥陀仏の凡夫の願行を成ぜしいはれを領解するを、三心ともいひ、三信とも説き、信心ともいふなり。阿弥陀仏は凡夫の願行を名に成ぜしゆゑを口業にあらはすを、南無阿弥陀仏といふ。かるがゆゑに領解も機にはとどまらず、領解すれば仏願の体にかへる。名号も機にはとどまらず、となふればやがて弘願にかへる。かるがゆゑに浄土の法門は、第十八の願をよくよくこころうるほかにはなきなり。

法蔵菩薩の五劫兆載の願行」によって、「凡夫の願行を成ずる」のであり、「下品下生の失念の称念」も「機の願行にあらずとしるべし」なのです。
これは先の、「弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり」と同じことです。
また、

第十八の願をこころうるといふは、名号をこころうるなり。名号をこころうるといふは、阿弥陀仏の衆生にかはりて願行を成就して、凡夫の往生、機にさきだちて成就せしきざみ、十方衆生の往生を正覚の体とせしことを領解するなり。

とも表現されています。
これらを承けて、

覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり。已・今・当の三世の往生は不同なれども、弘願正因のあらはれもてゆくゆゑに、仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり。

とあります。これは最初に紹介した部分と同じことを言葉を換えられただけです。

衆生がこのことわりをしること不同なれば
=「昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり

弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり
=「仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり

です。これらを踏まえられたのが、『御一代記聞書』307です。

陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。

『安心決定鈔』と『御一代記聞書』307との関係については、すでに

「親鸞会教義の誤り」
宿善とは3

で解説されていますので、抜粋します。

『御一代記聞書』の「已今当の往生あり」のところが、『安心決定鈔』では


すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり

已・今・当の三世の往生は不同なれども



ですので、
『御一代記聞書』の「宿善も遅速あり」は、『安心決定鈔』の


仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば

覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり



に当ります。「ことわりをしる」「あらわす」とありますし、『御一代記聞書』の最後に


昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もあり


とありますので、「宿善」とは、信心のことを指していることがお分かり頂けると思います。冒頭の『御一代記聞書』の「宿善」と共通するものです。

つまり『御一代記聞書』では、信心をうることに遅速があるから、已今当の往生がある、と理解できます。

『安心決定鈔』の「ことわりをしる」「あらわす」ことは、自分のやった善とは全く関係ないのです。『安心決定鈔』の、


弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり

仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり



に、そのことが明確に解説されています。ですから、『御一代記聞書』の「宿善」には、自力的な意味の善は含まれていないのです。

親鸞会で教えているように宿善の厚薄について教えられたものではありませんし、ましてや宿善を厚くするようにという意味はどこにもありません。
『御一代記聞書』にも『安心決定鈔』にも、善を勧められたところは皆無です。

『安心決定鈔』には、「弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、機よりいささかも添ふることはなきなり」ということばかり書かれています。すべて阿弥陀仏がなされることで、我々の方から、何かを加えることはないのです。蓮如上人が「一念の信心」と仰ることも、これです。『安心決定鈔』を読むと、『御文章』『御一代記聞書』がよく理解できるようになります。

会長は『安心決定鈔』も、もちろん学術論文も読んだことがないでしょうから、本日のエントリーは理解できないと思います。退会者には簡単に理解してもらえることが、講師部員や幹部会員には理解できないようで、困ったものです。大学受験時に身につけた筈の読解力は、長年の活動でいつの間にか無くなってしまいますので、リハビリが必要です。

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